資料1:ソフィア・ケスラー伯爵夫人、最後の手記
初めて〈彼〉と会ってから、今日がちょうど40年めになる。
あの頃、私は何も知らなかった。
悪は世界に蔓延していて、いつもどこからか私たちを狙っている。
力ある者たちは弱者を踏みつけ、富める者はより富む。
弱者はより弱い者に石を投げ、その闘争は下に沈めば沈むほど激化する。
正義など、この圧倒的な悪の前に、何の力もない。
そんなことを、漠然と信じていた。
けれどいま、窓の外では、アラムス大聖堂が黒煙を上げている。
僧侶たちは大通りに連れだされ、市民たちは命乞いする彼らを、たっぷりと時間をかけて殺している。大聖堂内部の尼僧院では、言葉にするもおぞましい蛮行が繰り広げられているだろう。
王宮の方で大きな爆発音がした。
悲鳴とも歓声ともつかない声が、潮騒のようにここまで響いてくる。
おそらく、王城を守る最後の城門が破壊されたのだろう。
人類の文化と文明の守護者を自認してきたサウ帝国が滅んでから、その正統な後継者として神聖サウラ帝国が建国されて、628年。
幾多の貴族による連合国家であった〈帝国〉は、まとまりを欠く国家ではあったが、それでも世界最強の国家だった。
神聖サウラ帝国に名を連ねる諸侯の所領においては世界で最も進んだ文化と文明が花開き、その軍隊は装備・練度・規模の面において周辺国家など歯牙にもかけなかった。
だから40年前、〈帝国〉が崩壊する可能性を語れば、狂人の妄想か、見当外れの予言として扱われただろう。
確かにその頃、既に〈帝国〉は、その最盛期を過ぎていた。
宮廷では汚職が横行し、僧侶たちは天上の栄光よりも地上の栄華を選んだ。
帝国軍の弱体化は、辺境における戦争での、数度の手痛い敗戦という形で実証されつつあった。
ときの皇帝ヘイル5世は、控えめに言って凡庸で、帝国が抱える問題を解決できるだけの指導力を持ち得なかった。
とはいえ、それでもなお〈帝国〉は、世界最大の国家だった。
官僚制と法秩序はほぼ完成の域に達しており、各種手続きは一定レベルの公平さを有していた。未開な国家においては「王様の機嫌が悪かったから、商売の許可が下りなかった」などということはザラだが、〈帝国〉においてはそんなことはあり得ない――ただ、多少の賄賂があったほうが、処理が早いという程度だ。
教会を中心として学問や芸術は発展を続け、壁画や天井画、音楽、演劇といった作品は庶民の耳目を楽しませた。
辺境における戦いの敗北は、即座にそれ以上の勝利によって雪辱された。
ヘイル5世は暗愚ではなく、諸侯の間で起こったトラブルに対しても必要十分に公正な裁きを下していた。
誰もが漠然とした衰退の予感を感じながらも、それがはっきりするのは少なくとも100年単位で先のことだと思っていた。
かく言う私もまた、そう信じていた。
〈帝国〉は盤石で、滅びることなどない、と。
そこにどんな悪が潜んでいても、正義は決してその悪を駆逐しない、と。
なぜなら世界の大多数は、この平穏な日常を望んでいるから。
世界の大多数にとって、この平穏な日常が守られることこそが、正義だから。
だからこの忌まわしい〈日常〉は、これから先、何百年も、変わらない。
そう、信じていた。
いま、神聖サウラ帝国は滅ぼうとしている。
おそらく、王宮にはもう皇帝――現皇帝ラカ2世――は、いるまい。〈皇帝派〉の諸侯に守られて、何処なりと落ち延びただろう。
だがこの歴史ある帝都アラシアが〈改革派〉の手に落ちた今、神聖サウラ帝国がかつての栄華を取り戻すことは、もうない。
脆いながらも、脆いなりに〈帝国〉を支えてきた基盤は、壊れてしまったのだ。たとえ英雄が突如現れ、この混乱を鎮め得たとしても、その後に再建される国は、かつての神聖サウラ帝国ではあり得ない。
――階下で、扉が破られた音がした。
もうすぐこの部屋にも、怒れる市民が踊り込んでくるだろう。
そのことに、恐怖はない。
これは私が望み、求め、夢見た世界だから。
悔いがあるとしたら、2つだけだ。
1つは、この先、本当に世界が滅ぶのか否かを、見届けられないこと。
もう1つは、もしあのとき私が、〈
編者注:
この手記の末尾には血文字で何かが書かれている。科学鑑定と魔力追跡によってこの血液はケスラー伯爵夫人のものであることが判明したが、夫人が最期に何を書き残そうとしたかは、今なお明らかになっていない。




