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―――何だか、とても平和だわ。
ルミリアは細々とした衣装を片付けつつ、ふとそんな事を思った。
クリスタ王国に来て一週間が経った。侍女としての仕事にも慣れ、クリスタ王国の王宮という場所がどういう場所なのかということも少しずつ分かってきた。
何というか、クリスタ王国は実力主義の国なのだ。
実務に優れた者が上へ上がり、そこに付随する身分というものはあまり考慮されるべき問題ではないのだ。レンドルフの貴族主義的な国政とは異なり、平民であっても能力さえあれば上へ上がれるという特異な体制が広く平民にも知られている。
だからこそ、クリスタ王国の民は自分の技術や能力を磨くということに余念がない。
一つの良い例が、平民でも簡単な試験をパスすることが出来ればより高度な学問を学べることが出来るというクリスタ王国の王立高等学校が、身分に関わらず広く門戸が開かれている点だった。
これがレンドルフや他国であれば、貴族の子弟や限られた人間しか入学することが出来ない。そういう意味ではクリスタ王国は、人を育てることに長けた国なのだろう。
ただ、平民や貴族はどうあれ、クリスタ王国の王族だけは些か事情が違うようだった。
クリスタ王国の王族は絶対的な権力をその身に有している。レンドルフと同程度の国土を有するクリスタ王国の王族は、その力をあまねく国政に傾けなければならない。そのため、他者よりも優れた能力を有することが当然の如く求められ、民の前で臆することなく能力を発揮できる者こそが王たる資格を持つ、そんな価値観が広く民の中に存在している国なのだ。
シャルロットの夫君となるクリスタ王国の王太子も、その点王たる資格を持つ者であり、凛々しく精悍な容姿もさることながら、民からもよく慕われ、羨望の的であるのだと聞いている。
ルミリア自身は一度お顔を拝見したことがあるが、とても愛情深く、包み込むような包容力のある方だと感じた。愛する恋人と共に歩める未来を得たシャルロットは本当に幸せ者だろう。
日々忙しくあちこちに赴くシャルロットとは対照的に、ルミリアが侍女として行う仕事は極端に少ない。
シャルロットが何か欲しいと言えばクリスタ王国の女官が揃えてしまうし、やることと言ったら着替えを手伝うことや細々とした頼まれ事をこなす位のものだろうか。
正直に言えば、する事が無いのだ。
時折シャルロットが気遣わしげな視線を送ってはくるものの、二人で気安く話す時間など皆無と言っても良い。
それ自体は然程問題ではないものの、何というかルミリア自身、エランドール侯爵令嬢として日々振舞いには細心の注意を払い、貴族間の陰湿な駆け引きに常に気を張っていた日常を過ごしていたルミリアにとって、衆目を集めていない今の状態というものはとても気楽で、些か気が抜けた状態なのだ。
シャルロットの侍女という言わば強大な後ろ盾を得た待遇というものは、ある程度ファミーユ公爵家に守られた、表に出ることのない日陰の存在である。常に人の視線や心象等に気を配っていたルミリアにとって、これは未知の体験とも言えた。
でも、何処か心地よいこの日常は、ルミリアの心身をも変貌させていた。
ここ最近、ずっと重苦しい憂鬱さが全身に行き渡っていた筈なのに、それらがすっかりと何処かへと消えている。自覚はあまり無かったものの、やはり心身共に疲労が蓄積していたらしい。今はとても、心が軽く、それに伴って身体まで軽く感じた。
ルミリアは本当に半年振りに、とても安らいだ日々を過ごしていた。
ここ一週間で随分と、シャルロット付きの女官や護衛騎士とは少し打ち解けたように思う。
皆、本当に気の良い方ばかりで、初日の警戒感が嘘のようでもある。この辺りの事情は、後にシャルロットに聞いたクリスタ王国のあまり口外したくはない内政事情によって判明した。
クリスタ王国は元々、王位争いが激しい国であったのだという。
何処の国にもある王族同士の争い、というものではなく、ルミリアが聞いた限りでも思わず顔を顰めたくなる程の多くの女官や騎士達をも巻き込んだ壮絶な状態だった。
先々代の頃までは血を分けた兄弟同士が血で血を洗う骨肉の争いがそこここで小競り合いを起こし、王位が定まるまでは王宮内は二分され、内紛状態であったのだという。これに巻き込まれた人間はたまったものではないが、王という位はそれ程までに魅力的なものだったのだろう。
いや、そもそも王に就くことこそが至上の栄光となっていたのかもしれない。
そういった争いに辟易していた先代は、弟の方が自ら臣下に下る事で国内での王位争いを避け、以後王弟殿下の家は忠臣となって王家を支える一柱となったという話は些か脚色された美談として広く平民にも伝わっている。
そうしたこともあってか、女官や護衛騎士は未来の王太子妃がクリスタ王国の王宮に入ることで何か争いが起きるのではと警戒していたのだという。シャルロットは他国の人間だ。これに乗じてファミーユ公爵家の名を騙って専横を行う者が現れるかもしれないという懸念があった。
とはいえ、その疑いも晴れたルミリアは王宮からの監視も薄れて、制限はあるもののある程度は自由に王宮を散策する権利を得た今日、ルミリアはシャルロットに一つのお願いをしていた。
「城下に降りたい、ということでしたわね、ルミリア」
「はい、シャルロット様」
鏡台の前で化粧を施されていたシャルロットがくるりと振り返り、ルミリアに尋ねる。その顔には微かな笑みが浮かんでいた。
「そうなのね」
「はい。もし宜しければ、レンドルフに帰る前にお土産の品等を幾つか購入しておきたいのです」
「お土産ねぇ…」
思案するように顎に手を当てたシャルロットは、直ぐに頷き了承した。
「なるほど…ええ、構いませんよ。今日は一日暇を出しますから、気を付けて行ってらっしゃい」
「ありがとうございます、シャルロット様」
笑顔で送り出してくれたシャルロットに辞意を伝えて出ると、ルミリアはシャルロットの護衛騎士に声を掛けて一度部屋に戻り、簡素なドレスに着替え、レンドルフから持ち込んだ財布をしっかりとポケットに仕舞い、王宮の玄関口である城門へと向かった。
王宮の出入りを管理するのは衛兵である。城門を守る衛兵に城下へ降りる理由等を伝えたルミリアは、巨大な城門を潜って何年か振りにクリスタ王国の王都に降り立った。
ああ、なんて懐かしい景色なのだろう。
王宮からは何処か作り物のように感じていた眼下を眺めると、一陣の風が僅かにドレスの裾を吹き上げる。ルミリアの後ろを多くの人々が去っていく。人の活気ある騒めきに胸が躍った。
心地よい春の気候はとても涼やかで、ルミリアはしっかりとした足取りで城下に広がる町へと足を踏み出した。
クリスタ王国の特産品は、何と言っても果物である。他国のそれよりも甘くジューシーな深い味わいに育てられるのは、クリスタ王国を置いて他には無いと言われている。
だがそれよりもクリスタ王国を語る上で欠かせないのが加工職人達だった。繊細な作業を必要とする宝石加工職人や、新しい工業製品を作る事に長けた職人など、手に職を持った確かな実績のある職人がクリスタ王国の王都に集まっていた。
数多居る職人達はその分野毎に独自の組合を作り、最終的には巨大な商会が組合を纏めている。商会は組合から集めた上納金で運営され、未来の職人達を養成する訓練校を開いていた。そこでは多くの徒弟達が名人と呼ばれる職人達の超絶技巧を学び、新しい分野を開拓する一つの組織ともなっていた。
そういう兼ね合いもあって、クリスタ王国の王都には多くの腕の良い職人達が開いた工房がある。今日、城下町に下りたのは、幾つかの工房で新しいランプや香油の精製をお願いすることが目的の一つだった。
幾つかの工房を見て回り、何品か見繕ってルミリアの代わりに王宮で仕事をしている侍女達用のお土産を購入した。大きいものは王宮へ届けて貰うよう手配して、セミオーダーが可能なものは軽く手を加えて貰う。
ルミリアは手に下げた布袋から、先ほど買ったばかりの肉まんを出そうとして、ぴたりとその動きを止めた。思わずきょろきょろと周りを見ると、何処からか悲鳴と共に喧騒が近付いてくる。
「おいっ、物取りだ! 誰かその男を捕まえてくれーっ!!」
怒号と共に飛び出してきたのは、黒髪の人相の悪い男だった。年の頃は中年といった所だろうか。人波を強引に掻き分けてこちらに向かってきているからか、そこここで悲鳴が上がっている。と、冷静に分析出来たのはそこまでだった。
男が懐に忍ばせたナイフを振りかざしてルミリアの目前まで迫っていた。けれど驚愕に目を見開いたまま、体を動かすことが出来ないルミリアはただ呆然と日に反射してきらりと鈍く光るナイフを目で追うことしか出来なかった。
怖いっ! もう、ダメだわ!
ぎゅっと目を瞑り、その衝撃に耐えようと身を固くした瞬間、何処かでガスッという鈍い音がしたかと思うと、次いで重たい何かが転がる音、そしてからりと乾いた金属音がした。
躊躇したのは一瞬だった。直ぐに目を押し開けると、いつの間にかルミリアを庇う様に一人の青年が背を向け、片足を上げたまま地面に転がった男を見下ろしていた。男の手から離れたナイフは既に遠ざけられていて、ぐるりと人々が男を中心とした青年、そしてルミリアの周りを囲んでいた。
あのナイフが、ルミリアの体を貫こうとしていたのだ。
ざっと顔から血の気が引き、ルミリアは我知らず震える体を止めることが出来なかった。
男の腹部には泥と砂がくっきりと残り、古めかしいローブを羽織った青年が男の横腹を蹴ってルミリアから遠ざけてくれたのだと知る。男は全力疾走後の腹部の蹴り、そして地面に転がった時の衝撃でだろうか、全身で息を吐いて獣のように爛々と光る眼を、青年、そしてその後ろに居るルミリアへと向けていた。それはまるで手負いの獣のようだった。
一瞬の隙を突いた男は真正面に居る青年ではなく、背後の人波を掻き分けようと立ち上がった。その瞬間、青年は手に持ったステッキで男の足を突き膝を折らせると、今度は地面に倒すように肩を蹴って地面に再度転がった男の腕を捻り上げた。
流れるような攻撃だった。俊敏に、的確に男を弱体化した青年は、漸くやって来た衛兵に男を引き渡し、野次馬から上がる歓声と、「兄ちゃん、やるなぁ!」と男を追いかけてきていた筋骨逞しい男にばんばんと背中を叩かれて迷惑そうに肩を揺らしていた。
いつの間にか、ルミリアの体の震えは止まっていた。無意識に固く握られた手のひらを解すと、引いていた血の気が戻り、手の感覚も戻ってきたようだ。何度か手のひらを開いては閉じ、その感覚を確かめる。
「ありがとよ!」と何度もお礼を言われつつ人波に紛れようとする青年を見て取り、ルミリアは漸くはっと我に返り、青年を追う。数歩走った所でルミリアは、はしたなくも青年のローブを掴んでその足を止めさせることに成功した。
「あの、先程は危ない所を救って下さり、誠にありがとうございます。貴方様がお助け下さらなければ、私は今頃、天に召されていた所です。お怪我はございませんでしたか?」
「…私なら心配は要らん。助けた事については、別に構わない。無事に済んで良かったな」
ぶっきらぼうにそう言った青年は、精悍な顔を緩めて僅かに微笑んだ。
それはとても、温かな微笑みだった。その微笑みに、未だ青年に注目していた女性達の頬が赤く染まった。微かに上がった悲鳴は、とても嬉々としたものま。
珍しい紫紺色の髪に榛色の目をした青年はそう言って直ぐに踵を返してしまう。古めかしいローブの裾は擦り切れ、砂に塗れている所を見ると、この青年は旅人か何かだろうか? さっきはステッキだと思っていたものも、東方にあるという棍という武器に近い様だった。
全身を覆うローブの上からは、その体型を覗き見る事は出来ないが、鍛えぬかれたしなやかな肉体を持っているだろうということは、先程の出来事から察せられた。もしかすると、東方に居るという武芸者なのかもしれない。既に先程用いた棍はローブの中に隠されてしまっていた。
「お待ち下さいませ、旅の御方。もしよろしければ、こちらをお持ち下さいませ。」
先ほど食べようとしていた肉まんを布袋ごと手渡したルミリアは、青年から僅かに距離を取った。それは青年がルミリアに返そうとするのを阻止するためでもあった。
青年は驚いたように布袋を揺らしてルミリアを見つめた。まだ温かいそれは、ほんのりとした熱さを青年の手に伝えているのだろう。慎重に布袋から取り出した肉まんを眺め、青年はルミリアに言った。
「だが、これは貴女の食べ物だろう」
「いいえ、少し軽めの昼食をと思い、散策中に買った軽食ですわ。元々何処かのお店で昼食をと思っていたのです。それでしたら旅の御邪魔にもなりませんでしょう。どうぞ、お持ち下さいませ。ほんの御礼でございますわ」
嘘は言っていない、本当に、落ち着いて食べる前にちょっとした空腹を満たすための軽食として買っただけだ。欲しければまた買えば良いだけのこと。何度も念押しして聞く青年に、ルミリアはしつこい位に繰り返し同じ言葉を返した。
「…本当に、良いのか?」
「ええ、構いません。本当にありがとうございました」
「なら、これは頂こう。では、私は行く」
「はい。お引き留めしてしまい、申し訳ございませんでした。道中お気を付けて」
「貴女もな」
ふっと微笑んだ青年は、下ろしていたフードを目深に被り、布袋を掲げて去って行った。その背には一片の躊躇もなく、青年の姿は直ぐに人混みに紛れて消えていった。
ルミリアはその背を奇妙な高揚感と共に見つめ、静かにその場を去った。
胸が、ぽかぽかと温かくて、心地良い。ルミリアの自然と微笑みながら町中を抜け、腰を落ち着けるべく大衆食堂を目指した。




