資料3:佐藤潤慶:『33年戦争はなぜ起こったか』;2014
1615年に始まり、最終的に神聖サウラ帝国を完全に形骸化させた33年戦争は、中央イラーシアの人口を推定で6割前後減少させ、かの地域の文明はほぼ2世紀近く退行した。
当時のイラーシアにおける秩序の担い手であった神聖サウラ帝国の崩壊はイラーシアの国際政治に決定的な影響を与え、また中央イラーシアに生じた人的・時間的損失は、この地域の国家が産業革命期において「バスに乗り遅れる」主たる原因となったと言われる。
20世紀に発生した2度の大戦は、産業革命期における海外進出競争の成否とそれによる経済格差が大きな要因となっている。従って33年戦争の段階で、かの大戦は既に胎動していたと考えることもできる。
このようにイラーシアのみならず世界史レベルで重大なターニングポイントとなった33年戦争だが、この戦争がなぜ発生したかについては、未だにその評価が定まっていない。
20世紀初頭において、33年戦争は宗教的対立がその主たる原因であると考えられていた。教会の腐敗に対して立ち上がった〈改革派〉と、既存の秩序と権益を守る〈皇帝派〉の戦いであるという見解は、世界各国において知識人にとっての教養となってきた[1]。
だが33年戦争の経過をつぶさに調査すると、参戦した諸侯および諸外国にとって、〈改革派〉と〈皇帝派〉は便利な旗印のひとつに過ぎないことが見えてくる。7人の選帝侯は最低1回、己の立場を切り替えているし、末端の諸侯に至っては「2日で5回」所属を変更したと揶揄する流行歌が残っている[2]。実際に2日で5回変更したかどうかはともかく、そう批判される程度には所属が転変していたことは、史料からも読み取れる。
このことから「33年戦争は、衰退期にあった帝国における宗教対立を口実にした政治的内戦であり、諸侯は己の利益と生存のために戦った」とする説がヘンケル大学(当時)のロラン・ピーテルを中心として唱えられ[3]、この説が20世紀中葉を支配した[4]。
だが20世紀後半に入り、この説に新たな疑問がつきつけられた。統計学的視点から33年戦争を分析したシェスロー大学のイルマ・レーンは、この戦争における軍事的な非常識がなぜ成立し得たのか――全人口の6割が失われたというならば、いったい誰が戦っていたのか?――を探求した。歴史学者の間でも、この「6割」という数字は「すさまじい惨禍」の比喩に過ぎず、実態とは異なるのではないかとする説は根強かったのだ。
レーンは、その論文のなかで、「33年戦争で人口の6割が失われたのは事実」と結論づける。そしてその大規模な人口減が発生してもなお戦争が継続できた理由として「戦争が始まる段階で、神聖サウラ帝国は帝国史上最高の繁栄期にあった」「戦争当事者たちにとってみると、少なくとも途中までは、33年戦争の災禍は許容できる損失であった可能性がある」(傍点筆者)とした[5]。
この研究は、33年戦争研究における大きな前進であると同時に、従来の研究を根底から覆すものとなった。
かつて33年戦争は、貧しい者から富を貪る教会に対する〈改革派〉の蜂起として考えられていた。続いてこれは、神聖サウラ帝国に加盟する諸侯の間に存在する不均衡が産んだ内戦であると考えられた。いずれも、帝国が富と統治力を失い、自己崩壊したという見解である。
だがレーンの研究は、当時の神聖サウラ帝国において33年戦争はコントロール可能なものとして行われ、実際に途中まではコントロールされていた可能性を示している。そしてこのことは、1899年に発表されたものの黙殺され続けてきた澤井敬の論文に示されている「文化的に見て、33年戦争前夜から初期にかけての神聖サウラ帝国は、イラーシア史上空前の繁栄を誇る大帝国であった」[6]という見解を支持するものでもある。
21世紀に入り澤井は再評価され、33年戦争前夜の神聖サウラ帝国がいかなる状況にあったのかの再研究が始まった。従来、神聖サウラ帝国はサウ帝国の青ざめたコピーであり、帝国の名を冠してはいるものの、文化的には地中海諸国に劣っていた、と考えられていたためだ。
そして実際、15世紀の神聖サウラ帝国は、文化的にも経済的にも地中海諸国に遠く及ばず、ただ軍隊の動員規模のみをもって、イラーシア随一の大帝国としての地位にすがりついていた[7]。
だが近年の研究は、16世紀末の神聖サウラ帝国において、何らかの大きな技術的跳躍があったのではないかということを示している[8][9]。
例えば食料生産だけを見ても、1560年には帝国は小麦とライ麦の輸入超過状態にあったが、1590年には周辺諸国に小麦を輸出している[10]。
また2011年に行われたアラムス大聖堂の修復作業中、我々がこれまでヘイネマルクの代表的な作品と信じてきた壁画の裏に、別の壁画が塗り込められていたことが発見された。魔術的復元によって抽出された「失われたヘイネマルク」は、その時代にはまだ存在しなかったはずの表現技法を駆使して描かれており、33年戦争による文化的・技術的断絶の大きさを示すことになった[11]。
かくして、ここで問題は振り出しに戻る。
15世紀には斜陽を迎えていた神聖サウラ帝国が、16世紀初頭には避け難い自己崩壊への道を歩んでいたのは、様々な史料が裏付けている[12]。33年戦争は〈帝国〉滅亡の時計を200年ほど先に進めたが、たとえ33年戦争がなくても〈帝国〉の綻びは止められなかったというのは、十分な妥当性を持った推論だった。澤井はそれに異を唱える先駆的な説を示したが、1899年当時の科学的・魔術的技術によって獲得できていた史料を踏まえると、遺憾ながら推測と予断が多すぎたと言わざるを得ない[13]。
しかし現代の科学と魔術は、16世紀末の神聖サウラ帝国は、技術的跳躍によって富が富を生む、いわば産業革命期にあったことを示している。階級社会の常として富の偏在はあったものの、それでもなお、それ以前に比べれば社会は圧倒的に豊かになり、市民は帝国の統治によって幸福を獲得していた。レーンはこれを簡潔に「神聖サウラ帝国は中興期に入っていた」と論じている[14][15][16]。
1600年の神聖サウラ帝国は、宗教的改革のための実力行使が支持されたり、諸侯が自己の利益のために中央政府との対決を選択したり、多数の市民が自己の生存のために蜂起したりするような状況からは遠い、いわば、平和と繁栄のまっただ中にあったのだ。
にも関わらず33年戦争は勃発し、神聖サウラ帝国はその中興の頂点から、いきなり崩壊へと向かう。これは歴史上、極めて稀な状況と言わざるを得ない。
果たして、33年戦争はなぜ起こったのか?
本書はこの疑問に対し、現状存在する様々な説を解説し、読者に33年戦争の現代的理解を促すものである。
2013年吉日