21
ルミリアの乗った馬車が王宮に着くと、馬車を降りた所でお兄様がルミリアを待ち構えていた。
お兄様は、早朝に屋敷を出た時と同じ、首にはオリーブ色のアスコットタイを締め、黒地のフロックコートを纏っていた。これで周囲に年頃の令嬢が居ようものならば黄色い悲鳴が聞こえたかもしれないが、生憎と今この場にいるのはお兄様とルミリア、そして数人の衛士だけだ。
「お兄様」
「ルミリア、早かったな。もう少しかかるかと思っていたが」
「急ぎ支度を整えましたの。…それでお兄様、どちらへ?」
「父上の所だ。後程陛下もおいでになる」
「そうなんですの」
お父様と陛下が揃うのであれば、やはり話すべき事は一つしかないだろう。
いよいよか、とルミリアは気を引き締めた。
「さて、時間も迫っている事だし、行こうか」
「ええ」
そうしてお兄様と二人、お父様の待つ執務室へと向かった。
ざあっと強く吹いた風がドレスの裾を揺らし、背中に流した長い髪を吹き上げる。ルミリアはそっと髪を押さえ、歩調を緩めてじっと王宮に植えられた色鮮やかな花や木々を見つめた。王宮に咲く花々もすっかりと様変わりしている。
久しぶりに来た王宮はとても懐かしく、それでいて自分の本当の居場所に戻ってきたかのような感慨深さを感じた。
ああ、また此処へ帰って来れた。
それがとても嬉しくて自然と顔が綻び、一人擽ったく微笑んだ。
「何だか、吹っ切れた表情をしているな、ルミリア」
「そうでしょうか?」
お兄様はそう言って柔らかい眼差しでルミリアを見ていた。その優しさが何処か気恥ずかしくて、ルミリアは思わずはにかんだ。
吹っ切れた表情、か。確かに、レンドルフに帰ってから今日に至るまで、晴れやかな心で日々を過ごせている。それはきっと、これまでの出来事から前へ進めた証でもあるのかもしれない。
「お兄様も、何だか少しお顔がしゅっとなされたように感じますわ。少し痩せられたのではありませんか?」
「それはただの疲れからくるものだよ。最近本当に忙しかったからな」
「あらまあ、そうでしたの」
そうして他愛もない話をしながら進んだ先に、お父様の執務室が見えて来た。
だが、執務室の横の壁に寄りかかるようにして腕を組んで待つ人影を見つけ、ルミリアは驚きと共に足を止めてその人を見つめた。
「久しぶりだね、ルミリア」
「お久しゅうございます、ドミトリアス様」
すっきりとした濃紺のフロックコートを纏うドミトリアスは、にこりと微笑んで歩み寄ってきた。
近くで見ると、たった一月程しか離れていないというのに、その顔立ちは以前にも増して精悍さが増している気がする。
それだけ、立太子礼に向けて徐々に次期国王としての自覚や意識の変革があったのだろうか。
思わず、その手を伸ばして頬に触れようとして、ルミリアははっとその手を引っ込めた。
優しい目でルミリアを見つめていたドミトリアスはふっと笑ってじっとルミリアの瞳を覗き込んだ。
……後ろの方で、「甘っ」だとか、「空気か、俺は」だとか呟いているお兄様の声が聞こえたが、今はこの際無視した。
「元気そうで何よりだ」
「ドミトリアス様もお元気そうで、安心致しました。ですが、どうしてこちらに?」
「私も陛下に呼ばれていてね。まだ陛下はいらしていないから、先に入ろう」
「そうだったのですね」
ルミリアが頷くと、いつの間にか執務室の扉に手を掛けていたお兄様が、「あーそこの二人、」と声を上げた。
お兄様の方を見ると、形容し難い呆れたような、それでいて複雑そうな表情をしたお兄様がルミリアとドミトリアスを交互に見つめた。
「早く入るぞ。っていうか、もう入るから」
「分かっているよ、ジュリアス」
苦笑したドミトリアスは、ルミリアの手を取って執務室へ誘い、二人でお父様の執務室に入って行った。
ドミトリアスに一礼したお父様は、ルミリアをソファーに座るよう促し、ドミトリアスは対面のソファーに座った。お兄様は、何かお父様から手渡された書類を手に持って、何やら耳打ちしているが、ここからでは何を話しているのか分からなかった。
そうして時を置かず、陛下が執務室へとやって来た。
「陛下、ご機嫌麗しく存じます」
「ルミリア、久しいな」
ドレスの裾を摘んで一礼したルミリアに、陛下は親しくお言葉を返して下さり、陛下は上座の椅子へと腰かけた。
その背後に控えるようにお父様が立ち、お兄様はドミトリアスの背後に控え、いつか何処かで見た景色によく似ていて、ルミリアは既視感を覚えた。けれどその時と少し違うのは、今のルミリアの心情はとても明るく、そしてこれから話されるであろうことについて覚悟が決まっている、という点だろうか。
陛下は「さて、」とルミリアを見つめ、口火を切った。
「ルミリア、そなたを呼んだのは他でもない。以前にも一度話したな、ドミトリアスの立太子礼を以て、そなたを王太子妃としたいと。その時そなたは、少し考える時間が欲しいと言った。その答えを聞かせて貰いたい」
「はい、陛下」
ルミリアはそっと息を息を吸い込んで、陛下の目をひたと見つめた。自分自身の嘘偽りない言葉で、その答えを唇に乗せた。
陛下に伝えるその言葉は、既に決まっている。クリスタでドミトリアスの手紙を受け取ったあの時から、ルミリアの答えはただ一つのみだった。
「謹んでお受け致します。陛下」
「そうか、それは良かった。では宰相、そなたが証人となり、この場をもって二人の婚約が成立した事をここに認め、立太子礼に伴い二人の結婚を正式に承認したものとする」
「御意」
深く頭を下げたお父様に倣い、ルミリアも深く頭を下げた。
対面に座るドミトリアスをそっと伺うと、嬉しそうに口元を綻ばせたドミトリアスと視線が絡み、ルミリアは小さく微笑み返した。
「ルミリア、これから大変な事もあるだろう。だがどうかこれからも、ドミトリアスと共に、このレンドルフで様々なことを学び、また務めに励んで貰いたい」
「はい、陛下。この身が及ぶ限り、精一杯国のために力を尽くす所存です」
「うむ。頼むぞ、ルミリア」
陛下が一つ頷くと、何かお兄様に目配せしたお父様が、「陛下、そろそろお時間です」と陛下に声を掛けた。
「ではルミリア、またの機会を楽しみにしている」
そう言って陛下は、お父様と連れ立って執務室を出ていった。深く頭を下げてそれを見送り、後に残されたルミリアが何を言うべきか迷っていると、ドミトリアスが音もなく立ち上がり、ルミリアの座るソファーの前に跪いた。
「ドミトリアス様、お止め下さいませ!」
「ルミリア、少し私の話を聞いて欲しい」
真摯な眼差しでルミリアを見上げるドミトリアスに、ルミリアは狼狽える。視界の端で、お兄様がそっと執務室から出ていくのを確認したドミトリアスが、そっと壊れ物を扱うような繊細さでルミリアの片手を取り、とても真剣な、それでいて強い情熱を感じさせる目でルミリアを見つめた。
その目に、ルミリアはじわじわと頬が熱くなっていくのを感じ、気恥ずかしさに視線を彷徨わせた。
「ルミリア、私は以前にも言ったが、もう一度自分の言葉で言わせて欲しい。私はルミリアを愛している。心から、そう思っている。王子である前に一人の男として、君を幸せにすると誓う。これから先、何があったとしても生涯、私が持てる力のすべてを持って守る」
「ドミトリアス様…」
「だからどうかこれからも、共に歩んで行って欲しい」
じっと、ルミリアを見つめてそう言ったドミトリアスに、ルミリアはただ一度頷き、「はい」と答えた。色々な感情が胸に溢れてきて、まるで嵐のように駆け抜けていく。
これまでずっと、ドミトリアスはルミリアにとってかけがえのない人であり、幼馴染だった。そうして、王宮に来る道中で漸く自覚した淡い恋心は、ルミリアの心を明るい春のような心地よさをもたらしてくれた。
ドミトリアスの深い愛情に対して、ルミリアが返せる程の情熱は、今のルミリアにはない。あるのはただ、小さな恋心だけ。
「ルミリアが私を愛していないことは、よく分かっているつもりだ。だが人生は長い、だからルミリア、私は私の生涯を賭けて君を振り向かせて見せる」
「生涯をかけて、」
「ああ。今はまだ、これまで通りただの幼馴染でも良い。けれど何れは、私を愛していると言わせてみせるよ」
「…ドミトリアス様は、それで良いのですか?」
「ああ、それで良い」
そう頷いたドミトリアスは、とても晴れ晴れとした表情をしていた。それは何か、漸く自分の思いを告げられたことを喜ぶような、爽やかな笑みだ。
正直、アレクサンドルと婚約を破棄してから、社交界から遠ざかって久しく、恐らくはお父様の根回しを持ってしてでも反発や批判は免れない筈だ。きっとこれからルミリアは、多くの事を学び、そしてまたこれまで以上に一層の努力が必要だろう。第二王子たるドミトリアスの婚約者としても、そして王太子妃としても。
けれど今はそんな表の事情は棚に上げてでも、ルミリアは自分自身の本音と向き合っていた。心からの思いを話してくれたドミトリアスに報いるためにも、ルミリアは正直に自分の思いをドミトリアスへと伝えた。
「ドミトリアス様…いいえ、ドリー。私はあなたの言う通り、ずっとドリーを幼馴染だと思ってきましたわ。大事な友人で、そして、大切な元婚約者の弟なのだと」
在りし日の事を思い出すと、とても楽しい思い出ばかりが蘇ってくる。あの頃はただただ自分の事ばかりに必死で、周りを見る余裕が殆ど無かった。あの頃より年を重ねた筈なのに、ルミリアはまだ自分の行動がどれ程周りに影響を及ぼすのかを失念している事がある。
それでも、前に進み続けている。周囲がどんなに変わってしまったとしても、この国でルミリアが成したいことはただ一つだ。
「けれど私はクリスタに居る間、ほとほと痛感致しました。私は、多くの事を学び、また尽くして行きたいと思ったのはレンドルフだけです。私は、この故郷を、この国の平和をこれからも守り続けて行きたい。そのために私は、この国に全力で尽くしたいと、今はそう思っております。その上で、ルミリア・エランドールとしてではなく、ただのルミリアとして、あなたと差し向かい、そしてあなたの事を改めて側で見守っていきたい。そして出来れば二人で、私の中にある小さな恋心を芽吹かせたいと、そう思っております」
「恋、心…?」
「はい。ドミトリアス様、私はあなたに恋をしています。まだそれはとても小さなものですけれど、でも私は、私はあなたを、」
ルミリアは、恥ずかしさに顔を真っ赤にしつつドミトリアスに言い切った。
「ドリー、あなたをお慕いしております。心から」
「………っ!」
ドミトリアスが息を飲んだ音が聞こえ、ルミリアはそっとドミトリアスの目を見つめた。
「これから私も、今のドミトリアスと同じ分だけの愛情を返せるように、二人で新しい関係を築き、また育んでいければと、そう思っております」
「ルミリア…ああ、そうだね」
とても嬉しそうに笑ったドミトリアスに、ルミリアは握られていた手をきゅっと握り返した。
それからルミリアとドミトリアスは中庭に場所を移し、クリスタで有ったこと、見たこと、聞いた事、そして進んでいる立太子礼について話し合った。
気が付けば日が暮れるまで長い事話し合っていたルミリアは、翌日再び登城することを約束してエランドール侯爵家へと戻った。
獅王国でクーデターが起こったという知らせがレンドルフへと届いたのは、それから三日後のことだった。
*
「遂に来たな」
「ええ」
陛下が手元の書類に目を落としつつ呟かれ、宰相がそれに答えた。ジュリアスは壁際に控えつつ、手元に届いた報告書を見つめた。
元々、獅王国については以前から不穏な噂が流れていた。
現皇帝が皇帝位を受け継いで十年。
獅王国では東方の三国が統一したことから生まれた国である。獅王国という新しい国として建国されて以降、次期皇帝が選出されるのは、三国の元王家の直系嫡子のみ。それ以外の人間に、皇位継承権は存在していない。
つまり皇帝とは、三人の男子で争われる位なのだ。
その選定方法は定かではない。何故ならそれは、獅王国の中でも現皇帝とその座を争った他の二人、そして次代の三名のみしか知り得ない秘匿されたものであるのだ。
だがその皇帝は東方の国々とは広く交流があるものの、レンドルフやクリスタといった西方諸国とは殆ど国同士の交流はない。そのため、先ごろ行われたクリスタの王太子の結婚披露宴に獅王国の皇太子が出席したことも、レンドルフには驚きと共に伝えられたのだった。
クーデターを引き起こした首謀者の名は、殷樂蘇撤。三人の皇太子の一人で、自分こそが次代の皇帝であると宣言し、皇城の一部を占拠しているという。元々、殷樂蘇撤は親西方派で、どちらかといえば鎖国思想の強い獅王国に在っては異質の存在として広く知られており、親西方派の急先鋒としても有名だった。
「取り敢えず、次の一報を待つしかないな」
「ええ。獅王国内で混乱が起きているという情報もありませんから、今は静観することが重要でしょうね」
そう結論付けた陛下と宰相は、これにより獅王国が転覆した場合に備えて何をしておくべきかを確認していた。
どう転んだとしても、レンドルフにとって不利益を及ぼすようなことは恐らく無いだろう。
ジュリアスは次の議題に移った陛下と宰相を見つめ、手元の書類を捲った。
実際の所、ルミリアがレンドルフへ帰国した際、エランドール侯爵邸には外交官を通じて殷樂家より一通の書状が届いていた。
要約をすると、『エランドール侯爵令嬢を妻として迎え入れたい』というもの。他国とは言え、殷樂家の嫡男は皇太子の一人。それとなく断るにしても骨が折れる作業だ。
けれどこの書状を、何食わぬ顔をして握りつぶしたのは、何を隠そうエランドール侯爵夫人…いや、母上だった。
「あちらの国は、毎度皇帝位の継承云々で騒がしいでしょう? そんな国に、私の娘を嫁がせる事など出来はしないわ」
そう言い切った母上は、いっそ清々しい程の黒い笑みを浮かべて書状をランプの火にくべた。
その姿に戦慄を覚えながらも、同意したのは記憶に新しい。
事実、レンドルフはどうあってもルミリアを他国へやるつもりなど無い。それが他国の皇太子であれ、高位貴族であれ同じこと。
殷樂家に何か言われたとしても、書状など受け取ってはいないと押し通せば良い。
もしも厄介な事が起こるのであれば、既にルミリアは婚約済であり、そのような身にある令嬢に対して求婚をするなど、無礼はそちらの方である、と抗議をすることさえ可能だ。
まあ恐らくは、そのようなことは起こらないだろうが、警戒はしておくべきだろう。
それだけは肝に命じなければと決意も新たに、ジュリアスは思考を切り替えて仕事に取り掛かった。




