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時は少し遡る。
謁見の間に入室したルミリアの目に先ず飛び込んできたのは、婚約者たるアレクサンドル殿下と甘えるようにその腕の中でもたれ掛かる子爵令嬢の姿だった。恐らく二人には周囲に居る方々の批難するような視線に気付いてはいないのだろう。
鈍感、とはまた違い、単に神経が太過ぎるが故の弊害だろうか。
第一、ここは陛下が直々に開かれた謁見の間である。それが何故王族としての振る舞いを放棄して、一臣下の娘に過ぎない子爵令嬢を伴ってその他大勢の貴族と同じく立ち見をしているのだろう? 本来であればアレクサンドル殿下は陛下のお側近くに誂えられた王族専用の椅子に座り、陛下のお声を代弁し、またサポートする責任を負うべきである。
これ程までに、アレクサンドル殿下は王族としての責任も何もかも放棄したのだと改めて思い知らされた気がする。それでもまだ何処かでアレクサンドル殿下の王族として何かを期待していたのだろうか。
ルミリア自身には、アレクサンドル殿下へ向けた激しい愛情というものは無い。けれど、幼い頃から大事に慈しみ育んできた淡い初恋は、未だルミリア自身の中に根付いている。
そう、初恋だった。アレクサンドル殿下はルミリアにとって初めて恋をした人であり、そして生涯を通して国を守っていく最高のパートナーだと何の疑いもなく信じていた。それは幼い頃から変わらないルミリアの確固たる信念にも繋がっている。
婚約者だから恋をした、という事ではない。
アレクサンドル殿下が殿下だからこそ恋に落ちた。でも今は…失望ばかりが胸を占めている。
こんなにも情けない姿を見るのであれば、いっそ半年前にすっぱりと捨ててしまえば良かったのだ。初恋が実らないだなんて、迷信だと思っていた。お笑い草ではあるが、子爵令嬢が現れるまでルミリアはずっと、アレクサンドル殿下がいるからこそ、この国をよりよくしていきたいと思っていたのだ。
三歳からアレクサンドル殿下と共に過ごした十五年の月日は、ルミリアの様々な思い出と共に深く絡み合い、容易にそれを解くことは出来ない。アレクサンドル殿下への思いを過去の記憶から切り離すことなど出来なかった。
しかし心の奥底では、これは当然の結果であることも分かっていた。ルミリアは恋をしていたが、アレクサンドル殿下がルミリアに向けていた感情の類は親しい友人に向けるような、そんな優しい感情ばかりだった。そしてルミリア自身も殿下にはっきりと好意を言葉にして伝えることは無かったのだから、二人の仲がこれ以上親展しようがないということ位、ルミリアも理解していた。
ふと、ルミリアの視線に気付いた子爵令嬢は少々怯えの色を見せていたものの、愛らしい小さな唇の端が僅かに上がっていた。
「あの娘、良い度胸ですわね」
優雅なレース付きの扇を開き、お母様が小さく呟いた。
手厳しいが、これが普通の反応だ。貴族の女性であれば皆が思うことでもある。未だ婚約破棄を発表していない殿下の側近くにあって、婚約者を差し置いて王族の人間に甘えるように寄り添うなど不敬だと表立って糾弾されないだけ有り難いと思うべきだろう。
それに内心同意しつつ、居並ぶ高位貴族の中にお父様の姿を認め、目礼で会釈をする。
すれ違う貴族方に「ごきげんよう」と挨拶をしつつ陛下の御前にたどり着くと、すぐさま膝を折り陛下の御前で恭順の意を示した。流れるような優雅な作法は、意識せずともルミリアを完璧な淑女へと作り上げる。そうして簡単な挨拶を済ませると、陛下が殿下に似たサファイアの瞳を色濃くし、一度殿下が立つ方向へと流し見て、ルミリアへ向けた視線に少し苦いものが混じる。
さあいよいよ本題に入る、ということなのだろう。
「レンドルフ王国第一王子、アレクサンドル・フォン・シュナイゼル。前へ」
「はっ」
一礼し、名残惜しそうに子爵令嬢の肩から手を話したアレクサンドルに、陛下は「待て」と声を上げる。
「その者も、これに並ぶように」
陛下のお言葉に顔を見合わせた二人はそっとアレクサンドル殿下が子爵令嬢をエスコートする形で陛下の御前に立った。ルミリアはお母様と示し合わせてしずしずと壁に寄り、その場を二人のために空けた。二人を囲むようにぐるりと人垣が出来た所で陛下が立ち上がり、さっと手を振って微かなざわめきが広がる謁見の間を沈静化した。
椅子に深く座り直した陛下はアレクサンドル殿下へと視線を向けた。射ぬくような視線の鋭さにアレクサンドル殿下がびくりとたじろいだ。
陛下のご容姿はアレクサンドル殿下と似ているものの、纏う雰囲気は真逆だ。殿下のそれが柔らかな人の心を和らげるものだとすれば、陛下の雰囲気は人を自然と威圧し従わせるカリスマ性に優れている。この方のために命を掛けたいと思う人間が、陛下の周りには数多存在して居る。しかしアレクサンドル殿下の周りにはそんな人間はほぼ居ない。
―――これが王としての資質の違いなのか、それとも単なる経験値の違いなのだろうか。
「さてアレクサンドル。そして、マリル・ヒュメール子爵令嬢。そなたら二人から先日、嘆願書が余の元へ届いている。これは間違いないな?」
「はい」
「嘆願書には、ルミリア・エランドール侯爵令嬢とアレクサンドル・フォン・シュナイゼルの婚約を破棄し、改めてマリル・ヒュメール子爵令嬢とアレクサンドルとの婚約をお願いしたいという内容が書いてあった。これについては今朝の会議でも議題として取り上げられている。さてルミリア・エランドール侯爵令嬢、そなたはこの婚約破棄を願い出るか?」
陛下の問いに深く頭を下げつつルミリアは腰を折った。ここで話すべき言葉は一つしかない。「頑張りなさい」というお母様の囁きが耳に落ちてくる。それに勇気を貰って、ルミリアはそっと口を開いた。
「発言の許可を頂けますでしょうか、陛下」
「許す」
「私は、これにつきまして陛下のご裁量にお任せ致したく存じます。元よりこの婚約は、私と殿下が幼い頃に陛下と私の父、エランドール侯爵が定めたもの。その解消も継続も、私の一存で決めることではないと愚考致します。すべて、陛下のご裁可にお従い致します」
「そうか、あい分かった。それではこの場を以て、アレクサンドル、マリル・ヒュメール子爵令嬢との婚約を許可し、同時にルミリア・エランドール侯爵令嬢との婚約を解消する。皆、この場に居るすべての人間がその証人となろう。皆、良いな?」
確認を込めてだろうか、ぐるりと謁見の間を見つめた陛下に、ルミリアも深く頷いて頭を垂れた。無論これに否を唱える者はいない。当たり前か。既にこれは議会で承認された事項なのだから。
これで二人の婚約は破棄され、そして目の前の二人は正式に婚約者となった。悲しいような、寂しいような。僅かばかりの嬉しさが込み上げて、自然とルミリアの目に薄い膜を張った。
これで、良いんだ。
そう言い聞かせていると、驚くことに陛下は「さて、」と言葉を続けた。
「皆も聞いての通り、アレクサンドルは婚約をした。これによってマリル・ヒュメール子爵令嬢はアレクサンドルの婚約者となったが、アレクサンドル。そなたがここ半年の間に行ってきた様々な問題を鑑みて、今この時をもってアレクサンドル・フォン・シュナイゼルの王位継承権を剥奪し、同時にこれ以後第一王子として名乗ることを禁ずる」
「なっ……!」
思いがけない言葉を聞いて、ルミリアは思わず不敬にも陛下を仰ぎ見た。周囲に居る高位貴族達も一部を除いて騒がしい程驚愕の声を上げ、また悪意を孕んだ囁きが謁見の間に広がっていく。
ああ、これは断罪だ。殿下と子爵令嬢へ向けた陛下からの罰である。
「父上、どういうことですか!」
「アレクサンドル。そなたはもう第一王子ではない。私はそなたの父ではあるが、公の場では控えるようにと教えて来た筈だが、それすらももう忘れてしまったのか?」
「……っ! 申し訳ございません、陛下」
「心当たりなどない、という顔をしているな、アレクサンドル。然しこれは既に決定事項である。最早覆す事など出来はしない」
「陛下っ!」
絶句し唖然とした表情で陛下を仰ぎ見る殿下の顔色は蒼白になっている。
流石にこれはルミリアも予想していなかった展開だ。それは子爵令嬢ですら同じことだったのだろう。可哀想に今や倒れそうな程顔色を白くし、小刻みに震えていた体は最早歯の根が合わぬ程に大きく震えだしている。それでもこの場から逃げ出さないのはそれすらも気づけない程に追い詰められているからだろうか。
「ご発言の許可を頂けますか、陛下」
声を上げたのは、お父様だった。
陛下の側近、レンドルフ王国の宰相としてこの国でも有数の地位に就いているお父様は、謁見の間に居並ぶ動揺を隠せない者たちを眺め見て、恭しく陛下に頭を垂れた。
「許す」
「それでは、アレクサンドル王子の王位継承権を剥奪するということは、一体どういうことでしょうか?」
「言葉通りの意味だ。アレクサンドルは次期国王の器ではない。故にこの婚約を認める代わりにこれよりは一臣下としてこの国に滞在することを許す」
「一臣下とは、どういうことでしょうか?」
「アレクサンドルには成人した王族として公爵の家名と直轄地を与えている。王家の直轄地は取り上げるが、公爵の家名はそのままだ。これよりはレンドルフ王国のいち公爵としてこの国を支えて貰う」
「公爵となった後、領地はどうなりますでしょうか?」
「これについては既に別の領地を下げ渡す準備を進めている。だが公爵の家名は当代限りのものであり、その子どもがこれを継承することは出来ぬ」
なるほどな、とルミリアはそっと嘆息した。なんて用意周到な方なのだろう。確かに一臣下としてしまえばこれ以上王族としての恥を晒すことも無いし、国が定めた領地は言わばこれからの動向を堂々と監視するためでもあるのだろう。アレクサンドルにとっては今まで後ろ盾となっていた肩書を無理やりに奪われ、挙句今後は家名を子に渡すことも出来ず大きな釘を刺されてしまった状態である。
お父様と陛下の掛け合いは、この謁見の間にいるすべての人間へ細かく説明するための小芝居でしかない。実際、お父様の声が乱れることも無かったし、陛下もお父様も何処か事務的な確認を終えたかのような儀礼的な応酬でしかなかった。
つまりこれはすべて、陛下が用意した盛大な茶番というわけだ。
「陛下、お待ち下さい! 私はこれまで国に身命を賭してお仕えして参りました。このような処遇は納得がいきません!」
「お前が納得しようがしまいが既にこれは決定事項である。これからそなたの名は、アレクサンドル・フォン・シュナイゼル改め、アレクサンドル・グリス公爵となる」
「ですが…!」
「無様な真似を晒すでない! そなたのこれまでしてきたことは、王家にとって恥以外のものでは言い表せぬ。無論、ヒュメール子爵令嬢。そなたもな。お前たち二人がそうして無知を晒している間、誰が第一王子の責任と役割を成り代わって処理してきたと思っておる。ここまで言わねばならないほど、そなたは既に王族として失格であるということだ」
陛下は少し声を荒げてルミリアへと視線を向けた。その目に浮かぶのは、ルミリアを労るような温かなものだった。
同時に、謁見の間にいるすべての方の視線がルミリアに集中した。
反射的に背筋を伸ばし、腹の奥に力を入れた。俯くべき理由などありはしない。ルミリアは淡く笑みを浮かべた。
「お前が恋だの愛だのに現を抜かしている間、その席を埋めたのはドミトリアスであり、またそなたの元婚約者であるルミリア・エランドール侯爵令嬢だ。彼女はこの国にとって無くてはならない存在。それは最早そなたよりも大きな存在となっている」
「無くては、ならない存在?」
「そなた、我が国と山を跨いだ遠方のルクストベルグ国の同盟が締結されたのは知っているな」
「はい。確か、どちらも平等に、偏ることのない対等な同盟であるとか」
「その同盟の立役者こそ、そなたの元婚約者よ。」
…それは言い過ぎではないでしょうか、陛下。
そんな言葉が喉の奥から出掛かって、くっと飲み込んだ。買いかぶり過ぎである。けれどそう、陛下はいつだってルミリアを娘の如く可愛がって下さり、また成果を上げればそれをきちんと認めて下さる懐の深さをお持ちだ。だからこそ皆がこの方のためにと力を振り絞って懸命にお仕えしているのだろう。
それはルミリアとて同じこと。
ばっと音がなりそうな程にルミリアの方へ振り返ったアレクサンドル殿下は、「嘘だ」と呆然としていた。
ルクストベルグ国の同盟か……あぁ、あれは確か二年ほど前から少しずつ進めていたものだ。実際に動く外交官を派遣し、綿密な調査と準備の元、ルクストベルグの使者を受け入れて何度も親書を交わし、ルクストベルグ国の重い腰を上げさせることに成功し実際に交渉に漕ぎ着けはしたもののそこからが長かった。
元々国交を断絶していた国であるが故にルミリアやドミトリアス、この交渉に関わった者、皆であらゆる人脈を用いてあの手この手で漸く締結させることの出来たもの同盟だ。
あれには本当に骨が折れた。第一、ルミリアはまだ正式な婚約者ではないにも関わらずこのような重大な国の案件に携わる事となったのは、ルミリアの友人が前年にルクストベルグの主要な貴族へ輿入れした事と、個人的にルクストベルグ国の首脳陣に伝があったことが大きい。
だからこの成果はルミリアだけのものではない。皆が力を合わせて粘り強く取り組んだからこそ成し得たことなのだから。
「ルミリアが、」
「そうだ。だからこそ分かるな? 王家にとって今真に必要な人間はどちらであるのか」
「…はい」
「ならば良い。さて、それではこれにて仕舞いとする。宰相、後は良き様に取り計うように」
「御意」
陛下がご退場なさるのを頭を下げて見送り、ルミリアは大きなため息を吐いた。
なんだか、大変なことになってしまった。
ルミリアに向けられる様々な視線を綺麗に黙殺し、ルミリアはお母様に声を掛けて謁見の間から退いた。
*
ルミリアにとって大事な物は何か、と問われれば家であり貴族としての矜持だと言おう。
けれどもこれから、ルミリアの処遇がどうなるかは分からない。この適齢期に婚約を破解消された令嬢など、醜聞も良い所だ。
けれども今日の一件で、その醜聞は陛下の手によって良い方向に潰されたといって良い。ならば貴族の間では、私は悲劇の主人公として語り継がれる事になるのかもしれない。
「よく頑張りましたね、ルミリア」
お母様の、その柔らかな言葉にルミリアはそっと微笑んだ。
「さあ、帰りましょうか。ルミリア」
「はい」
呆然と、愕然とした様子で立つ元婚約者たるアレクサンドル殿下を流し見て、そっと目を閉じた。
その隣に立つ資格は、もうルミリアには無い。慰めることも、鼓舞することも、最早ルミリアには出来ないのだから。
ルミリアはお母様と共に連れ立って騒がしい謁見の間を辞した。