量的記号にされる
本当は必要なものが、要らないものに成り代わる。本当は豊穣で豊かな人間性と不可分のはずの学問が、単なる偏差値という尺度で測られる「○○大学」という記号に成り下がる。「役に立つ」学問と「役に立たない」学問が仕分けされ、それを仕分けるのは大学の入試というこれまた、本当は豊穣な学問の貧困化した形態なのである。
こんな話をするのも、藤田省三が『全体主義の時代経験』所集の同名の論文で、以下のようなたとえ話をしているのを見たからである。
「例えば、幾何学的図形である円はもはや具体物としての図形であることをやめて、x2+y2=a2という量的記号へと単純化され、それを通して普遍化される。いかなる例外もなくその代数記号の関係の中にすべての円は包摂される。そして逆に今までの図形として描かれた円は全て、不正確あるいは不純な円の「近似物」か運の悪い場合には「偽物」へと変えられて追放されて了う。対象は成果を持ったまとまりではなく、無性格で中立的な量的記号に粉砕され、その記号関係の中に消滅する」。(『藤田省三、『全体主義の時代経験』みすず書房49ページ』)
こういわれると思い当たるのが、現代人は数字で何かと測られ、「数字疲れ」していないかということである。何かと近代人は人間を測り、数えて、数字に置き換えて、統計などで処理して、捌く。便利ではあるのだろうが、人間は個としての顔を失って、すべて「1」にされてしまう。言葉遣いも変になり、ワイドショーなどでよく見かけるコメンテーター氏が「結婚する相手はスペックが高い人がいいですねー」などと言っているのを耳にした。「スペック」ってアンタねえ、電器屋で売ってるパソコンじゃないんだから。また、どのくらい顔がカッコいいのか、カワイイのかを測ろうと「顔面偏差値」なる語も幅を利かせている。ウン百年前にはやった骨相学か! とあきれるがそんなご時世なのだろう。