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海の彼方  作者: 葉琉
2/11

     後編

 アスが町へやってきて、半年ほどがたった。

 季節ももうすぐ冬で、町はどことなく暗く沈んで見える。

 この町で初めての冬を迎えるアスは、ここでは雪が降ると聞いて子供のようにはしゃいでいた。南方で育った彼にとって、雪というのは不思議なものらしい。

 いつ頃雪が降るのか指折り数えている姿をからかわれ、拗ねているのをジーナは何度か目撃している。

 おだやかで、平和で、この生活がずっと続くのだと、その時のジーナは信じていた。

 そして、18歳になったら、アスと一緒に南の海を見に行く。

 例え、アスが覚えていなくても、お金を貯めて海へ行こう。

 それは密かなジーナの夢でもあった。



 王都に住む巫女がそろそろ引退するらしい。

 そんな噂が町に流れるようになったのは、本格的な冬を前にした頃だった。

 巫女とは、王都の大きな神殿に住む、重要な儀式を担う女性のことだ。

 神託によって選ばれ、引退するまで神殿内で神に祈りを捧げながら生きる。人前には出ないので顔は知られていないが、時には占いによって王を助言をするのだともいう。

 ジーナにとっては遠い存在でもあったから、町の人たちが噂をしているのを聞いて、すごい人なんだな程度の感想しかもたなかった。

「今の巫女様が神殿に入られたのは、ジーナと同じくらいの年だったそうだよ」

 宿屋の女将がそう言ったときも、特に何も思わず、頷いただけである。

「それから60年近く巫女をされているそうだから、すごいことだよ。でも、もうお歳だからね」

「次の巫女様はもう決まっているのかな」

 なにげなく言った言葉に何故か反応したのは、アスだった。

「……そうだな。そろそろ神託の儀が行われる頃だろうな」

「神託の儀?」

「そう。巫女っていうのは、神のお告げっていうので決まる。巫女が辞める一月前くらいに神に次代の巫女を尋ねるって儀式があるんだよ」

「そうなの? よく知っているね」

 アスは南の国出身だと言っていたのに、妙にこの国について詳しい。

 こういうときに、ただの酔っ払いではないのかなとジーナは思うのだ。

「あちこち旅してきたからな。この国の王都にいたこともある。その時、いろいろ聞いたのさ」

「アスって物知りだなあ」

 瞳を輝かせアスも見つめるジーナに、女将が吹き出した。

「こいつのは、無駄な知識ばかり多いっていうんだよ」

 女将さんががははと笑ってアスの背中を叩く。

「ひどいな、女将。博学って言ってくれ」

「私は面白いと思うよ。アスってすごい」

「褒めてくれるのはジーナだけかよ」

 アスの言葉にみんなが笑った。

 そういえば、こうやって宿屋に顔を出すようになって、ここの人たちもジーナと親しく話してくれるようになった気がする。

 女将はジーナの休みに合わせて、彼女が好きな果物をふんだんに入れたお菓子を焼いてくれるし、従業員たちも皆優しい。長期滞在している商人などは、変わった歌や昔語りを披露してくれたり、食事をおごってくれたりする。

 神殿でひっそりと暮らしていた頃に比べれば、考えられないことだった。

 友達がいないわけではなかったが、ジーナの世界は狭く、親しい大人といえば、神殿にいる司祭や神官たちだけ。成人した彼女は、仕事の時間以外は基本的に自由で、町のどこへ行ってもとがめられることはなかったが、やはり最低の規律は守らなければならないとどこかで思っていた。

 神殿は神へ仕える人がいる場所で、司祭も神官も生涯独身だ。使用人たちがそれを守る必要はないが、住み込みで働いているものは、神を祭る場所ということで、その殆どが独身者である。結婚しても仕事を続けるものは、婚姻関係を結んだ時点で、外に住居を構えることが多かった。

 だから、ジーナも他の先輩と同じようにそれを守り、18歳になるまでは結婚はしないでおこうと思っていたのだ。

 他にも、例えば、町へ出ても、いかがわしい場所へ行ったり、男性と親しくしたり、ということは、アスに会うまでは避けていた。

 それなのに、今はどうだろう。

 宿屋はいかがわしくないが、アスはいかがわしい。

 宿屋を利用する冒険者や旅人も、ちょっと胡散臭いところがある。

 以前なら、そういう人たちとは口を聞くこともなかったのに、冗談を言ったり笑ったりすることが、楽しいのだ。

 自分は静かな神殿の雰囲気が好きで、そういうところで一生生活していくのだと思っていたけれど、こうやっていろんな人と話していると、こちらの方が合っているような気がしてくるのだから、不思議だ。

 18歳になったら、神殿を出て町で働くのもいいかもしれない。

 最近ではそんなことさえ考えているのである。

「おや、そろそろ帰らないといけない時間じゃないかい、ジーナ」

 夕暮れを知らせる鐘の音に、女将が窓の外を眺めながら言う。

「本当だ。うーん、もっと話をしたかったのになあ」

「仕方ないさ。神殿は厳しいんだろう。また次の休みの日に遊びにおいで。お菓子を作って待ってるよ」

「はい」

 嬉しそうにそう言うと、ジーナはアスの顔を覗きこんだ。

「じゃあね、アス。私、もう帰るけれど、あんまりお酒、飲み過ぎちゃだめだよ」

 いつものように挨拶をしてその場を立ち去ろうとする。

 普段ならば、アスも『酒は俺の栄養源だ』とわけのわからないことを言ってジーナを送り出すのだが、今日は違っていた。

 見慣れたはずの飄々とした顔が、今は表情がない。藍色の目も、どこか遠くを見ているかのように、ぼんやりとしていた。

 さっきまでは普通だったのに、いったいどうしてしまったのだろう。

 変なものでも口にしたのかとも思ったのだが、この宿屋の料理人は材料や調理法に関しては厳しい。体を壊すようなものを出すはずがなかった。

 それならば、何が原因で急に元気がなくなったのだろう。

「アス? どうしたの。気分が悪いの?」

 まさかお酒の飲み過ぎでめずらしく調子が悪くなったのではと思って、ジーナは手を伸ばして、アスの頬に触れた。

「今日はあまり飲んでいなかったよね?」

 触れた感じでは熱もなさそうだ。

 さらに顔を近づけると、藍色の瞳がジーナへと向けられる。

 それは何かを憂いているようにも見えて、ますますジーナは戸惑った。

「アス、本当に大丈夫?」

「ジーナ」

 アスがジーナの言葉を遮るように名前を呼び、彼女の手を掴かむ。

「え? 何、どうしたの?」

 帰る時、いつだってアスはあっさりとしているので、ジーナは首を傾げる。

「どうかしたの?」

 問うと、視線を逸らされた。

 ますますおかしい。

「……いや。なんでもない。気をつけて帰れよ」

「うん」

 アスの様子が気になったが、彼はいつのまにか立ち上がり、普段と同じ表情に戻って、手近な人間に話し掛けている。

 もうこちらの方には振り返りもしなかった。

「変なの」

 小さく呟いた。元々彼は気まぐれではあったが、意味のない行動はあまり取らない。

 さっきまでは普通だったのに、急に態度がおかしくなったのも変だ。

 けれども、いつもと同じ態度に戻ったアスは、おかしかった理由を教えてはくれないだろう。そういう男なのだ。余計なことはあきれるくらい口にするが、肝心なことや大事なことは、滅多にに口にしない。

 もちろん、それが必要なことだと判断すればちゃんと答えをくれるのだろうけれど。

 今日の出来事も、いつかは聞けば教えてくれるのだろうか?

 気にはなるが、別に会うのは今日が最後ではないのだ。

 次に来たときに、また尋ねればいい。

 そう思って、ジーナは宿屋を後にした。



 どうやら門限ぎりぎりに神殿に駆け込むことが出来てほっとしていたジーナは、普段出入りしている裏口に、使用人頭のマットが立っているのを見て足を止めた。

 彼は、イライラした様子で、しきりに辺りを見回している。

 本来ならばこの時間は、厨房と神殿を行き来している忙しい時刻のはずた。仕事に忠実な彼がいるはずのない場所なのである。

 何をしているのだろうと思っていると、彼の視線がジーナで止まり、慌てたように駈けよってきた。

「よかった、ジーナ。なかなか帰ってこないから心配していたよ」

「すみません。少し遅くなってしまいました」

 謝った後で、門限を破ったわけでもないことに気付く。それに、幾ら彼が使用人の管理をまかされているとはいえ、たかだか使用人が一人遅くなったくらいで、「心配した」などといって慌てるはずがない。実際に、1年前、同じようにぎりぎりに帰った時は、部屋に呼ばれ、「時間に余裕を持った方が良い」と言われただけだった。

「あの、マットさん。何かありましたか?」

 説教以外であれば、そう考えるのが自然だ。何かジーナに用事が出来たのならば、納得できないこともない。

「司祭様が、ジーナを呼んでいる。休みの日に申し訳ないが、急いで行ってくれないか」

「司祭様?」

 だからなのかと、ジーナは理解した。

 司祭が捜していたのならば、マットがいらいらしていたのもわかる。

「わかりました。司祭様は、執務室ですか?」

「ああ。着替えもいいから、なるべく急いでくれ」

 ジーナは首を傾げた。

 マットは時間に厳しいが、それは仕事に関してのことだ。休みの日には、多少のことには目を瞑ってくれている。それに、普段はどんなことがあってもマットは焦ることはない。

 何かがあるのだろうか。

 あまりいいことではない何か。

 けれども、マットはそれ以上は何も言わず、急かすようにジーナを見ている。

 仕方なくジーナは頭を下げると、急ぎ足で執務室へと向かった。

 


「ほう、これが例の娘ですかな」

 執務室の扉を開き中に入ったとたん、しわがれた声が響く。

 司祭しかいないと思っていた部屋には知らない老人がおり、来客用の長椅子に座ったまま、ジーナの方を見ていた。

「はい、この娘がジーナでございます」

 恭しく頭を垂れた司祭が、彼女が名乗る前にそう言ったから、ジーナは少し惚けた顔をした。

 誰なのかもわからないし、何故自分がここに呼ばれたのかも不明だ。

 ただいつもは無愛想な司祭が今日に限って上機嫌で、老人に向かって何度も頭を下げている。よほど偉い人なのかもしれない。

 確かに身に付けている光沢のある深緑の上衣は肌触りもよさそうで、それなりの値段はするに違いなかった。施された刺繍も細かく、素人のジーナが見ても、すばらしいものだとわかる。

「ジーナ、こちらに」

 司祭が招くので、粗相がないようにゆっくりと近づき、老人の真正面で立ち止まる。

「こちらは、王都から来られたイグル様です。ご挨拶なさい」

「ジーナと申します。本日はようこそいらっしゃいました」

 促されるままに頭を下げる。とはいっても、きちんとした作法を知っているわけではないので、どこか動きはぎごちない。

 失礼にあたらないだろうかと恐る恐る顔を上げると、イグルはそんな彼女の様子を満足そうに見上げていた。

「うむ。なかなか素直そうな娘だな」

「他の子供たちと同じように育てましたので」

「それでよい。巫女様は神託によって選ばれる尊い存在。貴族などに余計なことを吹き込まれ、間違った考えを持ってしまうのは困るのだ」

 今、この男はなんと言っただろう。

 確か『巫女』と口にしなかっただろうか。

「あの、どういうことでしょうか」

 事情がわからず不安になったジーナは、司祭を見て尋ねた。身分の高い人の前で、勝手な発言などしてはいけないのかもしれないが、何が起こっているのかがまったくわからない。

 巫女と自分とどういう関係があるのか。

「ジーナ。今朝方、王都より、神託がくだったという知らせがありました。イグル様はそのことを伝えるために、ジーナを訪ねてきたのですよ」

「……は?」

 取り繕うことも忘れ、ジーナは素っ頓狂な声を上げた。

「今、何とおっしゃいましたか、司祭様」

「落ち着いて聞きなさい、ジーナ。あなたは次代の巫女に選ばれたのです」

 何かの間違いだ。

 真っ白になった頭で考えることが出来たのは、それだけだった。



 明日には王都に旅立つことになると言われ、ジーナはそのまま神殿内にある客室へと追い立てられるように押し込められた。

 もう巫女として清い身だからと説明されたが、これではまるで閉じ込められているようだ。

 さすがに扉に鍵はかかっていないが、廊下には老人が連れてきた男が陣取っている。

 さきほどお茶が飲みたいと外に顔を出したが、怖い顔で阻まれた。

 外からの侵入者ではなく、ジーナが外に出ることを警戒しているのかもしれない。

 結局、マットにも他の使用人にもあれから会っておらず、別れの挨拶をしたいといった願いもイグルによって拒否された。

 巫女の選出は極秘のことで、出身や本名は隠されるのだという。

 自分が巫女になるということも、誰にも伝えてはいけないらしい。司祭は、他の使用人たちに対して、都合で仕事を辞め王都に行くのだと説明するつもりのようだった。

 アスにももう会えない。

 そう思うと、胸の奥の方が痛んだ。

 アスだけではない。宿屋の女将にも、宿に滞在している人たちにも会えない。

 せっかく、女将がお菓子を焼いて待っていると言ってくれたのに。

 もうすぐ隣町へと旅立つ商人たちにも、お別れを言いたかったのに。

「どうして?」

 呟いたとたん、ぽろりと涙がこぼれた。

 どうしてこんなことになったのだろう。

 神託なんて知らない。巫女はとても尊い存在で、占いで国を導くという。占いというのがどういうものかはわからないが、今までそういうことをしたことがないジーナには納得できなかった。

 どう考えても自分にはそんな力はないのに、選ばれるなんて絶対おかしい。けれども、そう反論したところで、結果は変わらなかった。

 間違いだと言うジーナに、イグルは最初は誰でもそう言うのだ、と諭すように言っただけだった。

 こういうとき、物知りのアスならどう言ってくれるだろうか。

 頑張れというのか、やめちまえっていうのか。

 それとも、ジーナに会わなくなったら、彼女自身のことも忘れてしまうのだろうか。

「会いたいよ」

 このまま、お別れも言えないままになってしまうのは嫌だ。

 けれども、どれだけ嘆いても今のジーナにはどうすることも出来なかった。


 

 どのくらい泣いていたのだろう。

 窓を叩く音に、ジーナは顔を上げた。

 いつのまにか、机に突っ伏して寝ていたらしい。

 ぼんやりと音のした窓を見ると、人影があった。

 しかし、ここは2階だ。簡単に上がってこれる場所ではない。足場だってないのだ。

 それなのに、外の人影は窓越しにこちらを見ている。

「アス?」

 暗い夜空を背にして、立っていたのは彼だった。

 夢かと思ったけれど、幾ら目を擦っても彼は消えない。

 ようやく現実だと気が付いたジーナは、慌てて駈けよると、音を立てないように窓を開く。

「アス! どうしてここにいるの。それに、神殿の門は閉まっているはずだし、ここにだってどうやって登ってきたの」

 外に漏れないように小声で聞くと、アスはにやりと笑った。

『秘密』

 唇の動きは確かにそう動いた。そのまま、アスは静かに部屋の中へと入り込む。

「だめだよ、アス。見つかったら、大変なことになっちゃうよ」

 だから、帰ってほしいと暗に告げたつもりだったのに、アスは後ろ手に窓を閉めるとジーナの顔を覗き込んだ。

「泣いてたんだな」

「う、うん。ちょっと、いろいろあって」

「部屋にいないから、捜した。まさか客間だとは思わなかったから、少し手間どったんだよな。遅くなって悪い」

「えーと」

 どうして自分たちは普通に会話をしているのだろう。しかも、謝られる意味もわからない。

 アスがここへ来る約束などしていなかったはずだし、ましてやこんな夜中に窓からやってくるなんて、普通ではなかった。

「あの、アス。何しに来たの?」

 アスはジーナの事情を知らないはずだ。巫女に選ばれたという話はおそらく誰も知らないだろうし、確かに今日別れた時のアスの様子は変だったけれど、それが関係あるとは思えない。

「俺がここへ来た目的はね。実は仕事なんだ」

「仕事?」

 掠れた声で問い返すと、アスの唇が笑みの形に持ち上がった。

「人攫い」

「ひ、人攫い!?」

 大きな声を上げそうになって、慌てて口を押さえる。外には見張りがいるのだ。騒いで入ってこられたら、いいわけは出来ないし、アスだって困ったことになる。

「どういうこと?」

「ある人から、あんたが巫女になるようなら、攫って逃げてほしいって、頼まれていた」

「私のこと、最初から知っていたってこと?」

「名前は知らなかった。ただ、神殿に暮らす黒い髪に青い瞳の娘だと」

 アスの指先が、ジーナの黒い髪に触れた。

 すくい取るようして指先に絡めた髪にアスの視線が落ちている。

「もしかして、神殿で初めて会ったときも私を確認するために来ていたとか?」

「いや、アレは偶然。もしもの時のために、神殿の造りを確かめていた」

 もしも、というのは今日の時のためなのだろうか?

 それならば。

「宿屋の前で声をかけたのも、偶然じゃなかったんだ」

 落胆している自分がいる。

 アスは誰かに頼まれたから、自分を呼び止めたのだ。知り合いになるためなのだろうか。その方が仕事がしやすいから。

 違うよ、という声が耳元で聞こえた。

 気が付けば、アスの顔がすぐ側にあった。あの時と同じように、藍色の目に自分の姿が映っている。

「それだけなら、声をかけない。別にあんたと知り合いにならなくたって、仕事は出来る。声をかけたのは――」

 迷うように、一瞬アスの瞳が逸れた。

 何を考えているのだろう。

 普段と違うアスを、ジーナは息を詰めるようにして見上げた。こんなふうに真剣に話しているアスなど初めてみた。

 大抵は酔っ払って騒いでいるか、あるいはふざけているばかりだ。

 偶に真面目になることはあっても、こんなふうに張りつめたような雰囲気ではない。

 もっと砕けていて、どうしようもない大人というふうなのだ。

「間近であんたの青い瞳を見たかった。海と同じ青。俺の故郷の海の色だ。だから、声をかけた」

 ふいに抱きすくめられる。

「あんたを巫女にしたくない」

 囁くような声が耳元を擽った。

「巫女になっちまったら、もう会うことは出来なくなる。でも、まだ巫女じゃないから」

 攫って逃げてしまおう。

 唇がそう紡いだと思ったら、頤をつかまれ上を向かされる。

 まともにかち合ったアスの視線は怖いくらいにまっすぐジーナに向けられていた。

 アス?

 呼びかけようとした唇が、塞がれた。

 突然のことに固まってしまったのは、それが初めてのことだったからだ。

 一応ジーナもお年頃だが、育った環境が環境だけに、誰か特定の異性と付き合ったという経験がない。憧れてはいたが、身近に年の近い異性はいても、それが小さい頃から兄妹のように育った相手だと、恋愛感情も沸いてこなかった。物語のように、同じ場所で育って恋に落ちるなどということは、ジーナの周りに限ってはなかったのだ。

 結婚して出て行った相手も、そのほとんどが神殿外の人である。

 それに、彼らは教えてくれなかった。

 実際の口付けは、想像していたのとは違うということを。

 もっと優しく柔らかいもののような気がしていた。

 こんなふうに、激しくむさぼり喰うような行為が、口付けというのだろうか。

 だいたい、息が出来ない。

 体が無意識にアスから逃れようと反応するが、逃がしてくれない。

 頭がくらくらしてしまって、目が回っている。

 いつもこんなことをしているのなら、大人って意外と大変だ。

 そんな馬鹿なことを考えていたら、ますます頭の中がぐるぐるした。

 アス、苦しいよ。

 そう思ったのが、最後だった。

 それから先のことはよく覚えていない。



 気が付くと、ジーナは外にいた。

 寝転がるジーナの横に、アスがいる。

「アス?」

 体を起こしながら呼びかけると、彼は困ったような申し訳ないような顔をした。

「すまない。少し無理をさせた。息苦しかったんだな、気を失っちまうくらい」

 言われて先ほどのことを思い出し、羞恥のために真っ赤になる。

「あ、あんなこと、急にするなんて! びっくりしたんだから」

 初めてだったのに。

 恥ずかしさのあまり、ぶちぶちと草を引きちぎると、それをアスに投げつける。

「いやー、もっとゆっくりじっくり手の内に囲い込むつもりだったんだが。俺としたことが、ちょっとあせったな」

「ええ!?」

「まだ、俺のことはそういう意味で、好きじゃないだろ」

「えええ!?」

「“好き”だけど、“恋”じゃない」

 見抜かれている。

「うん」

 そう言って俯くと、笑われた。

「まだまだ子供だな。だが、その様子だと、期待してもよさそうだ」

「なんでそうなるの!」

「顔が真っ赤だ。動揺しているだろう」

「それは、だって! アスがあんなことを……」

 思い出すと、また頭がぐるぐるした。

「逃げなかったし」

「びっくりしたの!」

 だめだ。

 何を言っても軽くあしらわれている。

 たった16年しか人生経験がないジーナには、アスに勝てる方法が思いつかない。

 聞きたいこともたくさんあるのに、何から聞いていいのかもわからないくらい混乱しているわけだし。

「逃げてきちゃったんだ」

 ただ、それだけはわかっている。

 そういえば、ここはどこだろうと辺りを見回すと、遠くに街の明かりが見えた。

 ここはいつかアスときた、町を見下ろす丘の上だ。

「大丈夫なのかな」

 アスが言っていたように、自分は『攫われた』のだろう。

 どういう目的なのかはわかららなかったが。

「大丈夫。まだばれてない。騒ぎにもなっていなさそうだし」

 人を攫ったわりには、アスは呑気だった。急いで逃げる素振りも見せない。

 確かに遠くから見ても、町は静かだった。神殿もここからはよく見えるが、普段と変わらない様子だ。

 だからといって、本当はどうなのかは、確認しようがない。密かに捜されているかもしれないのだから。

 落ち着かなくて、そわそわと辺りを見回してしまう。すぐにでも誰かが飛び出してくるのではないかと、気になって仕方ない。

「心配しなくても、ジーナがいなくなれば、司祭はすぐに別の巫女を祭り上げるさ。巫女候補なんて、山ほどいるんだし」

「そういうものなの? 神託で選ばれるって、アスも言ったじゃない」

 真剣に言うと、アスは笑い出した。

「そんなの、神殿が適当にでっちあげた嘘だぞ」

「え、そうなの?」

 ジーナも一応神殿で育ったから、人並み程度の信仰心はある。巫女のことだって、遠い存在ではあったが、『国を導く人』としての力を信じていた。

 それをあっさりと嘘だというなど、アスは何を知っているというのだろう。

 そもそも、どうしてアスは巫女について詳しいのか。ただの酔っ払いではないのだろうか。

「巫女っていうのは、昔から何の力も持っていない、ただの傀儡だ。今の巫女だって、元々力なんて何一つもっちゃいない」

 なんでもないことのようにアスが言うのを、ジーナは呆然と聞いていた。

「でも、巫女は国の未来を占うんでしょう? すごくよく当たるっていっていうのに、それもでたらめなの?」

「でたらめっつうのとは違うんだろうな。占いはきちんとした法則と培っていた記録に基づいて成されるものだから。……当たるかどうかは別として」

 そうなんだ、とおかしくなった。

 考えてみれば、巫女の占いは王族や神殿に関する内容が多い。

 例えば、王族の誰が王になるのかとか、戦は自国が勝つだろうとか、聞くのはそういうことばかりだった。

 作物の出来がどうとか、天気がどうとか、不景気がいつなくなるのとか、ジーナたちが気になることは、一度だって巫女が占ったことはない。

 だとすれば。

 巫女の占いも、神託の儀式も嘘ならば、どうしてジーナが選ばれたのだろう。

「巫女になるには、条件がある」

 ジーナの疑問にアスは渋い顔をした。

「初代の巫女と同じ、黒い髪、海の色の瞳の女だ。巫女は外に出ないから、これを知っている人間は少ないが」

「でも、そんな人間は他にもいるよ」

「そうだな。だが、多くはないんだ。この町にだって、ジーナしかいないだろう? それに巫女にするのなら、余計な知識を与えないためにも、小さい頃から、目の届くところで育てた方がいい。あんたは、偶然あの神殿で育ったと思っていたのか?」

「違うの?」

 ジーナは両親を知らない。育ててくれた神殿の司祭は、彼女は神殿の前に捨てられていたのだと言った。他の一緒に育った子供達と同じように。

「違うね。あんたは条件に会う子供として、無理矢理神殿に連れてこられた」

「嘘」

「嘘じゃないさ。他の地区の神殿にも、あんたと同じ黒髪に青い瞳の女がいる。全員じゃないが、その殆どがあんたと同じように連れてこられた人間だ」

「だって、他の神殿に行ったことなんてないもの。だから知らない」

 外は危ないから。

 司祭はそう言って、ジーナが町の外に出るのを嫌がった。他の子供たちにも同じことを言っていたから、単に子供達を心配しているだけだと思っていたのに。

 あの優しさのすべてが嘘だったとは信じられない。

「私以外の子供だって神殿にいた。その子たち皆が巫女になるように育てられたわけじゃないはず。だって、神殿は見寄のない子供を保護する場所だし」

「そうだな。でも、お前くらいの年齢で神殿に残っているものはいないだろう。結婚したり、働くために外へ出たり」

「それは、18歳までは神殿を手伝ってほしいって司祭様に頼まれたから!」

「そ、司祭様がね」

 たたみかけるように言われて、ジーナは言葉を失った。

 わざわざジーナを名指しで指名してくれたのは、彼女を評価してくれたのだと思っていた。

 全て偽りだったとしたら。

 彼女を心配する姿も嘘だったのだとしたら。

「巫女候補で集められた人間が常にいるのは、突然巫女が死んでもすぐ代わりが出せるようにってためだ。18歳までっていうのも、さすがに代替わりした巫女がおばさんじゃいろいろと困るしな。扱いやすいのはやっぱり18歳以下だろう」

「騙しやすいってこと?」

「そのために世間知らずに育てるんじゃないか」

 ジーナは唇を噛んだ。

「でもな。あんたは巫女候補っていっても、保護者は小さな町の小さな神殿の司祭だ。司祭にしても、貴族の出ってわけじゃないから、後ろ盾もないのも当然。だから本来ならば、あんたのところに巫女の話は来ないはずだった」

 他にもっと有力な候補がいたのだとアスはいう。

「ところが、何の後ろ盾もないってことに目をつけた奴がいたんだよ。巫女を取り込めば権力にも近くなる」

「だから、権力が欲しい人が、私を選んだ?」

「そういうこと。あんたを押すために強引にいろいろ進めたらしい。直前まで、別の女性が巫女として選ばれるはずだったわけだから」

 だから、万が一にもジーナが選ばれることはないと、アスは安心していたのだという。

 正式に巫女が決まればアスの仕事は終わる。

 そうすれば、ジーナはもっと自由になるだろうし、アス自身も余計なことに気を回さずに済む。何の気兼ねもしがらみもなく、心おきなく口説こう、などと彼は考えていたのだから。

「どうして私にそこまで話すの?」

 ジーナ自身がそこまで詳しく事情を尋ねたわけではない。

「自分の道を決めるのは、自分自身だ。俺は情報を提供しただけ」

 信じるか信じないかは、あんたの自由だと男は笑う。

「俺が嘘をついている可能性だってあるだろう?」

 突き放すように言われるが、アスが嘘をついているようには見えなかった。

 それに、気になることは他にもある。

「私を攫うように頼まれたんだよね。その人のところへ連れていかなくていいの」

「攫った後は好きにしろってことだったからな」

 どんな依頼人だと、ジーナはあきれてしまう。

 助け出した後は、安全なところに送り届けるなり、依頼人に会わせるなにするのが普通ではないだろうか。

「依頼主って誰なの」

 しかも、彼女を巫女にしたくないなどというよくわからない理由で仕事を依頼するなど不可解きわまりなかった。

「もしかして、私の家族?」

「さあな」

「会えないの?」

「向こうは会いたくないんだってさ」

「どうして」

「俺と同じろくでなしだから」

 あっさりと言われ、ジーナは溜息をついた。

 アスといい、依頼人といい、何を考えているのかさっぱりわからない。

「人には言えないことも結構しているからな。そういう姿を見せたくないんだろう。俺にはちっともわからない感情だがな。どう思われようが会いたい時は、俺は会う。必ず次があるとは限らないだろう?」

「そうなんだ。うん。私もそう思う。だから、ちゃんと会ってみたいな。身内なら」

 ろくでなしでも、身内は身内だ。血が繋がっているというのなら、やはり会いたいと思う。

「で、仕事は終わったんだよね。アスはどうするの? 私はどうなるの?」

 まさかここで放り出したりしないよね、と心配になってきた。

「俺の道は、もう決まっている。俺がどうするかも」

「それはどんな道?」

 アスはそれには答えなかった。

「それより、あんたのことだろう。俺は攫って逃げてほしいと依頼されたが、同時にお前に意思も尊重してほしいとも言われている。だから選べ」

『このまま神殿に帰るか?』

 男の目がそう問いかけているのがわかる。

 彼の意見ではない。ジーナがしたいこと。

 思えば、いつだって彼はそうだった。

 ジーナに問いかけ、答えを即す。

「私を連れていったら、大変なんじゃないの? 世間知らずだし」

 ジーナはわざと即答しなかった。

 本当はまだわからないからだ。自分は残りたいのか、男と共に歩きたいのか。

「世界は広い。捕まらない自信ならあるさ、それに」

 男は不敵に笑った。

「あんた、自分がそこまでこの国に重要な存在だって思ってるのか」

 確かに、全てはでっちあげだ。

 ジーナには特別な力もないし、後ろ盾も身分もない。容姿も普通だ。体も同じ年ごとの少女に比べて凹凸も少なくて、髪が長いにもかかわらず、幼い頃にはよく少年と間違われた。

 男の言い方は失礼ではあったが、真実なので、あまり腹は立たない。

 それに、先ほど、巫女が作られたもので、後ろ盾がないからこそジーナを選んだと言ったではないか。

「歴代の巫女の中には、幸せになったやつもいる。あんたが、巫女を望んだからって、責められることはないぞ」

「そうだね。確かに衣食住に困らないっていうのは魅力的かも」

 そのかわり、自由はないだろう。

 国の外どころか、神殿からもほとんど出られない。こうやって男と話すこともできなくなるだろう。

 アスは代わりは他にもいると言っていた。

 彼女がだめならば別の人。誰でもいいのなら、彼女でなくてもいい。

 我ながらいい加減なで無責任な行動だと思う。困る人だってたくさいいるだろう。巫女が逃げたなど醜聞だろうし、警備をしていた人たちは何をしていたんだって罰せられるかもしれない。司祭だって、あの偉い老人に処罰されてしまうかもしれない。

 それなのに、今自分は逃げたいと思っている。

 巫女になんてなりたくないと思っている。

 もしかすると、ろくでなしだと言う“身内”と同じ血が流れているからかもしれない。

「……昔から海の向こうってどうなっているのか知りたかったんだ」

 子供の頃、海にまつわる物語を聞くのが好きだった。

 遠く果てにある海。

 それから、アスが教えてくれた海。

 まわりには陸地はなく、ただ海だけが広がっている世界。

 見てみたいと思う。

「連れていってよ、海しかない世界」

 アスは笑った。

「じゃあ、行くか」

 ちょっとどこかに買い物にでも出掛けるかのように言ったアスは、ジーナの手を取ることもなく、隣に並ぶこともなく、さっさと歩き出した。

 あわてて走り出す彼女はまだまだ彼とは対等とはいえないけれど、いつかきっと追いついてみせる。

 いや、追い抜いてみせる。

 だけど、今は海だ。

 ジーナは大きく息を吸い込むと、憧れの海へ向かうための一歩を踏み出した。

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