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資料8:井上・ベッカー・敏幸:『ソラーリン市における民間療法』(第22回国際歴史学会議第6分科会・基調講演);2020

 えー、医者という仕事は、様々な人生と向き合う仕事である、と申し上げられます。医学というものは、古来より、病気と向き合うのと同じくらい、人と向き合う学問でありまして、目の前の患者さんに適切な治療を行うには、病気と人、この双方を診なくてはなりません。

 従いまして、私もこの歳に至るまで、たくさんの人生と向き合って参りましたし、人生というものは実に多種多様で、一つとして同じものはない、実に可能性に満ちたものであると、この場を借りて最初に申し上げたいと思います(会場拍手)。


 もっとも、いかに人生に多様な可能性があるとはいえ、まさか私に、国際的な歴史学会の壇上で講演するお鉢が回ってくる可能性など、まるで想像しておらなかったわけでありますが(会場大笑いと拍手)。


 さて、昨今では話の前置きが長いとネットで叩かれるぞ、と娘婿にさんざん説教されておりますので、そろそろ本題に入りたいと思います。大学で講義をしておった頃は、学生諸君は前置き部分を大いに好んでおったようで、前置きだけ聞いて講堂から去っていく文学部の学生さんなぞもいたのですが、時代は変わるものです。ああ、これがいかんのですな(会場笑い)。


 えー、今回発表させて頂きますのは、ヘッセンのソラーリン市における伝統医療についてであります。会場にお集まりの皆様は、優秀な先生方であると聞いておりますが、みな歴史学を研究しておられます。ここで私が医学的な専門用語を連発すると安眠を誘いかねません。これは断言できます。かくいう私も、大変に失礼ながら、先ほどまで必死で眠気を堪えておりました(会場大笑い)。

 そのあたりにつきましては、いまフソウ国で大学を目指して受験勉強に専念している孫娘に添削してもらいました。ですので目隠し・耳栓・枕の三種の神器は、一旦お片付けください(会場笑い)。


 さて、私がソラーリン市の伝統医療に注目したのは、ある意味で、自分が医療の敗北というべき事態に直面したことによります。

 1990年、東西ヘッセンが再統一した年、私はヘッセン中央医科大学に勤務しておりました。再統一というニュースは、異邦人である私にとっても歓喜すべき歴史的イベントでありましたが、同時に私ども医師としては、これからとんでもない混乱期が来るぞ、という思い、といいますか、覚悟のようなものがありました。

 なにしろ、違う2つの国が、1つになるのであります。医師免許の基準ひとつとっても、異なります。もし旧東ヘッセンの医師免許が失効するとなれば、当時東ヘッセンで医療に従事していた医師たちは医師免許の再取得が必要になります。つまり旧東ヘッセンには、一時的に巨大な医療の穴ができてしまう、ということです。これは先の大戦直後において、我が母国であるフソウでも起きたことであります。


 幸いにして旧東ヘッセンの医師免許は、即座に無効とはなりませんでした。ですが段階的な再審査を行うという発表は、来るべき医師不足を占うには、十分な根拠でありました。そして実際、再統一後数年で、旧東ヘッセンにおいて一時的な医療ネットワークの崩壊が発生したのです。

 私はこの緊急事態において、即応チームの一員としてソラーリン市に向いました。この場にいらっしゃる皆様に対しては仏の耳に念仏でありますが、かつてはカロル市と呼ばれていた、古都であります。


 控えめに申し上げて、当時のソラーリン市は、何もかもが機能不全に陥っておりました。要は、予算が足りないのです。

 東ヘッセンでも大都市だったソラーリン市ですが、街には先の大戦の空襲によって破壊された廃墟が未だ残っておりました。そのうえ、電気、ガス、上下水道、道路、公共交通網、学校などなど、あらゆる社会的インフラが、大混乱と深刻な予算不足の末に、破綻寸前にあったのです。

 私はそこで、人生で初めて、医療が敗北していく現場に立ち会いました。現代的な医療システムが崩壊してもなお、人間は怪我もすれば、病気にもなります。加齢による身体の衰えもまた、人生における大いなる負担です。

 しかしそれらに対応できる医療システムが機能しないとき、人々は必然の結果として、己に可能な選択をします。つまり、お金持ちはソラーリン市を離れ、貧しい市民は無料ないし格安で提供される治療にすがったのです。

 私が着任した頃、ソラーリン市の医療レベルは中世レベルにまで後退していました。ああいや、失言でありました。えー、まるで歴史のことを分かっておらぬ医学馬鹿が、「これは中世レベルだ」と反射的に思ってしまう、そんな惨状でありました(会場小さく笑い)。

 街のあちこちに疑似科学を基盤とした民間医療セミナーのポスターが貼られ、新興宗教じみた呪術的治療すら幅を利かせておりました。ご存知の通り、魔術は人間の身体を恒常的に変化させることはできませんから、魔術で病気を治療するには、ほぼマンツーマンでの治療体制が必要です。ましてや魔術以前、呪術レベルの治療では、まともな効果は期待できません。

 不適切な治療によって疾病の多くは悪化し、老人と子供がまっ先にその毒牙にかかって命を失っていきました。市当局とヘッセン統一政府は伝染病対策が精一杯で、市民のQOLにまで配慮する余力はなかったのです。


 今でも、あのときの無力感は覚えております。私に可能なことは、最低限の衛生指導だけでありました。至急治療が必要な患者を首都病院に収容する権限は持っておりましたが、共産主義体制が崩壊し、己の寄る辺を完膚なきまでに破壊された当時のソラーリン市民は、最期まで民間医療に頼る道を選ぶことがほとんどでした。私たちのもとを自発的に訪れる市民は、極めて少数だったのです。

 ですが、ここで手をこまねいていては、医師として失格であると感じました。最初に申し上げた通り、医学者とは病気に向かい合うだけではなく、人に向かい合うプロフェッショナルであります。私見ですが、これは学問の徒たる者、全員に共通することなのではないでしょうか。

 そこで私は、当時のソラーリン市民が信用していた民間療法に、自分も積極的に関与することにしました。現代から見れば非科学的な療法であったとしても、そこには文字通り歴史と呼ぶほかない、経験則に基づいた知恵が潜んでいるものです。そこに対して、有益なものを推奨し、有害なものをなるべく遠ざければ、多少は事態を改善できるのではないか、と。


 結論から申しますと、当時の私の努力がどの程度効果的であったのかは、分かりません。効果測定する術がなかったためです。

 私が民間療法の勉強会に顔を出すようになってから、私どもが開設していた臨時の診療所に訪れる患者さんは増大傾向になりましたが、これは他の地域における変化と大差ありません。経済的支援が機能しはじめたこと、また自由主義社会における未来に対して希望を持つ若者が増え始めたことなど、よりマクロな原因のほうが、実際の数字に与えた影響は大きいと思われます。

 ですので、私の努力は若気の至りと申しますか、まったくの自己満足であったわけですが、しかしながらこのことは、2つの知見を私にもたらしました。1つは、人間1人にできることなど、あまりにも限られているという、極めて自明な事実。そしてもう1つは、ソラーリン市に伝わっていた民間療法に関する知識です。


 さて、ようやく長い前置きが終わりました。そろそろ起きてください(会場笑い)。

 ソラーリン市に伝わっていた民間療法は、ソラーリン市がまだカロル市であった頃から、連綿と伝わるものです。そしてその内実はと言えば、例えば薬効のある草木に関して言えば、18世紀頃にソラーリン地方では絶滅してしまった種も伝えられており、良く言えば保存状態の良い、悪く言えば硬直化した知識体系となっておりました。

 ソラーリン市に伝わる民間療法を精査したときに私が一番驚いたのは、今度こそ、そのレベルが中世並みだったことです。今度は大丈夫です、ちゃんと松方先生にご確認頂いております(会場笑い)。

 例えば私の母国フソウにも伝統的な民間療法はたくさん残っておりますが、その多くは、近世や近代における改良の歴史を持っております。技術とは常に、そのようなものです。ところがソラーリン市に伝わっていた民間療法は、まるで時が止まったかのように、他の地域との比較で言えば1500年頃の技術で停滞していたのです。


 なぜそのような大きな停滞が発生したのか、私は歴史に疎いものですから、その理由は分かりません。乏しい知識を総動員すれば、33年戦争による停滞、ということになるのでしょうか。

 ですがそうだとしても、歴史の素人なりに、もう1つ気になることがあります。

 最近ではテレビでも特集番組がございますので、私も興味深く拝見しているのですが、33年戦争が始まる直前には革命的とも言える技術の発展があったと伺っています。先進的な農法に電気炉、果ては先駆的なラジオまで完成していた、とか。


 だとしたら、なぜ医療は、何の進歩もしなかったのでしょう?


 私は医学者であり、歴史学は専門外であります。ゆえに私は、この疑問に対して有効な仮説を構築できません。ですので、どうかこの講演を聞いてくださった皆様が、この謎を解いて下さることを期待し、基調講演に代えさせて頂きます。


 ご清聴と、多くの適切なリアクションを返して頂けたことを、深く感謝いたします(拍手と歓声)。


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