パラレルワールド 第1章
これは今までのシリーズと少し違った外伝というか、関わっているような別の話です。
第1章 RAIN
1
いつ頃からだろうか。夕日が沈んだ街の中に梅雨には早すぎる雨が急に降り始めた。それが何か特別な運命の暗示のように我神舜はお洒落なハシバミ色の傘を広げた。そして、右肩に座る妖精ソフィアに視線をやった。
彼はある特殊な能力を3つ持っていた。人の見えぬものと接する力、頭で思い込むことである物質の性質を変化させる能力(これは1つに対して1つしか使用できないが)、そして、もう1つは敏感な感知能力である。
容姿はどこにでもいる今時の若者で栗色の無造作ヘアに流行りのジャケットを見事に着こなしている。瞳は大きく黒めがちの睫毛の長い女性的なものであった。それが嫌でよくサングラスをしている。しかし、買い物だけの目的で外出していたので油断の為にそのサングラスはしていない。
「風の精霊だろう、この雨雲を流してくれないか?」
彼の頭上にいたある妖精は舜の言葉にそっぽを向いて足を組んで、1枚無縫の蒼い服を翻して長すぎる髪を掻き上げた。美しい表情の割に性格は自己中心的で極端な気分屋であった。彼女も彼が幼少の頃は少々の願いに応じて天気や風を操作してくれたが、最近はめっきり言うことをほとんど聞いてくれない。彼女の名前はソフィアと言った。
何故、いつも近くにくっついているのか不思議に思えることさえあった。
溜息をついた舜は諦めて、傘を首に挟みコンビニで買った食糧の入った重たいビニール袋を持ち直して家路を急いだ。高校は実家からかなり離れているために小さなアパートで一人暮らしをしているのだ。だから、夕食をコンビニで買うのは日課になっていた。
すると、山道の緩いカーブで少女が傘も射さずに屈んで俯いていた。それを哀れそうに見て舜は自分の傘を後ろからそっと彼女の肩に掛けて、下り道を下り家路を目指そうとした。しかし、心の奥の何かが引っかかり立ち止まると困惑の表情で振り返り彼女を見た。街頭のスポットライトに照らされているが、雨のために彼女の姿はよく見えない。幽霊にしてはリアル過ぎる。
『あんた、まぁた、変なこと考えているんじゃない?お人好しもいい加減にして放っておきなさいよ、関係ないじゃない。逆にあんたがトラブルに巻き込まれて痛い目に遭うわよ』
「でも、ほっとけないよ」
『あんな女の子が雨の夜道で屈んでいるなんてどう考えてもおかしいじゃない、何かあるわよ』
意を決したように自らに頷くと舜はソフィアの言葉を無視して彼女の元に戻って隣の濡れたアスファルトに座った。パンツまで染みてくる雨水も気にしないで、敢えて彼女を見ずに話しかけてみた。
「この雨もすぐに止むさ。下の川を見ていてごらん。細波が水面に綺麗な月を連れてきてくれるから」
彼らのいる歩道はカーブの膨らみでちょっとしたスペースになっていた。その目の前はガードレールの切れ間があり、下には鉛色に揺れている河川が見える。その先には繁華街が広がり、遠くに小さな傘達が色取り取りに咲き乱れている。
溜息をつき、額に手を当てたソフィアは頭をゆっくり横に振って諦めたように乱暴に手をさっと振った。すると、風が急に強く吹き始めて雨雲はさっと流れていき、宇宙が2人の頭上に広がった。川には少し欠けた月が揺れている。
彼女は驚いたように舜のことに顔を向けた。その頬には涙の跡があり、瞳は泣き明かしたように赤く少し腫れていた。濡れた肩より少し長い髪からほんのり未だ日本に入荷されていない最新の香水の香りが雨の臭いと相まって独特の臭いが鼻についた。
…しかし、明らかに彼女は少しあどけなく、それでも端麗な顔をしていた。愛らしい少女が何故こんなところで佇んでいたのだろうか。
『失恋よ』
彼女の肩からにょきっと新たな妖精が顔を出して鈴の音のような声を放った。そして、聞いてもいないのに話を始めた。彼女は自分の肩の妖精には気付いていないようであった。
『告って振られてどうしていいのか分からなくなって、こうしてイジけてもう5時間。5時間だよ。信じられる?いい加減にしてほしいわ。もう、この子に付いていくの疲れるから止めようかって思っていたところよ。中途半端に可愛くてスタイルいいし、普段、男どもからちやほやされているから、変な自信が付いちゃっていたのよ。これじゃプライドもぼろぼろね』
それを無視して舜は優しく彼女に声を掛けた。そして、ポケットの中のハンカチを取り出して彼女に渡した。先ほどの雨で少し湿ってはいたが。
「人は誰でもちょっとした奇蹟を起こせるのさ」
彼女はハンカチで顔を拭いて不思議そうにずぶ濡れの舜を見つめていた。
『こういう時の優しさには女の子はやっぱり弱いのよね』
すると、怪訝そうに舜は彼女の妖精を睨んで摘み上げた。彼女はびくっとしたが、黙って彼の不思議そうな行動を眺めていた。彼は彼女と反対の方向を向いて、妖精との話を見られないように肩越しで隠して会話を聞かれないようにやっと聞こえる言葉を妖精に向けた。
「もう、黙っていられない。君はこの子に世話になっているんだろう?少しは力になろうとか、慰めようとか思わないのか?こんな状況にまでこの子を追い込まれているのに自分のことしか考えないで。君達、妖精は本当によく分からないよ。それに、僕は邪な心で彼女を助けようとしたのでもないし、傷心の彼女を慰めて見返りを期待することさえしない。人のために何かをすることは、普通のことだし、見返りを期待することには罪悪感を感じて嫌悪すら感じるんだ」
よくは聞こえないが、舜の独り言やその仕草に少女は目を丸くした。
『分かったわよ。私が悪かった。あんたは悪い人間じゃないみたいだしね』
「君は人間の心を感じることができるようだね、好きなだけ僕の心を見るがいい。僕が嘘を付いている訳でもないし、邪な想いを持っていないことも分かるだろう。それが分かったら、彼女を助ける手助けをしてほしい」
『はいはい、…うーむ。貴方は結構心に重いもの背負っているのね。だから、本当の人の心の痛みも知っているし、優しさを抱いているのね。まぁいいわ。気に入った。それに、あの偏屈ソフィアがついているんだもん。相当のお人よし…いい人なんだろうし』
『誰が偏屈よ、シルト。ちょっとした気まぐれじゃない。茶目っ気があるって言ってよね。人聞きの悪い』
シルトと呼ばれた妖精は舜の指から開放されて上空に上がり、ソフィアと激しい口論になったがそれを空へ見送ると、舜は立ち上がってこれ以上ない微笑みを浮かべて手を差し伸べた。彼女は安心感を舜から受けてその手を掴み立ち上がって傘に彼に返した。その彼女の背の低さに舜は一瞬驚いた。170cmの背の彼の肩くらいにやっと頭の頂点がくる感じで意外に低かったのである。
「ごめんなさいこんなに雨に濡れちゃって、ありがとう」
「何があったかは聞かないし、何も詮索はしない。ただ、話をして気が晴れるのなら何でも言って。心に溜まった嫌なものを全て僕に持ってきちゃってすっきりしてもいいよ。さぁ、送るから行こう、風邪引かないうちにね」
無言の2人は微妙な距離のまま進んでいき、新興住宅地に入ってあるアパートまで着いた。そこで、彼はある感覚が全身を襲った。そう、第3の特殊能力、感知能力である。悪しき心の雰囲気が近くに存在する。しかも、彼女に感情のベクトルが向いている。
そこで、彼は壮大な推測が脳裏に繰り広げられた。彼は傘を丸めて閉じて紐で閉じた。それを右手に構えてアパートから1ブロック離れた曲がり角からアパートの入り口の方を盗み見た。そこには青い雨合羽を着て入り口の目の前の公園の塀に寄り掛かる謎の人物がいた。そこは街頭もアパートの入り口から漏れる明かりも届かぬ死角の位置であった。
舜は上に視線をやる。すると、シルトとの喧嘩にとっくに飽きて彼の上空にいたソフィアは彼の視線を一瞥して見下ろしている。
「あの人に見覚えは?」
すると、彼女は怯えるように震える唇でやっと説明をした。
「彼は同じ高校で、私は1組なんだけどあの人は3組なんです。でも、いつも付きまとって困っていたの」
舜は困った表情を見せて刹那躊躇したが、彼女のつぶらな瞳に見つめられると溜息をついて視線を雨合羽の彼に向けた。
「君が振られた理由は彼さ。君みたいに素敵な女性を振る男性がいる訳ないじゃないか。彼はストーカーで自分に邪魔と思われることを排除して、どんなことをしても目的を果たす心の病んだ人間だ」
それを聞くと彼女は信じられないかのように、舜を眺めて畏怖のあまり彼の服の裾を握って寄り添った。舜は彼女がくっついたことに照れるより、大事なジャケットが皺になると困ると思った。
「とにかく、部屋に入るまでに何されるか分からないから走っていこう。オートロックなんだろう?」
彼女は不安そうに頷くと不意に舜は彼女の綺麗で小さな手を力強く掴んだ。彼女は意外な行動に怯んで唖然としている。そんなこともお構いなしで彼は振り返って厳かに言った。
「行くよ」
彼は彼女を引っ張って全速力でアパートの方に走っていく。そして、入り口で暗証番号を彼女が押しているところで、雨合羽の男性が現れた。手には手提げ鞄を持ち、中からナイフを取り出した。
「お、お前は菊理ちゃんのな、何なんだよ」
どもりがちの割れた声を発した彼は、分厚い黒縁眼鏡に165cmほどの背丈に張り切れんばかりの体形をしている。汗が意も言われぬ悪臭を放ち舜も仕事を早く片付けることにした。
第2の能力、物の性質を変化させる力で傘を日本刀に変えた。見た目は変わらないが、同等の能力を持っている。彼は下品な笑い声を夜空に響かせた。シルトとソフィアは露骨に嫌な表情をして、彼に唾を吐きかけた。
「か、傘でナイフに叶うと思うのか?こ、これはアメリカのぜん、前線部隊の兵士も持っているさ、殺傷能力、使用性抜群のもの、ものなんだぜ」
その言葉を無視してまるで隙のない百戦錬磨の武士のように傘を中段の構えをした。それをアパートの前の歩道の並木の1本に素早く移動させてさっと2m飛翔して太い木の枝を切り落とした。飛翔したときだけ彼は一瞬、傘を元に戻して脚力を強化させたのだ。それは回転して彼のナイフを弾き鞄を貫いた。尻餅を付いて腰を抜かした男性は鞄から恐る恐る切られた木の枝を見た。切り跡は傘で叩いても到底そうはできないほど鋭く切り落とされていた。しかも、鋭く尖っていて竹槍の先を思い浮かばせる。
舜は並木の側に華麗に着地すると、木に向かって詫びの言葉を呟いて幹を撫でた。そして、真剣な表情で仰向けに倒れる彼に近付き傘の切っ先を彼の顔に向けた。
「金輪際、彼女、彼女の周りに迷惑をかけるな。彼女を愛しいと思うなら、自分が犠牲になっても彼女の幸せを願え。人の思いを感じろ。もし、彼女に少しでも迷惑、畏怖を与えるようなら今度は容赦をしない。この力を使えばどんなものでも別の能力を与えることができる。証拠なく人を殺すことさえ可能だ。傘を日本刀にしたり、ドアをカーテンにしたり、生きている人間を死人に変えることもできるし、遠隔操作も可能。授業中に死人に変わりたくないだろう。動く心臓を止まった心臓に変えられたくないだろう。外側は人間、中身は人形なんてことになりたくないだろう。僕を襲うことは不可能だ。感知の能力も持っている。だから、そこの死角に隠れていたことも分かっただろう。寝ていても同様だ」
そして、傘を彼の頭の右横に思い切り突き刺した。頬から軽く緋色の筋が流れる。アスファルトに刺さる傘を見て彼は舜の言葉が真実と本能で感じ取った。そうすると、泣き始めて恐怖のあまり尿を漏らしてしまった。それを見て傘を元に戻して空を見上げた。ソフィアは彼の視線の意図が分かり腕を思い切り振った。すると、小さな竜巻が発生して彼を巻き込み遠くに運んでいった。
「ありがとう、ソフィア」
『あんたのためじゃないよ。あいつが気に食わなかっただけ』
そう言って、彼の肩に降り立って座った。そして、地面に落ちた無残な夕飯の入ったビニール袋を見てくすっと笑った。
「彼女を救えたんだ。今夜の夕飯は諦めるさ」
そう言って、それをアパートのゴミ捨て場に放り投げた。すると、さも可笑しそうにソフィアが笑い出した。
『見た?あの豚男。お漏らししちゃって。あんたも脅し過ぎよぉ。その気もないのにあることないこと言っちゃって。例え、どんな人でも人を傷付けることができない癖に。でも、あんたの能力がばれたわよ』
「いいんだよ、あれで彼女が幸せになれば。それに言葉も最大の武器にもなるのさ。本当は嘘が大嫌いなんだけど、あの場合やむを得ないさ」
そのまま、帰ろうとした舜の腕を掴む者がいた。振り向くと彼女が震えながら助けを求める瞳を向けていた。先ほどのやりとりを見ていたのだろうか。しかし、舜を怖がってはいないようだ。
「怖いの、まだ行かないで欲しい。初めて会う人にこんなこと言うのはおかしいと思われるかもしれないけど、あんなことがあったし。それに私、一人暮らししてから自炊しているんで、料理には自信あるんです」
そして、ごみ置き場のビニール袋を見て、
「夕飯が駄目になっちゃったでしょ?私の作ったものを食べてって下さい」
最大の困惑の状態の舜はソフィアを見た。彼女は面白くなさそうにさっと飛び立つと何も言わず去っていった。ソフィアが消えるとシルトが舜の肩に降り立った。
『彼女の言葉に深い意味はないから大丈夫。彼女は純粋無垢だし、人を見る目は確かだから。ただし、振られたあの優男はどうかと思うけどね。さぁ、彼女の言葉に甘えなって。あれでかなり不安症なんだから』
舜は今日最大の溜め息を肺の中から全て吐き出して彼女を腕から外して無理に笑顔を作って頷いた。
2
心優しき者、心に大きく重いものを背負ったもの、純粋無垢で妖精が認めたものは3つの能力を与えられる。しかし、それは魂の力。その力を使うと魂の力、つまり、生命エネルギーを費やすことになるのだ。
もう1つ、この能力が能力者以外の者やある特定の人間以外にバレることは基本的に困ったことになるのだ。能力がなくなり、魂の力が半分も削られる。つまり、すでに能力で半分使用している者はその命を落とすことになる。これを回避する方法はあるが、基本的には気分屋の妖精の力が必要になる。彼女達の力には再生・維持・消滅の3つの力を基本的に持っている。その力は性質によって変わるが。(例えば、風の妖精ソフィアは、風関係の現象の発生、維持、消滅が可能)その力の中の消滅の力でその能力の秘密を知った者の記憶を消滅させればいいのだ。
ソフィアは竜巻で飛ばしたストーカー男を追いかけて、川の中で気絶している彼の額にまるで汚物を扱うように手のひらを翳して、古代ルーン語の呪文を囁いた。すると、彼は辛苦の表情でもがいたがすぐに悪夢の中で眠りについた。
『何で、私があんな奴の後始末をしなきゃならないのよ、まったく。まぁ、いいわ。おい、邪悪な人間。お前のあいつの能力の記憶は消滅した。でも、あの時、あいつに心に植え付けられた巨大な畏怖は残してあるから、もう、あの女の人間には手を出せないだろう。人間の記憶は心の奥までは消えることがないことのようにね。でも、風の消滅の力で『思い出す』という現象はけして起きることはないのよ』
そう言って1仕事終えると川のほとりで少し水に漬かりながら眠る彼を残して、飛び立ちながら皮肉の言葉を吐き捨てた。
『せいぜい、そんなところで眠っていて風邪を引くなよ。まぁ、風邪を拗らせて死のうが警察に連れて行かれようが私には関わりのないけどね』
そうして、帰ろうとすると彼女は奇妙な感覚、畏怖に近い感覚を捕らえた。星空の中で下を見下ろす。すると、ストーカーの中から黒い影がさっと飛び出し逃げるように川の中に潜り川底を遡っていった。
『まさか…』
とりあえず、その影を追ってソフィアは小さな川を遡った。彼女にはそれが、あの男性に悪事を働かせていた何者かに心当たりがあるようであった。
そんなことも知らずに、迦葉菊理に半ば強引に手を引かれてアパートに引き込まれた舜は中のエントランスの豪華さ、6階までの吹き抜けに目を奪われていた。そんなきょろきょろする彼を面白そうに見ながら3つも並ぶエレベーターの1つに乗って、ガラス張りの外の吹き抜けを眺めながら彼女は言った。
「貴方の名前は?」
ガラス張りに額を付けて吹き抜けやお洒落な照明、像や飾りに見取れていた舜は彼女に振り返り質問を訊き直した。彼女はその子供みたいな様子に微笑ましく思えて微笑んだ。
「え?」
彼女は今度はわざと優しくゆっくり発音をした。
「貴方の名前は?」
「その質問は自分の名前を名乗ってからじゃないかな?」
「ごめんね。私は迦葉菊理」
「僕は我神舜。…迦葉?すると、君はセブンメーシープロダクションの?珍しい苗字だから関係あるんじゃないかな。あそこの社長も迦葉って言ったっけ。何かの雑誌に載っていたよ。タレント事務所でしょ?」
「へぇ、我神君って意外にミーハーなのね。タレント雑誌見ているなんて」
すると、舜は不服そうな表情をして視線を地に落とした。
「そういう訳じゃない。ただ…」
『ただ、貴方の守護神、小龍子がそういう類の雑誌が好きでそういう話もするから、でしょ?』
頭の上であぐらを掻いているシルトがそう言った。そう、彼女は彼の飲み込んだ心の中の言葉を読んだのだ。
それを悔しそうに頷くとシルトはその頭の動きでそこから落ちて宙を飛んで彼の顔の目の前に来た。彼が心の声でシルトに尋ねた。
『どうして、能力者でない菊理に付いているのか?』
すると、エレベーターの扉が開いた。デジタルの表示は最上階の6を示していた。彼女が先に出るのを確認してから彼は囁いた。
「いい加減、人の心を読み続けるのは止めてくれ。プライバシーもない。まぁ、読まれて困ることはそこら辺の人間と違って僕にはないし、隠すことも嘘も嫌いだし、仕草で分かりやすいって言われるから読心の必要もそんなにないだろう」
『ええ、分かったわ。でも、私がその話をする前にここから出たら?』
シルトの扉通り扉が閉まりかけたが、すぐに慌てて閉まりかけた扉に体を無理に挟み込んで扉を開けてエレベーターホールに脱出できた。
「何をしているの?」
その光景が滑稽に見えて大笑いをした。彼は照れながら頭を掻くとシルトをわざと睨んでみせた。シルトは下を小さく出してウィンクをして見せた。そこの奥の角部屋に出る。部屋の前には柵があり、表札があった。小さな門と箱庭といった感じの外構をイメージしたのだろう。
そこを抜けるとカードキーで玄関のドアを開けて中に入る。その中は豪華な4LDKの最新式の居住空間であった。
「私はセブンメーシープロダクションの社長の3女なの。一応、そこのタレント登録をしてあるのよ、CMとかグラビアとかも出てるし、テレビでも少し出たのよ」
「へぇ」
まるで、彼女のことよりも部屋のインテリア、作りに興味があるように話を半分に聞いて部屋を見回した。女性の部屋に入るのは初めてだが、そんな思いを微塵も感じさせなかった。その作りプラン、骨董品の家具、飾り。彼が興味を示さざるを得ないものでいっぱいであった。キッチンなんて最新式のドイツ製で最近実力を出し始めた建築家のものである。
「さぁ、座って。アプリコットでいいでしょ?」
彼女に従ってイタリア製のダイニングセットに付くと、対面キッチンで楽しそうに鼻歌交じりでお茶の仕度をする彼女を不思議そうに見た。
「女性って気持ちの切り替えが早いね。もう、僕が帰っても大丈夫だろう」
テーブルの上に座るシルトに言うと彼女は人差し指を振った。
『ちっ、ちっ。女心が分かってないわねぇ。貴方がいるから安心なの。あんなに楽しそうなの』
「こんな僕が?初めて会ったばかりだし、碌に話もしていないし。よく分からないけど」
『まぁ、いいわ。どうして、彼女に私が付いているか、だったわね。彼女はすっごく孤独だったの。ずっと小さい頃からね。尤も、それでも貴方の抱える孤独に比べてば大したことじゃないかもしれないけど。それでも人間にとっては重度の孤独なんだから』
「それで、心の妖精、シルトがその心を慰めて応援してあげているという訳か。案外、優しいんだね」
『案外は余計。…まぁ、それだけじゃないんだけど。彼女には妖精の能力を受け継ぐ力を持っているのよ。その力がどんなものだか分からないけど』
「それでくっついているんだ。僕が確かめてあげるよ」
彼は彼女に視線をやりながら両手を軽く合わせて集中をして、感知能力を発揮させた。
『あんた、簡単に力を使い過ぎるけど、魂の力の無駄遣い止めたほうがいいわよ。早めに死にたいの?』
「許容量が大きいから大丈夫。心配してくれてありがとう」
『別にそんなんじゃないわよ』
彼は思わず笑った。それを憤慨してシルトは彼の左手を蹴った。
『何よ』
「いや、ごめんごめん。どんな妖精も素直で裏表ないから」
『人のこと言えないでしょ。他の人間がおかしいのよ。子供はともかく大人は裏表あり過ぎ』
「それも良し悪しなんだけどねぇ」
そして、舜は笑顔でアプリコットとクッキーを出した時に、舜が両手を軽く合わせて菊理を見つめているのに気付いた彼女は、頬を染めてすぐにキッチンの中に逃げ込み、夕食の支度に取り掛かったのを
「…確かに、その素質はあるね。心優しいし、心に大きく重いものを背負っているし、純粋無垢でもある。シルトも認めているし、どうして、能力が覚醒しないのかな」
『それより、貴方、結構周りの人の目を気にしない人でしょ。人の気持ちも気にした方がいいんじゃない?』
クッキーを頬張りながらシルトはそうそっけなく言った。
「鈍感な性質でね」
『まぁ、いいわ。で、どうしたらいいと思う?』
「そのままでいい。こんな危険な力、あってもいいことないから」
かなり珍しい形の最新オーディオから流れる今1番流行のバンドの曲で舜とシルトの話は彼女には気付かれていない。
夕食はかなり無理しているらしくやけに豪華であった。シルトはいつもとレパートリーが違うことを告げると彼は楽しそうにぷっと笑った。
「ねぇ、もう、教えてくれてもいいんじゃない?何か変」
「気にしないで。元々僕って変な奴だから」
そう言って、当たり障りない話で食事は楽しく進み(少なくとも菊理は)、舜はあっさり食事を胃袋に押し込むとさっと立ち上がった。
「もう少し、ゆっくりしていても…」
すると、彼は早く帰りたい気持ちを抑えて苦笑した。
「もう、十分長居したよ。それに大丈夫。もう、君に危険は起きないから。それじゃあ、ご馳走様」
会話もほとんど少ないままに彼は彼女のアパートを脱出した。出口に出るとシルトは言った。
『そうかもね。彼女はこのまま貴方みたいな力がない方が』
「いいや、近いうち彼女も覚醒する。その強いショックが必要でそれがすぐ側まできている。それが何なのかは分からないけど。シルト、悪いけど彼女にもう1度危機が訪れる。そしたら、すぐに僕を呼んでくれないか。いつも側にいる訳にもいかないし」
『それに、彼女の側に長くいることを避けている』
「まぁね」
『わかったわ。何かあったらすぐにね』
彼はそのまま走って帰っていった。菊理の部屋に傘を忘れていることにも気付かずに。
すると、強大で邪悪な『人』でも『妖精・神・霊』でもない何かが遠くで桁違いのオーラを放ったところを感じた。その近くにソフィアの雰囲気も感じる。
彼は川のある道まで戻るとその河原に下りた。そして遡っていくと、先ほどのストーカーが気絶している。それに手を翳す。息はあるようだ。このままにしていても命に別状はないだろう。しかし、水の掛からないところまで重い体重を引き摺ると橋の下に寝かせた。
―――彼から邪悪な先ほどの感覚を感じた。彼の愚行はそいつのせいなのか。ソフィアは自分の為にこの人の記憶を消して、脱出したそいつを追って川上に向かったんだ。ソフィアは危ない。
舜は川上に向かって河原を駆け始めた。すると、学校付近の川のカーブから鬼のような化け物が飛び出して校庭に飛び込んだ。舜は第2の能力により自分の肉体の性質を変化させて強化して校門を軽く飛び越えてそれの前に立ちはだかった。
大鬼の爪にはソフィアが引っ掛かっていて何か喚いている。こんなときでも負けん気の強い妖精である。舜は側に転がっていた野球部の忘れたバットを持ち剣のように構えた。
『お前は俺様が見えるのか?』
「その妖精を放せ」
大鬼は残忍に笑いソフィアを口の中に放り込もうとした刹那、目に見えぬ速さで舜はソフィアを左手で優しく包む込み、右手のバット太刀のように大鬼の首を切った。着地とともに大鬼は首を校庭に転がして残された体は砂埃とともに倒れた。
「大丈夫か?」
舜が左手を開きソフィアを見た。彼女はあぐらを掻いて後ろを向きながら小さく礼を言った。
『でも、首を切っただけじゃ、こいつらは死なないぞ』
「それを早く言えって」
突如、大鬼の体だけが立ち上がり拳を放った。それを避けて舜は一瞬で背後に回りバッドの太刀を放った。
と同時に舜は腹に強烈な蹴りをくらい5mは飛ばされて地に伏せた。
『不思議な人間と思ったが、守護妖精の能力を与えられた者か』
転がっている大鬼の首が舜の方を向いてそう呟いた。
『しかし、それが分かれば簡単だ。性質変化の能力は1つに1回のみだ。バッドを太刀にする力と肉体を強力にする力を交互に繰り返しているということは、太刀を振るっている瞬間は肉体は弱い人間のものという訳だからな。愚か者め』
苦しそうに舜は腹部を押さえて起き上がると、口元の血を拭ってやせ我慢をして微笑んだ。空ではソフィアが腕を組んで冷めた目で見下ろしている。まるで、舜が大鬼に勝って当たり前と言いたげである。
「ちょっと、油断しただけだよ。今度はこうはいかない。覚悟しろ」
再び、ふらつきながらも立ち上がると舜はバッドを構えて駆け出した。そして、大鬼の体の前で両腕の攻撃をかわしながらバッドを脇腹に振ろうとした。すると、また蹴りが舜の腹部を捕らえた。しかし、今度は鈍い音を立ててその太い足は折れてしまい、無様に倒れてしまった。舜の持つバッドも完全に折れ曲がっている。
「同じ手に何度も食うかって。蹴りをかわしてもよかったが、バッドを剣の振りにしてそのまま振って体を強化させたんだ。次で終わりだ」
そう言うと、舜は両手を校庭に付けた。すると、地面が徐々に沈み始めて大鬼の体も頭部もバッドも沈んでいき見えなくなった。安全を確認するとソフィアは彼の肩に降りて溜息をついて痛そうに左腕を擦った。
『もっと早く気付いて助けに来てよねぇ』
「はいはい。悪ぅございましたね。で、あれは何だったんだ?」
『その前に鬼をどうしたの?』
「マントルまで沈ませてドロドロに高熱で溶かしてやったよ。今頃、跡形もないはずだ」
『それなら安心ね。あれはあんたの言う通り、大鬼だよ。あの豚人間に取り付いてシルトといた人間に悪さをしていたのさ。あの鬼神の類は人間の悪い心に取り憑き邪心を開放するんだ。どっかに封印されていたのが復活したんでしょ。まぁ、いいわ。さぁ、帰りましょ』
ソフィアはまるで何もなかったかのようにそうあっさり言ってのけた。しかし、彼は浮かない顔をしていたが、力を使い過ぎたためにその場に倒れて気絶してしまった。家に帰ったのは午前2時であった。
3
舜は夢を見た。ある高い山頂で3人の人物の姿が見える。彼らは展望台に来ると中央付近にある社に視線を集める。刹那、強烈な雷が落ちて社が瓦礫と化した。すると、電撃のまだ走る瓦礫から大鬼が現れた。それは舜が校庭でやっと倒したものにそっくりであった。彼らの会話より、酒呑しゅてん童子どうじという鬼であることが分かった。彼らの1人に見覚えのある人物がいた。そう、舜の守護神、小龍子であった。彼らは異空間の扉を開き中に入っていった。残った人間は大鬼と戦うが普通の人間が敵うはずがなかった。よく見ると、人質の女性もいる。そして…。
そこで彼は眼が覚めた。どうしてあんな夢を見てしまったのだろうか。ただの夢に思えなかった。おそらく、無意識に感知能力を使用したのだろう。彼はこの特殊能力の許容量がこれまでにないくらい格段に大きいのだ。無意識でも使用してしまってもおかしくない。
『我を滅せよ。さすれば道は開かれん』
感知能力なのか、頭の中にそのようなバリトンの声が響いた。ベッドから起き上がると、地面に小龍子が転がっている。姿は小学生か中学生くらいの子供で、無縫白衣を着ているが背中に羽が畳んでいる。金色の髪から角が生えているのは、神でないのかもしれないと思わせる何かを感じた。
夜叉の類が仏教に取り入れられた際に神に変化したものであるのだろう。彼を起こさぬように机にある古い書物を開いた。これは我神家に代々伝わるもので目に見えぬもののことや眼に見えぬ力、能力について記述されていた。これにより、彼も守護妖精の能力を得たのだ。それによると、鬼神はかつてより存在し、不思議な力ある者により倒され続けてきたと記されている。勿論、あの鬼についても書かれていた。酒呑童子は首塚に祭られているとされている。
「違う、あの夢の中に出てきた山の社だ」
丁度、日曜で学校が休みともあって、彼は家を飛び出すと大通りで彼の行く手を阻んだ。シルトであった。
『大変なの、菊理がESスタジオでグラビア撮影だったんだけど、昨日の大雨の時に雷がある山に落ちて大鬼の封印されていた社が破壊されて出てきたの』
「酒呑童子でしょ。でも、彼がどうして彼女を狙うの?」
すると、手を顎に当てて考えながら言った。
『きっと、彼女が守護妖精の能力を受け継ぐ可能性があり、自分の敵になる、つまり、邪魔になる可能性があるから』
「そして、彼女は日本神話の菊理媛神が守護神だから、かな。謎が多いこの神は一説には『聞く』、『聞き入れる』という言葉が名の語源で、神霊の言葉を聞く巫女の力を司る女神とも言われている、だろう?」
『貴方の感知能力?でも、それも関係しているかもしれないわね。どちらにしても、早くして。あの鬼の気配はもう、ビルの入り口に近付いているの』
頷くと舜はシルトを優しく両手で包んで瞳を閉じた。そして、1秒後、菊理の撮影のあるESスタジオの廊下に佇んでいた。ゆっくりと彼は手を広げると、シルトは辺りを見回し唖然としていた。
『え、どういうこと?体を強化して走ったの?それにしては息が切れてないし、あの遠い場所からは速すぎる。それに足に手を触れてない。(彼がものの性質を変化させる能力を使うには手を触れる必要がある)もし、ここに普通に通ってきたなら、大鬼と擦れ違ったはずだしあいつが貴方を見逃すはずもないし』
シルトが眼をぱちくりしていると、舜はほほ笑んで言った。
「こいつの力だ。次元移動能力」
彼は振り返り背中にへばりついている小龍子を見せた。彼はキャップを被っているので普通の子供に見える。
「こいつは次元錠という中国の仙人の持つ道具を持っていて、1度行ったことのあるところへ異空間を通り一瞬に移動できるって前にこいつが言っていた。って、お前、ここに来たことあるのかぁ?何しに来たんだ…そんな場合じゃない。シルト、彼女はどこに?」
『こっちよ』
半ば舜の1人コントに呆れ顔をしながら、彼女はあるスタジオに向かって全速力で飛んだ。大鬼や小龍子、シルトは普通の人間には見えないからいいが、舜はそうはいかない。彼は第2の力で人から姿を見えない性質になった。
シルトが入ったスタジオに入る。菊理はスクリーンの前でポーズを取っていた。彼女とカメラマンの近くまで来ると、入り口の方を向いて酒呑童子を待ち構えた。すると、分厚いスタジオの扉がまるで粘土細工のそれのようにぐにゃりと曲がり、大鬼が入ってきた。普通の人にはドアが勝手に曲がったように見えてさぞ驚愕の光景だっただろう。…鬼が見えてないだけましかもしれない。
姿を消す能力を使用していると戦えないので、舜は一旦姿を見せる。周りのスタッフは目を丸くして彼を見た。菊理は何故か激しい鼓動を感じ、舜に駆け寄った。そして、腕に自然に抱き付くが彼女が水着姿ともあり舜は少し距離を取った。そして、不思議そうに舜を見つめる小龍子に言った。
「お前は彼女を守れ。今回ばかりは五分五分の戦いになりそうだ。シルト、彼女の心から畏怖を取ってトラウマを防いでくれ。心の妖精なら人の心のバリアくらいできるだろう」
『分かったわ』
『おし、おいらに任せろ』
彼は近くに武器になりそうなものがないか探したが、碌なものがなかった。彼は優越感に浸って笑みを込めて舜を見た。
舜はまず、脚力を強化して素早く酒呑童子の背後に回り、彼の足を触った。途端にその大足は床に接着してしまい動きを封じることに成功した。
『それがお前の戦い方か。下らん、実に下らん。愚かな。手で触るものの性質を変えるだと、俺には無意味な能力だ』
そういうと、床ごと足を上げて足を地面に叩き付けて足に付いた床材を粉々にした。次に拳が飛んできて舜は刹那、脚力を強化して高く飛び天井のライトにぶら下がった。しかし、拳から波動が放たれ彼が避けた後ろのスポットライトが吹き飛んで壁に激突して粉々になった。
『次は避けられるかな?』
意味ありげに大鬼は右足を後ろに蹴り上げて菊理に方向を付けた。舜は悔しそうにリノリウムの床に飛び降りて菊理の前に立ちはだかった。
すると、撮影監督が大声を上げた。
「誰だ、お前は。勝手に入ってきて撮影の邪魔して。この訳の分からない現象もお前のトリックだな。さっさと出て行け」
彼は激しい剣幕で物凄い勢いで迫ってくる。背中の菊理は小声で囁いた。
「どうしたの?我神君、こんなことするような人じゃないよね?」
しかし、冷や汗を流しながらこの危機的状況をどうしようか思案に暮れた。と同時に大鬼の拳の波動が放たれた。舜は咄嗟に全身を最大の魂の力で強化して両腕を顔の前に構えて彼女の盾になった。しかし、それでも彼は2mも吹き飛ばされて、菊理から反動を逸らそうとしたが彼女の体にぶつかりそれを庇って彼女の倒れる下敷きになって攻撃の力を防いだ。しかし、口から血が流れて腕が火傷状態で精神力も理力も尽きていた。
「我神君!何で…どうなってるの?どうしたの!大丈夫?」
気絶しそうな舜は何とか気力だけで起き上がり、酒呑童子を恨めしそうに睨み付けた。シルトも小龍子も困った顔で顔を見合わせていた。大鬼はゆっくり手の指を鳴らしながら迫ってくる。そして、瀕死で立ち上がろうとしている舜は大きく叫んだ。
「皆、早く逃げろ!殺されるぞ」
自分の能力がばれるのも省みずにそう叫んだ。すると、撮影スタッフは舜の瀕死の状態になるまでの光景を目前にして、驚愕の表情を見せて我先にとスタジオを飛び出していった。介抱する菊理だけが逃げずに舜を抱きかかえる。
「奴のターゲットは君なんだ。君が真っ先に逃げないでどうする?」
彼女はいつの間にか涙を流していた。そして、震える声で言った。
「つまり、我神君の前に目に見えない強い魔物がいて私を狙っているのね。それを何の関係もない貴方が命を賭けて助けてくれているんでしょ」
「大鬼だ。それも、とてつもない力で僕には荷が重過ぎる」
「私のせいで我神君が死に掛けている…、私のせいで。そんなの嫌!」
彼女はそう叫ぶと体からオーラが凄まじい勢いで放たれだして雰囲気ががらっと変わった。そして、確実に大鬼のいる方向に鋭利な視線を突き刺して仁王立ちをした。服装は動きやすいものなので、彼女の攻撃を阻むものはなかった。
『俺が見えるのか?』
「覚醒したのか。それでも、君じゃ勝てない。その力で逃げろ!僕がその間、時間稼ぎするから」
すると、竜巻が突如放たれて酒呑童子にぶつかった。しかし、それを片腕で払い除けた。その竜巻から激しい雷を受けるがそれも蚊に刺されるほどでもないらしく、視線を右斜め上空にやり拳を放った。そこにはソフィアがいた。紙一重でシルトが飛び込んでソフィアを助けた。そして、小龍子の後ろに隠れる。
『私達じゃ無理に決まっているじゃない。あの子だって瀕死なのよ』
『だからって何もしないなんて私にはできない。あんた、守護神なんでしょ?何とかしなさいよ』
ソフィアの声で小龍子はいつもの悪戯っ子の無邪気な子供の表情から真顔になって、拳を握り締めて舜の元に歩いていった。
菊理は手を舜の腕の上に優しく置くと、彼女の魂の力が彼に流れ込みダメージが回復し始めた。そして、彼女は初めての力を使い果たし気を失って倒れた。回復した舜は近付く鬼に向かって構えた。その間にシルトとソフィアは菊理をスタジオの一番端に引き擦り避難させた。憤怒の顔の小龍子と睨み付ける舜は酒呑童子と対峙した。
すると、鬼は両手を前に伸ばしてぎゅっと手を掴む仕草をした。すると、舜の手は後ろに回って固まってしまった。
『手が使えなければ、何の性質も変えられない。そのチビ天使は何ができるというのだ?』
すでに勝ち誇った表情に舜と小龍子は怯むことなく覇気をなくすことはなかった。この最悪の状況にシルトもソフィアも落胆の表情をして、唯一の望みの気絶している菊理を眺めた。
4
ここで普通の人なら菊理が菊理姫神が守護神なので助けに来ると想像するだろうが、彼女にはこのとき守護は存在していなかった。勿論、菊理姫神が守護神になるのはもっと先の話であるが、酒呑童子はすでに感知をして守護が付く前に倒してしまおうという魂胆であるのだ。
今の小龍子では、この強力な鬼神を倒すところか傷を付けることさえできないだろう。しかし、舜は不敵な笑みを浮かべている。そして、大鬼を睨みつけながら小龍子に言った。
「これが最後のチャンスだ。いいかい、5秒後に次元錠を使って奴の後ろに向かえ」
『いい考えが浮かんだんだな、おう、分かった。頼むぜ』
1,2,3…。5秒を待たずに酒呑童子が飛び掛った。完全に彼の間合いであったのだ。作戦を逃した小龍子は5秒を待たずに次元の扉を開いてこの空間から脱した。鬼は拳を両手が後ろ手に固められた舜に放った。今度は波動とともに拳が直に彼目掛けて迫った。その瞬間、大鬼の後ろに小龍子が現れた。彼は次元錠、つまり、次元の扉を開ける鍵を剣くらいの大きさまで巨大化させて敵の背後より振り下ろした。
舜が寸前で屈んでかわすのと同時に回し蹴りで後ろに眼があるように小龍子のもつ次元錠を蹴り飛ばした。その衝撃で彼は弾き飛ばされて床に叩き付けられて唸った。
次の瞬間、酒呑童子の様子ががらっと変わった。
『う、何も見えない!どういうことだ』
舜は立ち上がり優越的に言った。
「手に触れるものの質を変えることができる。勿論、空気も例外じゃない。この空気、空間の中ではお前の全ての感覚を麻痺させるように性質を変えた。敢えて、声を聞けるようにはしたがな。どこから聞こえてくるかさえ分からないだろう」
『ちきしょう!』
酒呑童子は眼の見えぬようにところ構わず拳の波動を放った。次第にスタジオが破壊されて、ガラスの破片が菊理のところまで飛んできた。
しかし、空気の性質を変えることで他のものの性質を変えることができないし、大鬼だけに感覚麻痺の効力を与えるのためにかなりの理力を使ってしまっている。
「そうだ、小龍子、お前が留めを刺せ」
舜はすでに起き上がり、次元錠を剣のようにして構える真顔の小龍子に叫んだ。彼はそれを振り上げながら闇雲に攻撃をする酒呑童子に駆け寄って、鍵を振り下ろした。しかし、大鬼の堅い皮膚に跳ね返されてしまった。一方、鬼の方は感覚を麻痺されているのでそれを感じることはなかった。否、感覚があったとしてもさほどダメージを受けてないだろう。何しろ、大きくしたところで『鍵』なのだから。
「おい、頭を使え!鍵で鬼の皮膚を貫けるか。次元の穴を開けてこの次元から追放するんだ」
すると、ぱちんと指を鳴らして頷くと小龍子は次元錠で酒呑童子の背後に大きな次元の穴を開けた。そして、1人で暴れていた大鬼に舜は渾身の体当たりを決めた。酒呑童子は叫び声を上げながら次元の穴に落ちていった。
そのまま次元の穴を閉じて小龍子と舜はこれまでにないくらい大きな溜息を深く吐いてその場に腰を下ろしてしまった。
そして、小龍子と背を合わせながら息を荒くする舜は素朴な疑問を彼に尋ねた。
「おい、あいつをどこにやったんだ?」
『おいらは次元錠で空間にある次元の歪みの扉を開けることしかできないんだ。だから、どこにつながっているかは分からないぞ』
「お前、次元の穴を通ってあいつの背後に回ったじゃないか」
『次元のトンネルから元の次元に戻ることはこの鍵でできるんだ』
「じゃあ、この次元に戻っているかもしれないのか?」
『んーにゃ、そりゃないぞ。次元の穴はまっすぐだ。おいらのように次元のトンネルの途中でこの鍵を使わない限り元の次元には戻れない。あいつは次元の狭間に閉じ込められたか、運良く別の次元に辿り着いているんじゃないか?』
「そうか、それを聞いて安心した」
そう言って彼は寝そべった。そして、遠くで壁に寄り掛かり気を失っていて、2人の妖精に介抱されている菊理を見て言った。
「彼女も能力が覚醒したし、今度、化け物が出ても少しは楽になるかもな」
『あいつの能力は何なんだ?舜の魂の力を回復させたみたいだけど』
「おう、1つはもちろん見えないものを見る能力。こいつがないと僕達は能力がある意味がない。次に魂の力の出し入れ。僕に魂の力を分けてくれたけど、逆に何かから力を吸い込むこともできる。最後は何かの時間を早めたり戻したりすることができる。この能力はかなりの力を使うために簡単に使えないがな」
『流石だな、舜の感知の能力。あいつの能力をもう把握したんか』
「まぁな、もう疲れた。僕は寝る」
彼は破壊されたスタジオの真ん中でリノリウムの冷たさを心地よく感じながら眠りに付いた。
5
彼は夢を見た。酒呑童子は片腕を失い、戦っている人間の男性に留めを刺そうとしたそのときに天から突然放たれたインドラの矢(雷)に打たれ社の瓦礫の中に埋もれていき、社は元の姿になって封印がされた。そして、天より降り立ったインドラはその瀕死の男性を抱き再び天へ上っていった。一緒にいた女性は泣きながらその場を去っていった。暗闇がその社の立つ山頂に静寂が訪れる。そこに切り落とされた酒呑童子の左腕が微妙に動き次の瞬間、次元の穴が開いてインドラに倒されたはずの酒呑童子が現れて次元の穴は消えた。その大鬼には左腕が付いている。
彼はゆっくり歩き回りを見回すと社に近付き波動を放ち破壊した。もう1人の大鬼は復活し、左手を拾ってくっつけた。彼ら鬼神は回復能力が極端に高かった。2人の大鬼はそっくり、同一人物である。見合いながら互いに手を触れると融合し、1人の大鬼に変化した。2倍の強さの強力な大鬼が誕生してしまったようだ…。
そこで、眼が覚めて嫌な後味を残しながらベッドから降りた。時計を見て慌てる舜はすぐに制服に着替えて準備すると、脚力を強化して凄まじいスピードで高校に向かって駆け出した。すでに、通学路には誰も登校しているものはいない。焦って明らかに人間の出せるスピードを超えて走り、(周りの通行人に彼の能力がばれないのが不思議なほどであるが)何とか学校に辿り着き席についた瞬間にチャイムが鳴った。
息を切らせていると、肩にソフィアが呆れた冷たい視線で見下ろしていた。
ホームルームが始まり、担任が入ってくると転校生を紹介した。彼は杵島きしま庚こうと言った。クールで容姿端麗で背が高く髪も長めであった。女性陣の視線を集める彼は冷たい視線を舜に刹那、一瞥して窓の外に視線を移した。それが舜には何か嫌な感じを受けた。
まるで、感情がないかのようで、誰に対しても感情を表に見せず、人を近づけず無表情であった。
廊下で回りに女性の視線を受けながら、窓の外を頬杖して眺めている庚を見つけた舜は何気なく彼の視線の先を探った。そこには妖魔の取り付いたドーベルマンに襲われている少年がいた。舜は憤怒の感情を押し殺して彼に近付く。
すると、庚は横目で舜を見て何もないように彼の凄い形相を流した。
「君にも見えるんだろう」
「ああ、お前も見えるということは妖精に能力を授かった者か」
「そんなことはどうでもいい。何故、助けようとしない?」
「そんなことをしたら、能力がばれるだろう。それに彼はこの学校ではかなり悪行を重ねている邪心の持ち主だ。奴に殺されたところでマイナスはないだろう」
「彼の死にだって、悲しむ者はいる。誰でも死んでいいなんてことはないんだ」
「君は甘いな」
「何故、君みたいな人が能力を手に入れられたのか不思議だ。もう、いい」
舜はトイレに飛び込むと4階の窓から外に飛び降りた。そして、校舎裏に逃げ込んで倉庫に逃げ場を阻まれた少年は妖魔と同化した犬に対峙しているところだった。舜は自分の腕力の性質を強化させて犬に飛び掛り軽く押さえ込んだ。
「さぁ、早く逃げて!」
いつも弱い少年達を苛めている少年も頷いて青い顔で走り去っていった。すると、犬から抜け出した妖魔は2本足で立つリザードマンであった。いわゆるトカゲ人間というところだろうか。犬は逃げ出していくのが背後に見えた。気付くと校舎の裏だというのに、4階の窓から庚が冷たい瞳で見ている。
空中にいるソフィアに舜は叫んだ。
「こいつは一体何なんだ?」
彼女は安全圏まで降りてくると舜に声を投げた。
『そいつはトカゲの妖魔みたいね。どこからか召喚された使い魔よ』
倉庫の扉を開けるとバスケットボールを取り出して、ある性質に変化させて妖魔に投げた。リザードマンは長い舌を出して、近くの木の枝に絡み付けて上空に逃げてその枝に飛び乗った。バスケットボールは妖魔から外れるとピタッと止まり、木の上の妖魔を追い出した。
「それは誘導ミサイルだ。逃げても無駄だよ」
微妙な笑みを浮かべた妖魔は木から飛び降りて駆け出した。そこでソフィアが竜巻を発生させて空中に上げて動きを止めた。そこにバスケットボールが勢いよく飛び込み大爆発をして妖魔は粉々になった。
「サンキュー、ソフィア」
『単なる気まぐれよ』
他の人にはつむじ風が発生して、バスケットボールが遠くから飛んできて爆発したように見えたはずだ。遠距離操作していたので舜の仕業と思うものはいないだろう。庚を除いては。すると、その庚が校庭に出ていた。そして、舜に冷静に冷たく囁いた。
「守護妖精の力を借りないとあの程度の妖魔すら倒せないとはな」
まるで馬鹿にするようにそう言って去っていった。彼は舜のことを毛嫌いしているようだ。ソフィアは庚に向かって舌を出して舜の頭に乗った。
授業のために教室に戻ると、彼に奇妙なことが起こった。言語障害を起こしたのかと勘違いしそうなほどである。皆の話す言葉が今まで聞いたことのない外国語のように聞こえるのだ。すぐに舜は庚を見た。斜め右の席の彼は半分こっちを見て意味ありげに微笑んでいる。感知能力を使用すると舜は拳を強く握り振るわせた。
彼の能力は、見えないものを見たり感じたりする力。言語能力を操作する力、そして、波動を放つ力である。そう、これは彼の能力の悪戯なのだ。
化学の講師は話す。
「エル クルエウス ベル ベントハウル。エト ケウエル ビン トウ、…アガミ」
講師が何か授業で舜に質問を投げ掛けたようだった。普通の言葉で話しても、講師には外国語に聞こえてしまうだろう。そこである閃きを思いついた。
彼は空気の性質を変えて庚に使用された能力の言葉を普通の日本語に、日本語をその言葉に変換するようにした。そして、難を逃れたが何故彼が舜を眼の敵にするのか不思議である。
昼に屋上でパンを齧る庚に舜は近付いた。そして、無表情で沈黙を保ちながら隣に座った。自分の弁当をさっと平らげると片付けて横目で彼を見る。片膝を立ててそこに肘を乗せてコッペパンを齧っている。
そこにある女性達がやってきた。その中に見慣れた少女がいた。
「あ、菊理さん。何故、ここに。それにそれって変装になってないよ」
彼女は舜の高校の制服にポニーテール。伊達眼鏡を掛けているが明らかに菊理である。
「分かっちゃった?やっぱり、私のオーラは隠せなかったかぁ」
「はいはい」
すると、彼女達は隣の庚を見て眼の色を変えた。すると、初めて彼は立ち上がり紳士的に自己紹介をした。
「私達、隣の女子高から来たんだけど、菊理が言っていたのはこの人ね」
「違う違う。こっちの人」
「えー、菊理って趣味悪ーい」
彼女は取り巻きの友達に舜を差すと一斉にブーイングが発生した。流石に舜は不服そうに後ろを向き、フェンスの外を眺めた。
「皆、そんな態度はよくないよ」
誰とも接しない庚がそう言った。きっと、何かあるのかもしれない。舜は慎重に彼の行動に注意をした。
「我神君もそんなに拗ねないで」
彼の言葉と態度の変化にかちんと来ながら振り返り、そのまま立ち去ろうとした。菊理はばつが悪そうにもじもじしている。そこで庚の隣をすれ違う際に彼は自分に軽く波動を放ち床に伏せた。
舜は咄嗟に彼が何をしたいのかを把握して彼から距離を取った。すると、彼女達は倒れて唸っている庚を介抱して舜に鋭い視線を放っている。菊理はどうしていいのか分からず戸惑っている。シルトが彼女の胸ポケットから出てきてそっと耳打ちした。
『あの格好いい人間、邪悪な心を持っているわよ。しかも、妖精の能力者で自分で波動を放って倒れたの。何故か舜に恨みを持ち、陥れようとしている。気をつけて。って、何故、彼を馬鹿友達に紹介しに来たのよ?その所為で、彼が窮地に陥っているんだから』
彼女の友人達は舜を非難し始める。そこで舜はある感覚を感じて上空を見た。なんと、ドラゴンが天より下りてきた。勿論、庚と舜、そして菊理以外ドラゴンが見えるものはいない。すっかり悪者になってしまった舜は彼女達を逃がして強力そうなドラゴンを倒すか思案に暮れた。すると、ソフィアが天に舞い上がり雨雲を呼び寄せて屋上に雨を降らせてくれた。菊理の友人達は半ば庚を引っ張っていくようにペントハウスの中に逃げていった。無言のまま残った2人はドラゴンを見上げる。舜は脚力を強化してドラゴンに向かって勢いよく飛翔して回し蹴りを食らわせた。しかし、ドラゴンの皮膚には全く無意味だった。
「そいつはリザード系じゃないわ、最悪にもエイシェントドラゴンよ。どう足掻いても叶う相手じゃなわ。神格の最高の神であれば何とかなるんだけど」
そこで、屋上に降りた舜は指笛を吹いた。すると、小龍子が翼を羽ばたかせてやってきた。そして、学校の屋上の状況を見ると唖然とした。
「僕の感知能力では、お前の前世は大天使だったはずだ。それも能力は神格の高い神レベルのね」
そして、菊理を見た。
「君は何かの時間の流れを操る能力があるだろう」
そう言った途端に上空から炎のブレスが舜に向かって吐かれた。舜は炎の性質を普通の空気にした。すると、物凄い風が襲ってきて地面に叩きつけられた。ドラゴンは屋上に降りるとゆっくり3人に迫って歩いてくる。
菊理は困難でかなりの力を要する時間移行の能力を小龍子に向かって両手を翳して放った。すると、小龍子は少年の姿から青年の姿に成長して、額の角は少し伸びて翼が広がる。サンダルが編みブーツになり金の髪は肩より下に伸びた。手には光の槍を発して端麗な青年はドラゴンに向かって光の槍を回して光の円盤に変えた。それを放つとドラゴンの皮膚を切ることができた。それがかなりの威力だということは全員理解できた。右前足と尻尾を失ったドラゴンは雷のような咆哮を上げた。そして、より強力な炎のブレスを放った。菊理の力はそこで尽きた。小龍子は元の力の弱い子供の姿になった。それを見るや否や舜は2人の前に出て自分の体をありったけの力を使って強化して盾にした。炎を体全身に受けて舜は2人を護り切った。しかし、そこで力尽きて地面に伏せてしまった。
「我神君!」
菊理は駆け寄ると彼を抱き上げた。そして、力を注ぎ込むが先ほど小龍子に使った力のせいであまり多くの理力を与えることができなかった。意識を取り戻した舜はふらふらのまま立ち上がり、振り返って笑った。
「僕に任せて。こいつは意地でも倒すから」
「もう、無理よ。私達にはあれを倒す力は残ってないわ。それに我神君はもう、戦う力が残ってないじゃない」
「能力の力は魂の力だよ。僕は今生きている、能力を使用する力が残っているってことだろう?」
「それは生命維持のための最小限の力じゃない」
「構わないさ、それで君達が護れるのならば」
泣き出す菊理を残して無理やり走り出してドラゴンに舜は飛び込んだ。そして、最後の力、自分の体を強力な爆弾の性質にする力を使った。ドラゴンは危機を察し残った3本足で立ち上がり大きな翼を羽ばたかせて飛び上がった。上空まで行かれると爆弾の意味がない。全ての魂の力を手の中の空気に込めて強力な直径30cmの球形爆弾の性質に変えて、その空気を放った。凄まじい勢いで球体の空気はドラゴンにぶつかり大爆発をした。爆風で傷だらけになって、屋上を転がり舜は全ての力を使い果たして地に伏せ動かなくなった。
ドラゴンは木っ端微塵になっていた。舜に駆け寄る小龍子、ソフィア、シルト、そして菊理はすぐに状況を見た。すると、シルトは悲しそうに首を横に振った。ソフィアは空高く飛び泣いているところを誰にも見られないようにしていた。
小龍子は駄々っ子のように号泣して舜に縋り付く。信じられない表情の菊理は眠るように横たわる舜に膝枕をして力を注ぎ込んだ。自分の魂の力が尽きるまで。そこで、シルトはしゃくりながら言った。
『無駄よ。魂の力が0の人間にいくら理力を注ぎ込んだところで無意味なの』
彼女は諦めて彼の胸に顔を埋めて号泣をした。雨が何故かその時止んで日の光が徐々に見え始めた。
その時、天よりある女性の女神が降臨してきた。そう、彼女は菊理の守護神、菊理姫神である。彼女は舜の側に佇むと菊理に言った。
『貴方には時間移行の能力があるでしょ。力を回復させてから彼に時間逆行の能力を使ってみなさい』
…その手があったか。
全員が眼を丸くしてそう思った。
『ただし、これ1回限りですよ。人の死を操作することは全ての宇宙の摂理に反することです。次はこの世界が混沌に巻き込まれ、何が起こるか分かりません。パラドックスが起こるはずです。今は、神である私が降臨したことで運命の、エネルギーの均衡が崩れています。だから、パラドックスが最も起こりにくくなっています。さぁ、早く』
菊理は第3の能力で理力を回復させると、舜の体に触れて彼の時間を遡らせ始めた。すると、彼の怪我が減っていき、魂の力が増え始めた。そして、ドラゴンと戦う前の姿に変化した。
そして、女神は彼に手のひらを向けた。すると、光の粉が彼に舞い体が光り始めた。彼女は不思議そうに神の行動を見ていた。すると、横目で彼女を見て女神は口を開いた。
『これは別名、奇跡の粉と呼ばれるものの一種です。ヴィシュヌ様の力が込められたもので、状態の維持の効力を持っています。今の貴方の力は一時的なものでしょ。貴方が能力を解除するか、能力の発揮が尽きた時にまた彼は死へと逆戻りしてしまうじゃないですか。それを防ぐために妖精に受けた能力を解除してもその状態が維持できるようにこうして奇跡の粉を掛けてあげたのです。これもこの1回だけですよ。これからは人間の死を覆すことはありえません』
そう言い残して彼女の守護ということを伝えて姿を消した。と、同時に舜は覚醒して辺りを見渡した。
「よかったぁ」
菊理は泣きながら彼にすがりついたので、舜は仰け反り困惑の表情を見せた。彼は目の前が半分下が真っ白で頭がぼうっとしていて、今まで永い眠りについていたような気分であった。いわゆる脳震盪と同様な症状で平衡感覚は保つことができなかった。
彼が正気になって、大体の状況を想像できると菊理に礼を言って次の行動を考えた。どう考えても庚は自分を殺したいほど恨んでいるのが分かっている。さっきのドラゴンの召喚も彼の仕業に違いない。次元移行の能力、しかもあれほどの強力な魔物を召喚するのはかなりの力である。普通の人間の力では不可能である。
次元移行能力で思い付くのは小龍子の次元錠、つまり、仙術である。そのような能力を施行できるのは、『神』に類するものでしかないのだ。庚の守護神がドラゴンを呼び寄せたのではないか、また、彼の守護はかなりの力を持っているのではないかということが推測できた。
かなり、厄介なことである。確実に次は殺されるだろう。(実際、先ほどの戦いで命を1回落としているのだが)
今度は菊理の力でも蘇生は不可能である。庚が邪悪な心を持っていなければ、殺されても構わないが、と一瞬舜はそう思ったが口にはしなかった。ペントハウスに入り下階に下りると菊理の友人達と庚が楽しそうに話をしていた。しかし、舜の階段を下りてくる姿を見て(しかも、傷さえない元気な姿であるので)庚は刹那驚愕の表情をしたのを舜と菊理は見逃さなかった。
庚は舜とどう接すればいいのか動揺を見せているのを見て舜は菊理と顔を見合わせた。すると、彼女の友人達はすぐに口を開いて騒ぎ始めた。
「菊理、目が赤いじゃない。泣いたの?ねぇ、あんた、何を菊理にしたのよ」
一斉に抗議を食らい舜は面食らって言葉を発することができなかった。すると、菊理が適当に言い訳をして必死で彼を庇うと彼女達は腑に落ちない表情で頷いて舜を一斉に睨んだ。
菊理が友人達を連れて帰ると庚は冷ややかな目つきで舜に声を掛けた。
「よくこうして生きていられたな。しかも、その様子だとあのエイシェントドラゴンも倒したのか。弱小な精霊に選ばれし者にしては上出来だ」
しかし、舜はその皮肉に屈することなく鋭い視線を突き立てた。そして、視線を窓の外の空を舞うソフィアに向けた。彼女はやれやれといった感じで窓からやってくると舜の肩で戦闘体制に入った。
「ここで、しかもそのふらふらの姿でこの俺と戦おうというのか」
「お前は一体何者なんだ?何故、僕を狙う?」
彼は不敵な微笑みを浮かべる。
「簡単なことだ。俺は妖精の力を受け継ぐ者ではない。俺の近くに妖精がいないのはそのためだ。純粋無垢という愚かしく残酷な精神状態でないと妖精は力を貸さんからなぁ。もう1つ、お前を狙うのはお前が邪魔だからだ。他の能力者ならこの俺に叶うものはいないが、お前は違う」
それだけを言うとその場から去っていった。力尽きてその場に膝を突いて蹲った。これ以上の攻撃があった場合は本当に万事休すである。それにしても庚が言った言葉にはどんな意味が込められているのだろうか。他の妖精の力を受け継ぐ者と違う彼に秘められた大きな力とは何だろうか。
それを覚醒できれば庚を凌ぐことができるはずだ。そのまま舜はその場に倒れて気絶をしてしまった。
6
何日かが過ぎた。庚が攻撃してくることはなかったが、彼の評判は地に落ちていた。それでも舜はよかった。自分以外の人間が傷つくくらいなら自分が傷つく方が幾分ましだったからだ。
ある晴れた日に放課後、舜はあれ以来、全く意思の疎通さえしてなかった菊理のライブに行ってみることにしていた。
『どういう風の吹き回しなの?あの子のライブに行くなんて』
「さぁな。何となく雑誌のライブ情報で目に入ってさ。どういうライブかなって思っただけさ」
『そう、でも気をつけるのね。最近はあいつも手を出してこないけど、あんたを狙っているんだから。あの子をまた巻き添えにしないようにしなきゃ』
半分、皮肉でそうソフィアが言うと舜は足を止めた。駅に続く大通りで人並みに漂い続ける。
「…行かない方がいいのかもな」
そう呟き引き返そうとしたが、ふと気になった。酒呑童子は彼女を狙った。庚がドラゴンで攻撃してきたとき、否、唯一、舜に攻撃をしてきた時も彼女がいた。もっと言えば、ストーカーに憑依していた大鬼すらも彼女を狙っていた。全ての敵が菊理をターゲットにしていた。今、思えばおかしいことばかりだ。庚の言葉の『お前が邪魔だからだ』という意味。何の邪魔なのか。菊・理・の・命・を・狙う・・のに・・邪魔・・、という意味ではないだろうか。そして、長い間、舜に攻撃を加える素振りを見せることもなかった。
急に彼女が心配になり舜はライブ会場に急ぐことにした。何故か胸騒ぎがする。きっと、今日、全ての決着がつくであろう。電車に乗っている間も移り行く景色に胸を逸らせていた。
ライブ会場は満員であった。物凄い活気で自分が場違いの空間にいるのを肌で感じ取っていた。やがて、辺りが暗くなりスポットライトが舞台を照らして菊理が似つかわしくない衣装で登場した。舜は警戒心を極限まで高める。知覚能力では悪しき強力な気配は感じることはできない。しかし、油断をすることはできなかった。
ライブは大盛り上がりで何1つ問題なく1時間半が過ぎていた。MCの時間になり、彼女が話をしている間に舜は立ち上がり席を離れた。そして、通路に下りると関係者以外立ち入り禁止のドアを通った。姿を能力で消しているので誰も彼を気付くことはなかった。
『どうしたのよ?どこに行く気?』
「舞台の袖だ」
ソフィアにも冷たく当たる舜は何も感知できていなかったが、勘を感じているようであった。もしも、感知能力に引っ掛からないステルス能力があるとしたら…。そう、庚が舜に自分の能力を誤解させるように知覚させたのではないか。彼は妖精の能力を受け継ぐ者ではないはずなのに、3つの能力を感知できたのだから。だとしたら、彼はステルス能力を持っていてもおかしくない。そして、菊理をターゲットにしているとしたら。
舞台の袖で彼は姿を現すと自分の瞼に指を乗せて目にある性質変化を行った。そして、ゆっくり目を開くと目の前には菊理と暗黒空間、そして、奇妙な姿の生物らしきものが存在していた。それは鋭い爪を振り上げて今にも菊理に襲い掛かろうとしていた。
刹那、舜は空気の塊を波動にして放った。それは化け物に当たってそれは舞台に転がり回った。その姿は西洋の悪魔のそれである。彼女はそれに気付かずに楽しげに観客に話を続けている。舜は体を強化して舞台の上に出ることを躊躇い始めた。その化け物が立ち上がり自分の姿を見える舜に面食らっていた。
しかし、すぐに挑発するように視線を彼に向けて爪を彼女の首筋に向けて、長い舌を垂らして醜く微笑んで見せた。舜は一瞬の内にそれの背後に回り、体を羽交い絞めにして彼女からできるだけ離れた。
客席からわっとざわめきが起こるが菊理はそれを一瞥し、瞬時に全てを把握した。そして、フォローをするために大きく叫んだ。
「今日は私の親友が応援にきてくれました。これはちょっとしたパフォーマンスです」
さらに客席は騒がしくなる。舜は化け物を引き摺りながら舞台から離れてそれに能力を使った。禍々しいその体はみるみる石に変わっていった。石像に変わってもそれはテレパシーで舜の頭の中に語り始める。
「何故、俺が分かった?」
「簡単。推理したんだ。今までの攻撃は彼女に向けられたこと。今日のライブが最大のチャンスということ。…お前、庚だろう」
石像は徐々に姿を庚のものに変化していった。庚の姿の石像はなおも舜に語り続ける。
「お前、結構、利口だったんだな。流石に油断したぜ。そうさ、俺は人間じゃない、暗黒の存在だ。お前が自分の目にしたように見えないもの全てを見るようにしてやっと分かる存在。…しかし、その目を変化させたままじゃ、肉体強化は使えないはずだろう?」
「それがお前の弱点なのさ。僕は君が攻撃してこない間、何もしていなかった訳じゃないんだよ。複数の能力を交互に短いスパンで出せるように訓練していたんだ。目の変化と体の変化を凄まじい速さで交互に発揮していたんだ。今度はこっちの質問の番だ。君は一体何者なんだ?何故、彼女を狙う?」
すると、石像は本物のそれになったかのように沈黙してしまった。そこにシルトが現れて舜の頭に座ると自信満々に説明を始めた。
『彼の心を読んだわ。そいつは上界の者よ。死を司る存在。彼女が存在していることでこの世はある運命を反らされる。それを防ぐために運命の神から命を受けてやって来たそうよ』
「やはり、お前が邪魔だという考えは正しかったな。もっと早くお前を倒しておけばよかったんだ」
沈黙を破り死神はそう呟いた。舜は拳を強化させて口を開いた。
「お前は召喚するものは限りなく強いが、自分自身はたいして力がないな」
「それはそうさ。俺は指令塔なんだ」
「最後は自分の手で、と思ったのが運の尽きだな。それじゃあ、またな」
鋼の拳を振り上げて舜は石像に放った。それは大きな音を立てて粉々に砕け散っていった。舜は大部分の魂の力を使い果たしてその場に倒れた。今まで使った能力は確実に彼の魂の力を削っていっていたのだ。シルトは慌てて舞台でMCから歌に入った菊理を呼びにいった。
誰もいなくなった控え室で倒れる舜の顔の前に座ってソフィアは憂いの表情を浮かべた。
『何が自分自身が弱い、よ。あの死神はそれなりの力があったわ。貴方が自分の命も顧みずに最大の力を発揮してそんな強力なあいつを押さえ込んでいたんでしょ。目の変化、石像の変化、肉体の変化。それに加えてあいつの未知の力を押さえ込む結界の力に、複数の能力が使えるようにする能力。貴方は交互に瞬時に複数の力を発揮しているといったけど、そんなことできる訳ないでしょ。あの悪魔に押さえ込む力を一瞬でも解いたら貴方は勿論、私達やあの子も殺されていたでしょうね』
気付くとソフィアは涙を流していた。菊理とシルトは急いで駆け寄る。そして、ソフィアが泣いているのを見て唖然として視線を舜に向けた。彼女は鼓動を今までにないくらい激しく鳴らして彼の側に屈んで手を彼の額に当てた。
「私はもう貴方を救う力はないのよ。…死んじゃ駄目だよ。私を守るために命を捨てるなんて。こんな私なんかのために」
彼女は拳を固めて涙を流した。それは舜の頬に零れて伝っていった。舞台の方からは突然、歌の最中に消えた菊理を呼ぶ声が響いていた。
それから半年が経過した。
菊理は能力を強化していき、同時に芸能界の成功を着実に積み重ねていった。あのライブのときにソフィアが舜を風に乗せて運んでいって以来、その後、彼はどうなったか知ることはなかった。そして、それから全てを忘れるようにがむしゃらに仕事をがんばってきていたのだ。
気付くと舜と初めて会ったあの蛇行した道路に来ていた。優しく郷愁に浸りながらガードレールを撫でて、ゆっくりと屈み込んでそのまま一気に悲哀が心に溢れ出して号泣を始めた。
すぐに雨がぽつりぽつり降り始める。気付くと夕日は沈んで暗闇が彼女の周りを包んでいた。すると、背後から傘が菊理の頭上に掛かった。目を見開いて振り向くとそこには舜の姿があった。
「ど、どうして?」
彼はあの時のように隣に座ると遠い目をして口を開いた。
「あの時に僕は魂の力を全て放ってあの死神を倒すことができたんだ。その後、ソフィアが僕の体を上界に連れて行き上界の者の手によって魂の力を少し回復させてもらったんだ。2度目の復活だね」
「よかったぁ」
彼女は舜に飛び付き今までの思いを晴らすように泣き続けた。舜は残り少ない命を噛み締めながらこれからどう進んでいくかを脳裏に浮かべながら頭上のソフィアに視線を向けた。彼女は天を仰ぎながら雨に濡れていた。
完
懐かしいです。
今まで生ける人形シリーズを書いてきて、この話を突然執筆し始めたのを覚えています。
安心して読めると思います。
2人のやりとりを楽しんで下さい。