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資料5:ケイト・ウィンセル:『失われた技術革命――33年戦争が焼きつくしたもの』;2016

 17世紀中葉の中央イラーシアに徹底的な破壊をもたらした33年戦争は、ただ単にイラーシア史上に残る陰惨な戦争であったというだけでなく、イラーシア地域全体の発展を決定的に妨げることになった。このことは、20世紀までの33年戦争研究においても、概ね共通した理解である。

 だが近年、33年戦争がもたらした惨禍は、従来想定されていた以上であったことが明らかになってきた。33年戦争が勃発する20~30年前に神聖サウラ帝国で始まっていたいくつかの技術的革命が、33年戦争によって事実上途絶えてしまったのである。イラーシア地域においてこれらの技術が再び歴史の表舞台に現れるのは、早くて150年前後、ものによっては400年近い時間を要した。

 33年戦争によって“中央イラーシアは”数世紀単位での後退が発生したという定説は、もはや覆されたと言ってもいいだろう。革命的とすら言える新技術が、社会に根付く前に、歴史的規模の戦火の中に消えていったことは、“イラーシア全域にとって”巨大な損失であった。


 33年戦争によって失われた技術は極めて広範に渡るが、本書では軍事・産業・文化の3つの分野において、いかなる先進的技術が歴史に埋没していったかを検証する。


 軍事においては、主に2つの技術喪失が顕著である。

 1つは、当時の主力兵器であったマッチロック式(いわゆる火縄銃)マスケットから、フリントロック式への大規模な移行だ。

 ここで「大規模な」と留保したのは、フリントロック式マスケットそのものは、33年戦争を契機としてイラーシア全域に普及したためだ。

 構造がシンプルで、火縄を必要とせず(つまり天候に左右されない)、密集陣形を組める(隣の射手の火縄によって暴発しない)フリントロック式マスケットは、1590年頃に神聖サウラ帝国正規軍が制式採用している。だがこの画期的な新兵器は、言うまでもなく最高の軍事機密でもあった。

 33年戦争が無秩序に拡大するに従って、フリントロック式マスケットはイラーシア全土に拡散する。構造が簡単なフリントロック式マスケットは各国でコピーされ、量産体制が組まれ、33年戦争終盤における諸外国の介入期においては多くの派遣軍がフリントロック式マスケットを制式採用するに至っていた。

 だが、諸外国が全力を注いで量産体制を整えたにも関わらず、その生産速度は往時の神聖サウラ帝国における生産速度とは比較になっていない。

 例えばフェラシア皇国が1645年に派遣した5000の親衛歩兵のうち、フリントロック式を装備できていたのは半数未満[1]であったという。だが1590年の段階で、神聖サウラ帝国に属する諸侯は、ほぼ全軍(公称20万)がフリントロック式への換装を終えていた[2]。軍勢の総数と、フリントロック式の普及率、その双方とも話半分と考えても、既に5万丁が存在したことになる。

 神聖サウラ帝国において、どのようにしてフリントロック式マスケットが効率的に大量生産されたのか、記録は残っていない。だがその手法が戦火の中で失われたのは、以後のイラーシア史を見れば明らかである。

 軍事に関してはもう1つ、失伝したものがある。それが後装式マスケットという、もはやオーパーツと呼ぶべきレベルで先進的な兵器である。

 戦場において、前装式と後装式では、後装式が圧倒的に有利だ。前装式は装填するにあたって起立ないし膝立ちになる必要があるが、後装式であれば伏せたまま装填ができる。どちらが兵士の生存率が高いかは、議論するまでもない。加えてこの後装式マスケットは紙薬莢を使っており、装填速度も倍以上早い。

 後装式マスケットは、神聖サウラ帝国においてもほとんど生産されなかったようで、選帝侯および皇帝の近衛部隊が少数を装備していた以外に記録は残っていない[3]。従ってこの革新的な兵器が戦場に影響を及ぼすこともなかったし、鹵獲されたものについても使用法が分からなかったため「悪魔の武器」として処分されている[4]。


 産業において最も巨大な損失は、農業技術の革命である。

 少なくとも1580年頃、神聖サウラ帝国では輪栽式農業と言うべき農法が始まっていた。それまで主流だった三圃式農法は冬期に家畜を保持しきれないという問題があった(飼料が不足する)が、輪栽式ではカブの栽培をローテーションに組み込むことでこの問題を解決。三圃式においては必要だった休耕地を廃することに成功している。

 イルマ・レーンはその研究の中で、それまで食料輸入国であった神聖サウラ帝国が、1590年には輸出国に転じているという指摘を行っている[5]。この急激な食料生産量の増加は、輪栽式による食料生産総量の増大が背景にあると考えられる。

 また輪栽式に加えて、小麦の品種改良が行われていた形跡もある。これについてはまだまだ憶測の範囲を超えない部分も大きいが、輪栽式は穀物の生産量そのものは減少する農法であるため、神聖サウラ帝国が小麦の輸出を可能にしたというデータとの間で整合性を取るためには、小麦の収量そのものも増大していたと考えるべきであろう。

 だが、輪栽式にしても、小麦の品種改良にしても、それらが周辺諸国に技術流出することは、なかった。

 神聖サウラ帝国において、輪栽式を支えたのはルータビアと呼ばれるカブであった。ルータビアは荒れ地にすら自生し、たいへんに腐りにくいが、味と見た目が悪く、教会は長らく「神の祝福を受けざる食物」として忌避してきた。ルータビアを意図的に栽培するというのは、宗教的に好ましからざる行為だったのだ。

 このため、1590年頃の神聖サウラ帝国~フェラシア皇国国境地域の、フェリシア皇国側においては、「サウリ(神聖サウラ帝国民)が悪魔の作物を植え始めた」という記録が残されている[6]。

 無論、たとえ悪魔の作物であったとしても、実利が大きければ利用するのが人間というものだ。事実、ルータビアを利用した輪栽式農法は、1610年頃には神聖サウラ帝国外にも広まる兆しを見せていた。が、33年戦争が勃発したことにより、迷信深い農民の間には「悪魔の実を育てた不信心者たちが、当然の報いを受けた」という認識が広まってしまった[7]。

 改めて輪栽式農法が普及する18世紀までに起きた飢饉のいくつかは、輪栽式がこの段階で普及していれば回避できたと考えられる。だが33年戦争は、その可能性を奪ってしまったのである。


 文化における損失もまた数えきれないが、顕著な例として、ここでは原始的なラジオの喪失をピックアップしたい。

 人類史上、最初の機械式ラジオが出現するのは20世紀初頭を待たねばならない。だが1590年の段階において、少なくとも神聖サウラ帝国の首都アラシアでは先駆的なラジオとでも言うべき魔術具が普及していた(もっとも魔術具の常として非常に高価なものであったようで、庶民が個人所有することはなかったようだ)[8]。

 このことは何より、16世紀末の神聖サウラ帝国において、魔術と科学の融合が始まっていたことを示している。

 そもそも科学は魔術研究から分岐したものであるが、サウ帝国の滅亡に伴い、その研究の中心はイスタル諸国に移った。イスタル諸国で発達した科学は15世紀頃イラーシアに再導入されるが、この段階において科学と魔術は別の体系であると理解されていた。イラーシアにおいて魔術と科学が再び融合するのは、1687年を待たねばならない――というのが、従来の通説であった。

 だが1590年の神聖サウラ帝国では、魔術と科学が融合した成果が、原始的なラジオという形で結実している。前述したフリントロック式マスケットの大量生産技術も、魔術と科学が融合した技術なのではないかと考えられる。

 一方、この新しい学術上の動きがその後のイラーシアで途絶えてしまったのもまた、事実である。このことは、神聖サウラ帝国で勃興した魔術と科学の融合は、理論ではなく現場レベルで発生した可能性を示唆している。体系化・理論化よりも先に、工房における革新的技術として発見(・・)された技法は、ギルドや徒弟制、あるいは彼らを保護する諸侯によって機密のベールの向こうに隠匿され、それらが必然的な流出を始める前に33年戦争がすべてを焼きつくしてしまったのではないか。

 この仮説は、神聖サウラ帝国において鍛冶ギルドが諸侯の手厚い保護を受けると同時に、厳しく管理されていたこととも符合する。

 鍛冶ギルドに加盟していた技師は、見習いまで含めて、移動を厳しく禁じられていた。戦火の拡大によって統治体制が綻んでも、軍事生産の中心であった鍛冶ギルドだけは、最後まで厳格な(場合によっては過酷な)管理が続いている[9]。落城が避けられないと覚悟を決めたアンテーヌ選帝侯が、鍛冶ギルドの建物を封鎖し、技師たちを建物ごと焼き殺した「ヌースの悲劇」は、実のところ33年戦争以前から神聖サウラ帝国において一般的に発生していた悲劇であった[10]。


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