固有性の喪失
こういった事態は能力が高ければ、逃れられるという問題ではない。数字はいくらでも沢山にできるから、ものすごく高度な能力を持つものも、測れるし、置き換え可能になる。例えば、2つのプロ野球チームに、打率3割2分、ホームラン30本、30盗塁の同年齢の選手がいたら、違う人間でも置き換えが効くかのように考えられる。年俸の額が違えば、「チーム資金力の差」などと分析されるだろうし、守備位置などによってチーム事情が求めれば大型トレードして、本当に置き換えることもできるだろう。また、年俸の額が同じだと全く違う性質の選手でも、置き換えが効く。打率3割、ホームラン40本の選手と、15勝を挙げ、防御率3.00の選手をトレードするということもあり得よう。こういう風だから、1人対2人の交換トレードなんて言うのもできる。高い能力を持っていても、その人間はもはや無限の価値や、かけがえのなさを失い、この人が今、ここにいて、その役割を果たしている必然性が無くなる。
子供もこうした「測られる」ことの被害者である。漫画家の西原理恵子は子供のころ「もっと頭の良い子と付き合って100点を取れるようになりなさい」と親に言われたそうだが、こういわれて傷つかない子供もいないだろう。子供までもが「お父さん/お母さんは、自分じゃなくてももっと得点がいい子の方がいいんだ」という、自己のどうでもよさを内面化させられてしまう。これは害であろう。