一番ホームの無い駅にて
首都近郊には小さな旅をしたくなる鉄道路線が幾つかあるが、その一つが横須賀線である。その中でも、横須賀駅には、不思議な空気感が漂います。大船を過ぎてからの車窓の変化を確かめながら、小さな旅を楽しむ参考になれば嬉しいことです。
横須賀線の電車に乗って半島へと向かうと、大船駅を過ぎた辺りから景色は一変して行く。それまで車窓から見えていた都会的な街並みは消え、風景は一気に深い緑に包まれ、まもなく北鎌倉駅へと電車が滑りこむとそこは古都の佇まいとなる。
電車が更に先へと進むと、トンネルが幾重にも続き、一つのトンネルを抜ける度にローカル色は深まって行く。田浦駅へと到着すればそこにはまさに寂しさが漂っていて、ホーム両側はトンネルに挟まれて短く、一部ドアの開かない車両も有り、いよいよ田舎の山奥へと迷い込んでしまったのかと不安を覚えてしまう程だ。
「おかしいな?。確か海へと近づいている筈なのに、何でだろう……」
そう感じつつ次のトンネルを抜けると、ようやく左の車窓からチラリと海が見え、更に先のトンネルを過ぎると、いきなり視界が開け港が見えてくる。異次元の空間に連れて来られた気分の中で、まもなく電車は横須賀駅へと到着するのである。
この「横須賀駅」は、実に不思議な感ある駅だ。まず、横須賀線は海近く走る路線であるのに海に面するのはここが唯一であり、駅は港の岸壁から僅か数メートルに位置する。
また、一島式のホームの高さが周囲の道路とほぼ同じため、入り口から改札を抜け電車に乗るまでの間一切階段が無い。
更にもっと不可解な事は、この駅には「1番線」がないのである。
内陸側にあるのが「3番線」で、こちらにはこの先の単線区間を進み衣笠・久里浜へと向かう下り電車と、そちらから来る上り電車が交互に発着するので、出発のベルが鳴っているからといってもむやみやたらに飛び乗るのは危ないもので、しっかりと行く先を確認する必要がある。
そして、海側にある「2番線」には車両止めがありこの先には進めないので、東京方面からの終着電車はここから折り返して、上り電車となる。
視線を更に海側に移してみるが、そこにあるべき「1番線」は見当たらない。名残のように片隅に古いトイレがあるだけで、その先は自衛隊基地の岸壁が迫るだけなのである。
この駅に一番線の無い本当の理由を僕は知らない。だが、そこには深く悲しい物語が潜んでいる気がしてならないのである。
元々横須賀線は、戦時下の時代に軍事目的で敷かれた路線である。沿線の駅は、かっての弾薬倉庫や積出港、兵士宿舎等の軍事施設のあった場所である。
この横須賀駅も、明治の時代に、この近くに造船の為の近代的製鉄所が築かれ、その後周囲に海軍施設が造られて軍港として発展した場所であり、かの昭和の大戦末期には、学徒出陣で兵隊へと駆り出された大勢の学生たちが、戦場への片道航路となる船に乗ったのがまさにこの駅からだった。学生達は、都心から電車で運ばれこの駅に到着すると、海側へと降ろされ、そのまま目の前に接岸された軍艦に乗り戦場へと向かった。そして殆んどの者は、二度と戻って来る事は無かった。その悲しい歴史の舞台こそが「幻の一番ホーム」であった気がしてならない。その後、一番ホームは終戦と伴に役目を終え、霧のように消えていったのだろうと……。
そんな想いを抱きながら改札を出て港へと進んだ。自衛隊の基地へと続く狭い道を横切ればそこがもう横須賀港である。岸壁沿いは、「ヴェルニー公園」として整備され、入口脇にはかって造船に使われた「スチームハンマー」の展示館がある。その製鉄技術を伝えたフランス人技師の名前が、「ヴェルニー」である。公園はヨーロッパ庭園風に整備され、程良く手入れされたバラの花々が年に2回色彩りどりに咲き乱れる。
公園へと入り岸壁沿いの遊歩道を歩いてみる。湾の左手にはイージス艦が接岸し、正面には、今やアメリカ海軍のベースキャンプとなった広大な異国の敷地にドッグが並ぶ。その手前の水面には、海上自衛隊所属の潜水艦が並んで浮かぶ。その右手のかって造船所があった場所には、今は巨大なショッピングセンターが聳え建っている。
僕は、湾内を見渡せるベンチへと座り暫くじっと海を見つめてみた。すると突然、潜水艦の上に並び立つ水兵が一斉に笑顔で手を振り始めた。「まさか僕に?」とも思えたが、どうやら桟橋を出発した軍港巡りの観光船へのものであった。その光景が妙に滑稽に見え、「日本は平和なんだな」とひとり呟いた。
僕はベンチを立ち上がり、駅へと戻ってゆく。その道すがら、視線の先の艦船の甲板上を動き回る白い制服の隊員達が見えた。すると、歩いて行く僕の視界を遮るように目前を海からの風が吹き抜けて、潮の香りが辺りに舞った。その風に乗って、古えの時代の学生達の歓声が聴こえた様な気がした。
僕は駅の構内に戻り、フラットなホームを歩いて進んで行く。停車していた2番線の始発電車に僕が乗り込むとまもなくゆっくりと発車した。電車は徐々に加速し、トンネルの中へと吸い込まれていく。僕は空いている座席に座り窓の外をただぼんやりと眺めた。僕は乗っているこの車両と伴に、トンネルを抜ける度に異次元の世界から再び時空間を超えて、束の間の夢の世界から現実の世界へと引き戻されていく気分を味わっていた。
横須賀線に乗って出掛けてみたくなりましたか?。たとえささやかなお出かけでも、きっとあなたはエキゾチックな体験が出来ると思います。
そして、僕とは違う体験を是非ともお話しして下さいね。それではまた