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追放した姫君は、アップルパイを食べる

作者: m
掲載日:2026/08/02

※ 作中に、大規模な火災、死別に関する描写があります。


 目の前には不思議な光景が広がっていた。


「これは、どういうことかしら……」


 赤、黄色、緑。

 大きなものから小さなもの。

 籠にいっぱいに詰められたものから、リボンをかけられたものまで。


 まるで御伽話のような不思議な光景だった。

 絵本から飛び出てきたような赤い林檎が、青い芝の上で、仄白み始めた空の下、薄闇の中で眩く光っている。


 一枚岩から切り出された真新しい墓石の前に、その場には不似合いな、色とりどりの林檎が山となっていた。


 いつも傍に寄り添ってくれている侍女のナーガが、昔と変わらぬ、呆れの混じった声音で告げてくれる。

 髪に白いものが混じり始めても、アンネマリーを諭す時のその声音は、ずっと変わらない。


「姫様の所為ですよ」


「私?」


「あの日、最初に林檎をお持ちになったのは姫様ですから」


 あれは、まだこの墓石が出来上がる前のこと。

 この王都を舐め尽くした災禍の、しばらく後のことだった。




 夜明け前に訪れた王都の共同墓地は、静謐な静けさを湛えていた。

 

 まだ焼けた家々が手付かずのままの街の中心部からは一番遠い、木々に囲まれた、街外れのこの墓地に足を踏み入れると、ようやく、ここしばらく嗅ぎ慣れた、煤の臭いが薄れたような気がした。


 アンネマリーは、目の前を覆っていた黒いベールを剥ぐと、まだ仮の重石が乗せられただけの、一つの墓の前に立つ。

 傍のナーガから、咎めるような視線を感じはするものの、この薄闇では、近寄らなければ人の判別などつかないだろう。


 まだ真新しい墓は、まだその名も刻まれていないのに、すでに数え切れないほどの花に囲まれている。

 枯れかけたものから、先ほど摘んできたばかりのような、朝露に濡れた花まで。

 この下に眠る死者への哀惜が、胸に迫ってくるようだった。 


 けれど自分は、ここまで来るのに、思いの外、時間がかかってしまった。

 

(結局、貴方の最後の姿を、見ることは叶わなかったわ……デューク)


 懐かしい名前を、そっと胸の内で呟く。

 声には出せなかった。


 音にしたら、きっと、泣いてしまうだろうという予感があったから。



 死者が安置されている部屋は満杯で、そうしてここに運び込まれたのだと聞き、アンネマリーは、騎士団の詰め所の外れにある、一つの部屋の前に立っていた。


「ここを通してくださいますか?私は、帝国第三王子の正妃であり、この国の第二王女アンネマリーです」


 城の内門の中にあるこの辺りにまで、煤と、そして肉の焦げるような臭いが充満していた。

 まだ、遠く市街の方には、立ち上る黒煙が細く見えている。

 

「なりません殿下。どうかお引き取りください。御身に障ります」


 部屋の前に立つ騎士たちにも、煤とすえ臭さが混じり合った臭いが纏わりついている。

 髪も顔も煤で汚れて、疲労の色の濃い落ち窪んだ眼差しに、こんな時に、煩わせて申し訳ないという気持ちが湧いてくる。

 けれど、


「この国の王家の者として、礼を尽くしたいのです。……半焼の身となってまで、我が国の民を救ってくれた騎士へ」


 病身の国王である父を見舞うため、およそ二十年ぶりに訪れた祖国が、赤い炎になす術もなく蹂躙されていくのを、アンネマリーは、王宮の窓から、ただ見つめていることしかできなかった。


 半鐘の音が遠く響き渡る音を聞きながら、ただ一秒でも早く、その炎が消え去る刻を、安全な城の中から、祈ることしかできなかった。


 そしてまさか、あの炎の中心に、そこに彼がいるだなんて思ってもみなかったのだった。

 


 二十年ぶりの里帰りに際して、心にあったのは、かつて自分の護衛騎士だった彼のことだった。

 いつも、しょうがないな、という呆れの混じった顔で、自分の癇癪に巻き込まれていた、黒髪の青年。


 アンネマリーのこの二十年は、決して不幸だった訳ではない。

 むしろ、政略結婚だけれども、誠実な夫に恵まれて、子供も出来、異国の地で、望外の幸福を手に入れたと思っている。


 けれど、心の奥で、祖国のことを忘れたことはなかった。


 懐かしい父と兄と、兄の子供たち。

 帝国とは違う、白い小麦の匂いのするパンと、澄んだ野菜と肉のスープを、何度夢に見たことだろう。


 卵白で作った真白い菓子、白い壁に赤い瓦屋根が連なる美しい街並み。

 四季折々に届く新鮮な果物と、王宮の庭に咲く、淡い藤色の大輪の花。


 そして、どんな記憶よりも鮮やかに思い出すのは、あの幼い頃、ほんの一瞬そばにいてくれただけの、黒髪の騎士のことなのだった。


 遠目にでもいいから、元気な姿が見られればいいと。

 密やかに、そう思って帰郷してみると、待っていたのはこんな残酷な再会だった。



「許可できません。遺体は損傷が激しく……、殿下のお身体にも影響が」


「アンネマリー様、戻りましょう」


 アンネマリーを押し留める騎士の言葉に、胸が抉られる。


 付き添ってくれている、ナーガの声も張り詰めている。

 こんな声音の時は、絶対に、アンネマリーの我儘を許してくれないと知っていた。


 けれど。

 これを逃したら、もう二度と、彼に会うことは叶わない。


(どんな姿でも構わない、せめて、最後に)


 せめて、彼の最期の姿を見たかった。



 喉元まで、「命令」の一言が迫り上がってきた時だった。


「アンネマリー姫様に申し上げます!」


 すぐ側から、聞こえてきた声に、アンネマリーは振り返った。

 長らく耳にすることのなかった、懐かしい呼び名だった。


 見ると、一人の壮年の騎士が、膝をついた姿勢でこちらに頭を垂れている。

 短く刈られた金茶の髪が、一部焦げたように縮れて、他の騎士たちと同様に、身体中煤に塗れている。


 王族の前で膝をつくしきたりは、嫁ぎ先の帝国にはないもので。

 こんな状況なのに、その懐かしさに、アンネマリーはそっと目を細めた。


「自分は、亡くなったレアンドル隊長……デュークの同僚です。かつて、彼が王女殿下の護衛騎士を務めていた頃、寮で同室でありました」


 その言葉に、記憶を探ると、確かに、その金茶の髪色に見覚えがあるような気がした。

 王宮の中庭で、黒髪の彼よりも背の高い青年が、ふざけ合う様にして、並んでいる姿を。


「ええ……覚えています」


 あんな風に、気楽に肩を並べて。


(笑い合ってみたかった)


 そんな羨望の気持ちを抱いていた幼い自分のことを、アンネマリーはずっと忘れていた。


 目の前の彼は、そのまま顔を上げることなく、言葉を紡いでいく。


「自分は、昨年父を亡くしました。自宅で、その最期を看取りました。姫様、最期の瞬間は、思いの外、心に残るものです。どんなに多くの思い出があったとしても、忘れられないものです。ですから、」


 顔を上げた、彼の瞳は、涙に濡れていた。

 その瞳の色が、わからないほどに。


「あいつの顔を、あの頃のままで、覚えていてやってください。姫様の、お側にいた頃のあいつのまま。最期の姿を、姫様に見られることを……きっとあいつは望んでいません。そんなことを許せば、きっと俺がどやされます」


 最後の方は、涙に掠れて、もう声になっていなかった。

 けれど、その視線は、アンネマリーをしっかりと見つめたまま。


 その視線を受け止める自分の瞳から、涙がこぼれ落ちていくのがわかる。


 平時なら、帝国の王家に連なる自分への不敬で、処罰の対象にだってなるだろう。

 その涙の訴えを退けて、無理を通すことだって、できなくはなかった。


 けれど、気づいていた。


 この国の王族としての、死者への敬意なんてそんなご大層なものではなく。

 ただ、自分が、彼に会いたいのだと、気づいていたから。


 だから結局、彼に会うことは叶わないまま、アンネマリーは、その場を後にしたのだった。 

 



 あの日から、もう随分時間が経ってしまった。

 結局、こうして彼が仮の墓石の下に収まるまで、一度も会いにくることは叶わないままで。


 名もない墓石の上に落ちた、枯れ葉を一つ手に取って払う。

 一つ、また一つ。


 数日前、父王が崩御した。

 それでも病を押して病床から、復興の道筋をつけるまで随分粘ってくれた。


 まだ目を閉じれば、瞼の裏に、父の骨ばった手や、最期の数分間の苦悶に満ちた表情が、今さっきの出来事のように、鮮やかに焼き付いている。


 かつて謁見の間で、諸侯たちを睥睨する、立派な父の姿を何度も目にしていたはずなのに。

 今思い出すのは、最期の、あの窶れた姿なのだった。


 それでも、きっと。

 

(あの時、見なければ良かった、とは、きっと思ったりはしなかった) 

 

 必死で止めてくれた、あの日の騎士の姿を思い出す。

 けれど確かに、きっと記憶に焼き付いてはしまっていただろう。

 

 あの壮年の騎士は、彼と同じくらいの歳だったから、きっと彼も、あんな風になっていたのだろうか。


 けれど記憶の中の彼は、あの頃の、アンネマリーの側にいた、彼のままだ。

 これから先ずっと。

 もう、永遠に変わることなく。



「姫様」


 帝国にまで着いてきてくれたナーガは、アンネマリーが婚姻し、姫様なんて歳じゃないと言っても、二人の時はその呼び名を変えてくれなかった。

 そして今となってはもう、そう呼びかけてくれるのは、彼女だけになってしまった。


 ナーガが手に持っていた籠をこちらに寄越してくれる。

 小さな籠に入った赤い林檎は、デュークの故郷からの支援品だった。


 王宮の広間に集められた、地方からの物資の分配について、行政官たちと話し合いながら、ふと、積み上げられた木箱に記された、彼の故郷の名が目に留まったのだった。

 釘で打ち付けられた蓋をとってみると、中には、あの日の炎とは似ても似つかない、赤く色づいた美しい林檎が詰まっていた。


 墓石の上に、そっと籠を置く。

 王宮の厨房に分配され、アンネマリー用にと分けられた分を、今日はそのまま持ってきていた。


 こんなことくらいしか、思いつかなかった。

 この二十年の彼のことを、自分は何も知らないのだ。

 

 婚姻はしなかったらしい。

 地方での昇格を断って、この王都の地で、ずっと、騎士として暮らしていたということだけ。


 だからこうして、共同墓地の一角にその墓が据えられた。

 以来、彼の墓を訪れる人が、途切れることはないのだという。


 王宮の中にある、かつてこの国を救った英傑たちの隣に葬ることも検討されたが、それよりも、こうして誰もが訪れることができる場所がいいだろうと、騎士団からの奏上があったと聞いている。



 白んできた空の下、ふと、子供の声が聞こえた気がして、アンネマリーは顔を上げた。

 墓地の入り口の方から、幼い少女と、その母親らしき婦人が、近づいてくるところだった。


 護衛の騎士にそっと手を挙げて制する。

 少女の手には、真白い野花が握られている。


「お姉さんも、このお墓の騎士様に助けてもらったの?」


 物々しい周囲には気づかないまま、近づいて来た少女が、アンネマリーを見上げて声をかけてくれる。


「……ええ、そうよ。昔、助けてもらったの。貴女も?」


 この母娘が、日も明けやらぬ早朝に墓地を訪れたのは、少女の顔半分を覆っている包帯のためだろうか。


「うん、騎士様のおかげでメリル、助かったの。だからね、いつもお礼を言いにきてるの」


 彼が火の中から救った民は二十四名。

 騎士団が、救出は難しいと、最初に見切りをつけた区画だった。


「そう、貴女が無事で、良かったわ」


 この少女よりもう少し、大きいくらいだったろうか。

 この国で、少女だった自分は、その頃ようやく青年になったばかりの彼を、随分困らせていたものだった。


 何かにつけて癇癪を起こして、『どっか行って!この部屋から追放よ!』と叫ぶアンネマリーに、彼は、「しょうがないな」という顔を隠さなかった。

 

 あの王宮で、王家の唯一の姫であったアンネマリーに、そんな顔をするのは彼だけだった。

 彼に「しょうがないな」という顔をされると、アンネマリーは、自分がどこにでもいるような、ただの少女になったような気がしたものだった。


 崇敬でも、憐れみでも、悪意でもない、そんな普通の表情一つで。

 彼は、アンネマリーの特別になったのだった。



「わぁ、りんご美味しそう」


 足元にしゃがんだ少女が、赤い林檎に目を留めて微笑んだ。


「この騎士様、りんごが好きなの?メリルとママと同じだ」 


 その笑みは、あの頃の自分のように、ただ、無邪気で、楽しそうで……生者の輝きに満ちている。

 小さな手を取って、籠の柄をそっと握らせる。


「差し上げるわ、どうぞ持っていって。きっとその方が、この騎士様も喜ぶわ」


 恐縮する母親に連れられて、離れてもなお、手を振りながら去って行く少女を見送って。


 手のひらに感じた、子供らしい高い体温に、この少女の命が、確かにここに、残されているのだと感じていた。

 



「おそらくその時の母娘から、林檎が好物だと広まったのでしょう。それからこうして、林檎を手向ける者が増えたようですから」


 それは知らなかった。

 けれど、見たところ、真新しい墓石の周囲には、古びたものや、腐ったものはなく、どうしたことかと思ったら。

 鼠や虫が湧かないよう、有志の者たちが、孤児院や避難所に分配しているらしい。


「では、彼らに一度、話を聞かなければね」


 有志の者たちの負担になりすぎていては本末転倒だろうし、折角の善意が、必要な人の手に渡っているかどうかもチェックしておきたい。

 国の介入が必要かは分からないが、それでも一度、責任者に確認しておく方がいいだろう。


「姫様」


 声音に潜む、咎めるような響きに、わかっていると頷く。

 

「ええナーガ。でも、ここは私の国でもあるのよ」


 今朝にも、もう何度目かになる、帰国を促す書面が、帝国から届けられていた。

 もう皆成人したとはいえ、国にいる子供たちに会いたい気持ちだって勿論ある。 


 彼の墓に積み上がった林檎を背に、アンネマリーは歩き出す。

 この林檎のように、やらなければならぬこと、そして自分にできることが、山のように積み上がっているのだ。


 あの日からずっと、黒のドレスを纏って、避難所や施設を自ら訪れるアンネマリーを、誰かが「黒衣の聖女」と呼び始めたらしい。

 

 アンネマリー自身は、聖女など、なんとも烏滸がましいと思うが、けれど、そんな自分が訪れることを喜ぶ民の姿を見れば、どんな呼び名でも構わないという気もしてくる。


 父王の死は、まだしばらく伏せられることになっている。

 兄の即位のために、煩い貴族たちへの牽制として、いずれは帝国の力も借りなければならないだろう。


(もう少し、この街が、この国が、あの炎の爪痕から、立ち直るまで)


 それまでは、この黒いドレス姿で、彼の守ったこの国を、アンネマリーも支えたいと思っている。


 


 追放なんて、本当はしたくなかった。

 叶うことならずっと、「しょうがないな」という顔で、そばにいて欲しかった。

 

 なのに、気がつけば彼は、永遠に、この世界から追放されてしまった。


(いつか)


 この世界から自分も去る時には。

 彼に会うときに、恥じない自分でいたい。


 まとまらない意見に、終わらない調整に、儘ならぬ復興に、真夜中に焦燥感に焼かれて眠れない夜もある。

 けれど、そんな夜闇の中、もがきながら、それでも朝日を待っている。


 いつだって理不尽な理由で彼を困らせていたけれど、でも、本当にしょうがないやつにはなりたくない。


 今、自分を奮い立たせているのは、王女の矜持でも王家としての自負でもなく、はるか昔の、そんな幼い恋心なのだった。



 そうしていつか。

 記憶の中よりも、年老いた彼に会えたら。

 

 二人で、アップルパイを食べるのだ。



 そして、あの顔で笑ってほしい。

 しょうがないなと、笑ってほしい。














 追放した姫君は、アップルパイを食べる。

 追放先で、騎士と一緒に。



災害の報に触れ、この作品を公開することについて考えました。

それでも、こういった場所で、物語だからこそ、心に寄り添い、毎日を支える力があると信じています。

ささやかではありますが、この作品が少しでも、どなたかの心休まる一時になれば幸いです。


皆様が、一日も早く穏やかな日々を取り戻せますよう、心からお祈り申し上げます。






「デューク、貴方意外とおじさんなのね」


「姫様だって、たいして変わらないじゃないですか」


「まぁ、失礼しちゃうわ。これでもまだ、貴方よりもちょっと上くらいよ」


「……こっちにくるのが早すぎますよ。もうちょっと皺くちゃになるまで、頑張ってもらわないと」


「そうね。けれど私なりに、頑張ったのよ?英雄にお会いするのだから、礼を尽くさなくてはね」


「黒衣の聖女……似合わないですね」


「貴方だって、英雄なんて柄じゃなくてよ。……仕方がないから、私の護衛騎士に戻るといいわ。同じ席でお茶ができる権利付きよ」


「それは光栄です、姫様」



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