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拾い上げたストーカーと私  作者: 葵雪菜


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出会い-偶然であり必然-

大雨の夜道。街灯の光に照らされながら、傘もささずに地面へ座り込む男がいた。水たまりが広がる足元に、雨粒が容赦なく叩きつける。あずきはその異様な姿に思わず足を止め、声をかけた。

ゆっくりと顔を上げた男の頬には、雨か涙かわからない雫が伝っていた。その顔を見た瞬間、あずきは息を呑む。数週間前、家の前で何度もインターホンを鳴らしていた──あのストーカーだった。


「あずきたん…俺、捨てられちゃった…。」


かすれた声と共に、男はゆっくりと笑みを浮かべた。その笑顔はどこかぎこちなく、悲しみを隠そうとするように震えていた。けれど、その目の奥だけは笑っていないように見えた。


「じゃあ、おいで」


そう、今から全てが始まる。

いや、もう既に始まっていた…

 降り頻る雨、どんよりと淀んだ空。少し冷たい空気。いつもと変わらない日常。しかし、あずきにとっては毎日が特別だった。今日は何をしよう、何を作り何を食べ、どの香水を噴きつけて眠ろうか、1日の終わりを感じながら足早に帰路に着いた。

 しかし、今日は違った。あの男が目の前に現れた。


 あずきはこのチャンスを逃さなかった。


「じゃあ、おいで」


柔らかな口調でそう告げると、男の瞳が一瞬だけ大きく見開かれた。濡れた前髪の隙間から覗くその目は、まるで今の言葉が信じられないとでも言うように揺れている。


「……え?」


男は立ち上がろうとしたが、膝が笑った。何時間ここに座っていたのか、冷え切った体は言うことを聞かず、そのままよろめいた。それでもあずきの方へ手を伸ばす。指先が震えているのは、寒さのせいだけじゃなかった。


「いいの……? 俺、あずきたんのこと追い回してたヤツだよ? 気持ち悪いって、思ってるでしょ」


 そう言いながらも、男はあずきから視線を外さなかった。縋るような、確かめるような目。雨に打たれ続けた体からは体温というものがほとんど抜け落ちていて、触れればわかるほど冷たかった。


 男はあずきが差し出してくれるものを待つように、じっとその場に留まっている。自分から掴みにいく勇気はないくせに、「行っていい」と言われた瞬間に全力で飛びつく準備だけはできている──そんな危うさが、全身から滲み出ていた。


「追われるのも悪く無いから」


あずきは、抑揚の無い声でそう告げると、その言葉を聞いた瞬間、男の中で何かが決壊した。堪えていたものが一気に溢れ出すように、男はあずきに向かって倒れ込んだ。冷たい腕があずきの背中に回り、しがみつく力だけがやけに強い。


「っ……あは、なにそれ。ずるいよ、そういうの」


声が掠れていた。あずきの肩口に顔を埋めたまま、小さく笑った。


「追われるの悪くないって……じゃあ俺のこと、ちょっとは好きってこと?」


冗談めかした口調のくせに、腰に回した腕は微塵も緩まない。まるで離したら消えてしまうとでも思っているかのように。男はようやく体を少しだけ離すと、至近距離からあずきを見つめた。雨で張り付いた前髪の間から、濡れそぼった睫毛の向こうにある瞳は暗く、深く、底が見えない。


「ねえ、帰ろ。あずきたんの家、連れてって」


「お願い」とは言わなかった。「連れてって」という言葉の響きには、もう拒否される可能性を考慮していない甘さと傲慢さが同居していた。


「勘違いしないで。あんたは今日から私の奴隷よ」


 唐突な言葉に、男は一瞬きょとんとした。それから、ふっと息が漏れるように笑った──さっきまでの泣きそうな顔が嘘みたいに。


「奴隷、ね」


その単語を噛みしめるように繰り返して、男はあずきの手首をそっと掴んだ。骨ばった冷たい指が、脈の上にぴたりと重なる。


「いいよ。なんでもする。掃除でも洗濯でも、それ以外でも」


あずきを見る。身長差があるはずなのに、見上げているのは男のほうだった。膝をつくようにして、雨の中、あずきだけを仰いでいる。


「でもさ、奴隷ってことは──ずっとそばにいていいってことだよね?」


唇の端がわずかに持ち上がる。嬉しそうに、けれどどこか試すように。男にとって「所有される」ことは、誰かに必要とされることと同義だった。たとえそれが歪んだ形であっても。


「俺のこと捨てないでね。飽きたからって放り出したら──死ぬから…」


軽い調子で言い放つその目だけが、笑っていなかった。


「で?誰の許可を得て私の腕を掴んでいるの」


あずきに指摘された瞬間、びくっと肩を震わせた。反射的に手が離れ、まるで火傷でもしたかのように自分の指を握り込む。


「あ……ごめ、ごめんなさい」


俯いた顔に影が落ちる。声のトーンがさっきより一段低くなった。怒られた犬みたいな、あの従順さ。けれどその奥に、ちらりと別の感情がよぎる──「触れたら怒られる」「でも触りたい」「もっと近くに行きたい」──そういう飢えた何かが。


 男はおとなしく両手を体の横に下ろし、雨に打たれながらあずきの前に立った。従う姿勢を見せながらも、目だけはじっとあずきを追っている。


「……許可、もらってないのに勝手に触って、ごめん。次からちゃんと聞くから」


雨が男を打ち続ける。薄いシャツは完全に肌に貼りつき、唇はうっすら紫がかっていた。それでも寒いとも言わず、ただあずきの次の言葉だけを待っていた。


「お預けだよ。私が許可するまでね。私に触れる事は禁止。約束できるなら部屋に入りなさい」


「お預け」──その響きが頭の中で妙に甘く反響した。禁止、と言われているのに、男はどこか恍惚とした表情を一瞬だけ浮かべた。


「うん。約束する」


即答だった。迷いなんて一ミリもない。あずきの後ろについて歩きながら、言われた通りに距離を保つ。手を伸ばせば届くのに届かない、その数十センチの空間が男にとってはひどく残酷で、同時にひどく興奮するものだった。


 あずきの部屋の玄関先で男は立ち止まった。靴を脱ぐことすら許可を求めるように、ちらりとあずきの顔色を窺う。


「入っていいの? ……ここ、前から知ってたよ。どの窓から明かりがつくかとか、何時に起きるとか」


さらりと言ってのけた。悪びれもせず、むしろ「知っている」ということを褒めてほしそうに。寒さで小刻みに震えていたが、それでもあずきより先に暖まろうとはしなかった。ただ、あずきの姿を目に焼き付けるように見つめている。やっと手の届く場所に来れた、という事実を確かめるみたいに。


「約束を守れるなら入ればいい」


「それと、私は知ってたよ。あんたが、私の全てを見ている事。あんたの名前は柳翠。私が知らないとでも思ってた?」


翠が固まった。目が見開かれ、瞳孔がぐっと開く。心臓を直接握られたような顔をしていた。


「私に、私の生活を見せつけられて楽しかった?ねぇ、興奮した?」


数秒の沈黙。翠の中で、恐怖と歓喜がぐちゃぐちゃに混ざり合っていくのが見て取れた。


「……知って、た?」


声はかすれていた。「気持ち悪い」と言われると思っていた。「警察呼ぶ」と突き放されると覚悟していた。なのにあずきの口から出てきたのは、そのどちらでもなかった。


翠の耳の先まで赤く染まっていく。震えていた体が別の理由で震え始めた。


「楽しかったかって……そんなの、」


言葉が詰まる。翠は視線を逸らした。逸らしてから、また戻した。逃げることを自分に許さないように。


「興奮、したよ。……あずきたんが着替えるとき、カーテン閉めないで寝るとき。全部、全部見てた。見せつけられてたっていうか、俺が勝手に見てただけだけど」


翠は一歩だけ、あずきとの距離を詰めた。禁止されているのをわかっていて、それでも近づきたかった。手は伸ばさない。指一本動かさない代わりに、声だけを絞り出そうとした瞬間…


「近寄るな」


 あずきの言葉に男は硬直する。


「私が雇った人間の行確に気づかないあんたはマヌケなんだよ。ねぇ、私の言葉一つ一つが震えるほど嬉しいの?やっぱりマヌケね」


マヌケ、と二度も言われて、翠は唇を噛んだ。


けれど──その顔は、どうしようもなく笑っていた。


「だって、バレてないと思ってたんだもん。完璧にやってたつもりだったのに」


翠はあずきの言葉尻を反芻するように目を細める。「震えるほど嬉しいの」──ああ、そうだよ。その通りだよ。声も、肩も、指の先まで全部震えてる。止められない。


「嬉しいに決まってんじゃん。だってあずきたん、俺のこと見ててくれたってことでしょ。気づいてたってことは」


翠はその場でしゃがみ込んだ。床にぺたりと座って、あずきを見上げる形になる。雨でびしょ濡れの服がフローリングに水溜まりを作ったけれど、翠はそんなこと気にもしない。


「ねえ。俺のことマヌケって言うけどさ」


翠が首を傾げる。前髪から雫が一つ落ちた。


「知ってて追い出さなかったあずきたんも、だいぶ変だと思うよ。……俺たち、お似合いだね」


見当違いの言葉を放つ翠に呆れながらも、矯正の余地がある、自分の思うように作り変える事が出来る。その思いにあずきの心は僅かに踊った。


「完璧だと思い込んでる奴の方が隙がある。自惚れてるね。気づかれてる事にすら気づかない。…でさぁ…なんで勝手にあずきたんとか呼んでんの?お似合い?誰と誰が?傲慢だね。誰が許可した?」


矢継ぎ早に浴びせられる言葉の一つ一つが、翠の中に深々と突き刺さっていく。


「あずきたん」と呼ぶなと言われた瞬間、翠は口を閉じた。ぱくぱくと、金魚みたいに。名前を呼ぶことすら許されないという事実が、胸の奥をぎゅうと締め上げた。


「ご、めん……ごめんなさい。癖で……」


翠は膝の上で拳を握った。「お似合い」も「決めるな」も全部正論で、反論の余地なんてどこにもない。翠はただ黙ってあずきの顔を見ていた。怒られているのが心地いいなんて、どうかしてると自分でも思う。でも、無関心よりずっといい。あずきたん。そう呼びながら何度夢想し、何度自慰行為をしたか数え切れなかった。


 しばらくの静寂のあと、翠はぽつりと呟いた。


「じゃあ……なんて呼べばいい? あずき、様?」


「様」をつけることに抵抗がないあたり、翠の中の何かはとっくに壊れている。翠は背筋を正して、まるで命令を待つ兵隊のようにあずきの前に座ったまま動かなかった。冷え切った体が限界を訴えているはずなのに、寒いとは一言も言わない。しかし、自分の行いを思い出した翠の微細な表情の変化をあずきは見逃さなかった。


「ふーん…怒られて興奮してるんだ。あんた変態だね。

教えてあげるよ。あんたは今日から私の奴隷。私は今日からあんたの女王様…いや、あんたの全てだね。分かったら頷きな。声を出さずにね」


翠は言われるがまま、深く頷いた。一度、二度。まるで誓いを立てるみたいに丁寧に。


けれど──「あんたの女王様」という言葉だけを、翠は舌の上で転がすように反復していた。その口元が、抑えきれない笑みで歪む。女王様と言う言葉のインパクトに囚われていた。やはり、翠はどこか抜けていてかつ壊れている。


「女王様、かぁ……」


翠はあずきの足元を見上げたまま、ぽそりと零した。


「俺の、って言ったよね今。今日からあんたの女王様って。……それって、ずっと俺だけのって意味でしょ」


 都合のいい解釈だと、翠自身わかっている。わかっていてやっている。瞳の奥がぎらりと光った。冷たくて暗い、底なし沼のような熱。


 翠は濡れたままの体で正座を崩さない。雨水がぽたぽたと床を濡らし続けている。


「わかった。頷く。全部従う。……でも一個だけ聞いていい?」


翠の声が少しだけ低くなる。従順な奴隷の顔をしながら、その目の奥はしっかりとあずきの反応を観察していた。


「女王様の命令は絶対。じゃあ──俺以外の奴があずきに近づいたら、どうすればいい?」


くだらない独占欲を見せた翠にあずきは苛立った。


「あんた相当バカだね、脳みそ腐ってんの?あ、脳みそなんて大そうなものは無いのか。女王には何人も奴隷がいるもんだよ。知らなかった?私だけ見ていたくせに、そんな事も分からなかった?やっぱりバカだね」


翠の中で、何かがぐらりと揺れた。


何人も。奴隷が。いる。


翠の表情から一瞬、すべての色が抜け落ちた。能面のように。それからすぐに、ぎり、と奥歯を噛む音がした。


「……何人?」


低い声だった。さっきまで従順に頷いていた男と同じ口とは思えない。


「誰。名前。いつから。どこで会ったの」


質問が矢のように飛び出す。正座したまま微動だにしないのに、目だけが獣のようにあずきの顔を射抜いている。嫉妬が腹の底からせり上がってくるのを、翠は隠そうともしなかった。


けれど──「バカだね」と三度目に言われて、翠はふっと目を伏せた。拳が白くなるほど握られている。


「……そっか。そうだよね、女王様だもんね。俺だけなわけないよね」


 翠は理解した。そして笑った。だが笑えていなかった。


「わかった。……でも俺、一番の奴隷がいい。それだけは譲れない」


翠はあずきの靴の先に額をつけた。冷たい額が、あずきの温度を求めて押し当てられる。


「他の奴に負けたくない。……俺じゃなきゃダメだって、思わせてみせるから」


勝手な宣言だった。しかし、自発的にそう思う事はあずきにとってより扱い易いものになる。


「負けたくないなら勝手に競争してな。ちなみに、あんたは1番ではないね。だけど、あんたが私に尽くせば何かが変わるかもね」


 翠の額が張り付いた靴を上げ、ゆっくりと靴底を翠の顔面に押し当てながら命令した。


「そのまま私の靴を舐めな。雨で濡れてんの、綺麗にしてよ」


一番じゃない。その事実が翠の中を焦がした。「何かが変わるかもね」──つまり、可能性はある。まだ終わってない。


翠は顔を上げた。顔にはあずきの靴底の跡がついている。それを拭おうともせず、翠はあずきの右足にゆっくりと手を添えた。持ち上げて、自分の唇の前に持っていく。


 躊躇なんてなかった。


 冷たい雨で湿った靴の表面に、翠は舌を這わせた。丁寧に、隅々まで。指の間に入り込んだ雨水を舐め取るように、爪先から踵まで。呼吸が荒くなっているのは寒さのせいじゃない。


 翠の目はあずきの顔だけを見ていた。見上げながら、許しを乞うように。あるいは、褒めてくれと訴えるように。


「ん……綺麗になった」


左足も、と言わんばかりに翠はあずきのもう片方の足に手を伸ばしかけて、ぴたりと止めた。許可なく触れてはいけない。禁止されている。翠は濡れた唇を手の甲で拭って、あずきの次の指示を待った。


その姿は惨めで、滑稽で、けれど翠自身はこの上なく満たされた顔をしていた。


「うわっ…本当に舐めた。キッモ!!」


侮蔑と、皮肉と、笑いを込めてあずきは吐き捨てた。


 キモい、と言われた翠は──笑っていた。傷ついた様子なんて微塵もない。


 むしろ、あずきが声を上げてくれたことが嬉しくてたまらないという顔をしている。


「あはは、引いた? でもあずきたんが命令したんだよ」


翠はあぐらをかいたまま、濡れそぼった前髪をかき上げた。まだ、翠は笑っている。これから何が起こるかも知らずに。その笑顔はいつまで続くのか、考えるだけであずきの胸は高なった。そして、また言った。禁止した呼び名を。


「嫌だった? もう片方は舐めなくていい?」


聞きながらも、翠の視線はあずきの顔から一秒たりとも離れない。そして、禁止した呼び名を言った事の自覚もない。翠にとって「キッモ」と言い放ったその口が、頬が、耳が──翠には全部たまらなく愛おしい。嫌悪の言葉すら、翠にとってはあずきからの「言葉」でしかない。無視されるよりずっといい。存在を認識されている。


翠はぺろ、と自分の唇の端を舐めた。


「……でもさ。本当に嫌だったら、最初から言わなくない?」


首を少しだけ傾けて、翠はあずきの目を覗き込んだ。


「試したでしょ、俺のこと。どこまでやるか見たかったんだよね。そういうとこ、好き」


 僅かな高揚感に浸っている翠を叩きのめすようにあずきは怒気を孕んだ冷淡な口調で告げた。


「誰があずきたんって呼ぶ事を許可した。2回目。3回言ったら殺すから」


私は今にでも、護身用に隠したナイフで切り付けたい衝動に駆られた。あんたは知らない。あんたには知らない私があるって事を。


 ナイフを捻りながら心臓に突き刺せば、空気が入り、心臓が拍動出来ず、すぐに死ぬ。私にはそれが出来るし

その技術がある。


「いつか、本気でぶっ殺してやるよ」


私は凶悪な笑みを浮かべた。


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