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―――本当に面白い、とドミトリアスは仄暗く嗤った。
ああ、そうだ。ドミトリアスにとって大切なものは既に決まっている。だからこれは単なる布石にしか過ぎない。優雅に淑やかに去っていくルミリアの背を見つめ、ドミトリアスも踵を返した。
破滅の道へ、そうと気付かず突き進む兄のアレクサンドルは、今日も悲しそうに寂しそうに悲嘆に暮れる子爵令嬢を慰めていることだろう。仮にも一国を支える次期国王があれではそう遠くない内にこの国が傾くと確信した上層部が、その首をすげ替えるために既に動き始めていることは高位貴族の間では周知の事実となっている。
鉄壁の包囲網と着々と築かれていく兄の今後の処遇は、最早誰であれ修正が出来ないほど手遅れな状態に身を置いているのだとも気付かずに、これまで散々守護してくれていた陛下や周囲の人々へ怒りを募らせる兄のなんと滑稽なことか。
そもそもこのような独断専行が許されていたのも、兄が王位継承権第一位にして第一王子という肩書きがあってこそだ。王子というものは、ただ王族であるが故に与えられるもの。
しかしそこに付随する様々な執務や多くの役割を成してこそ、その肩書きに見合った権力を皆に許されるのだ。
けれど兄のそれは、その役割すら放棄した状態にある。そうであれば皆が判断する今の兄の評価は、自身が用いることの許された権力とこれまで先人達が積み重ねてきた王族としての威光をただを振りかざす横暴な貴族に成り果てているのだ。
全くどうしてそれに気付くことすら出来ないのか。
これでもかと冷たい値踏みするような視線の意味さえもう兄の頭では理解出来ないのだろう。
恋だの愛だの、そういったものに形振り構わず振り回されて良いのは王族以外の人間だ。自身の行動によってもたらされる責任も問題も、すべてを背負った上で踊るのであればこれ程までに事が大きくなることなどなかっただろうに。
『あれはもう、ダメだ』
悄然とした様子でそう陛下が呟いたのは何時のことだったろう?
これまで散々ルミリアという、ただ自身の婚約者であるというだけの少女に当然の如く尻拭いさせていた兄は、ルミリアという婚約者を虚仮にし、振り回すだけ振り回した挙げ句にこっぴどくその手を振り払った。ルミリアがもたらした様々な恩恵に報いることすらせずに。
恐らく陛下とて、兄がルミリアに形だけでも感謝し公の場で弁えた行動をしてさえいれば情状酌量の余地もあっただろう。
けれどもう全てが遅すぎるのだ。動き出したものは、止めることなど出来はしない。
親しい人間にしか分からないほど僅かに失望を滲ませていたルミリアの姿は、一連の事態を何処か達観して見ていたドミトリアスにとって衝撃を与えるものだった。
誰もがルミリアを強く、そして賢い清廉な女性だという。けれどルミリアだって人の子だ。婚約者がその他大勢の女性の中から自分以外の女性を選び、そしてそれを自身の唯一の存在だと言い切った。どんなに悔しく、辛かったことだろう。それでも内心の心情をおくびにも出さず、俯くことなくきっぱりと兄を退けたルミリアが傷ついていない筈がないのだ。ただ誰も、それに気付いてはいないだけ。
気取られぬよう一瞬でも気を緩めず隙を見せていないルミリアだからこそ、その凛と張りつめた姿に周囲は欺かれルミリア自身の本心に気付くことはない。
―――それでも、と思うのはドミトリアスのエゴだ。
辛い思いを吐露することが出来ない彼女だからこそ、頼って欲しかった。そのために、ドミトリアスはこれまで歯を食いしばって少しでもルミリアの側に堂々と立つことが出来るよう努力を重ねてきたのだ。
兄に対してこんなにも腸が煮えくり返るかと思ったのは後にも先にもこれっきりだ。けれどだからこそ、重苦しい肉親の情を切り捨てることが出来たのだ。
すべては、ひっそりと時間を掛けて育ててきた愛情を、ドミトリアスの最愛の人であるルミリアを、この手に引き寄せるために。
「楽しみだな」
ドミトリアスは艶めいた笑みを浮かべた。
さあ、兄上、どこまでもどこまでも落ちて堕ちて、地に這い蹲って下さいね?
*
あれから数日。ルミリアはここ数年で久しぶりとも言える怠惰な生活を送っていた。
以前は欠かさず行っていた殿下が出席した夜会への根回しも、徐々に任されるようになってきた王族関係の仕事も今は全てを放棄している。流石に緊急性の高い案件であればお呼びが掛かるものの、自主的に行ってきた殿下が起こした行動へのフォローも今はすっぱりと辞めている。いっそ清々しいほど、自分のことだけをゆっくりとして日常を過ごしている。
本来、貴族の令嬢というものは多くの仕事をすることはない。主だった高位貴族でさえ、仕事をするといっても家が行っている事業や領地に関連した人脈作りのためのお茶会を開いたり、或いは花嫁修業をすることが最低限貴族の令嬢に求められる仕事である。
そんな中、幼い頃から第一王子、アレクサンドル殿下の婚約者として並び立っていたルミリアは、父が我が国の宰相であり侯爵家であったことから、王妃殿下や国王陛下より、王族に準ずる待遇を受け、そしてそれに付随する働きを求められている。無論、そこに不満などない。だからルミリアは、貴族の令嬢でありながら経営学から王族としての行儀作法、一般教養、語学研修、果ては帝王学などというものすら齧りつつ徹底的に知識と教養を叩き込まれた。
それは一朝一夕には習得出来ないものではあったものの、元々好奇心旺盛でかつ知識を吸収することに貪欲だったルミリアは、ひたむきに勉強を進め、実際に仕事を手伝っていったことで、未来の国王妃となるためにいつしか国を挙げて育て上げられた完璧な才女となっていた。
ルミリアの人生はこれまで、自身の思いとは別の場所で事態がどんどん動いていた経緯もあり、どちらかといえば敷かれたレールに沿って、どんどん不合理さをそぎ落とした貴族の中の貴族、そして国のために忠誠心厚く仕える女性となっていった。
それでもルミリアにとってこれまではそう悪い人生では無かったように思う。子爵令嬢が現れるまで、という注釈は付くけれど、それまでの殿下はルミリアに対して礼を失することなく理想のパートナーとまで言われた仲の良さで、ルミリアをいつもリードしてくれていた。
殿下は生来優しい性格である。多少押しに弱い部分はあるけれど、次期国王たる第一王子として充分な資質を持っていた。
殿下のご両親である国王陛下や王妃殿下、そして第二王子たるドミトリアス殿下にも本当によくして頂いた。だからこのまま殿下の一声だけで婚約破棄をするということは大いに残念でもあり、またある種の目標を失ったことで、ルミリアは実の所喪失感の真っただ中にあった。
『いつか立派な王妃になってみせます!』
舌足らずな声でそう王妃殿下に満面の笑みと共に宣言した記憶は今も鮮やかに思い出すことが出来る。あれはそう、ルミリアが陛下直々に王族としてのマナーをお教え頂いてた頃だから、4歳になるかならないかというくらいの頃だっただろうか。
あの頃はただ目の前の出来事に必死で、形振り構わず突き動かされるままに動いてきた。年を重ね、また教養を身に着けていくごとにそれらは落ち着いてきたものの、元々ルミリアは感情的な人間である。それを鉄壁の理性と淑女の仮面で抑え込んでいるだけだ。
今のルミリアがこうしてただ落ち着いて事態が動くのを待っているのも、そういった面での影響が大きい。これも教育の賜物というものだろうか。
それでもルミリアは、今でもアレクサンドル殿下の事を心の奥深くでは慕っている。
馬鹿な人ね、とも思うけれどそういった感情とは別に、未だアレクサンドル殿下はルミリアにとって守護するべき大切な方だという思いが強くあるのだ。
暖かなベッドの中、ゆったりと微睡んでいたルミリアは慌ただしい足音と共に部屋に飛び込んできた侍女の声で目を覚ました。
この侍女はルミリアが幼い頃から仕えてくれている忠義心に厚い女性である。妙齢ではあるが、侯爵家の侍女に相応しく、このように慌ただしい訪問をすることは滅多にない。けれどどうにもここ数日の疲労からか上手く頭が回らないルミリアは、寝起きの掠れた声で侍女に答えた。
「お嬢様、お嬢様! お休みのところ大変申し訳ございません。一大事にございます!」
「一大事…? どうかしたの?」
未だぼんやりと空を眺めて上半身を起こしたルミリアは、次いで紡がれた言葉に思わず跳ね起きた。
「陛下が…陛下より、お嬢様に急ぎ登城するよう使いの者がやって参りました!」
「登城?! 一体どういうこと…ああ、それよりも準備が先ね。手伝ってくれる?」
「畏まりました」
「でも、本当に私宛なの? お父様ではなく?」
「はい。既に旦那様は朝から登城されておりますし、とにかく一刻の猶予もなく準備が整い次第登城するようにとのお達しでございます」
「準備が整い次第…、そう、そうなの」
テキパキとクローゼットから上等なドレスとそれに合わせた小物を引っ張り出し、侍女の手を借りて淡いモスグリーンのドレスに着替える。簡単に顔を洗って髪はシンプルに結い上げ、失礼のない程度に化粧をする。これだけでも既に三十分は経過している。夜着を着ている時にはコルセットを締めてはいないから、一からドレスに着替えると時間が掛かるのだ。
ああ、こんなことならいつも通り早めに起きておくのだった。そう思っても、時間が巻き戻せるわけではない。
急かすように追い立てる侍女と共にはしたなく駈け足で玄関ホールに向かえば、待ち構えていた侍女達に簡単にドレスを直され、執事の誘導で登城へ付き添うというお母様と手を取り合い、二人で侯爵家の馬車に乗り込んだ。
「行ってくるわね。何かあれば早馬にて知らせます。王宮の使いの方は、もう帰られたのよね?」
「はい。既にご出発なされております」
「なら良いの。さあ、ルミリア行きましょう。陛下がお待ちよ」
「はい、お母様」
「奥方様、お嬢様、道中お気をつけて。行ってらっしゃいませ」
完璧な礼を持って見送られたルミリアは、失礼が無いか思考を巡らせつつ、きゅっと膝の上で両手を握りしめた。
情けなくもルミリアは酷く動揺していた。だってこんな展開の早さにはついていけないのだ。その動揺を抑えるために俯くと、お母様がルミリアの肩をぽんと叩いた。
「……お母様?」
「大丈夫よ、ルミリア。あなたは堂々としていれば良いの。何かあっても、お父様がすべて良い様に取り計らって下さるわ。だから心配しないで」
柔らかく微笑んでルミリアの両手にそっと手を重ねてくれたお母様は、馬車の外を流れる景色を見つつ僅かに表情を曇らせた。
お母様ですら、登城の理由は知らされていないのだろう。けれど予想はついている筈だ。だからルミリアが今、動揺を外へ出すわけにはいかない。埒もない考えが浮かんでは消えておくのを抑え込み、ルミリアはそっと深呼吸をして侯爵令嬢としての仮面を被り直した。
……お母様が居てくれて良かった。そうでなくては、対外的に被っていた仮面をかなぐり捨てて無様な姿をさらけ出していたかもしれない。そんな想像に思わずゾッとした。
そうなればルミリアは侯爵令嬢として、第一王子の婚約者としてのすべてを捨てざるを得なかっただろう。
ルミリアは王宮へ着くまで暫し、そっと視線を上げてお母様と同じく窓の外へ目を向けた。
*
アレクサンドルは、隣でふるふると小刻みに震えている恋人の肩を抱き寄せ、近衛騎士の先導で謁見の間に優雅に入場した令嬢、ルミリアへ目を向けた。
ルミリア・エランドール侯爵令嬢を一言で表すならば、気品溢れる淑やかな淑女というこの一言に尽きる。
エランドール侯爵家特有の見事な銀糸の髪をシンプルに結い上げたルミリアは、謎めいたアメジストの瞳が今日はより色を深くして神秘的な輝きを放っている。肉感的な美女にも例えられるルミリアは、普段から艶めいた色気を放っている。それがルミリアが意識して行っているものなのか、それとも無意識のものなのかはアレクサンドルには分からない。けれどそれでも、まるで絵画の世界から抜け出したかのようなルミリアの姿は、ただ純粋に美しいと思う。
ルミリアの美貌は妖しく艶めいたそれと、凛とした清廉さを併せ持っている。それらが丁度良いバランスで整えられているからこそ、ルミリアの美貌を深め、また危うい雰囲気を醸し出しているのだ。顔立ちが整っているからか、ルミリアのドレスはいつもシンプルなものが多い。他の令嬢とは違い、ルミリアは飛び抜けた美貌を有している。だから殊更華美に着飾る必要がないのだろう。深いモスグリーンのドレスを身に纏ったルミリアは、小ぶりなイヤリングと王妃から下賜された美しいネックレスがルミリアの美しさに華を添えている。
アレクサンドルの恋人とは正反対の、大人の色気に満ちたルミリアの姿は周囲の人の目を引く。その行動の一つ一つが完璧に計算されたものだとしても、その淑やかなルミリアの姿に目が離せなくなる。元々ルミリアはその美貌だけではなく頭が切れる才女だ。その才能の豊かさには幼い頃から驚かされてばかりいた。
然しアレクサンドルの思い違いでなければ、今日は常よりも更に物憂げな表情を浮かべていることと相まってより色気が色濃くなっているようだ。思わず声を掛けようか口を開きかけるが腕の中でぴくりと恋人が動いたことではっと我に返り、恋人の肩を柔らかく撫でた。
謁見の間には今日、レンドルフ王国の主だった高位貴族が顔を揃え、国に仕える高官達も皆集まっている。何か重大な発表があるらしいということは知らされているものの、その殆どはその内容を知らされていない筈だ。
なにせアレクサンドルですらその内容を知ることはない。けれど何故だろう。どこか謁見の間は異様な空気に包まれている。それはルミリアが姿を現して更に強まったようだ。何かが起ころうとしている。
しかし、なにがあるというのだろうか?
物思いに更けている内にルミリアが進み出た。
ということは今回の主役は、ルミリアというわけだ。
だが、何があるというのだ。
じっと見つめている間にルミリアは謁見の間の中ほどまで来ると軽く足を引いてドレスの裾を摘み、柔らかく頭を垂れた。その後ろに控えるように、ルミリアの母であるエランドール侯爵夫人が同じく頭を下げている。
しんと静まり返った謁見の間で、アレクサンドルはルミリアに視線を戻し、じっとその姿を見つめた。
アレクサンドルにとってルミリアは、気心の知れた妹のような存在だ。そこには決して恋といった可愛いらしい感情は介在していない。その代わりにあるのは、家族へ向けた親愛の情だけだ。
ルミリアに関して言えば、アレクサンドルは心の底から尊敬はしている。そう、単純に尊敬という他人行儀な感情だけが今のアレクサンドルがルミリアに抱いている感情でもある。
『兄上は、ルミリアを本当に妹のように思っているのですね』
いつか、そう皮肉げに言ったのは、ドミトリアスだったか。
その時は上手く誤魔化せていたものの、事実アレクサンドルがそのような感情しか抱いてはいない事くらい、周囲の者には明白だったろう。
それでも、隣に立つ恋人という存在が現れなければきっと、今もルミリアの隣に在った筈だ。
アレクサンドルはルミリアと、次期国王とその婚約者としてこれまで多くの修羅場を乗り越えてきた。相手にそうと思わせず自然と人の言葉を誘導し、ルミリアが望む言質を引き出すことのできるその手腕は、次期国王妃として称えられるべき資質だろう。
けれどもアレクサンドルは生来の気質で中々人と打ち解ける事が出来ずにいた。勿論立場上の理由もある。けれどその気質は、人心を掌握していく次期国王としてはマイナスな弱点でもある。
……だから、ということもないが、アレクサンドルはそういった人を上手く使う術を持ったルミリアの姿は、アレクサンドルの劣等感を強める存在でもあった。
それがルミリアを遠ざけた理由の一つでもある。
「ルミリア・エランドール、ただ今招聘により参上致しました」
「うむ、大儀である。面を上げよ」
「はい」
ゆっくりと顔を上げたルミリアは、ひたと陛下を見据え陛下のお言葉を待っている。
何かが爆発する直前のような張りつめた空気が動き出したのは、陛下がアレクサンドルの名を呼んだ直後のことだった。