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 ―――私の婚約者には、想い人がいる。


 そう知ったのはおよそ半年程前のこと。

 常であれば婚約者が出席するパーティーには、必ず婚約者たるルミリアがパートナーとして出席していた。それは当然の如く日常と化していたのだ。けれどそれらも久しく遠退き、ルミリアから少し離れた場所で談笑する婚約者の傍らには、愛らしい少女が寄り添っていた。

 愛らしい少女に浮かぶ華やかな微笑みを眩しそうにに見つめる婚約者の姿は、このパーティーの中にあって非常に目立っていた。


「まぁ、あの方はどなたですの? ルミリア様を差し置いて、なんという……」

「殿下も隅に置けませんな。全く」

「良い気味ですわよ。たかが婚約者程度なのですし、」

「お可哀想だこと。お一人にされるだなんてねぇ」


 そこここで作られた小さなざわめきが、ゆっくりと大きくなっていく。聞く耳がもがれ落ちそうな程の悪意の詰まった囁きと侮蔑に辟易しつつ優雅な足取りで壁際に移動した。わざわざ聞かせているとしか思えない声量だけれど、婚約者と少女は周囲の変化に気付いた様子は無かった。

 そこまで言うのであれば、誰か仲睦まじい二人の間に割って入れば良いのだ。わざわざ邪魔などしないのだから。

 通り掛かったウェイターからシャンパングラスを受け取り僅かに口にすると、ルミリアはグラスを片手にただ静かにその光景を眺めていた。

 僅かに軋む胸の痛みには気付かない振りをして。


 ルミリア・エランドール。

 エランドール侯爵家の令嬢であり、レンドルフ王国王位継承権第一位にしてレンドルフ王国の第一王子、アレクサンドル・オル・シュナイゼル殿下の婚約者。

 それが私の現在の立ち位置だった。

 ―――そう、その筈だった。


 ああ、シャンデリアの明かりが眩しい。美しい音色と色とりどりの目にも鮮やかなドレスと光輝く宝飾品がダンスホールを彩る中、ルミリアの心は下降していく。その心とは裏腹に、輝く美貌を更にきらめかせた婚約者――アレクサンドル殿下は、美しい青の瞳を柔らかく蕩けさせて甘くきらきらしい雰囲気を周囲に振り撒いていた。

 ちらちらと遠巻きにルミリアの様子を伺う貴族の視線が今日はやけに突き刺さる。

 それもその筈だろう。

 ルミリアを差し置いて、普段であれば優雅な笑みの下で群がる女性達を冷ややかにあしらうアレクサンドル殿下が、珍しい事に見慣れぬ少女を伴って、愛しいという感情すらも周囲に隠すことなく曝け出しているのだから。


 周囲の、何処か嘲笑と憐憫が混じり合った囁きが広がるにつれ、下卑た好奇心を隠そうともしない者達に呆れはすれ、声を上げることは無い。心の中は居たたまれなさで一杯だ。

 けれどこの程度の視線や陰口で退出していては、殿下の婚約者は務まらない。

 今はまだ、ルミリアが婚約者だ。だからルミリアは、何が起こっても誰であれ付け入られる隙を作ってはならない。一人歩きするであろう醜聞に信憑性を持たせてはならない。常に余裕の態度で平静を装い、ゆったりと構える。それが殿下の婚約者として求められる最上の態度だった。

 ルミリアは柔らかな微笑みを浮かべて静かに壁の花となり、パーティーがお開きになるまで無言を貫いた。

 アレクサンドル殿下と少女は最後まで周囲の様子に気付く事も、そして同じ会場にルミリアが居ることにすら気付くことは無かった。


「ルミリア、昨日の話はどういうことだ? 殿下がお前以外のパートナーを連れてきていたと専らの噂になっている」

「ご心配をお掛けして申し訳ございません、お父様。殿下は社交界にデビューしたばかりの彼女をエスコートしたいと仰せでしたの。どうも以前、彼女と縁が合ったようで、昨日のパーティーでは自らパートナーとなって色々なご指導をなさったようなのです」

「それは誠か?」

「はい。私にも、パートナーについて一言仰せ下さいまして、勿体無いことに、申し訳ないと謝罪して頂きましたのよ」

「そうか…分かった。それならば良い」


 未だ納得し切れていないのだろう。訝しげに眉を寄せるお父様は、それでもこれ以上は不毛だと思ったのか早々に話を切り上げた。ルミリアはその様子に微笑んで頷き、何気ない仕草でティーカップを持ち上げた。

 平静を保つことなどお手のものだ。それは父であるお父様の前でも同じこと。今話したことは全て真っ赤な嘘、でたらめである。当たり前だ。もう半年以上も殿下とは親しくお話ししていないのだから、その真意を探ることすら出来てはいない。

 ただ、予想はもう付いている。お父様とてそれは存じているだろう。けれどそれを動かす術をルミリアは与えられていなかった。次期国王でもある王族の王子殿下という婚約者の前では、ルミリアはいち侯爵家の令嬢でしかないのだから。


 昨日の夜会以降も殿下からは何も言われてはいない。けれどここでそれを言えばどうなるのか位、赤子にも分かることだ。だから今は静かにお父様を欺く。そこに火種があったとしても、それを根本から消すことなど出来ない。せいぜいルミリアに出来るのは、火種が見えないようベールを被せることくらいだ。殿下の真意はどうであれ、ルミリアが婚約者である今は出来うる限りの火消しに回らなければならなかった。


 私室に戻ると、侍女を下がらせて鏡台の前に座った。

 緩く波打つ銀の髪は柔らかな光に輝き、けむるような長い睫毛の奥には美しいアメジストの瞳が輝いている。桜色の唇は柔らかそうで、線の細い華奢な体型は女性らしさを少しも失ってはいない。憂いを帯びた表情は艶めいていて、香しい色気に溢れている。けれど自身の顔を見慣れているルミリアにとっては、ただ冴えない表情をした自分の顔にしか見えず、そっとため息を吐いた。

 匂い立つような美しいルミリアの容姿と正反対なのが、あの子爵令嬢だ。庇護欲を掻き立てられる儚くも愛らしい容姿、小動物の如き幼さが見え隠れする柔らかな雰囲気は飢えた男達を惹き付ける魅力があった。

 コンコンという控えめなノックと共に入室したメイドがルミリアに恭しく手紙を手渡した。


「殿下より、お嬢様へのお手紙をお預かり致しております」

「そう、ありがとう」


 一礼して去っていくメイドと入れ替わるようにして入室したルミリア付きの侍女が部屋の隅に控えた。 

 封蝋のされた封筒をペーパーナイフで開いて中の手紙を読み進めていく内、自然と眉間の皺が寄っていくのを感じた。それくらい、何とも馬鹿馬鹿しく、かつルミリアを苛立たせるに足る内容だった。ここで叫びださなかったのは奇跡に近いが、荒れる心身を表すかのように両手に持った手紙の端はくしゃりと皺が寄っている。

 このタイミングで、これか。自然とため息が零れ落ちた。それでも動かねばどうにもならないだろう。

 頭の中でこれからの行動に向けて高速で算段を付けた後、ルミリアは静かに控えていた侍女に声を掛けた。


「直ぐに馬車を準備して頂戴」


 全く、なんてことなの。

 厳しい表情を浮かべるルミリアの様子に慌ただしく馬車を手配してくれた侍女に二、三言言伝し着替えを手伝って貰って急ぎ準備を整えた。

 急いで回して貰った馬車に乗り込み向かった先は、何度も足を運んだことのある王宮だった。





「本日はご足労頂き、感謝する」

「ご機嫌麗しく存じます、殿下。感謝だなどど仰らないで下さいませ。私は殿下の婚約者なのですから」


 ころころと微笑んで迎えられた中庭のお茶席には、アレクサンドル殿下とその隣でちょこんと座る愛らしい子爵令嬢の姿があった。人払いをしてあるためか、中庭に居るのはこの三人と、そこから少し離れた場所に護衛騎士が控えていた。

 臆した様子の無い子爵令嬢の姿に、ルミリアは内心嘆息する。

 アレクサンドル殿下という絶対的な味方が居るがための余裕なのか、はたまたこの滑稽な茶番を内心では楽しんでいるのか、さてどちらだろう?

 ルミリアはこれまで、この子爵令嬢と接触した事はない。だから子爵令嬢の本質がどのようなものか、到底推し量る事など出来なかった。

 ルミリアが子爵令嬢へ無造作に視線を向けると、子爵令嬢は慌てた様子で頭を下げ、「ごきげんよう」と会釈した。


「どうぞ、座ってくれ」


 アレクサンドル殿下に促されるまま席に座れば、タイミング良く給仕の侍女がルミリアへ紅茶を差し出した。その背の向こうで子爵令嬢の小動物のように慌てた様を微笑ましく見つめていたアレクサンドル殿下は、侍女が去ると同時に話を切り出した。


「実は、先触れに出した手紙のことなのだが…」


 ちらりと隣に座る子爵令嬢を見つめたアレクサンドル殿下は、ひたとルミリアに視線を定めた。その目には何か強い感情が浮かんでいる。ルミリアの前では王子らしい優雅で一線を引いた様子しか見せてこなかった殿下が、珍しい。本当に珍しい情熱的な感情をはっきりと滲ませていた。

 子爵令嬢に向ける感情がどのようなものであるか等、既に分かりきっていた事なのに。

 それなのに、こうしてその事実を目の当たりにすると、心の奥底に仕舞ってきた感情が、心が俄かに傷んだ。


「すまない、なんと言えば良いのか、私には分からないんだ。だから単刀直入に言わせて欲しい」


 そう言ったアレクサンドル殿下は、とても真剣で。王子という肩書をかなぐり捨てた一人の男が、そこにはあった。

 ああ、殿下は本当に変わられたのだ。この変化は、子爵令嬢がもたらしたものなのだろうか。

 だとするならば私は―――。


 すっと息を吸ったアレクサンドル殿下は、その一言を努めて淡々と述べた。


「ルミリア嬢、私はそなたとの婚約を解消したいと考えている」


 遂にこの日が来た。

 きゅっとドレスの裾を摘みながら、ルミリアは優雅に笑みを浮かべる。

 それはどうしようもなく、途方もない失望を呼ぶ言葉だった。自分の意思とは無関係に、頬が僅かに強張る。けれど意思の力で、荒れ狂う胸の内を抑え込んだ。それは長年ルミリアが培ってきた鋼の理性という経験値が感情に勝った瞬間でもある。

 ルミリアのその小さな変化に、アレクサンドル殿下は気付かない。何故ならアレクサンドル殿下の視界にはもう、ルミリアは入っては居ないのだから。


「それは何故、とお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「私は婚姻を結ぶのであれば、ここにいる彼女と結びたいと思っているのだ。そなたには、本当に申し訳ないと思っているが」

「まあ、そうなんですの」


 心にもないことを白々しく言うものだ。

 ルミリアはふっと息を吐いた。全く、申し訳ないと言う人の顔が笑んでいるなど、これほど滑稽なことは無いだろう。恐らくアレクサンドル殿下は自身が今どんな表情を浮かべているのかすら気付いてはいない。

 遠巻きに見ている侍女達が気遣わしい視線を向けている。それすらも、視界には入っていないということか。


「陛下はご存知ですの?」

「…いや、父上にはまだ申し上げてはいない。私の独断だ。けれどどうしても、彼女との婚姻をこそ私は望んでいる。私は愛する彼女と添い遂げたいのだ」

「そうですか」

「この後、私と彼女の二人で父上にご報告に上がろうと思っている。私が愛しているのは彼女一人なのだと」


 その情熱的な言葉に子爵令嬢が「殿下…」と感極まったように目を潤ませて二人で手を取り合う様を冷ややかに見つめ、ルミリアは温くなってしまった紅茶を飲み干した。

 こんなにも苦い紅茶を飲んだのは久方ぶりだ。

 二人の恋路を邪魔するつもりはないが、こんな茶番劇を見せられるのは苦痛だった。

 主に、ルミリアをまるで二人の恋を裂こうとする人間に仕立てあげられているという点において。

 …これまで、アレクサンドル殿下を愚かだと思った事は無い。でも、今ではそれが単に見えて居なかっただけなのだと分かる。

 人はこんなにも愚かになれるのだ。婚約者という障害があるのであれば、尚のこと。

 …人を馬鹿にするのもいい加減にして欲しい。

 ほんの僅かな怒りと失望が再燃する。


 障害であると断じられたのだ。ならば少し位、その役割を全うしてあげても良いのかもしれない。

 そんな思いがわいてきたからだろうか。ちょっとした意趣返しをしてやろうと思ったのは。


「ルミリア様、申し訳ございません。ですが私、殿下のことを心からお慕い申し上げているのです」


 きっぱりとそう告げて再び視線を殿下と絡ませて甘い雰囲気を出す子爵令嬢に、ルミリアは真正面から切り込んだ。


「所であなた様はどちらのご令嬢ですの? 私、あなたのお名前を存じませんの。以前何処かでお会いしまして?」

「えっ…」

「ご無礼をお許し下さいな。けれど私、ご挨拶も儘ならない方とは親しくお話しできませんの」

「ルミリア嬢、言葉が過ぎるぞ」

「非礼は謝罪致しますわ、殿下。けれど私、自己紹介もなさってはいないお方とはお話し出来ませんの。それがマナーなのではなくて? ああ、ご存じかとは思いますが、私はルミリア・エランドール。エランドール侯爵の娘ですわ」

「ルミリア嬢!」

「ごっ、ごめんなさい。ルミリア様。私はヒュメール子爵の娘、マリル・ヒュメールと申します。どうぞよろしくお願いいたします」

「ええ、こちらこそよろしくお願いいたしますわ。ヒュメール子爵令嬢。それと申し訳ございませんが、親しくない方をファーストネームで呼びのは控えた方が宜しいかと。それを不快と思われる方もいらっしゃいますからね」

「ルミリア嬢…!」

「もっ、申し訳ございません、ルミリアさ…あっ、エランドール侯爵令嬢」

「分かって頂ければそれで良いのです」


 顔を赤らめて今にも噛みつかんばかりに身を乗り出す殿下とは対照的に子爵令嬢の顔色は先ほどの愛らしい表情とは打って変わって真っ青になっている。しかし、これは決して子爵令嬢を蔑む意地悪などではない。貴族の令嬢であれば当然求められているマナーである。

 それすらも忘れてしまったかのように恋に溺れる殿下は、ルミリアを今や親の仇の如く睨んでいるのだから手に負えない。これが一国の王子だというのだから呆れたものである。


「ともかく、お話は伺いましたわ。後のご判断は陛下と父たるエランドール侯爵家当主の意向に委ねます。お話が以上であれば、私はこれで失礼させていただきますわ」


 それではご機嫌よう、と一切の反論を封じて優雅に一礼したルミリアは、唖然とした様子で硬直する二人を背に中庭を後にした。





 王宮内の地図は頭の中に入っている。なにせ幼い頃から婚約者という立場もあって頻繁に王宮へ遊びに来ていたルミリアにとって、ここは勝手知ったる第二の家のようなものだ。迷うことなく足を進めるルミリアは、少し先の曲がり角に寄りかかるようにしてこちらを見つめる人物を認めて息を詰めた。

 なんでこの方がここにいるのだろう?


「ドミトリアス殿下、」

「やあ、お久しぶりだね。エランドール侯爵令嬢」


 慌てることなく一礼したルミリアに、ドミトリアス殿下はふっと蠱惑的な笑みを浮かべた。

 ドミトリアス・フォン・シュナイゼル。レンドルフ王国王位継承権第二位にしてレンドルフ王国の第二王子。アレクサンドル殿下の爽やかな王子様然とした雰囲気とは違い、妖しさを秘めた男の色気に溢れたドミトリアス殿下は、ルミリアがアレクサンドル殿下と婚約をした後も親しくお話させて頂いている人でもある。

 アレクサンドル殿下とルミリアは三つ年が離れているが、ドミトリアス殿下とルミリアは同い年であり、不敬を承知で言えば幼馴染のようなものでもある。


「兄上との茶番は終わった?」

「茶番とは些かお言葉が過ぎるようですが、ええ、漸く一つの区切りがつきそうですわ」

「それは何より。まさか兄上が恋をしたというだけで、あのように使い物にならない愚者に成り果てるとは思わなかったよ」

「愚者でございますか、」

「そうだよ。ああ、ここ半年のことは君は知らないのだったね。それはもう、愚者と呼ぶに足る無様な様子だったよ。でも君が兄上の様子を知らなくて良かったよ。きっと絶望を感じてしまうからだろうからね」


 ルミリアを促して歩きながら話すドミトリアス殿下は何処か楽しそうだ。歩きながら話しているためか、ドミトリアス殿下が向かう先へと自然と誘導されているのを感じ、ルミリアは冷や汗を滲ませた。それをはっきりと表すかのように、視界の端に映る風景ががらりと変わっていく。

 これは不味い。


「ドミトリアス殿下、」

「ドリーだろう? ルミリア。ここには二人しかいないのだから」


 人気のないこの区画は、王宮の中でも王族と限られた高官しか足を踏み入れることの出来ない王族専用のプライベートな区画だ。その証拠に先ほど王族の私室を守る近衛騎士とすれ違った。ルミリアがこれを素通り出来たのは、ドミトリアス殿下と一緒に居たことが大きい。ああそれにしても、結局はここに連れて来られてしまった。

 焦るルミリアとは裏腹に、久しぶりに訪れた部屋の前でにこりと微笑むドミトリアス殿下は逃がさないとでも言うようにルミリアの手を取り、私室の中へと導いた。


「殿下…」

「さあ、お入り。まだ帰る必要はないだろう?」


 暗に、大騒ぎになっているだろう屋敷に帰れば今以上の喧騒の中に放り込まれるのは避けたいだろうという言葉に頷き、渋々ルミリアはドミトリアス殿下…ドリーの私室の一つへと入室した。





 屋敷に戻ったのは、それから二時間以上後のこと。馬車で乗り入れたエントランスには常であれば静かに迎え入れてくれる執事が冷静さを欠いた様子でルミリアを待ち構えていた。執事の後に続いてホールに入れば、慌てた様子で目に涙を浮かべたお母様が駆け寄ってくる。そのままの勢いでルミリアを一度ぎゅっと抱きしめたお母様は、震えた声でルミリアの頬を両手で包み込んだ。

 その温かな手にルミリアは緊張の糸を緩めた。


「ああっ、ルミリア。なんということなの! アレクサンドル殿下が貴女との婚約を破棄すると言ってきたのよ。同時に別の令嬢を婚約者として推すなんて…なんて惨いの!」

「お母様、落ち着いて下さいませ。私は良いのです。陛下は、それをご承認なさったのですか?」

「いいえ。今、緊急の議会を開いていらっしゃるとのことよ。お父様もそれに参加していらっしゃるの」

「そうですか…」


 ドリーとの会話を思い出しながら、ルミリアは視線を床に向けた。

 浮かんでくるのは、先程の情景だ。


『兄上はね、この国の要職にある辺境伯の令嬢に無礼な真似をするなと叱ったんだよ。しかもそれが、あの子爵令嬢殿が泣かされたというだけでね』

『泣かされたとはどういうことですの…?』

『それがねぇ、面白いことに辺境伯令嬢は、ただ子爵令嬢殿に苦言を呈しただけなんだよ。招待状もなく、主賓の令嬢に挨拶もなくパーティーにやってきたことに関して、せめて最低限の礼儀は整えるよう進言しただけさ。なのに兄上は子爵令嬢殿の囁いた訳もわからない話を鵜呑みにして上から叱った。その夜会だけではなく、別の夜会でも色々と騒ぎを起こしていてね。もう本当に王家の頭痛の種となってしまっているんだよ』

『そのような噂はお聞きしたことはございませんでしたが…』

『そうだろうね。そのような醜聞、外に漏らす筈がない』


 楽しそうに笑うドリーは、本当に明るい声で殿下を扱き下ろす。けれどそれも仕方のないことなのだろう。普段、滅多なことでは怒らず、波風を立てることのない飄々とした様子のドリーがこれほどまでに激怒しているのだ。恐らくはあの二人に何かしらの迷惑を掛けられたのだろうから。

 恐らく二人に悪意はない。けれどだからこそたちが悪いのだ。それを抑えられる人物が極端に少ないのだから。


『脳内お花畑状態の兄上には、皮肉すら通じないよ。なんだかもう、人格が丸ごと変わってしまったみたいにね』

『それで、苦言を批判だと感じて威嚇しているのですね』

『ふふっ、その通り。だからね、ルミリアはそのままで居て。陛下ももうこれ以上は見逃すつもりは無いみたいだからね。大丈夫。何があってもレンドルフ国は君の味方だからね。それだけは覚えておいて』


 何か確信を得たような含みのある笑みを浮かべたドリーの姿が何処かこれから先の未来を予感させて、ルミリアはただ深く頷くことしか出来なかった。



「――あ、……みあ。ルミリア? どうかしたの?」


 心配そうにルミリアを覗き込むお母様の姿にルミリアは瞬きしてはっと我に返った。


「いいえお母様。なんでもありませんわ。少し疲れてしまったみたい。部屋で休みますわね」

「顔色が悪いわ…ええ、それがいいわね。後で先生をお呼びするから、ゆっくり休んで頂戴」

「ありがとうございます、お母様」


 お母様の気遣わしげな視線を背に、ルミリアは私室へと向かった。

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