02 花霞
そしてさらに季節は巡り、年が幾度か移り変わり――。
嵩緒の郷に、今年も花祭の季節がやってきた。
郷に薄紅の花弁が溢れる中、少女が駆ける。
新緑の野山に緋色の袖をはためかせ、長く伸びた髪をなびかせて、わき目も振らずに駆けていく。
その足は止まるところを知らず、さながらその姿は耀う花告げの乙女のようだった。
「綾乃さま、お待ちください! 明日の宴でのお召物を合わせるからと、奥方様がお呼びでございます。遠乗りから帰った後には、すぐ会いに向かわれると約束したではございませんか」
「ごめんなさい、ちょっと待っていて。すぐに行くから」
困った表情で嗜める侍女にそう叫びながら、綾乃は一本の節くれた古木を前にして足を止めた。
幹に添えた手に力をこめ、地に沿う枝に足をかける。
木にもそれぞれ、登りやすい足掛けというものがある。この木の登り方は、一番自分がよく分かっているはずだ。昔から、この季節になると毎年登ってきたのだから。
登りきった先で、幹に沿って天を見上げれば――そこには、視界いっぱいに淡い紅が広がっていた。
古木の幹から伸びる枝々、そこから吹き出る柔らかな新芽と淡い紅色の花。その向こうには霞がかった晴れ空がどこまでもつづいている。
毎年目にする、見慣れた景色。けれどそれは何度見ても色褪せることがない。
綾乃はその色彩に見惚れ、しばし息を忘れた。
花祭間近にこの木に登るのは、綾乃にとってもはや恒例だ。昔はよく柴太郎と登ったものだったが、最近は専ら一人であることが多くなった。
近頃とんと大人ぶっている幼馴染の顔を思い出しながら、綾乃は一人ため息をつく。柴太郎は変わってしまった。どうと聞かれても具体的に答えることはできないけれど。
綾乃のことばかり追い回して泣いていた頃の柴太郎をぼんやりと思い出して、懐かしくなる。
自分よりもひ弱だと思っていた柴太郎は、ここ数年でぐんと強くなった。自分が願ったはずのことなのに、少し寂しく感じてしまうのは何故だろう。
大木の上で物思いに耽り、どれほど時間が経ったのか。ざっと吹き抜けた風に花びらが舞った。
視界を覆うようにせまる薄紅に、綾乃はとっさに幹から手を離して目をかばう。
あっと思ったのもつかの間、平衡を崩し、そのまま世界は反転した。
足元から力が抜け、胃の腑が持ち上がる違和感に襲われる。体が宙に浮いたのも一瞬、急速に地面へと吸い寄せられた。
――落ちる。
打ち付けられる痛みを覚悟して、身を固くして目を閉じる。
しかし覚悟した痛みは襲ってこなかった。知らず、背にまわされた腕で抱き上げられる。
「怪我はない?」
「……柴太郎」
それはよく知った少年の声だった。ゆっくりと目を開ければ、淡い色合いの瞳がこちらを見つめている。
大丈夫、とこくりと頷き、地面に下ろしてもらった。足をつけてみると、綾乃の背丈は柴太郎の目の高さにも及んでいないことに気づく。
いつの間にこんなに大きくなったのだろう。いつも見ていたはずの肩が、実際に触れると思っていたよりも大きかった。
「ありがとう、柴太郎。おかげで助かったわ」
綾乃が見上げてそういうと、柴太郎は無言で綾乃を凝視していた。
なんだか様子がおかしい。もう一度小さく柴太郎? と呼んでみると、我に返ったように目を瞬かせた。
「どうしたの、ぼんやりして」
「いや……。というか、どうしたのはこっちの台詞だよ。あんなところで何をしていたの」
「ちょっと懐かしくなっちゃって。花祭が近くなると、柴太郎と一緒によく木登りしていたでしょう。そのことを思い出して、また登ってみたくなったの」
「それはまだ小さかった頃の話だろう? きみは自分が今いくつだと思ってるの。枝が折れなかっただけ運が良かったけれど」
朝、一緒に遠乗りに行ったばかりなのにまだ動き足りないのか、と柴太郎はため息をつく。
そんな余裕を滲ませる態度が、いまの綾乃にとっては無性に癇にさわった。
昔は何もが同じだった、いやむしろ綾乃より柴太郎の方が気が弱く大人しかった。それが今では体格も力も柴太郎の方が上である。そればかりではなく、彼は当たり前のように物事をこなして、当たり前のように人の中心にいる。
自分の努力は空回りするばかりだというのに。全く、いまのこの境遇の違いは何なのか。
胸に黒い靄が立ち込めるような居心地の悪さを覚え、綾乃はそれを振り払うように強い口調で言った。
「柴太郎、時間があるのなら一本つきあって」
聞きなれた言葉のはずだ。ここしばらくはご無沙汰だったが、昔は遊びがてらよく打ち合いをしたものだ。
だが今この場で言われるとは思っていなかったのだろう、柴太郎は驚いて軽く目を見開いた。
ややあってため息を落とすと、庭で待っていて、と言い置いて背を向けた。
「袴に着替えていて。木刀を探してくる」
◇◇◇
袴を穿き、言われたとおりに庭に下りて待っていると、戻ってきた柴太郎が一振りの木刀を手渡してきた。
枇杷でできた木刀だ。木目がいい塩梅に入り乱れていて、重さも申し分ない。
真剣を模した形稽古用とはいえ、一歩間違えれば一撃で骨を折りかねない。綾乃は一つ息を吸うと、目を閉じてゆっくりと吐いた。
武具を手にしたとき特有の緊張が漂う中、綾乃は口を開く。
「柴太郎と打ち合うのは、随分と久々ね」
「そうだね。綾乃との稽古はもしかして数年ぶりかもしれない」
「柴太郎が元立ちでいい?」
「おれはどちらでもいいよ」
間合いを取って向き合い、腰を落として礼をする。立ち上がると、木刀をたてて構えを取り、足をすっと滑り込ませて相手の呼吸を読んだ。
張り詰めた空気を肌で感じながら、柴太郎が切先をやや右に開いたのを見計らって、右足を一歩踏み出しながら大きく振りかぶり正面に打ち込む。
知らない間に大きくなっていた柴太郎の肩を思った。
女の身ではああはなれない。膂力も機敏さも歴然たる差があるはずだ。そして今、数歩の間を取って刀を構える姿も、過去の記憶とは重ならない。
流れるように掛かりあう中で、打ち込んだ次を思う。次の形は、どうだったか。
この間に形を間違えなかったのは幸いだ。邪念が多すぎる。
そこまで考えて、受け流す柴太郎の木刀の筋が乱れていることに気がついた。
(柴太郎も集中力を欠いている?)
出ばな技になったところで、打ち込もうとしてくる柴太郎の刀が、使い手の迷いを表すようにぶれる。形通りに起こり頭を捉え、右足を一歩踏み出しながら鋭く右小手を打った綾乃だったが、柴太郎の受ける刀が一瞬遅れ、その軌道のまま刀が弾き飛ばされた。
――二人の視線が交差する。
「……ごめん」
口を開いたのは柴太郎だった。
まだ稽古は終わっていない。刀を収めるか、もしくはその場を退くまでが稽古のうちだ。
けれどその手に刀を持たない者がいた。柴太郎だ。
「ごめん、綾乃」
「なぜ謝るの。身が入っていないままわたしと稽古をしたから?」
噛み合う木刀を押し返してくる力が弱いことも、打ち合っていくごとに気づいていた。
刀を手にしているときは、それが木だろうが真剣と同じだ。そうでなければ稽古の意味がない。
手加減するなど、ましてや身の入らないまま打ち合うなど、相手を侮辱したも同じである。
柴太郎は弾き飛ばされた木刀をぼうと見つめ、ゆっくりとした動作でそれを拾い上げた。
「おれはもう、綾乃と打ち合えないよ」
視線を落としてそう告げ、次いで綾乃が握っていた柄を取り上げる。
突然のことに、力を抜いていた綾乃はあっさりと木刀を取られてしまった。
「ちょっと!」
「綾乃はいい加減、剣術だけでなく、武芸の真似事なんてやめるべきだと思う」
「なんで。なんで柴太郎がそんなこと言うのよ」
「綾乃の自由を奪いたいわけではないけれど。……でも、綾乃と打ち合いはもうしない」
感情を伴わない声でそれだけ言い残して、柴太郎は背を向ける。
いくら名を呼ぼうと、もうその背中が振り返ることはなかった。