第0話 プロローグ
空に、穴があいていた。
穴から、この世ならざる巨大な何かが落ちてこようとしている。
巨大な何か――それはこの世とは別の、妖精郷と呼ばれる世界、丸ごと一つ。
空を見上げ、それを認識した者達は、世界が終わる、と感じた。
実際には一都市――ロンドンが壊滅する程度だったが、住民にとっては同じ事である。
一人の青年が、穴のあいた空を青ざめた顔で睨んでいる。彼を囲む人々も不安げな顔で、皆、世界の終わりに恐怖していた。だが彼は、精一杯虚勢を張って、空を睨んだ。そうしなければ、心が絶望に飲み込まれる。そうなれば、彼を頼っている数十人の子ども達は寄る辺を失う。恐怖と重圧で吐きそうになるのを、彼は必死に堪えていた。
「来ますよ」
仲間が彼の肩に手を置いた。励ましているようだが、その手は震えている。
空の穴から、無数の花びらのようなものが舞い落ちてくる。遠目にはよく見えないが、向こう側の世界の住人――妖精の大軍勢である事は分かっていた。
妖精。邪気無く、悪戯心で人の世を惑わす、異界の生き物。本来統一された意志を持たない妖精達が、一糸乱れぬ隊列を組み、人の世を押し潰さんと行軍する。それはこの世ならざる世界に通じる彼ら魔術師にとっても、有り得ない光景であった。
頼りとなる高位の魔術師達は、妖精の襲撃によってほとんどが昏睡状態である。
師である老魔女も、既にこの世にいない。姉弟子も行方をくらませたまま。
――やるしかない。僕がやるしか。
青年は今にも気絶しそうになるのをこらえて、唇を噛んだ。口の中に血の味が広がる。両足で大地を踏みしめ、拳を握る。掌に爪が突き刺さる。
周囲の子供達が不安そうな顔を向ける。自分の眉間に深い皺が寄っているのに気づき、彼は息を吐いた。全身の緊張をほぐすように、軽くステップしながら、振り向く。
「大丈夫」
彼は春風のような笑顔を浮かべた。
「僕は勝てない勝負はしない主義なんだ」
物語は、空に穴が開く数年前に遡る。