聖女の伝言
石畳の上でセミが死んでいる。この世界でもセミがいるものなんだなあと、一週間前にこの世界に召喚されたばかりの美緒は独り言ちた。
美緒は普通の女子高生だった。家の近くの公立高校に通い、成績は上の下、両親と弟が一人いて、部活には入らず放課後はファストフード店でバイトをしていた。絵に描いたような中流家庭の少女、そんな美緒がフィストリアと呼ばれる異世界に召喚されたのは多分、偶然だったんだろうと彼女は思っている。
「どうしたの、ミオ」
美緒を召喚したアナマリア公国の上級魔術師レイバーンが尋ねる。
レイと呼ばれる彼は、透き通るような青い髪に琥珀色の目をした少女と見まごうような美少年だった。歳は美緒と変わりないが、今までの人生を生まれ持った膨大な魔力の制御のために費やしてきたらしく、世間ずれしていない、どこか浮世離れした雰囲気を持つ少年だ。
「何か欲しいものがあったか?」
露店で品物を眺めていたアイゼアまで振り返ってこちらを見る。
アイゼアはアナマリア公国の騎士団に所属している騎士で、美緒よりもずっと年上だ。まっすぐな黒い髪に切れ長のアメジスト色の瞳は冷たい印象を受けるが、彼がとても思慮深く真面目な人間であることをこの一週間で美緒は知っていた。
「いえ、何でもないです」
「そうか、何か必要なものがあったら遠慮せずに言ってくれ」
「ミオは僕たちの大事な聖女なんだからね」
「……はい、ありがとうございます」
この縁もゆかりもない世界で、美緒は聖女として旅をしていた。
なんでも、数百年前北の魔女と呼ばれる存在がまき散らした呪いにより、フィストリア各地で闇の手と呼ばれる黒い霧のようなものが発生するらしい。闇の手に触れた者は謎の病魔に侵され、その地域は不毛の土地になり人々が住むことはできなくなってしまう。
しかし、異世界から召喚された聖女――あるいは勇者――はその闇の手を浄化することが可能で、闇の手の増殖が活発になる数十年に一度、異世界から聖女が召喚されるらしい。なんともまあこの世界に都合がいい救世主だなと美緒は言葉を飲み込んだ。
□
アナマリア公国はフィストリアの北部に位置しており、闇の手による被害が全国の中で最も大きい。
他国でも聖女や勇者の召喚を行っており美緒がアナマリア公国以外へ出張する必要はないが、今回召喚された各国の勇者の中で最も仕事量が多いのが美緒であることは確かだった。
3か所目の闇の手の浄化を終えると、何故かひどく疲れた。浄化と言っても美緒は特に何もせずに、黒いもやがかかっている場所を歩くのみだ。すると体の中に闇の手が吸い込まれるので、辺り一面のもやがなくなるまで美緒はぐるぐると練り歩く程度の作業だった。
フィストリアの人たちの人体に悪影響を与える闇の手を吸い込んでしまって大丈夫なのだろうか。まるでトイレの消臭剤になった気がする美緒は不安に駆られたが、アイゼア曰くかつての聖女たちで体に悪影響が出た者はいないらしい。今まで何度も闇の手の浄化をしてきた人たちが言うことなので、美緒は自分の主観よりもアイゼアの言葉を信じることにした。
「大丈夫? 体に異変はない?」
闇の手が消えたことでレイバーンが駆け寄ってくる。周囲を警戒しているアイゼアも一緒だ。彼らは美緒の浄化作業中は闇の手の及ばない遠くから美緒を見守っている。
闇の手の中は人間も魔物と呼ばれる狂暴な害獣も行動できなくなるので、護衛は遠くから警戒するのがセオリーだった。
「大丈夫、ちょっと疲れたけど」
「じゃあ、早く街に戻って休もう!」
レイバーンに手を引かれ、簡素ながらも丈夫な作りをした馬車へと足を向ける。この馬車は、旅に出るときに美緒が唯一希望したものだ。はじめは絢爛豪華な、王族が乗っていそうなものを用意されたのだが、旅立って2日で目立ちすぎるという理由で馬車を変えた。
美緒を見て聖女と崇められるのも辛かったが、馬車の轍にすら頭を下げる人間がいたのだ。フィストリアの人たちの盲信ぶりに、美緒は恐怖を感じて自らを聖女だと明かすことはしなかった。
街の上流宿のベッドに寝かされながら、美緒はため息を吐いた。
馬車での旅とはいえ日本での移動に比べるとマットレスが固かったり、振動が大きかったりと疲れは大きい。溜まった疲労からか、美緒の食は細くなっていた。運動不足の現代人とはいえ、あんなに細いレイバーンですらけろりとしている旅路だ。美緒は自分の体力のなさに嫌気がさした。
そのレイバーンは心配そうな顔で美緒のベッドに寄り添っている。
「ごめんね、ミオ。僕が疲労回復の魔法を使えたらよかったのに」
「休んだら治るから大丈夫だよ。レイも、疲れてない? 私は構わず、レイも休んでいいんだよ」
「僕は元気だよ! 騎士アイゼアが買い出しに行ってる分、僕がミオを守るから! 安心してね?」
美緒は彼の笑顔に、レイがいると落ち着いて眠れないんだけど、という言葉を飲み込んでお礼を言った。
□
美緒の疲労は日に日に蓄積していく。闇の手の浄化も残り一か所というところで、美緒は歩くのがやっとになっていた。始終息苦しさが取れずに、時には鼻から出血することすらあった。美緒の体調を心配したレイバーンは王都へと引き返そうと何度も提案したが、王都に戻っても治るとは限らず、長期の移動すら負担になるとアイゼアが引き止め近くの街に滞在することになった。
「体勢はどうだ、もう少し身を起こすか?」
学問の街ヴェルサは最後の闇の手発生場所に近く、また北の魔女の住処にも近いため魔術的に発達した街らしい。レイバーンはヴェルサで美緒の体調を調べるために、アナマリア公国で最も書物があるというヴェルサの図書館へと足を運んでいた。
残されたアイゼアは美緒を気遣い、大柄な体躯からは想像できない程の細やかな気配りを見せている。
「いえ、大丈夫です。すみません、私の体力がないばかりに」
「……いや、負担をかけてしまった私たちのせいだ。申し訳ない。旅のことは気にせずゆっくりやすんでくれ」
美緒が謝罪すると、アイゼアは形のいい眉を歪める。少女の謝罪にアイゼアは自害したくなった。
アイゼアは知っていた。かつての勇者、あるいは聖女たちの中で、浄化の旅の途中で命を落としたものが多いことを。アナマリア公国は闇の手の分布が大きく、他国と比べると自国の聖女が儚くなった割合が明らかに大きい。
疲れやすくなる、食が細くなる、手足が浮腫む、出血しやすくなる。どれも歴代の聖女たちに現れた異変だ。闇の手の浄化が、歴代の聖女たち、そして美緒の体を蝕んでいることは明らかだった。
美緒も馬鹿ではない。この体調不良が、闇の手関連であることを薄々理解し始めていたが、楽観視していた。日本に帰ればなんとかなるだろう、と。
レイバーンもアイゼアも旅の途中とてもよくしてくれていたし、アナマリア公国のために働く気はないが、彼らのためならばわが身を削ってでも何かしてあげたいと思う程度には、レイバーンとアイゼアが好きになっていた。
□
レイバーンはヴェルサの図書館で聖女に関しての調べものをする内に、自分の教えられた知識との差異が見えてきた。
勇者、あるいは聖女は闇の手を浄化する力がある。
――勇者、あるいは聖女はフィストリアに順応するため、周囲の魔素を吸収する性質がある。
勇者、あるいは聖女が闇の手の浄化によって体に異変が起こることはない。
――浄化によって命を落とした勇者、聖女も存在し、特に闇の手の分布激しいアナマリア公国では生きて帰ったものは珍しい。
閉館する図書館から追い出され、美緒とアイゼアの待つ宿へと戻ったが、レイバーンは二人の顔を見れないまま食事もとらずにベッドへともぐりこんだ。
□
「騎士アイゼア、お前は知っていたな」
アイゼアが美緒の眠りを見届け、隣室へと戻るとレイバーンが酷い顔をしていた。泣きたいような、怒りたいような、いつも幼子のような無邪気な顔をしていたレイバーンには、似つかわしくない顔だ。
アイゼアは覚悟を決めて頷いた。
「何故言わなかった! このままじゃミオは死ぬ! これが、騎士の……公国のやりかたなのか!?」
「レイバーン、大きな声を出すな。ミオが起きる」
「……っ」
レイバーンに呼応するように、周囲の魔素が淡く光り、はじける。
「ミオの病気は、全部闇の手のせいだ。公国は……いや、フィストリアは今までそうやって世界を永らえてきた」
「国が救えれば、聖女の命は、どうだっていいってこと?」
「私たちには他に方法がなかった」
「だからって……ミオを殺していいはずがないじゃない! 僕は、僕が知ってたら、絶対召喚なんてしなかった! ミオを殺して成り立つ世界なんて、僕はいらないっ!」
「……もう、ミオは手遅れだ」
それは数多の書籍を読み込んだレイバーンが一番知っていた。
目に見える形で異変が起きた聖女は、王都に戻り最高の治療法を試したところで死の淵からこちら側へと戻ってくることはなかった。今更浄化の旅を中断したところで、ミオは王都へと戻る体力すら残っていないだろう。
生まれた頃から王宮で暮らし、最上の教育を受け、最高位の魔術師であると誇っていたのに、何もできない。レイバーンは自分の無力さから、瞳を濡らした。
学問の街ヴェルサで一週間の療養をとったが美緒の体調は回復することはなく、彼女たっての希望で最後の浄化が行われた。
□
黒い霧が晴れると、嘘みたいな青空だった。
無事浄化できたことに安堵し、美緒の足から力が抜ける。地面に倒れこむ寸前、それを支えたのは珍しく無表情を崩したアイゼアだった。
「ミオ!」
少し遅れてレイバーンが駆け寄ってくる。浄化の旅がすべて終わっためでたい場なのに、レイバーンは今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「ミオ、体は大丈夫? ごめん、ごめんね」
「……大丈夫だよ、レイ」
はらはらと涙を流すレイバーンの頬をぬぐってあげたかったが、今の美緒は手を挙げることすら億劫だった。
アイゼアが美緒の体を抱き上げ、緑の多い木陰へと移動する。寝そべられた草の上は柔らかく、闇の手があるときにはわからなかった野の香りがした。
「騎士アイゼア、ミオから離れろ」
レイバーンが杖を手にしてアイゼアを睨む。アイゼアも剣に手をかけていた。
「……楽にしてやるべきだ」
アイゼアが絶望を孕んだ声で告げる。
「楽にしてやる? ミオを苦しめた僕たちが言うのか?」
「王都へ戻ったところで同じだ」
「ミオを諦めろって?」
「……聖女殺しの咎は俺が負う。すべてを知っていた俺が、背負うべき責任だ」
アイゼアが振るう剣をレイバーンの結界が弾く。アイゼアは王国一と謳われた騎士だ。レイバーンも上級魔術師として名を馳せているが、アナマリア公国では魔術師は騎士に守られ力を振るう戦術のため、結界は徐々にほころび始めていた。
「騎士アイゼア、どうしてこんなことに剣を振るう! お前の騎士道とは、公国の狗に成り下がることなのか!?」
「……俺は俺自身でミオ守ると決めた。だが、守り方は如何様にもある! それがお前とは違っただけだ!」
「お前がミオを守るだと……笑わせてくれる」
嘲笑したレイバーンが結界を張りなおすと共に、ミオを中心とした大きな魔方陣が展開される。
「僕は僕のやり方でミオを守らせてもらう!」
まばゆい光が、視界を覆った。
□
目がくらむ光が収まると、美緒は自室のベッドに身を預けていた。
脱ぎ着がしやすい簡素なワンピース、丈夫なブーツ、アイゼアから送られた髪飾り。すべてが三人で旅をしていた時のままだったが、美緒は今一人だった。
フィストリアで一年にも近い旅をしていたが、美緒の世界ではまるで一瞬の出来事のようで、やりかけの宿題も見ていたテレビも、美緒が覚えている召喚の前のままだった。だが、体のけだるさだけはフィストリアにいた頃と同じだ。
美緒は這うようにクローゼットからワンピースを取り出し、フィストリアの面影をすべて日本に塗りつぶしたら、ベッドの上に転がっていた携帯で母親に電話する。もう階段を下りて体調不良を訴えれるレベルではなかった。
異変を知った母親はすぐに救急車の手配をして、美緒は病院へと運ばれた。
美緒は白いシーツの上で寝ころんでいた。入院して一週間、検査を繰り返して投薬して、更には血液をきれいにする機械につながれてようやく体調が安定した。なんでも、急性腎不全だったらしい。
長すぎる暇を持て余して、入院期間中にフィストリアでの出来事は夢だったんじゃないかとも考えたが、母に持ってきてもらった黄金色の石のペンダントを見てそれは間違いだと思いなおす。このペンダントは、旅の初めにレイバーンからもらったものだった。
なんでも、レイバーンの余りある魔力を封じた守り石らしく、彼のいないところでは私を守ってくれるらしい。旅の途中、レイバーンやアイゼアから離れることがなかったので出番はなかったが、何かあったときは私の声をレイバーンに届けてくれるものだそうだ。
あの後二人がどうなったのか心配だったが、レイバーンもアイゼアも立場がある身だ。ケンカの原因である美緒がいなくなったのなら、二人で無事に王都へと帰れたと信じたい。
美緒は守り石を握り締めて語り掛ける。
無事に王都へは帰れた? ケンカしてない? ちゃんと王様たちからご褒美はもらえた? いつかまた、呼んでくれる?
美緒はあの世界の人たちに伝えたいことがたくさんあったが、一番伝えなくてはならない情報も持っていた。
闇の手の症状は、利尿剤か血液透析で治るんだよ、と。