第7話 妖精の取り換え仔
週末に孤児院に戻ると、コルネリアとの修行の傍ら、学院で必要とされる基礎教養を教えてもらった。とはいえ、コルネリアの教え方は他の魔術師とは全く違った。
「辞書の使い方は習ったんだろう? ならエルニカはこれから始めるのがいいねぇ」
コルネリアが与えたのは、原語で書かれたギリシャ神話、ローマの戦記の本だった。
「面白くない事は、いくら学んでも身につかないもんだよ。これなら少しは楽しめる」
コルネリアは最初、エルニカにギリシャ神話を翻訳しながら読み聞かせていた。しかしどうせならと、他の子ども達も集めて寝床に入るまでのお楽しみになった。コルネリアは物語の盛り上がり所で読み聞かせを止め、「さぁ、続きは今度エルニカが話してくれるよ」というのが決まり文句になった。子ども達からの期待が高まり、エルニカは続きを翻訳しなければならなかった。もっとも、自分も続きが気になって仕方なかったので、翻訳自体は苦ではなかった。
その内、エルニカは、度々夜更けにコルネリアの工房で本を読むようになった。
「婆さん、ゼウスってのはろくでもないな。話に何度も出てくるけど、大体女を手篭めにしてるよ」
「ギリシャの神々は、人間くさいから面白いのさ。ゼウスが清廉潔白なら話は全然面白くないよ。エルニカもずいぶん面白くなってきたね。人間くさくなってきた証拠だ」
「僕は元々人間だけど」
「初めて会ったときは、手負いの獣みたいだったよ。いきなり噛みついてきたからねぇ。今じゃ幼子に物語を話して聞かせる良いお兄さんじゃあないかね」
コルネリアはからからと笑った。エルニカは憮然とした。
「あれは効率がいいからやってるだけだ。大体婆さんがそう仕向けてるんじゃないか」
「何、人に好かれるってのは気持ちのいいもんさ。アンタにゃあそういうのが必要さ」
エルニカは子どもに好かれたいとは全く思っていないので、かなりうんざりしていた。
「そういう婆さんは、ヘルメス院じゃあ随分と嫌われてるみたいじゃないか。何が『ほんのすこぅし煙たがられている』だ、あれはほとんど咎人を見る目つきだったね」
コルネリアは鼻の頭を掻いた。
「私らが嫌われているのは知っているよ。主義主張が違うからね、そういうこともある」
「一体ヴァルプルギスとやらには、どんな主義があるって言うんだい」
「アンタは魔術師の工房で魔術を学んで、一番大事なことは何だと教えられているね?」
ヘルメス院では、どんな魔術師であっても、必ず念押しすることが一つあった。
「『世俗のものには一切知られてはならない』かな」
世俗とは、魔術師の言い回しで神秘に属さない世界、つまり一般人の世界のことだ。
「そう、神秘の隠匿と独占が魔術師の世界の常識だ」
「でも工芸派は貴族に魔法の品を売ったり、外交派は宮廷と繋がりがあるらしいけど」
「十二学派の中でも、実利学派に属する三派は魔術の世俗での応用を研究している。だけどそれも、第四の実利学派である戒律派に監視されているのさ。戒律派は魔術師連合の秩序を保つために世俗で魔術を使う事もあるから実利学派に分類されちゃいるが、本来は隠秘学派から実利学派の行き過ぎを監視するために送り込まれてるんだ。今の所、最もヘルメス院で政治力があるのは隠秘学派の筆頭である真理派だからねぇ」
コルネリアは織物を織る手を休めて、エルニカの方に体を向けた。
「隠秘学派が魔術を独占し、隠したがる理由はいくつかある。一つは、魔女狩りから逃れるため。一つは、権益を独占することで権力者からの支援を取り付けるため。もう一つはまぁ、自分たちが選ばれた存在だと思いたいからだね。とにかく、もし魔術師連合の戒律を越えて世俗に関わると大変なことになる」
「へぇ、どうなるんだい」
「武闘派魔術師によって殺されるか、拘束されて死ぬよりつらい目に遭わされるねぇ」
「ちょっと待ってくれ、そんな話聞いてないぞ!」
エルニカは慌てた。彼は、秘中の技は秘しておくからこそ力を持つということを、巾着切りやイカサマから嫌と言うほど学んでいた。手口がバレれば対策を取られ、新しい方法を考えなければならない。だからこそ、魔術という特殊な技能を、言いふらしたり見せびらかしたりするつもりは全くない。しかし、それとこれとは別の話だ。
「どの魔術師もそこまでは教えてくれなかった!」
「そりゃあ、大抵、最初の師がそれをしつこいくらい注意するからねぇ、仮の師である自分達が教える必要はないと思っているのさ」
「じゃあなんで婆さんはそれを教えてくれなかったんだ!」
「まさにそこさ」
コルネリアは、食らいつかんばかりに近づいたエルニカの鼻に指を押しつけた。
「それがアタシらが煙たがられている理由さ。アタシらは魔術を、善なることや良きことのためなら、世俗で使っても構わない――使うべきと考える。不当な魔女狩りに遭っている超常の才覚を持つ者、戦火にさらされる者、病や餓えや渇きに苛まれる者を救うためならば、堂々と魔術を使う」
それでは、魔術師の大半とコルネリアは相容れない事になる。確かにその目的は道義的に見れば正しいが、正しさが自分の生存の助けになることはほとんどないと、彼は経験上知っていた。
「婆さん、あんたは馬鹿だな! 犯罪技術を生業にする者は表の世界で生きられない! あんたたち本物の魔法使いなら尚更だ!」
エルニカには、他の大多数の魔術師達のやり方の方が共感できた。裏街道の組織に属しているなら、組織の秘密を漏らすような粗忽者は粛清されるのが当然だと思う。
コルネリアたちヴァルプルギスの魔女の在り方は、エルニカが聞いても気高いもなのだろうと理解は出来る。しかし同時に、極めて愚かしくも思える。
「全く幸運だね、僕がヘルメス院で学べるのは! 戒律派には襲われる心配がない!」
皮肉のつもりで言った言葉は、しかし何故かコルネリアには肯定された。
「そう、アンタの言う通り、アンタは毛嫌いされる事はあるだろうが、戒律派に襲われることはない。そうでなければ、誰が大事な家族をそんな場所に送り込むもんかね」
エルニカは家族、という言葉にどきりとしたが、それが何だか恥ずかしいことのように思えた。心中を悟られまいと、質問を重ねる。
「何でそんなに確信があるんだい、万が一って事もあるだろう」
「ないね。でなければ、ヴァルプルギスは学院に籍をおけないよ。あたし達には、彼らが求める神秘の中でも、希少価値の高いものを持っているのさ。例えば、比類なき創造魔術を使う『霹靂の魔女』が結んだ東洋の神々との契りは、ヘルメス院では再現できていない。『新緑の魔女』の千年若さを保つ方法は、賢者の石に匹敵すると言われる。『盲目の魔女』の千里を見通す目とあらゆるものを掌握する技の原理は、真理派もまだ解明できない。『諦観の魔女』の占術は東洋独特の星の読み方で異様な的中率だ。アウローラの超常の才覚もかなり稀なものさ。魔女の中ではまだまだ娘っ子のアタシでさえ、ヘルメスの工芸派と真理派には一目置かれているしね」
「よく分からないけど、婆さん達が貴重な人材だってのはそうなんだろう。だけどそれなら、尚更捕まえてしまえば終わりじゃないか」
「恐ろしいことを言うねぇ。姉様達を捕まえるだって? 『灼熱の魔女』と『霹靂の魔女』が揃ったら一騎当千。『盲目の魔女』と『諦観の魔女』に隠せる謀り事なんてないさ」
コルネリアはからからと笑った。
「三百年前にヘルメス院とヴァルプルギスの争いで、魔女は負けたって聞いたけど」
コルネリアは首を横に振った。
「明け渡しただけさ。その証拠に、ヴァルプルギスの魔女達は、碧玉戦争では無傷だった。それに碧玉戦争を止めたのは母様――『絶望の魔女』さ。恐らく母様に比肩しうる魔術師はこの世にいないね。たった十三人の魔女からなる、十三番目の派閥。それがあたしらヴァルプルギスさ」
「嫌われる理由がよく分かったよ。裏社会と同じだ。何だかんだ言って、所詮あんた達は僕と同じ無法者なんだ」
魔女達は、嫌われていると言うより、嫌がられているのだ。無法を働いているにも関わらず、その強大な力により、表立っては誰も何も出来ない。よりたちが悪いことには、魔術師の世界の警察機構である戒律派でさえ、彼女らを取り締まれないのだ。
これは英国からスペインに対してけしかけられている海賊のようなものだとエルニカは思った。英国は現在、海賊に私略船免状を与えて支援し、スペインに間接的に大損害を与えている。しかし海賊達は表向き英国とは関係のない無法者であるが故に、英国はスペインの追求を今の所免れている。横暴なる力を振るいながら、誰も取り締まれない無法者――。
「好かれることが大切だって? 聞いてあきれるね。結局婆さんも力にものを言わせて好き放題やってるって言うわけだ!」
「だが、それでも婆様は正しいと、私は思う」
唐突に、背後からアウローラの声がした。
なぜいつも気配なく現れるのか、エルニカは心臓が飛び出しそうになった。
「ただいま婆様」
どこに出かけていたのだろうか、体は砂にまみれている。そういえば、暫く真珠の家でアウローラを見かけなかった。何故か真っ黒な子犬を抱いていた。子犬の額には小さな角が生えており、目が四つある。この世の生き物ではないようだった。
「妖精郷で友になったのだ。大きな獣に襲われて怪我をしている。私の手では治療が出来なくて……婆様、何とか出来ないか」
「ああ、任せな。だけど治療が済んだらすぐに帰してやらないとね。こっちで汚染されたら元も子もない」
コルネリアは棚から織物を引っ張り出すと、子犬の上に被せて呪文を唱えた。怪我がみるみるうちに治っていく。どうやら魔術で治療を行っているようだ。
「見ろ、エルニカ。婆様は正しいことをしている。魔術師は基本的に、自分のためだけに魔術を使う。隠秘学派は真理の探究という知的好奇心を満足させるため、実利学派は利益と自らの技の追究のため、魔女に最も近い伝承学派でさえ、自分たちの領域を守ることにしか興味がない。世界をよりよいものにしようと魔術を使うのは魔女だけだ。力ある者の責任をよく理解している」
エルニカはアウローラの考えにイライラした。正しさで力を振るう連中はロンドンにも大勢いるが、その結果どうなったのか、エルニカは知っている。
「矯正院の巡察官も、州長官の犬の治安官も、力を振るうのは正しさのためだ。浮浪者を鞭打って強制労働させたり、戦場に送り込むためにね! それで貧民や浮浪者や犯罪者が減っているんだとしたら、僕は今頃オックスフォード大学にでも通っているんじゃないかな?」
怒りのあまり、エルニカの顔には酷薄そうな笑顔が張り付いている。
「婆様が彼らと同じだと思うのか? 婆様は鞭打って働かせるようなことはせぬ。学問も教えてくれる」
「オックスフォードみたいな神学はまぁ、立場上教えてないけどねぇ」
「婆様は生まれや出自で差別しない。病気を持っていても構わない。この子犬も、私のような妖精の取り替え仔もきちんと扱ってくれる」
「君が――何だって?」
エルニカは、アウローラの言葉に耳を疑った。妖精の取り替え仔とは、妖精のいたずらで、幼くして妖精の子どもと取り替えられた子のことを言う。エルニカは、おとぎ話か人さらいに遭った子どもの比喩だと思っていた。
「信じられないという顔だな。証拠を見せてやる」
アウローラは左腕の甲冑を外しはじめた。
「アウローラ、おやめ!」
コルネリアの制止より、甲冑が外れる方が早かった。
ごとりと音を立てて床に転がる甲冑。
露わになったアウローラの腕には、黒い鱗がびっしり生えていた。鱗は刃物のように鋭利で、手は爬虫類のような爪が鋭く尖っている。鱗からは白い煙が漂って、湯が沸騰するような音を立てている。
コルネリアは大慌てで甲冑を拾い上げると、急いでアウローラに着せはじめた。
「馬鹿なことを……さっき治療から帰ってきたところじゃないかね!」
エルニカの震える指が、アウローラを指した。
「それじゃ――君は、妖精だったのか?」
「いいや、私はさらわれた人間の方さ。どう言うわけか、妖精郷から帰って来られた。この腕は妖精郷にいた名残で、妖精郷の魔力に汚染された結果だ」
「体が向こうのものに作り替えられちまうのさ」
甲冑を着せ終わったコルネリアが話を引き継いだ。
「自分に馴染まない魔力や、極端に強い魔力にさらされるとね、その力で体が作り替えられるんだよ。汚染された部分は元の世界では生きられず、徐々に腐っていく。その部分は、腐敗による死から逃れるために、体のまだ置き換わっていない部分をさらに作り替えようとする。だからアウローラにはこの甲冑と、この宝石――リア・ファルが必要なのさ」
コルネリアは、アウローラの首にかかった宝石を指して言った。くたびれたのか、片手で頭を抱えながら椅子に座り込む。
「この甲冑の内側は、妖精郷に似せた空気になる魔術をかけてある。だけど全く同じってわけにはいかないからねぇ、アウローラは定期的にその妖精郷に戻って、腕を向こうの空気にさらしに行かなけりゃならない。それを怠れば、アウローラの体はその腕に喰われちまって、全身が妖精郷の生き物になる。そしたら最後、人間の世界では生きていけないのさ」
エルニカの頭は、話に追いつけない。ただ、アウローラがたちの悪い――それも魔術がらみの病気に冒されていると言うことは理解できた。
「この鎧と宝石には、婆様の研究の全てが詰まっている。再現不可能な無二のものだ。そういったものは、魔術師にとって、時には自分の命より重いものだ。それを惜しげもなく幼い私にくれたのだ。それでも婆様が、力にものを言わせて好き放題やっているというのか」
自分の損を省みず、誰かを助ける。エルニカにとっては理解しがたいことだった。ただ、アウローラがコルネリアを信頼しており、その信頼がコルネリアへの侮辱を撤回するために自らの命を危険に晒すほどだと言うのは、よく分かった。
アウローラは、その強い意志をありったけその目に宿して言った。
「憧憬の魔女は、その憧れをこの地に体現させた。今はまだ数十人の子らを救うに過ぎぬが、見ているがいい、婆様は必ずこの世界をよりよく変えてくれる」
今にも食ってかかりそうなその目を見て、エルニカは降参するしかなかった。
「分かった、僕の言い方が悪かったよ。婆さんはここの子達に十分好かれてる。魔術師千人に好かれるよりよっぽど価値があるよ。そう言うことだろう?」
エルニカの言葉を聞いて、アウローラは満足そうに、音を立てて鼻から息を吐いた。
(こんなに他人から信頼されると、どういう気持ちがするんだろう。婆さんはそれを伝えようとしているんだろうか)
コルネリアが伝えようとしているもの。それは決定的にエルニカに欠けているものである。
それが世の中で愛と呼ばれるものであることを、エルニカはまだ理解できていない。
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