01 嵩緒の子ら
嵩緒は古い郷である。
その昔、国を整える際に国造を課せられた狭川の一族が治めるその地は、時を経て周囲が目まぐるしく移り変わる今も尚、まだ郷守りとして狭川の名が記されている。
そこは花の芽吹く季節になれば、郷中のいたるところに鮮やかな花が咲き乱れるという美しい郷だ。
季節は巡り、風も温く優しく頬を撫でていくようになって蕾が綻びはじめた今、人々は皆花祭の訪れに浮き足立っている。
だというのに、いまいちそれに乗り切れていない少女が一人。……否、加えて少年ももう一人。
「綾乃、ねえ綾乃ったら! そんなところに登ったら危ないよ、はやく下りないと」
「大丈夫よ。ここからだと鍛錬の様子がよく見えるんだもの。柴太郎は本当、臆病なんだから」
慣れ親しんだように大木をするすると登っていく綾乃と、それを心配そうに見つめて懸命に諭そうとする柴太郎。この一場面だけでも、彼等の性格や関係性が見えてこようものだ。
普段は着飾るのがめっぽう嫌いな綾乃だが、年に一度のこの日だけは藤芽に言われるがまま、されるがままなのだ。けれど、新しく誂えた艶のある鮮やかな朱の衣を身にまとい、飾り紐で髪を綺麗に結ったというのにそれも台無しである。着崩れたそれを登りきった木の上で直しながら、綾乃は感嘆の声を上げた。
「わあ、遠くまで見渡せる。勝彦兄さまの姿も見えるわよ、柴太郎も登ってきたら?」
「屋敷から手甲も持ってきていないのに、そんなこと出来ないよ」
「まったく、意気地なしなんだから。これで狭川の血を継いでいるなんて、誰も信じないわ」
ぷい、と頬を膨らませて目を逸らすその顔ときたら、元来の愛らしさが台無しである。
彼女の本領はと言えば包み隠さず感情を表に出すことにあるので、仕方ないと言えばそうなのかも知れなかった。
柴太郎だって何度もその裏表の無い性分に救われてきたのだが、今回はそう歓迎してもいられない。
「はやく下りてこないと、そのうち母さまに見つかって叱られるよ。ただでさえいなくちゃならない宴の席を抜け出してきたって言うのに。僕は綾乃が落ちて怪我をしないか心配しているんだ」
「本当にいなくちゃいけないのは、狭川の本家筋のあなただけでしょう? 何も無理してわたしについて来ることなんか、無かったのよ」
「……それで今日一日拗ねていたの?」
綾乃が朝から何となく沈んでいたことは、柴太郎も気がついていた。柴太郎の母である藤芽に新しい晴れ着を仕立ててもらった時はあんなに嬉しそうだったのに、いざ宴の席に座ると口数も少なく食事も進まない様子だったのだ。
「誰かに何か言われた? 花祭の時には、いつもお屋敷にいない人達も外からたくさん挨拶に来るから、もしかしたらその人達に……」
「そうじゃないの。別に、わたしが母さまや狭川の守長さまの実の娘でないってことは当の昔に知っているから。そのことで落ち込んでいるのではないのよ。ただ、今日みたいに人が多いとちょっとだけ、本当の母さまや父さまがどんな人だったのかと考えてしまうだけ」
足をぶらぶらとさせながら、少し声を小さくして綾乃は言った。
今年十になる二人の身長や体格はよく似ている。ふとした時に見せる表情や、仕草までもが被ることさえ間々ある。性別こそ違えど並ばせて見比べれば、どれほど似ているかが分かるだろう。
けれど二人の容貌となると、狭川の血特有の淡い髪色を持つ柴太郎に比べ、綾乃の髪色は暗く、肌は透けるように白い。一目見れば二人の間に血の繋がりが無いことなど明らかだった。
「そんなことを一人で考えているとね、何だか冷たい水面を潜り抜ける瞬間みたいに、胸がすうっとなるような寂しい気持ちになるの。多分そのせいで不機嫌に見えていたんだわ」
「綾乃が不安がることなんか、何も無いのに。僕が傍にいても、それでも寂しい?」
綾乃は小さく首を振ってから、持ち直したように笑った。
「柴太郎こそ、わたしがいないと何にも出来ないでしょう? 木にも登れないくせに」
「そんなことないよ。いい、見てて」
不愉快なことは、少し馬鹿なことをして大笑いして吹き飛ばすに限る。長年一緒にいて、そうして二人で色々乗り越えてきたのだ。
柴太郎は言うが早いか、先ほどまでの躊躇いはどこへか、あっという間に綾乃の隣へと登ってきてしまった。
「あーあ、これでもう僕だけ言い訳なんて出来ないな……。あ、本当に兄さんが見える」
「明日の射礼の練習をしているのかしら。柴太郎も今年から出るの?」
「本当ならもう出られる歳なんだけどね。弓の師にはまた来年にしなさいって言われたよ」
「柴太郎は勝彦兄さまと違っておとなしいから、武人には向かなそうだものね」
「うーん、進んでなりたいとは思わないな」
「またそんなことを言って。だからわたし、あなたのことが少し心配になるのよ。郷守りのお役目はきっと勝彦兄さまが継がれるんでしょうけど、それでもあなただって自由には出来ないでしょう」
「自由って?」
「好き勝手にほいほい出て歩けないでしょうってこと。例えば学をつけるために郷から出るにしたって、いつかは帰ってこなきゃならない。あなたは郷守りの直系だもの」
柴太郎はきょとんとしてから、心底不思議そうに尋ねた。
「綾乃は僕にどうなって欲しいの? 武人みたいに強くなって欲しい? それともうんと賢くなって欲しい?」
「武骨になったあなたなんて想像もつかないし、頭でっかちなひょろひょろなんてもっと見ていられないわ。どちらもほどほどが一番よ。そうなれば、少なくとも心配ではなくなるわ」
「僕には綾乃が何をそんなに心配しているのか分からないけど」
「……あまり気にしないで、わたしもよく分かっていないから」
ただ、と綾乃は考えた。
縁起でもないけれど、もし何かしらが起きたとして嵩緒の郷が滅んだならば、今の柴太郎では生きてはいけないだろうと思う。そこまで考えて、自分は柴太郎にこれから何があろうと生き抜いていけるくらいの強さを持って欲しいのだと分かった。
黙りこんだ綾乃に何を思ったのか、柴太郎は「うーん」と考え込んでから言った。
「わかった、綾乃が不安にならないくらい強くなればいいんだね。出来るかどうか判らないけれど、やってみる」
「本当?」
「うん、きっと綾乃が驚くくらい強くなるよ。兄さんなんて目じゃないくらい。そのときは僕が綾乃のことも守ってあげる。だって僕には跡目のお役目も無いだろうし、守るといったら綾乃と自分の身くらいだから」
大真面目に柴太郎がそう言うものだから、何だかおかしくて綾乃は笑った。するとつられたように、柴太郎も微笑む。
そうして薄紅の花弁が目の端を横切る中、嵩緒の郷が見渡せる大木の上で、二人の子供はそっと小さな約束をしたのだった。