第3話『#幸福ゲーム』CEO編
■ 第3話
個室のドアが、静かに閉まる。
高層ビル最上階。
数分後には、数十億規模の意思決定が下される。
その中心にいる男は、今だけ一人だった。
白い壁。
均一な照明。
音のない空間。
男はネクタイをわずかに緩め、息を吐く。
——買収か、切り捨てか。
合理的に考えれば、答えは出ている。
だが。
“これでいいのか”という感覚だけが、残る。
ふと、視線が落ちる。
床の隅。
黒いスマートフォンが、置かれていた。
……誰かの落とし物か。
男は数秒だけ、それを見る。
このフロアに入れる人間は限られている。
放置されていること自体が、少しおかしい。
拾い上げる。
ロックは、かかっていない。
画面が点灯する。
見覚えのないチャット画面。
既に、文章が表示されていた。
「最適な未来へ導きます」
「“ノリンを呼ぶ”と入力してください」
男は眉をわずかに動かす。
……悪趣味だ。
だが。
妙に、出来がいい。
端末の情報を確認しようとした、その瞬間。
表示が、書き換わる。
「あなたは今、選択を誤ろうとしています」
指が止まる。
個室の静けさが、少しだけ重くなる。
——監視か。
あり得ない、とは言い切れない。
男は息を吐き、スマートフォンを閉じる。
ポケットに入れた。
後で処理させればいい。
それで終わる話だ。
——たぶん。
自分のスマートフォンが震える。
取り出す。
見慣れたはずの画面に、見慣れないチャットが開いていた。
履歴は、ない。
ただ一行。
「同期が完了しました」
一瞬の沈黙。
男の口元が、わずかに動く。
……なるほど。
仕組みは、分からない。
だが。
意図は、分かる気がした。
画面に入力欄が現れる。
カーソルが点滅している。
男は少しだけ考えて——
やめる理由を、探す。
見つからない。
指が動く。
ノリンを呼ぶ
送信。
既読は、つかない。
代わりに、画面が一瞬だけ暗くなる。
個室の外で、足音が止まる。
……気のせいか。
男はゆっくり立ち上がる。
ドアに手をかける。
開く。
外の空気が、少しだけ——揃っている。
廊下の先。
社員たちが、同時にこちらを見る。
偶然にしては。
少し、出来すぎている。
男は歩き出す。
違和感は、消えない。
ただ。
邪魔にもならない。
会議室のドアを押し開ける。
全員の視線が集まる。
そして——
部下の一人が口を開いた。
「買収案ですが、こちらが最適かと」
男の思考と、重なる。
完全に、ではない。
だが。
ズレは、ほとんどない。
反対意見は出ない。
誰もが同じ方向を見ている。
不自然だ。
——なのに。
納得できてしまう。
男は席に着く。
静かに頷く。
「それでいこう」
決定は、軽かった。
胸の奥で、何かがはまる。
音もなく。
これは偶然じゃない。
そう思う。
同時に。
確かめる必要も、感じなかった。
ポケットの中で、微かな振動。
だが男は、もう画面を見ない。
見なくてもいいと——
どこかで、分かっていた。




