猫をそっと持ち上げる
私はソファに座っている。傍らには猫が寝そべって、いつも通り暇そうにしている。
私は猫をそっと持ち上げ、自分の膝の上に載せる。この猫は、猫の癖にどうも高いところが苦手だ。高所恐怖症なのだ。だから私はいつも、慎重に持ち上げるよう気を付けている。
持ち上げたとき、猫は少し驚く。当然だ。少し逃げ出そうともする。しかし私の動作がゆっくりであれば、それなりに諦めた表情を浮かべ、為すがままになる。このままゆっくりと運べば、どこまでも連れて行けてしまいそうだ。これは人間にも似たところがあると私は思う。本当に大切なのは目的地であるはずなのに、実際に我々が信用するのは、運ばれるときの手つきのほうだ。そして優しく抱かれているうちに、いつの間にか不本意なところに連れて行かれている。
膝に載せた猫の背中を撫でているうちに、いつの間にか猫はすやすやと眠っていた。その寝顔に満足した私は、困ったことに、さらなる満足を求めてビールの缶を開けたくなってしまった。ビールは冷蔵庫の中にある。取ってくるには猫をまた膝の上からどかさなければならならず、そのためには猫を起こさないように、そっと持ち上げて移動させなければならない。この家の中でも最も慎重さの要求される作業だ。ゲームセンターのクレーンゲーム機で練習を積んでおけばよかったと今になって後悔する。しかしビールを飲みたい気分はますます高じ、やらねばならないと思うようになっていた。
安眠中の猫の両脇からそっと手を差し入れて持ち上げてみる。猫は若干、目を覚ますが、うとうととして半目状態だ。そのままでいてくれ、と思いながらソファの座席上にそろりそろりと移す。呼吸を静かに保ち、ゆっくりと腕を下ろして行くことで、不必要な衝撃を与えずに猫を着地させる。最後に私は、猫を掴んでいた手を、その体の下から緩やかに引き抜こうとする。
しかしそのときのことだった。玄関のベルがけたたましく鳴った。私はびっくりして、腕が勝手に引っ込んだ。猫も慌てて跳び起き、辺りを見回し、それから玄関のほうを向いた。まったく、どうしてこんなタイミングで。私は憤懣やるかたないという状態のままソファから立ち上がり、玄関まで行った。
やって来ていたのは郵便局員だった。書留を届けに来たのだ。私は受け取りのサインをして、封筒を手渡された。あまり不満そうな顔を見せないように心掛けたが、巧くいっただろうか。
私は封筒をテーブルの上に無造作に放り投げると、冷蔵庫からビールの缶を出した。それを飲みながらソファに戻りかけたが、テーブルの上にある先程の封筒を何とはなしに再び手に取って、それからソファに座った。猫は顔を上げ、じっと私のほうを見ていた。『そんなに見ても、今は膝の上に載せられないぞ』と私はテレパシーで伝えようとするが、伝わったかどうかは定かではない。
封筒の差出人は大学の事務室だった。休暇中にまた事務仕事か。最近、研究以外の雑務が多くなりすぎて辟易しているところだったのだが、上は一向に改善する気がない。下に仕事を与えるのが上の仕事、などと思い込んでいるのかもしれない。彼らはきっと、猫をそっと持ち上げることなどできない人間なのだろう。そんな彼らに対抗するために、私もさらに多くのビールと猫に頼らなければならなそうだ。
こんなふうに諦めの境地に至ったのは、研究者人生のいつぐらいだったろうか。ある時から、この部分で逆らわずに別の部分で楽しめばいい、などと考えられるようになって人生も相当楽になったのだが、それまでは、何もかも思い通りにならなければ幸せではないと思い込んでいたのだった。人間はそもそも、そういうふうにできている可能性もある。ただ、育った環境の影響はかなり大きいのではないかという気もする。何しろ、子供を接待して夢を見させ続けることが、親の財布にアクセスする最も手軽なやり方なのだから。
私は封筒を開けずに、手裏剣のように投げてテーブルの上にうまく乗せようとした。しかし試みは失敗し、テーブルの上を滑って向こう側に落ちた。私はビールを飲み、隣で丸くなっている猫を撫でた。私はこの猫のようになりたいが、この猫は私のようにはなりたくないだろう。それで良い。それでこその関係だ、と私は思った。
あまり人生について考えても仕方ない。偶然の要素が大きすぎるし、だいたい夢見た人生と現実の人生とのギャップに、もう取り戻せない時間に、いろいろと辟易するだけだからだ。
私は頭を切り替え、自分がやっている研究のことを考えることにした。開花や紅葉などの変化が化学的にどう起こるのか、といったものだ。私の真のくつろぎの時間は、その研究分野に思考を遊ばせているときであって、自宅で過ごす時間の価値もせいぜい二番目くらいでしかない。猫とビールが加わっても一位には追いつけない。研究というのはそれくらい自由で快適な、この世の楽園なのだ。事務方の人間には一生かかっても理解できない価値観かもしれない。まあ、だからこそ彼らは、研究者から見たら意味不明な仕事を巧くできるのだろう。
美しい世界を知らなければ、こちら側の世界を醜く感じずに済む。それはひょっとしたら幸せなことなのかもしれない。
同じものを見ていても、人によって印象が違う。桜が咲くとき、あるいは楓が紅くなって落ちるとき、普通の人はそれを単に美しいと思い、私は別の意味で美しいと思う。
普通の人の普通の人たる所以は、『他の考え方』というものが理解できないことにあるのではないかと思う。彼らはおそらく、自分も他人も同じような感覚を抱いていると思い込んでいる。胸に手を当てれば正しいことが分かると信じている。『美しい』と表現される気持ちはただ一つしか存在しないと思い、それを皆で共有しているという錯覚の中に生きている。それがつまり、普通であるということなのだ。
そのような生き方は幸せなのだろうか? たぶん主観的には幸せなのだろう。なぜなら、幸せとされる道筋を辿っていることが、周りを見て確認できるのだから。
客観的にはどうか。客観的な幸せ、などというものが存在するだろうか? 主観的に見て幸せであることが、客観的に見て幸せではない、ということがあり得るだろうか? お金の使い道がなくて困っているお金持ちは、主観的には不幸なはずだが、客観的には幸福なのではないか? だとしたら私自身はどうだろうか?
自分から見て幸せなことが誰にとっても幸せなことなのである、……などと思えれば幸せである。私はそれほど独善的ではないので、幸せでもない。今はそう思っておくことにしよう。
私はビールを飲み終え、缶を捨てに行く。ソファに戻ってきて、傍らの猫をそっと持ち上げる。膝に載せて撫でてやると、猫は瞬きをしたあと、目を閉じ、そして何の苦労もないかのようにすやすやと眠る。私自身も目を閉じて、今度の週末に出かける、紅葉に彩られた山のことを思い浮かべる。高所恐怖症の猫と一緒に山のてっぺんまで登ったら面白いだろうか? いつか試してみてもいいだろう。論文にはならないが。
山には登山道が用意されているが、それは一般の観光客のためにある。私が主に使うのは、林業を営んでいる人々の使う作業道だ。普通では行けない場所に行けるし、普通では見られないものが見られる。まるで研究という商売の説明のようだ。
私は山を登る。普通の人も山を登る。私は普段から登るが、普通の人は定年退職でもしてから登るのかもしれない。途中の通る道も違うし、そもそも山に入る位置が違う。しかし山頂を目指して行けば、途中で合流することもあるかもしれない。どこからどのように登り始めても、登ってさえいれば、いつかは互いに出会うのだ。そこで出会う相手は、かつて普通の人と呼ばれていた人かもしれない。
結局のところ、我々は誰もが、同じ山を別々のやり方で登っているに過ぎないのだ。
「お前はどこに登るんだ?」
私は膝の上の猫に訊いてみるが、眠っている猫から返事は戻ってこない。人間以外の動物は、山に登ることなんか興味がないのだろう、きっと。
私は猫をそっと持ち上げて、膝からソファの上に降ろす。郵便局員は、今回は来なかった。私は立ち上がって、大きく伸びをした。
さっき封筒にあった雑務を、明日が来る前に片づけておくことにする。一時間もいらないだろう。雑草を掻き分けて進むことには慣れている。