1話 転移しちゃったよ。
窓の外では、春の終わりの生ぬるい風に吹かれて、校庭の端にある桜の葉がざわついていた。俺の名前は田中大河。どこにでもいる、いや、どこにでもいすぎて背景に溶け込んでいるような16歳の高校生だ。毎朝、決まった時間に起き、満員電車に揺られ、学校という名の箱に収容される。昼休みは誰かと連れ立って購買へ走るわけでもなく、机で一人、母親が詰めてくれた冷めた弁当を咀嚼する。放課後は塾か、あるいは真っ直ぐ家に帰ってテレビを眺める。友達? そんな高尚なものはいない。同じ教室に座り、同じ制服を着ている連中は、俺の人生という物語における「通行人A」から「通行人Z」でしかないし、向こうからしても俺は「その他大勢」の一人に過ぎないだろう。
その日、5時限目の数学の授業は、死ぬほど退屈だった。黒板には、階乗を表す記号『!』が踊っていた。
「いいか、 n! というのは、1 から n までのすべての整数を掛け合わせたものだ。例えば 5! なら 120 になる。ただのビックリマークだと思って甘く見るなよ。この記号一つで、数字は爆発的に膨れ上がるんだ!」
年配の数学教師、佐藤がチョークを粉々にしながら熱弁を振るっている。俺はそれを頬杖をつきながら眺め、ノートの隅に「!」を書き殴っていた。
その時だった。
足元の床、コンクリートにワックスが塗られただけの地味な床が、唐突に青白い光を放ち始めた。
「な、なんだ!?」
「電飾か?」
クラスメートたちのざわめきが波のように広がる。光は一瞬で教室全体を飲み込むほどに肥大化し、俺たちの視界を真っ白に染め上げた。浮遊感。いや、内臓がせり上がるような強烈な不快感。意識が暗転する直前、俺の耳に届いたのは、誰かの悲鳴と、佐藤先生の「おい、離れるな!」という怒鳴り声だけだった。
次に目を開けた時、そこはもう、カビ臭い教室ではなかった。ひんやりとした空気。高い天井を支える巨大な石柱。そして、ステンドグラスから差し込む、見たこともないほど濃い紫色の光。
「よく来たな。勇者達よ。」
重厚な声が響いた。視線を向けると、そこには教科書で見た中世の王族そのものの格好をした老人が、豪華な玉座にふんぞり返っていた。隣には、いかにも神経質そうな、銀縁の眼鏡をかけた中年男(恐らく宰相)が控えている。
「異世界……転移……?」
誰かが呟いた。最近のラノベやアニメで使い古されたシチュエーション。まさか、そんな非現実が自分の身に降りかかるとは。周囲を見渡せば、俺を含めた2年1組の生徒31人と、佐藤先生がいた。クラスのリーダー格であるスポーツマンの木村や、いつも取り巻きを引き連れている美少女の佐々木は、混乱しながらもどこか高揚した表情を浮かべている。
俺はといえば、ただ呆然としていた。こんな時、物語の主人公なら「俺の力が試される!」と意気込むのだろうが、俺にあるのは「今日の夕飯、カレーだったはずなのにな。」という、ひどく現実的で空虚な感想だけだった。
「まずは、貴公らの実力を測らせてもらう。この水晶玉に触れてみよ。自らの魂の形が、ステータスとして現れるはずだ!」
宰相が促す。なぜか順番は出席番号順だった。木村や佐々木たちが次々と水晶に触れていく。
「おお! 『聖騎士』! さすがは勇者様だ!」
「『大魔導師』!? なんという魔力の輝きだ!」
豪華な絨毯の上で、王や騎士たちが歓声を上げる。クラスメートたちは、まるで選ばれたエリートになったかのように胸を張り、得意げな顔でステータスを確認し合っていた。
そして、俺の番が来た。期待などしていない。それでも、少しだけ指先が震えた。ひんやりとした水晶に手を置く。…………。何も起きなかった。他の奴らの時は、眩いばかりの光や、炎のような揺らめきが見えたというのに。俺が触れた水晶は、ただの冷たい石のまま、沈黙を保っていた。
「……光らぬ、だと?」
宰相の声が冷たく響く。
「名前を確認しろ。何という者だ?」
「え、ええと……田中大河、です」
「田中大河か。……鑑定完了。職業『無職』。全技能値、は『1』未満。固有スキルは……『!付与』? 意味不明なガラクタだな!こんなゴミみたいなステータスの人間なぞこの国には要らん!」
王の目が、ゴミを見るような蔑みの色に染まった。
「勇者の召喚には多大な魔力と予算を費やしておる。そのような無能を一人養う余裕など、我が国にはない!」
「待ってください! 彼も僕たちの仲間です!」
佐藤先生が割って入ろうとしたが、王の合図一つで、屈強な鎧の兵士たちが俺の腕を掴んだ。
「叩き出せ。城門の外へ放り捨てろ。魔物に食われようと野垂れ死のうと、知ったことではない。」
「おい、待て! 放せよ!」
俺の叫びは、豪華な広間の反響に消された。クラスメートたちの視線が刺さる。憐れみ、蔑み、そして「自分じゃなくて良かった」という安堵。ズルズルと石畳の廊下を引きずられ、俺は重厚な城門の先、埃っぽい街道へと放り出された。背後で、重い鉄の門が「ガシャン!」という絶望的な音を立てて閉まる。
俺の手元には、スマホ一つ残っていない。いや、あっても電波は繋がらないだろうが。
「……クソが。」
乾いた声が出た。腹が立つというより、あまりの理不尽さに笑いすら込み上げてくる。とりあえず、今の自分の状況を確認しなければならない。あの時、王が言っていた言葉を思い出す。
「……ステータス。」
空中に、半透明の青いプレートが現れた。
【名前】 田中大河
【性別】 男
【レベル】 1
【職業】 無職
【状態】 混乱・空腹
【スキル】
・「!」付与 lv1
(詳細:ボード内の文字列に「!」を追加できる)
・鑑定 lv1
(詳細:対象の情報を読み取ることができる)
【技能】
炎魔法:0 水魔法:0 光魔法:0 風魔法:0
神聖魔法:0 空間魔法:0 生活魔法:0
剣術:1 弓術:0 矛術:0 槍術:0 体術:1
見事なまでのゴミカスぶりだった。木村とかいう奴は、体術が32だのなんだのと騒いでいた。それに対して俺の数値は、ほぼすべてが「0」。唯一マシな剣術と体術ですら「1」だ。
「ハハ……。なんだよこれ。ビックリマークを追加できる? 嫌がらせか?」
俺は自棄になって、そのスキルを発動させてみた。ターゲットは、一番上に表示されている自分の名前だ。
(念じるだけでいいのか……? 自分の名前に「!」をつけろ!「!」付与!)
ピコン、という電子音のようなものが脳内に響いた。
【名前】 田中大河!
【性別】 男
【レベル】 1
【スキル】
・「!」付与 lv1
(詳細:ボード内の文字列に「!」を追加、削除できる)
………。ステータスボードの中の俺の名前が、少しだけ元気よくなった。ただそれだけだ。俺自身に力が湧いてくる感覚もないし、筋肉がつくわけでもない。
「……ゴミスキル確定だな。」
地面に座り込み、拳で地面を叩く。拳に痛みが走る。現実だ。夢じゃない。俺はこれから、この見知らぬ世界で、何の力もなく死んでいくのか。あの王の顔、宰相の嘲笑、クラスメートたちの冷ややかな目。全部、何も言い返せずに、ただ消えていくのか?
そんなのは、嫌だ。
俺はもう一度、ステータスをじっと見つめた。詳細欄に変化がある。
「追加、削除できる」……。一度付けた「!」を消せるようになったのか。スキルを使ったことで習熟度が上がった、ということか。しかし、名前に「!」を付けても意味がない。性別……「男!」……。意味不明だ。レベル……「1!」……。
そこで、俺の思考が止まった。脳裏に、さっきまで受けていた数学の授業がフラッシュバックする。
『いいか、 n! というのは、1 から n までのすべての整数を掛け合わせたものだ』
『この記号一つで、数字は爆発的に膨れ上がるんだ』
心臓の鼓動が、急激に速くなった。もし、この異世界のシステムが、数学の概念を「!」という記号に紐づけているとしたら。この「!」が、単なる強調の記号ではなく、「階乗(Factorial)」として機能しているとしたら?
「やってみる価値はある……。」
俺は唾を飲み込み、震える指先で、ステータス画面の「技能」欄を操作しようと試みる。ターゲットは……何でもいい。とりあえず、今の俺が生き残るために必要そうな「剣術」の「1」。
(「!」を付与!)
ピコン。
【技能】
剣術:1!
(……1の階乗は1だ。何も変わらない。焦るな。次だ。)
俺は立ち上がり、周囲を見渡した。道端に、ちょうど良いくらいの大きさの石ころが転がっている。俺はそれを拾い上げ、「鑑定」を使った。
【名称】 道端の石
【品質】 低
【硬度】 3
出た。この「3」という数字。俺は石を握りしめ、念じた。
(「!」を付与!)
一瞬、石が淡く発光したような気がした。
【名称】 道端の石
【品質】 低
【硬度】 3!
数学的定義に従うなら、3! は 3×2×1=6 になるはずだ。俺は傍にあった大岩に向かって、その石を思い切り投げつけた。
カキィィン!!
火花が散り、投げた石は割れることなく、ぶつかった大岩の方を僅かに削り取った。
「マジか……。本当に、数値が変動してる。」
震えが止まらない。これは恐怖ではなく、歓喜だ。もしこれが、より大きな数字に適用できたら?例えば、俺の全魔法技能は現在「0」だ。0の階乗は、数学の世界では定義上「1」とされる。
(すべての魔法技能の「0」に、「!」を付与!)
ピコンピコンピコン……!
連続して音が響く。
【技能】
炎魔法:0! (1) 水魔法:0! (1) 光魔法:0! (1) 風魔法:0! (1)
神聖魔法:0! (1) 空間魔法:0! (1) 生活魔法:0! (1)
身体の芯が、熱くなった。今まで何も感じなかった大気の流れ、微かな湿気、そして地面から伝わる拍動のようなもの。それが「魔力」として知覚できる。俺は指先を空に向け、意識を集中させた。
「……火よ」
ボッ!
人差し指の先に、小さな、しかし力強い火種が灯った。
「使える……本当に使えるぞ。俺は、無能なんかじゃない。」
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