追放した姫君は、アップルパイを食べる
※ 作中に、大規模な火災、死別に関する描写があります。
目の前には不思議な光景が広がっていた。
「これは、どういうことかしら……」
赤、黄色、緑。
大きなものから小さなもの。
籠にいっぱいに詰められたものから、リボンをかけられたものまで。
まるで御伽話のような不思議な光景だった。
絵本から飛び出てきたような赤い林檎が、青い芝の上で、仄白み始めた空の下、薄闇の中で眩く光っている。
一枚岩から切り出された真新しい墓石の前に、その場には不似合いな、色とりどりの林檎が山となっていた。
いつも傍に寄り添ってくれている侍女のナーガが、昔と変わらぬ、呆れの混じった声音で告げてくれる。
髪に白いものが混じり始めても、アンネマリーを諭す時のその声音は、ずっと変わらない。
「姫様の所為ですよ」
「私?」
「あの日、最初に林檎をお持ちになったのは姫様ですから」
あれは、まだこの墓石が出来上がる前のこと。
この王都を舐め尽くした災禍の、しばらく後のことだった。
夜明け前に訪れた王都の共同墓地は、静謐な静けさを湛えていた。
まだ焼けた家々が手付かずのままの街の中心部からは一番遠い、木々に囲まれた、街外れのこの墓地に足を踏み入れると、ようやく、ここしばらく嗅ぎ慣れた、煤の臭いが薄れたような気がした。
アンネマリーは、目の前を覆っていた黒いベールを剥ぐと、まだ仮の重石が乗せられただけの、一つの墓の前に立つ。
傍のナーガから、咎めるような視線を感じはするものの、この薄闇では、近寄らなければ人の判別などつかないだろう。
まだ真新しい墓は、まだその名も刻まれていないのに、すでに数え切れないほどの花に囲まれている。
枯れかけたものから、先ほど摘んできたばかりのような、朝露に濡れた花まで。
この下に眠る死者への哀惜が、胸に迫ってくるようだった。
けれど自分は、ここまで来るのに、思いの外、時間がかかってしまった。
(結局、貴方の最後の姿を、見ることは叶わなかったわ……デューク)
懐かしい名前を、そっと胸の内で呟く。
声には出せなかった。
音にしたら、きっと、泣いてしまうだろうという予感があったから。
死者が安置されている部屋は満杯で、そうしてここに運び込まれたのだと聞き、アンネマリーは、騎士団の詰め所の外れにある、一つの部屋の前に立っていた。
「ここを通してくださいますか?私は、帝国第三王子の正妃であり、この国の第二王女アンネマリーです」
城の内門の中にあるこの辺りにまで、煤と、そして肉の焦げるような臭いが充満していた。
まだ、遠く市街の方には、立ち上る黒煙が細く見えている。
「なりません殿下。どうかお引き取りください。御身に障ります」
部屋の前に立つ騎士たちにも、煤とすえ臭さが混じり合った臭いが纏わりついている。
髪も顔も煤で汚れて、疲労の色の濃い落ち窪んだ眼差しに、こんな時に、煩わせて申し訳ないという気持ちが湧いてくる。
けれど、
「この国の王家の者として、礼を尽くしたいのです。……半焼の身となってまで、我が国の民を救ってくれた騎士へ」
病身の国王である父を見舞うため、およそ二十年ぶりに訪れた祖国が、赤い炎になす術もなく蹂躙されていくのを、アンネマリーは、王宮の窓から、ただ見つめていることしかできなかった。
半鐘の音が遠く響き渡る音を聞きながら、ただ一秒でも早く、その炎が消え去る刻を、安全な城の中から、祈ることしかできなかった。
そしてまさか、あの炎の中心に、そこに彼がいるだなんて思ってもみなかったのだった。
二十年ぶりの里帰りに際して、心にあったのは、かつて自分の護衛騎士だった彼のことだった。
いつも、しょうがないな、という呆れの混じった顔で、自分の癇癪に巻き込まれていた、黒髪の青年。
アンネマリーのこの二十年は、決して不幸だった訳ではない。
むしろ、政略結婚だけれども、誠実な夫に恵まれて、子供も出来、異国の地で、望外の幸福を手に入れたと思っている。
けれど、心の奥で、祖国のことを忘れたことはなかった。
懐かしい父と兄と、兄の子供たち。
帝国とは違う、白い小麦の匂いのするパンと、澄んだ野菜と肉のスープを、何度夢に見たことだろう。
卵白で作った真白い菓子、白い壁に赤い瓦屋根が連なる美しい街並み。
四季折々に届く新鮮な果物と、王宮の庭に咲く、淡い藤色の大輪の花。
そして、どんな記憶よりも鮮やかに思い出すのは、あの幼い頃、ほんの一瞬そばにいてくれただけの、黒髪の騎士のことなのだった。
遠目にでもいいから、元気な姿が見られればいいと。
密やかに、そう思って帰郷してみると、待っていたのはこんな残酷な再会だった。
「許可できません。遺体は損傷が激しく……、殿下のお身体にも影響が」
「アンネマリー様、戻りましょう」
アンネマリーを押し留める騎士の言葉に、胸が抉られる。
付き添ってくれている、ナーガの声も張り詰めている。
こんな声音の時は、絶対に、アンネマリーの我儘を許してくれないと知っていた。
けれど。
これを逃したら、もう二度と、彼に会うことは叶わない。
(どんな姿でも構わない、せめて、最後に)
せめて、彼の最期の姿を見たかった。
喉元まで、「命令」の一言が迫り上がってきた時だった。
「アンネマリー姫様に申し上げます!」
すぐ側から、聞こえてきた声に、アンネマリーは振り返った。
長らく耳にすることのなかった、懐かしい呼び名だった。
見ると、一人の壮年の騎士が、膝をついた姿勢でこちらに頭を垂れている。
短く刈られた金茶の髪が、一部焦げたように縮れて、他の騎士たちと同様に、身体中煤に塗れている。
王族の前で膝をつくしきたりは、嫁ぎ先の帝国にはないもので。
こんな状況なのに、その懐かしさに、アンネマリーはそっと目を細めた。
「自分は、亡くなったレアンドル隊長……デュークの同僚です。かつて、彼が王女殿下の護衛騎士を務めていた頃、寮で同室でありました」
その言葉に、記憶を探ると、確かに、その金茶の髪色に見覚えがあるような気がした。
王宮の中庭で、黒髪の彼よりも背の高い青年が、ふざけ合う様にして、並んでいる姿を。
「ええ……覚えています」
あんな風に、気楽に肩を並べて。
(笑い合ってみたかった)
そんな羨望の気持ちを抱いていた幼い自分のことを、アンネマリーはずっと忘れていた。
目の前の彼は、そのまま顔を上げることなく、言葉を紡いでいく。
「自分は、昨年父を亡くしました。自宅で、その最期を看取りました。姫様、最期の瞬間は、思いの外、心に残るものです。どんなに多くの思い出があったとしても、忘れられないものです。ですから、」
顔を上げた、彼の瞳は、涙に濡れていた。
その瞳の色が、わからないほどに。
「あいつの顔を、あの頃のままで、覚えていてやってください。姫様の、お側にいた頃のあいつのまま。最期の姿を、姫様に見られることを……きっとあいつは望んでいません。そんなことを許せば、きっと俺がどやされます」
最後の方は、涙に掠れて、もう声になっていなかった。
けれど、その視線は、アンネマリーをしっかりと見つめたまま。
その視線を受け止める自分の瞳から、涙がこぼれ落ちていくのがわかる。
平時なら、帝国の王家に連なる自分への不敬で、処罰の対象にだってなるだろう。
その涙の訴えを退けて、無理を通すことだって、できなくはなかった。
けれど、気づいていた。
この国の王族としての、死者への敬意なんてそんなご大層なものではなく。
ただ、自分が、彼に会いたいのだと、気づいていたから。
だから結局、彼に会うことは叶わないまま、アンネマリーは、その場を後にしたのだった。
あの日から、もう随分時間が経ってしまった。
結局、こうして彼が仮の墓石の下に収まるまで、一度も会いにくることは叶わないままで。
名もない墓石の上に落ちた、枯れ葉を一つ手に取って払う。
一つ、また一つ。
数日前、父王が崩御した。
それでも病を押して病床から、復興の道筋をつけるまで随分粘ってくれた。
まだ目を閉じれば、瞼の裏に、父の骨ばった手や、最期の数分間の苦悶に満ちた表情が、今さっきの出来事のように、鮮やかに焼き付いている。
かつて謁見の間で、諸侯たちを睥睨する、立派な父の姿を何度も目にしていたはずなのに。
今思い出すのは、最期の、あの窶れた姿なのだった。
それでも、きっと。
(あの時、見なければ良かった、とは、きっと思ったりはしなかった)
必死で止めてくれた、あの日の騎士の姿を思い出す。
けれど確かに、きっと記憶に焼き付いてはしまっていただろう。
あの壮年の騎士は、彼と同じくらいの歳だったから、きっと彼も、あんな風になっていたのだろうか。
けれど記憶の中の彼は、あの頃の、アンネマリーの側にいた、彼のままだ。
これから先ずっと。
もう、永遠に変わることなく。
「姫様」
帝国にまで着いてきてくれたナーガは、アンネマリーが婚姻し、姫様なんて歳じゃないと言っても、二人の時はその呼び名を変えてくれなかった。
そして今となってはもう、そう呼びかけてくれるのは、彼女だけになってしまった。
ナーガが手に持っていた籠をこちらに寄越してくれる。
小さな籠に入った赤い林檎は、デュークの故郷からの支援品だった。
王宮の広間に集められた、地方からの物資の分配について、行政官たちと話し合いながら、ふと、積み上げられた木箱に記された、彼の故郷の名が目に留まったのだった。
釘で打ち付けられた蓋をとってみると、中には、あの日の炎とは似ても似つかない、赤く色づいた美しい林檎が詰まっていた。
墓石の上に、そっと籠を置く。
王宮の厨房に分配され、アンネマリー用にと分けられた分を、今日はそのまま持ってきていた。
こんなことくらいしか、思いつかなかった。
この二十年の彼のことを、自分は何も知らないのだ。
婚姻はしなかったらしい。
地方での昇格を断って、この王都の地で、ずっと、騎士として暮らしていたということだけ。
だからこうして、共同墓地の一角にその墓が据えられた。
以来、彼の墓を訪れる人が、途切れることはないのだという。
王宮の中にある、かつてこの国を救った英傑たちの隣に葬ることも検討されたが、それよりも、こうして誰もが訪れることができる場所がいいだろうと、騎士団からの奏上があったと聞いている。
白んできた空の下、ふと、子供の声が聞こえた気がして、アンネマリーは顔を上げた。
墓地の入り口の方から、幼い少女と、その母親らしき婦人が、近づいてくるところだった。
護衛の騎士にそっと手を挙げて制する。
少女の手には、真白い野花が握られている。
「お姉さんも、このお墓の騎士様に助けてもらったの?」
物々しい周囲には気づかないまま、近づいて来た少女が、アンネマリーを見上げて声をかけてくれる。
「……ええ、そうよ。昔、助けてもらったの。貴女も?」
この母娘が、日も明けやらぬ早朝に墓地を訪れたのは、少女の顔半分を覆っている包帯のためだろうか。
「うん、騎士様のおかげでメリル、助かったの。だからね、いつもお礼を言いにきてるの」
彼が火の中から救った民は二十四名。
騎士団が、救出は難しいと、最初に見切りをつけた区画だった。
「そう、貴女が無事で、良かったわ」
この少女よりもう少し、大きいくらいだったろうか。
この国で、少女だった自分は、その頃ようやく青年になったばかりの彼を、随分困らせていたものだった。
何かにつけて癇癪を起こして、『どっか行って!この部屋から追放よ!』と叫ぶアンネマリーに、彼は、「しょうがないな」という顔を隠さなかった。
あの王宮で、王家の唯一の姫であったアンネマリーに、そんな顔をするのは彼だけだった。
彼に「しょうがないな」という顔をされると、アンネマリーは、自分がどこにでもいるような、ただの少女になったような気がしたものだった。
崇敬でも、憐れみでも、悪意でもない、そんな普通の表情一つで。
彼は、アンネマリーの特別になったのだった。
「わぁ、りんご美味しそう」
足元にしゃがんだ少女が、赤い林檎に目を留めて微笑んだ。
「この騎士様、りんごが好きなの?メリルとママと同じだ」
その笑みは、あの頃の自分のように、ただ、無邪気で、楽しそうで……生者の輝きに満ちている。
小さな手を取って、籠の柄をそっと握らせる。
「差し上げるわ、どうぞ持っていって。きっとその方が、この騎士様も喜ぶわ」
恐縮する母親に連れられて、離れてもなお、手を振りながら去って行く少女を見送って。
手のひらに感じた、子供らしい高い体温に、この少女の命が、確かにここに、残されているのだと感じていた。
「おそらくその時の母娘から、林檎が好物だと広まったのでしょう。それからこうして、林檎を手向ける者が増えたようですから」
それは知らなかった。
けれど、見たところ、真新しい墓石の周囲には、古びたものや、腐ったものはなく、どうしたことかと思ったら。
鼠や虫が湧かないよう、有志の者たちが、孤児院や避難所に分配しているらしい。
「では、彼らに一度、話を聞かなければね」
有志の者たちの負担になりすぎていては本末転倒だろうし、折角の善意が、必要な人の手に渡っているかどうかもチェックしておきたい。
国の介入が必要かは分からないが、それでも一度、責任者に確認しておく方がいいだろう。
「姫様」
声音に潜む、咎めるような響きに、わかっていると頷く。
「ええナーガ。でも、ここは私の国でもあるのよ」
今朝にも、もう何度目かになる、帰国を促す書面が、帝国から届けられていた。
もう皆成人したとはいえ、国にいる子供たちに会いたい気持ちだって勿論ある。
彼の墓に積み上がった林檎を背に、アンネマリーは歩き出す。
この林檎のように、やらなければならぬこと、そして自分にできることが、山のように積み上がっているのだ。
あの日からずっと、黒のドレスを纏って、避難所や施設を自ら訪れるアンネマリーを、誰かが「黒衣の聖女」と呼び始めたらしい。
アンネマリー自身は、聖女など、なんとも烏滸がましいと思うが、けれど、そんな自分が訪れることを喜ぶ民の姿を見れば、どんな呼び名でも構わないという気もしてくる。
父王の死は、まだしばらく伏せられることになっている。
兄の即位のために、煩い貴族たちへの牽制として、いずれは帝国の力も借りなければならないだろう。
(もう少し、この街が、この国が、あの炎の爪痕から、立ち直るまで)
それまでは、この黒いドレス姿で、彼の守ったこの国を、アンネマリーも支えたいと思っている。
追放なんて、本当はしたくなかった。
叶うことならずっと、「しょうがないな」という顔で、そばにいて欲しかった。
なのに、気がつけば彼は、永遠に、この世界から追放されてしまった。
(いつか)
この世界から自分も去る時には。
彼に会うときに、恥じない自分でいたい。
まとまらない意見に、終わらない調整に、儘ならぬ復興に、真夜中に焦燥感に焼かれて眠れない夜もある。
けれど、そんな夜闇の中、もがきながら、それでも朝日を待っている。
いつだって理不尽な理由で彼を困らせていたけれど、でも、本当にしょうがないやつにはなりたくない。
今、自分を奮い立たせているのは、王女の矜持でも王家としての自負でもなく、はるか昔の、そんな幼い恋心なのだった。
そうしていつか。
記憶の中よりも、年老いた彼に会えたら。
二人で、アップルパイを食べるのだ。
そして、あの顔で笑ってほしい。
しょうがないなと、笑ってほしい。
追放した姫君は、アップルパイを食べる。
追放先で、騎士と一緒に。
災害の報に触れ、この作品を公開することについて考えました。
それでも、こういった場所で、物語だからこそ、心に寄り添い、毎日を支える力があると信じています。
ささやかではありますが、この作品が少しでも、どなたかの心休まる一時になれば幸いです。
皆様が、一日も早く穏やかな日々を取り戻せますよう、心からお祈り申し上げます。
「デューク、貴方意外とおじさんなのね」
「姫様だって、たいして変わらないじゃないですか」
「まぁ、失礼しちゃうわ。これでもまだ、貴方よりもちょっと上くらいよ」
「……こっちにくるのが早すぎますよ。もうちょっと皺くちゃになるまで、頑張ってもらわないと」
「そうね。けれど私なりに、頑張ったのよ?英雄にお会いするのだから、礼を尽くさなくてはね」
「黒衣の聖女……似合わないですね」
「貴方だって、英雄なんて柄じゃなくてよ。……仕方がないから、私の護衛騎士に戻るといいわ。同じ席でお茶ができる権利付きよ」
「それは光栄です、姫様」




