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成り上がり令嬢セシリアについて

掲載日:2026/03/05


 セシリアは、自他ともに認める成り上がり令嬢である。


 そう言われる所以となった生い立ちを、これからみてみたいと思う。



◆◆◆◆◆



 セシリアは、王都の下町で産まれた。母親は下町の病院で働く看護師で、父親は、セシリアが生まれた時にはもういなかった。


 セシリアが生まれる前に、隣国との国境で戦争があった。その戦場に、セシリアの母親が看護師として派遣されたとき、セシリアの母親は、兵士だったセシリアの父親と知り合い、恋仲となった。しかし、父親は、終戦前最後の大きな戦いで、戦死したという。


 セシリアの母親は、一時的に戦場へ派遣されたことを除くと、セシリアの産前も産後も王都の病院で働いていた。だから、セシリアの生まれも育ちも王都の下町だった。




 片親で、セシリアの母親の両親も既に鬼籍に入っていて、身寄りのない母娘だったが、セシリアがそのことで疎外感を感じることは、あまりなかった。


 セシリアが暮らす下町は、出産のときに母を亡くした子、馬車の事故で父を亡くした子、片親が不詳の子、祖父母に育てられている子、子を亡くした夫婦など、様々な事情を抱えた人間が、身を寄せ合い、暮らしていて、セシリアの境遇が珍しくなかったからだった。


 死や喪失は間近で、特別なものではなかった。




 下町の子供達は、家業の手伝いを命じられたとき以外は、いつも周りの子供達と一緒に駆けまわっていた。下町の雰囲気は大らかだった。


 お腹を空かせることは多く、決して裕福とはいえない生活だったが、セシリアは、母や友人らに囲まれ、幸せな子供時代を過ごしたと思っている。


 とはいえ、父親に肩車してもらう友人を見た時は、キュッと胸が締め付けられるようだった。今は亡き父は、どんなことを考え、どう生きていたのか。今の自分を見てどう思うのか。考えることを止められなかった。



 ◆◆◆◆◆



 一度目の転機があったのは、セシリアが八歳の時だった。


 セシリアが母の代わりに買い物に行って帰ってくると、下町では見たことがない老夫婦を前に、母親が困りきった顔をしていた。老夫婦は、町に合わせ、質素な服を着てきたつもりらしかったが、生地の上質さは隠せておらず、さらに、近くに老夫婦が乗ってきたと思われる馬車も見えた。裕福であることは間違いがなかった。


 セシリアが帰ってきたのを見て、母親は顔を強張らせたが、対照的に、子爵夫妻は顔をほころばせた。そして、老夫婦は、セシリアの父親の両親、つまり、セシリアの父方の祖父母で、スペンサー子爵夫妻であると名乗った。戦場で死んだというセシリアの父は、子爵家の長男だった。


 セシリアの父親であるスペンサー子爵家の長男は戦死し、子爵家の次男は子爵と諍い、出奔していた。子爵夫妻は、自分達の血を継ぐ人間に、家を継がせるのを諦めきれず、勘当した次男の行方を探る過程で、思いがけず、長男に忘れ形見であるセシリアがいることを嗅ぎつけたのだった。


 死んだ息子と髪の色と目の色が同じセシリアを見て、子爵夫妻はニコニコと微笑み、セシリアはこそばゆい気持ちで、その視線を受けた。




 セシリアの母親は迷った。


 関わることもないと思っていた身分の違う貴族である、亡き恋人の両親の出現だけで十分に悩ましいのに、恋人であったセシリアの父親は、自らの両親のことをあまりよく思っていないようだったからだ。


 しかし、子爵夫妻はセシリアの母親に対して、セシリアを養子にする提案をする際、「我々は、あの子に教育を与えられる」と言っていた。それは事実だった。その言葉に、セシリアの母親は、どうしようもなく心が揺れた。親の欲目を抜きにしても、セシリアは利発な子だった。


 悩みに悩んだ末、セシリアの母は、全てを伝え、セシリアの希望を聞いた。一晩悩んだ末、セシリアが出した答えは「子爵夫妻の元で学びたい」というものだった。


 セシリアは、セシリアの母が「病院がもっと充実していれば」と零すのも聞いていた。お腹が空いたり、綺麗な服に憧れたりする友人たちに、下町の大人たちが笑って、「ご貴族様じゃ、あるまいし。諦めな」と返す姿も見ていた。


 セシリアは、雑多な下町もそこに住む人たちも好きだったけれど、死は身近で、少し寂しかった。貴族であれば、お腹を空かせることもないのか、憧れを満たすことができるのか、何かを変えられるのか、知ることを求めていた。


 セシリアの母は、急にやって来た最愛の娘との別れを惜しんだが、娘が前を見据えているのを知り、手を放すことにした。


 こうして、セシリアはスペンサー子爵家の養子となった。




 セシリアが養子になった子爵家は、当然、貴族なので、セシリアにとって、これまでの平民としての暮らしぶりとは大きく違った。特に、スペンサー子爵は爵位こそ高くないものの、貴族の間でも、商売がうまく、裕福だったため、豪奢な暮らしができた。


 子爵夫妻は、将来的には、セシリアに婿を取らせ、子爵家を継がせるつもりで、王都のタウンハウスに多くの家庭教師を招き、教育に当たった。当初、平民の血が流れていることを懸念していた子爵夫妻だったが、セシリアは、夫妻の子供である息子二人と十分に比肩する能力があり、出来に一先ず安堵した。


 しかし、子爵夫妻にとって、誤算だったのは、子爵夫妻の思い通りにならないことも、息子二人とよく似ていたことだった。




 子爵にとって、商売とは単純なものだった。安く買って、高く売る。だから、領内の物流は全て管理した。工業地に作物を売る時も、農村地に工業品を売る時も、全て、子爵の手元を通る。領民から物を買い、領外に売る時と、領外から物を買い、領民に売る時の差額は、全て子爵のものになった。


 そうして、子爵は領土の物流の中心となり、富を築いてきた。もともと貴族社会において爵位が高くなかったところ、子爵は、自ら築いた富で、貴族社会において一定の地位を確立した。それに、自負を持っていた。


 子爵は、自分の代になって、いかに商売の取引先が広がり、蓄財が進んだかを、セシリアに滾々と説いた。また、金がある生活を教え、この生活を続けたくなるように仕向けた。王宮主催のお茶会にまで連れて行った。しかし、貧しい生活をしていたはずのセシリアなのに、ちっとも食いつかなかった。




 セシリアの態度に苛々する夫に代わり、子爵夫人が立ち上がった。この国の貴族にとって、お家断絶はこの上ない不名誉である。子爵夫人はセシリアを懐柔しようと、度々、お茶会に誘った。


 セシリアは、子爵夫人にも心を許していない様子で、上辺だけの笑顔を見せていたが、お茶会の回数が十回を超えたある日、珍しく、セシリアが真剣な顔を子爵夫人に向けた。


 子爵夫人は驚いた心を隠し、とびきり優しい猫撫で声で、セシリアに声を掛けた。


「セシリア、どうしたの? 何でも言っていいのよ」


 何かを強請られるのであれば容易だが、どうも物欲が強い子ではないらしい。子爵の事業に疑問を持つようであれば、夫がいかに一代で貴族社会での地位を上げたかを説かねば。しっかりしていると言っても、所詮幼子なので、母の元に帰りたいと言われたら、どうしようか。絶対にそれだけは許せない。甘言か挑発か、どちらがセシリアに効くだろうか。脅迫も手段の一つか――


 子爵夫人がどんな考えを巡らせているか知らないセシリアは、少し迷った後、決意したように口を開いた。


「私の実のお父様、いえ、お義母様のご子息はどんな方だったのですか?」


 思いも掛けない言葉だったが、すぐに、子爵夫人の心の奥底にあった記憶が蘇った。


 セシリアの父である長男も、その弟の次男も、活発だった。夫は商売であちこち飛び回る中、一人で育て上げるのは大変だったが、母を思いやる優しい子達だった。温かで幸せな母と子であったと思う。


 家族内の不和は、長男が、他領と比べ、自領の税が随分と重いと知ったときからだった。子爵としては破格の裕福な暮らしぶりをさせているのにも関わらず、息子は、子爵に食って掛かり、反発した。


 反抗期ゆえのことで、そのうち、気も変わるだろうと耐えていたが、隣国との戦争が勃発し、戦争を主導した国王の弟から、貴族は家門から一人は参戦するように命じられたときに、長男は参戦し、帰らぬ人となった。高位貴族の子息は、王宮を支えるなどと嘯き、戦場には向かわない中で、爵位の低い子爵は同じ手段はできなかったが、それでも、子爵はこれまでの蓄財を投げ打って、軍資金の寄付により貢献することで、長男の参戦の免除を願い出ると言ったにも関わらず、だ。


 怒ったような顔で、両親に背を向け、戦場に向かった長男が、あのとき、何を考えていたのか、子爵夫人には何も分からなかった。


 子爵夫人は俯いたまま、微動だにしなくなった。セシリアが心配そうに声を掛けても、子爵夫人は、やはり何も言葉を発せず、動かないままだった。




 そのお茶会以降、子爵夫人はぼんやりすることが増えた。


 子爵は、妻の様子の変化に気付き、理由を話させようとした。子爵夫人は、何でもないと何度も答えたが、子爵のしつこさに根負けすると、庭を見つめ、「ここで息子たちが遊んでいたときのことを思い出した」とだけ、ぽつりと言った。




 子爵は腹が立った。


 貴族社会では、爵位が全てだった。先代の子爵の父は、理不尽にあっても、高位貴族に頭を下げるばかりだった。それが許せなかった。


 この貴族社会で、名誉も歴史も持ち合わせていない我が家の尊厳を守るためには、金しかない。その思いで、ここまでがむしゃらに生き、貴族社会でも有数の金持ちになり、子息には、王族にも劣らない衣類や装飾品を身につけさせ、一流の家庭教師の元で学ばせることができるまでになった。


 なのに、その環境の有難さも分からず、息子二人は出奔。ようやく見つけた唯一の直系であるセシリアも、子爵の商売を知った時、感嘆するでもなく、信じられないというように、静かに眉を顰めただけだった。


 子爵は、子や孫のことを、屈辱を知らない人間の甘えだと思った。我が家が尊厳を保つために、必死で商売をしてきたというのに、その結果がこれかと頭に来た。


 しかし、同時に、長年、連れ添った妻の肩を落とす姿を思うと、『間違っているのは自分ではないか』という気持ちも芽生えた。




 そのとき、子爵夫妻とセシリアは、王都にある子爵家のタウンハウスにいた。子爵は迷いを振り切るため、セシリアに、これまでいた下町からどんな手段でも良いから金をむしり取って来いと迫った。


 当然、セシリアは狼狽え、子爵夫人は戸惑った。二人の態度に激高した子爵は、セシリアの腕を掴み、声を荒げた。


「金がないのは命がないのも同じだ。父親と同じで、無駄死にする気か!」


 父のことを言われて、セシリアはカッとなった。子爵の腕に嚙みつくと、子爵の手が緩んだ隙に駆け出した。


 セシリアは、下町で鍛えた俊敏さで、多くの使用人の間を縫って、子爵のタウンハウスを飛び出した。そして、ヒールのある靴を投げ捨てると、馬車が通れない小道や、人通りが多く、馬車も速さが出せない道を選びながら、裸足で走りに走った。




 やがて、見慣れた下町に辿り着き、母と暮らした懐かしい家に帰ってきた。


 上質なドレスをボロボロにして、裸足の足で、べそをかいて、帰ってきた娘を見て、セシリアの母は、当然、驚いた。


 セシリアの母はセシリアを家に入れた。冷える体を温めるため、セシリアの母がセシリアにスープを飲ませ、セシリアが少し落ち着いたところで、ドアがノックされた。セシリアの母が警戒しながらドアを開けると、想像通り、子爵夫妻がいた。


 高圧的で強引な態度であれば、何が何でも突っぱねるつもりだったセシリアの母親だったが、落胆し、急に老け込んだような子爵夫妻に虚を衝かれた。


 子爵夫妻は、セシリアが無事かどうか知りたくて、駆け付けたと話した。そして、必要な教育費の援助は行うが、セシリアは母親の元に戻すと続けた。急な話に戸惑うセシリアの母に、子爵夫妻は力なく笑った。


「私たちは、どうも、子供を育てるのが苦手なようで……」


 子爵夫妻は、何処か泣いているように見えた。去ろうと背を向けた子爵夫妻を、セシリアの母が引き留めた。


「あの、一度、ご子息が生きた場所を見に行きませんか?」



 ◇◇◇◇◇



 セシリアの母からの思い掛けない提案に驚いたものの、スペンサー子爵夫妻は思うことがあったのか、セシリアの母やセシリアと共に、息子が派遣され、セシリアの母と出会ったという辺境伯領に向かった。


 子爵が手配した馬車に乗り、数日掛けて、子爵夫妻、セシリアの母、セシリアで、辺境伯領にやって来た。


 やがて、辺境伯領の中心街に着いた。街は賑やかで、雑多な雰囲気が、どこか王都の下町に似ていた。


 子爵夫妻とセシリアが物珍しさに周囲を見回していると、子爵夫妻は知った顔を見つけ、驚いた。大きな体躯で厳めしい顔をした男性は、この土地を統治している辺境伯だった。セシリアの母が、看護師として戦場で働いていたときの病院の伝手を辿り、子爵夫妻が来ることを事前に伝えていた。


 辺境伯は、子爵夫妻を見つけると、一礼した。自分達より遥かに高位貴族であり、多忙であるはずの辺境伯が、自分達を待っていたと知り、子爵夫妻は驚きつつ、礼を言った。辺境伯は朗らかに礼を受けた。


 辺境伯は皆を連れて、中心街から離れた戦地の跡に行った。




 着いた先は、寂寥とした草原で、ただ荒々しい風だけが吹いていた。辺境伯から、かつて、テントを並べ、野営していたことなどを聞いた。キョロキョロと周囲を見渡すセシリアの横で、セシリアの母は苦しそうに何もない草原を眺めていて、子爵夫妻は、この女性が、かつて息子と同じ場所にいて、経験を共にしたことをようやく実感した。


 少し歩いたところで、辺境伯が足を止め、子爵夫妻に頭を下げた。


「この場所であった戦いで、ご子息は亡くなりました」


 息子の死から十年近くが発ち、石碑がいくつか並ぶ他には、争いの跡は何もなかった。金で買収すると言ったのに、それを断り、戦場に行き、戦った息子が、何を考えて死んだのか、想像することすらできず、子爵夫妻は、ただ荒野を眺めた。


 辺境伯は、子爵夫妻に頭を下げたまま、続けた。


「多くの貴族出身者が、後方勤務を希望したり、机上の空論で作戦に意見したりするばかりであった中、ご子息は先陣を切り、兵を鼓舞してくれました。それがどれだけ助けになったか分かりません」




 子爵夫妻は、荒野を眺め続けた後、「日が落ちてしまうから」とセシリアの母が促し、ようやく戦場の跡を離れ、辺境伯領の中心街に戻った。




 翌日は、一行は辺境伯に大きな公園に案内された。


 花壇や彫像が綺麗に整備された公園を進み、やがて、辺境伯は足を止めた。足を止めた先にあるものを見て、子爵夫妻は目を見開いた。それは、息子の銅像だった。


 セシリアは、目を潤ませる子爵夫妻、自身の母、銅像を順に見た。




 しばらくそうしていた後、領主がここにいると知らない家族連れが、一行の横を通って、銅像に祈るように手を組んだ。家族が去った後、辺境伯が教えてくれた。


「この地を守ってくれたご子息に感謝する人が、今もここに祈りに来ます」


 子爵夫妻は、自領で、こんな風に感謝されたことなどなかった。息子がこの世界に遺したものだった。



 ◇◇◇◇◇



 辺境伯領から戻った後、子爵は変わりたいと思った。子爵領で、自由な商売を奨励すると共に、貯めた金を福祉にも回すことにした。変化は他にもあった――




 ある日、子爵夫妻はセシリアを呼び出した。セシリアは再び、子爵家のタウンハウスに戻り、勉学を再開するようになっていた。


 子爵夫妻にとって、セシリアは、爵位を継がせる人間であるだけでなく、仲違いしてしまったまま死んでしまった息子の忘れ形見であり、愛孫である。


 今度こそ間違えないように、息子ができなかった分も、セシリアを幸せにしたくて、セシリアに何がしたいか聞いた。


 セシリアの答えは、休息でも、ドレスなどの豪華な服飾品でもなく、「下町をよくして欲しい」というものだった。セシリアの瞳には、母が病院の物資不足に悩んでいた姿や、近所の人が文字を読んでほしいと母を頼る姿が焼き付いていた。


 子爵夫妻は、セシリアと相談した上、セシリアの母親が勤める病院に寄付し、設備を充実させた。また、病院の近くに、学校を建てた。新しく建てた学校には、意欲ある教師を多く採用した。そして、セシリアも『視察』という名目で、その学校に通った。


 セシリアは、学校に通う以外に、家庭教師からの授業も継続していたので、やがて、下町の学校とは学習の進度が合わなくなった。また、将来、領主となるべく、子爵領に行くことも多くなった。だから、セシリアが幼馴染の旧友たちと、学び舎で肩を並べられたのはわずかな時間ではあったけれど、それでも、セシリアにとっては、得難い思い出ができたのだった。



 ◆◆◆◆◆



 二度目の転機があったのは、セシリアが十三歳の時だった。


 出奔していた子爵の次男、つまりセシリアの父の弟が「非礼を詫びたい」と気まずそうにしながらも、子爵夫妻の前に現れたのだった。


 子爵夫妻にとって、爵位と領地を引き継ぐ責任を放棄した息子に対して、「何を勝手な」と言って、追い出すことは簡単である。


 しかし、もう二度と会うことができないと思っていた息子に会えたことは、素直に嬉しかった。


 更に、長男の生き様を知った後では、次男は長男に懐いていたから、子爵夫妻が戦場に行った長男を悪く言うことを許せなかった気持ちも分かる。子爵夫妻は、長男が死んだときですら、辺境伯領まで迎えにも行かなかった。


 領地のことについても、金儲けばかりを追い、領民の幸福を蔑ろにしていた負い目もある。次男は子爵領での領主の評判が変わったことを知り、謝罪に来たと言っていたが、それもセシリアを引き取ったことをきっかけに、ようやく変わったことだった。


 この国で、女性が爵位を継げるのは、理由がある場合のみである。子爵夫妻の実の子である次男が戻ってきては、セシリアは爵位を継げない。


 次男は、爵位の継承を主張するつもりはなく、子爵夫妻には「謝罪をしに来ただけで、もうここには来ない」と言った。


 今生の別れを覚悟の上で会いに来た次男に、迷いながら、子爵夫妻は、セシリアを会わせた。遠縁の親戚だと紹介したのに、次男を見たセシリアは何故か「お父様……?」と言った。


 その言葉を耳にした次男は、言葉に詰まった後、涙を隠して、兄と同じ目と髪の色をしたセシリアに、何とか「君の方が、君の父親に似ているよ」とだけ返した。




 子爵夫妻は、次男との今後について、悩んだ。


 筋を通すのであれば、当初の予定通り、セシリアに爵位を継がせるべきである。しかし、死ぬまでもう会えないと思っていた次男と、今生の別れとなるのは未練がある。


 悩みに悩んだ末、子爵夫妻は、辺境伯に相談した。四年前に、辺境伯領を訪問して以来、自領の改革のことなど、子爵は辺境伯に多くのことを相談するようになっていた。


 相談を受けた辺境伯は、「もし良ければだが」と前置きして、一つ提案をした。


「セシリア嬢に、嫡男である我が息子と結婚してもらい、我が家に来てもらうのはどうだろうか」




 辺境伯は、先の戦いで、王家と仲違いしていたため、王家派の貴族から距離を空けられていた。更に、辺境伯は、先の戦いで、戦地に来て、後方から口を出すばかり出してきた多くの貴族に対して怒りがあった。


 この辺境の土地を守る責務から、何とか嫡男の婚約を進めようとしたこともあったが、婚約者候補の令嬢の方が、先の戦いの噂から、いざとなれば、争いが起こる辺境伯領を嫌がり、途中で頓挫することもあった。そして、そんな令嬢は、辺境伯家としても、お断りだった。


 結果、辺境伯の嫡男は二十になろうとしていたが、婚約者がいなかった。この上は、自分より下位の貴族に結納金を出し、婚約者を迎え、幼少期より育てるしかないかとまで追いつめられていたところだった。


 セシリアは生まれこそ平民であっても、子爵家の養女であり、息子との歳の差は五つほど、何より、性格は明るく、先の戦いの英雄の子でもある。是非、辺境伯家に迎え入れたいと熱望した。




 子爵は思っていなかった提案に驚いたものの、少し考えてみると、悪くない提案のように思われた。というのも、それは、次男との縁を切らずに済むからだけでなく、子爵夫妻も、セシリアの婚約者探しに、難航していたからだった。


 辺境伯と交流するに従って、子爵夫妻は、自分自身が富むことを目指すばかりで、領地の人々を豊かにしてこなかったと深く反省するようになった。セシリアは、自分達が言うまでもなく、人々の生活を大切にするだろうが、その配偶者が足を引っ張るようなことがあってはいけない。さらに、孫娘は理屈抜きに可愛かった。自然と、セシリアの婚約者探しには慎重になった。


 子爵夫妻は、国中の貴族の子息を検討したが、お眼鏡に適う相手はいなかった。能力があってもセシリアの爵位を狙いそうな野心家は駄目、頭が良くても実践を伴わない理屈屋は駄目、セシリアが平民の生まれであることを馬鹿にするような人間は問題外だった。


 辺境伯の嫡男は、領地の人々を思う心があり、実務家で、誠実な人柄のように思われた。辺境伯領は、男性が戦地に出て行くため、女性が色々な場面で活躍し、辺境伯夫人も領地経営の一角を担っていた。また、建国から辺境の地を治める辺境伯家は、家格として、国の中でも上位であり、その家に入るのであれば、そこらの貴族連中では、簡単にセシリアを見下せない。




 子爵夫妻はセシリアに全てを話した。セシリアは、驚きながらも、考えた。


 子爵家のことを学ぶにつれ、愛着を持つようになっていたので、子爵家を離れることを残念に思う気持ちはある。しかし、父の弟で、子爵夫妻の息子が戻ってきたというのであれば、法律上はそちらに優先権がある。それに、養親も、実の子と今生の別れとなるのは辛いだろう。セシリアは子爵家の養子となった後も、下町に住む母と面会が許されているが、それが禁止されることを考えるだけで、身を引き裂かれるようだった。


 そして、セシリアは、辺境伯領に初めて行って以降、交流がある辺境伯の嫡男を頭に思い浮かべた。大きな体で迫力がありながらも、快活に笑う姿に好感を持っていた。もしかすると、父もこんな人だったのだろうかと考えたこともあった。


 引き取られた頃こそ上手くいっていなかったが、この数年で、セシリアは、子爵夫妻から自身に向けられる愛情を信じていた。子爵夫妻がセシリアにとって悪い提案をすることは、きっとないだろうと思った。


 セシリアは、子爵家の養子になったときから、政略結婚は覚悟していた。考えもしなかったことだが、父が戦い、守った地の領主が、縁あって、セシリアを是非と求めてくれるのであれば、行こうと決めた。


 こうして、セシリアは辺境伯嫡男の婚約者となり、将来の辺境伯夫人として、社交界で注目の存在となったのである。



 ◆◆◆◆◆



 三度目の転機があったのは、セシリアが十六歳の時だった。


 セシリアは、辺境伯の嫡男から婚約破棄を告げられた。




 セシリアに瑕疵があったわけではない。むしろ、セシリアを婚約者に迎えたことで、辺境伯家に良い変化をもたらしていた。


 辺境伯は、先の戦いで口ばかり出した王宮や貴族に、ずっと業腹だった。しかし、父が亡くなったこの土地のために生きようとするセシリアと、良い領地経営をしたいと願い、辺境伯に頭を下げ、教えを請う子爵を見て、辺境伯自身も、怨嗟に囚われてばかりではなく、前を向こうと思うようになった。


 過去を完全に忘れることはできなかったが、子爵の取り成しもあり、辺境伯家は社交界に復帰した。




 なのに、何故、セシリアが婚約破棄されたかというと、いよいよセシリアが成人という頃、辺境伯の嫡男が「自分には他に心を占める人がいる」「こんな状態でセシリア嬢と結婚できない」と言い出したからであった。人の心だけはどうにもならないものだった。


 子爵夫妻は何という無礼だと激怒した。セシリアも、辺境伯の嫡男に対しては、この人となら信頼と愛情が生まれるだろうと期待していたので、落胆した。


 しかし、セシリアは辺境伯の嫡男との思い出を辿っているうちに、一つ、思い出すことがあった。それは、婚約を結び、婚約者同士の逢引きをしているときのことであった。


 辺境伯家では、セシリアが子爵夫妻の養子であり、平民の生まれであることも、先の戦いで英雄となった父の子であることも、十分に知っていた。


 なので、セシリアの父の話を辺境伯の嫡男が聞きたがり、話すことがあった。セシリアは子爵夫妻から聞いた幼少期の話から母から聞いた父のことまでを話した。そして、最後に、父亡き後も、母が父のことを懐かしそうに話す姿が目に焼き付いていて、生涯、お互いを思い合えるような仲に憧れがあることを伝えた。


 セシリアがそう話すのを聞いて、何故か辺境伯の嫡男は顔を強張らせた。セシリアはその理由が分からなかったが、今、思うと、辺境伯の嫡男には、既にそのとき、密かに心に思う人がいたのだろう。


 そして、セシリアの発言から、辺境伯の嫡男は誰かに心を残したままで、セシリアと結婚することを許せず、今回の決断の一端となったのかもしれない。




 セシリアは、婚約者に内心を隠されたまま、夫婦となった方が悲しかっただろうと気持ちを切り替えたが、子爵夫妻、そして、辺境伯は辺境伯の嫡男に激怒した。


 激怒しつつも、辺境伯は、家長として、子爵夫妻とセシリアに謝り、次男に辺境伯の爵位は継がせるので、セシリアには変わらず、辺境伯嫡男の婚約者となって欲しいと言った。辺境伯の次男は、八歳だった。


 辺境伯の義理堅さに有難く思ったものの、セシリアにとって、婚約者の弟として触れあっていた辺境伯の次男は、弟のような存在だった。辺境伯家は、子爵家の取り成しもあり、社交を再開していたし、また、辺境伯家の次男はまだ幼齢であったので、急いで婚約者を見つけないといけないという理由もない。


 セシリアに、辺境伯の次男との婚約の結び直しを断られた辺境伯は、慰謝料を払うと言った。しかし、そんなことで許された気になってもらっては堪らないと、子爵夫妻は断固としてそれを断った。


 子爵は領地での子爵を通さない自由な商売を認めるようになり、利鞘は減ったが、商売が活発化したことで、子爵家の財政状況は、以前と変わらず、豊かであった。子爵が領主になってから、自領の製品に付加価値をつけることに熱心であったことも、その豊かさを支えていた。


 ならば、他に詫びになることは何かないかと辺境伯に問われ、セシリアは考えた。


 代わりの結婚相手を紹介してもらうことが一般的ではある。しかし、セシリアは、貴族の養子になるときに政略結婚を覚悟はしたし、辺境伯の嫡男とであれば、望外の温かい家庭を築けそうだと期待を持ったが、自由恋愛に満足していた両親のこともあり、正直なところ、政略結婚はピンと来なかった。


 自分がしたいことは何だろうかと考えた末、セシリアが出した答えは、「国のために働きたい」というものだった。それは、亡き父の志と同じだった。




 それを聞き、セシリアの希望を叶える最良の就職先を考えた辺境伯が、断腸の思いで掛け合った先は王宮であった――




 王宮で国政を取り仕切る宰相は、先の戦い以来、長く王宮に近付こうとしなかった辺境伯から手紙が来たことに驚いた。


 二十年前、隣の国を治めるのが野心的な王に代わり、国境を接する辺境伯領に小競り合いを起こすようになり、この国と隣国の間に緊張が走るようになった。


 見栄っ張りの王弟が、右往左往するばかりの気弱な王に強く開戦を勧め、王は、辺境伯の意見を聞かず、その提案を受けた。さらに、王弟は貴族たるもの国を守る戦いに参加すべしと言い出し、貴族の子息を戦いに参加させたが、実戦経験のない彼らは、却って邪魔になったらしい。


 そんな中でも、辺境伯は、この国を守り抜き、王宮は、有利な条件で終戦へと漕ぎつけた。しかし、辺境伯は、王宮の勝手を怨んでいて、戦い以降、王宮とは距離を置いていた。


 そんな辺境伯が何用かと思い、手紙の封を切ると、中には、とある女性の、王宮の文官としての推薦状が入っていた。




 宰相は、即座に、推薦された女性、すなわち、セシリアの採用を決めた。


 先の戦い以降、王家を許さなかった辺境伯が、十数年ぶりに頼ってきたのだ。何としてでも、期待に応え、関係修復のきっかけにすると決意した。


 そんなわけで、王宮の文官として働くことになったセシリアは、初っ端から花形の宰相補佐室に配属となった。子爵家の養子で、更に女性としては、破格の待遇だった。


 思ったより大事になったことにセシリアは驚いた。しかし、ここで話を受けておかねば、辺境伯と養父である子爵との関係修復が望めないし、元婚約者も気に病むだろう。


 今更、怖気づいて、辞退などできない。ならば、折角、機会を与えてもらったのだから、やれるだけやってみようと心に決め、セシリアは王宮で働き始めた。




 セシリアの上司である宰相は、高齢ではあったが、背筋は伸び、流石、貴族を率いるだけあると思わせる優美であった。また、老成というべきか、宰相が国の遠く先まで見据え、清濁併せ吞む判断をしていく姿に、セシリアは、これが国を運営することかと感銘を受けた。


 一方の宰相は、セシリアを部下に迎える前に、セシリアのことを調べ、辺境伯家の都合で婚約破棄された子爵家の養女で事情も理解した。結婚相手の紹介ではなく、王宮での仕官を求めるとは少し変わった女性だとは思ったが、辺境伯との仲さえ繋げればいいとさしたる期待もなく、自分の目の届く宰相補佐室への受け入れを決めた。しかし、宰相は、やがてセシリアに好感を持つようになった。


 まず、回りくどい話し方をする貴族達が多い中、ハキハキと快活に話した。これは、セシリアがこれまで触れ合った貴族が商売に長けた子爵や武勇で知られる辺境伯だったということの影響が大きかった。宰相は、自身の若い頃を思い出したり、仲を違えてしまった辺境伯の姿を重ねたりして、懐かしい気持ちになった。


 それに、子爵家の養子に入るまで平民として暮らしていたセシリアは、王都の下町など、宰相自身も他の文官も知らないことも知っていて、仕事の上でも、大層、重宝した。


 考えてみれば、事情はあったとしても、実務家の辺境伯が推薦状をよこしてきたくらいなのだから、セシリアは王宮で活躍してもおかしくなかった。そして、辺境伯の予想は正しかった。



 ◇◇◇◇◇



 セシリアが王宮で働き始めてしばらく経ったある日、宰相が急な腹痛に見舞われた。その日は皆が多忙で、代わりに、セシリアが王子に資料を持って行くことになった。


 元々気弱な国王は、先の戦い以降、更に自信をなくし、自室に籠りがちで、この国の唯一の王子であるフレデリックが政務を代わることが多かった。




「失礼いたします」


 執務室をノックし、執務室の中の騎士にドアを開けられ、セシリアが執務室に入ると、王子であるフレデリックは驚いた顔をした。セシリアが王子の執務室に入るのは初めてだった。


 フレデリックは、セシリアのことを知っていた。辺境伯嫡男の婚約者であったところ、婚約破棄の後、辺境伯から推薦され、突然、宰相補佐室に配属された文官という情報だけではない。フレデリックは、まだ子供であったときに王家主催のお茶会で、セシリアを見ていた。


 幼いセシリアは、養親である子爵夫妻に連れられていたが、何か不満があるようで、冷ややかな視線で周囲を見ていた。この国唯一の王子であるフレデリックに対し、値踏みしたり、取り入ろうとしたりする人間ばかり中だったので、セシリアの姿はフレデリックの目に焼き付いていた。


 しかし、今、フレデリックの目の前にいるセシリアは、資料を抱え、上司である宰相がいない中、王族の執務室に初めて入ることとなったことに当惑しているように見えた。


 フレデリックはしみじみと感慨深く感じ入った。何があったのかは知らないが、王族主催で貴族の集まる場で、不満げな顔をしていた少女が、一端の文官として目の前に姿を現すとは――


 更に、セシリアの宰相からの評判も良かったことを思い出し、フレデリックは、勝手に保護者にでもなった気持ちだったが、フレデリックの内心を知らないセシリアは、宰相でないことに失望されたのではと申し訳なく思った。


「すみません。宰相が急用で、代わりに参りました」


 身を小さくするセシリアに対し、我に返るとフレデリックは答えた。


「問題ない。資料の解説は可能か?」

「えっ……! は、はい」

「では、頼む」




 そして、その日以後、宰相は積極的にセシリアを王子の執務室へと送り出した。それは、当然、セシリアを通じて、辺境伯と王家の仲を修復させたいという狙いからだった。


 フレデリックは、宰相の意図を正確に理解し、セシリアに好意的に話しかけるようにした。しかし、やがて、フレデリック個人にとっても、セシリアは代えがたい人となった。



 ◇◇◇◇◇



 セシリアが、宰相補佐室に配属され、一年が経った。


 最初の頃とは異なり、セシリアは慣れた様子で王子の執務室をノックし、王子専属の騎士であるトリスタンは中から扉を開けた。執務机に座ったフレデリックは、セシリアを確認するとむくれた顔で言った。


「久しいな」


 小さい子供が拗ねるような、珍しいフレデリックの態度に、トリスタンと共にセシリアは苦笑した。敵が多く、隙を見せられないフレデリックが、こんな態度を取るのは、この二人を前にしたときだけだった。


 宰相の意図を汲み、セシリアとの仲を深めるために、フレデリックが少し砕けた態度を取ったところ、セシリアはそれにあっさり乗った。


 元来、母や子爵夫妻の影響で、セシリアは仕事熱心、更に、身分が高いながらも実力主義者の辺境伯が養親以外で最も身近な貴族だったので、必要以上に身分に忖度することがなかった。よって、フレデリックに対しても、セシリアは朗らかで、仕事の話は明瞭。歳が近く、雑談もできる。その結果、フレデリックの方が、セシリアが来るのを楽しみにするくらいだった。


 珍しい物言いに、セシリアは面映ゆい気持ちで苦笑交じりに答えた。


「子爵領の養親に会いに行っていました」


 下町の母や仲間のところなら、普段の休息日に行くことができるが、社交シーズンが終わり、領地に帰った養親に会いに行くのには、往復で数日かかる。『なら、仕方ない』ということで話が終わると思っていたセシリアだが、フレデリックは更に不満を漏らした。


「この前もいなかったじゃないか」

「あれは、今の職を紹介いただいた辺境伯へご挨拶に」


 それは、王家と辺境伯の仲を修復したい宰相の意向であり、宰相から手紙を渡してほしいと言われてのことだった。さらに、セシリアにとっては、宰相の意向だけでなく、辺境伯と子爵の仲を修復するためでもある。そして、辺境伯領までは、子爵領より更にかかる。


「子爵家はともかく、よく婚約破棄された家に行けるな」


 宰相から辺境伯を訪ねるように言われたことは知っているはずなのに、フレデリックは何処か棘がある物言いをした。セシリアには、それが拗ねているからのように響いた。


「辺境伯家は、この国の建国四家の一角ですから。本来、私が嫁げるような相手ではありません」


 セシリアが宥めるように言っても、まだ納得がいかない様子のフレデリックに、セシリアは苦笑交じりで付け加えた。


「……それに、養親が、子とのわだかまりは早くなくさないと、後悔すると」


 フレデリックはその言葉に目を瞬かせた後、溜め息を吐いた。


「辺境伯家が羨ましいよ。領主は職責を全うしようとする。更に、親子関係を気遣ってくれる知古までいるとはね」


 先の戦さ以降、国王は国政を投げ出し、国政は王子の肩に圧し掛かっている。セシリアが、王子の執務室によく来るのも、辺境伯との仲を改善したい宰相の意図だけでなく、国王が宰相からの説明を拒み、王子に代決を求めるためもあった。


 自らと自らの父親との比較だとすぐに分かるもので、身近でフレデリックの苦労を見るようになったセシリアは、慰めるように言った。


「殿下には、宰相閣下やトリスタン様がいらっしゃるではありませんか」


 無難な返答のつもりだったが、フレデリックはジト目でセシリアを見た。セシリアが、何が気に障ったのかと考えていると、少し間を空けた後、不満そうに、フレデリックがセシリアに聞いた。


「君は?」


 セシリアは慌てて答えた。


「勿論、僭越ながら私もです!」


 セシリアの答えと狼狽ぶりを見て、フレデリックは満足そうに笑みを浮かべた。その後、窓の外に目を向け、ポツリと言った。


「一度、君みたいに、この国の色々なところを見てみたいな」

「行きますか?」


 セシリアがさらりと言った言葉に、フレデリックは目を瞬かせ、セシリアを見て、一瞬、二人は見つめ合った。しかし、フレデリックが何かを答える前に、すごい剣幕でトリスタンが口を挟んだ。


「お待ちください!!」


 フレデリックとセシリアは、お互いから目を離し、同時にトリスタンを見た。トリスタンが必死で言い募った。


「陛下が公務を疎かにする中、宰相閣下の腕と殿下の権威で、この国の秩序は保たれています。セシリア様も冗談でも軽々しくそんなことを言わないでください。殿下が欠けては、この国はどうなるのですか!!」


 そこまで言い切ってから、トリスタンは肩で息をした。その様を見て、フレデリックは肩を竦めて笑った。


「トリスタンもこう言っているし、行かないよ」


 フレデリックは冗談めかしたが、セシリアは笑えなかった。


 フレデリックは、別に責任を投げ出したいと言っているわけではない。紙の上だけではなく、人々が生きている自分が治める国を自分の目で見たいと言っているだけだ。たったそれだけのことを、何故、止められないといけないのだろうか。


 止めたトリスタンに悪気があるわけではなく、むしろ、フレデリックのためであることも分かっていた。国王は国政を投げ出し、一方、国王の弟は、何か理由をつけ、自らが王位に就くことを狙っている。それを止め、国の混乱を最小限に食い止めているのは王子であるフレデリックである。公務に穴が空き、フレデリックの瑕疵となり、その地位を脅かされるようなことがあってはならない。でも、何故、自分と大きく変わらない年の人間が、一人で背負わないといけないのだろうか。


 セシリアは、今の状況が、フレデリックの友人として不満だった。


 今度は、セシリアの不満を感じ取ったフレデリックが宥める番だった。苦笑交じりでセシリアに優しく呼び掛けた。


「今は行かない。でも、いつか、私が望んだときは、連れ出してくれ」

「……はい」



 ◆◆◆◆◆



 最後の転機となったのは、セシリアが十九歳の時だった。




 国王の弟であった公爵が、辺境伯との関係の修復を望んでいた宰相のことを、国を乱そうとしたとして、訴えた。私兵を王宮に連れ込んだ公爵になすすべもなく、国王は、公爵の主張を認めた。


 王宮を掌握した公爵は、宰相を王宮から追放し、セシリアが、かつて宰相の下で共に働いていた文官も散り散りにさせられ、セシリア自身も、宰相補佐室から、新たに立ち上がった国史編纂室の資料整理係へと異動になった。




 異動からしばらくして、ガランとした国史編纂室に、王子専属の騎士であったトリスタンがやって来た。セシリアは、久し振りに会えたトリスタンに、嬉しそうに駆け寄った。


 トリスタンは、変わらないセシリアの様子に笑みを浮かべた後、セシリアに手紙を渡した。手紙は、フレデリックからだという。


 公爵は宰相を去らせた後、王子であるフレデリックを監視下に置き、自由を奪った。書いた手紙も検閲されることを覚悟で、それでもフレデリックがセシリアに伝えたいと書いた手紙だった。


 手紙には、これまでの仕事についての感謝が綴られるとともに、これ以上、目を掛けることは難しいので、王宮から辞去することを勧めることが書かれていた。


「殿下が、私にわざわざこんな手紙を……?」

「セシリア様と交わす執務室での会話が、殿下にとって、最も幸せな一時でした」


 まさか、とセシリアは言おうと、手紙から顔を上げたが、泣きそうな顔で笑うトリスタンを見て、言葉を失った。


 トリスタンは、セシリアに頼んだ。


「宰相閣下も去り、王宮は公爵に支配され、殿下に自由もありません。でも、殿下は、友人であるセシリア様がこの国の何処かで生きていると思うと、自分も頑張れる、と」

「でも、トリスタン様はここに残られるではありませんか」


 セシリアが食い下がるのに、トリスタンは首を静かに横に振った。


「私は、友と認めていただきましたが、生まれながら、殿下の従者でもあります。そして、そのことを誇りに思っています。でも、セシリア様はそうではないでしょう。だから、どうか――」


 トリスタンはそう言うと、頭を下げ続けた。




 そして、セシリアは手紙を握り締めると、その足で、王宮に辞表を出した。



 ◇◇◇◇◇



 セシリアが王宮を辞めて一か月後、王宮のフレデリックの執務室では、国王の弟である公爵が婚約誓約書を持ち、私兵と共に、フレデリックに迫っていた。


 公爵の後ろには、自らの娘であるアマーリエが控えていて、公爵は、フレデリックとアマーリエを婚約させるつもりだった。公爵は傲慢に言った。


「今の王室に国をまとめる力はない。我が娘と結婚するのであれば、殿下に力を貸しましょう」


 アマーリエは、真面目な従兄がいつ屈辱を受け入れ、自身に跪くか、薄ら笑いで、フレデリックを見ていた。


 フレデリックは周囲を見渡した。全幅の信頼を寄せる、忠臣であるトリスタンはいない。前宰相、そうでなければ、宰相補佐室の誰かを何とか王宮に戻すため、王宮からそっと出てもらったところだった。そして、その動きを察知した公爵が、強引に娘と結婚させようとして、今に至る。


 フレデリックの執務室だというのに、公爵、アマーリエ、公爵の私兵は我が物のようにのさばっている。フレデリックは軽蔑しきった目で、公爵を見た。


「監禁に脅迫とはな。王族に対する敬意はどこに行った」

「人聞きが悪い。陛下からは、殿下の意思に任せると言っていただいていますよ」


 父の姿がありありと浮かび、フレデリックは暗澹たる気持ちになった。


 公爵が「勝てる」「王家の権威を見せつけるべき」と父を唆して、隣国との戦争を始めた。辺境伯らの奮闘があって何とか戦争は終結させられたが、争いを始めたことで辺境伯の怒りを買い、戦場に子息を送ることになった多くの貴族からは反目され、借金を負ったことで国民は王家を怨んでいる。


 多くの人間の敵意に晒された国王は委縮し、公爵に促されるまま、王宮の自室に籠るようになった。それは、何度、フレデリックや宰相が説得しても変わらなかった。




 それでも、フレデリックは、宰相らを頼り、王国を立て直そうと精一杯奮闘した。しかし、人脈、金、経験。目標を達成するために足りないものが多過ぎた。


 一体、どうすれば良かったのだろうか。何か他の道がなかったのか。今の状況をどうにか変えられなかったのだろうか。父の代わりの国政など、経験不足の自分に大したことはできないと投げ捨て、好きに生きれば良かったのか。もう怨まれているのだから今更だと、国民に重税をかけ、貴族からの求心力を回復すれば良かったのか――




 幾度となく苛まれたことに答えを出したのは、皮肉にも、フレデリックの内心を知らないはずの公爵だった。


「殿下に、私に頼る以外の道などないでしょう」


 歯軋りして、フレデリックが公爵を睨みつけると、その迫力に公爵はたじろぎ、何かを促すように公爵の私兵に目を遣った。兵は無言で自らの剣に手を掛けた。




 フレデリックはそれを見て、大きな溜め息を吐いた後、婚約誓約書を手に取った。フレデリックは、権威だけで権力がなく、侮られても、王族として、一つだけ自分に課していることがあった。


 ――国を割らないこと、だ。


 フレデリックが一歩引いたのを察した公爵は、調子を取り戻し、嘲笑い、アマーリエは言葉だけで咎めた。


「はは。賢明ですよ。結局、自分の命は惜しいと見える」

「お父様、私の殿下の美しい顔を傷付けることは止めてくださいませ。コレクションに傷が付きますわ」


 フレデリックは眉を寄せ、静かに俯いた。


 自らの命で、問題全てが解決するなら、そんなものは投げ打ったって良かった。しかし、フレデリックの目の前にいる公爵は、自らの利益のためならば、人の血が流れることなどなんとも思わない人間だ。


 フレデリックは、自らが、貴族からは「融通が利かない堅物」と蔑まれ、民からは「戦争を防げなかった王の子」と憎まれているのは知っている。しかし、権威だけはまだ残っている。公爵とて、王族殺しの汚名は避けたい。だから、こんな回りくどい手を取っている。


 ――しかし、その汚名さえ受け入れてしまえば、公爵に怖いものなどなくなる。どんな暴君にもなれる。そのことが分かっているから、宰相は身を引き、王宮から去った。


 ならば、自分のすべきことは何かとフレデリックは自問し、答えが出た。


 公爵の娘との政略結婚を受け入れてでも、自分自身は王宮に残り、公爵の横暴を食い止める。


 『私の代では、戦禍に民を巻き込まない』と決意を新たにしたところで、ふと、フレデリックの瞼に、王宮を辞したというセシリアの姿が浮かんだ。そして、彼女の父も、戦で帰らぬ人となったことを思い出した。


 殺伐とした王宮で、彼女と話すのは楽しかった。自惚れでなければ、彼女は自分のことを一人の人間としても見てくれた気がする。


 王宮内でどんなに醜い争いをすることになっても、民を巻き込む争いを起こさなければ、彼女は自分を変わらず認めてくれるだろうか――




 フレデリックは拳に力を入れると、公爵のにやついた視線に晒されながらも、誓約書に署名するため、ペンを手に取った。




 その時、俄かに、ドアの外が騒がしくなった。


「……何事だ?」


 フレデリックはペンを置き、ドアを見た。事態を察したトリスタンが戻って来たのかと思った。しかし、それよりは、もっと多くの人間の足音のように聞こえた。


 何が起こっているかは分からないが、フレデリックの気が変わることを恐れる公爵が急かした。


「殿下、気にせず、署名をなさいませ!」




 しかし、次の瞬間、強引にドアが開けられた。ドアを開けたのはトリスタンで、その先にいたのは、かつて宰相補佐室で働いていたセシリアだった。


 公爵は面食らったものの、相手がフレデリックと同じくらいの若者と分かると、勢いを取り戻した。


「突然、何だ……! 無礼ではないか」

「陛下から、許可は得ております」


 公爵に答えたのは、セシリアの後ろにいた、冷え冷えとした瞳の前宰相だった。


 更に、執務室には、屈強な辺境伯とその息子が入って、言い添えた。


「陛下に確認したところ、今後のことは、全て殿下の意思を確認するようにとのこと」


 国王を脅したな、とフレデリックはすぐに察した。国王は、宰相の理論と辺境伯の迫力に怯むも、公爵を敵に回すこともできず、こちらに全責任を押し付けてきたのだろう。


 フレデリックは、いつも悩まされてばかりだった国王の優柔不断に、今回ばかりは笑いたくなった。




 更に、セシリアの養親であるスペンサー子爵夫妻が胸を張った。


「殿下の婚約者として、我が娘、セシリアの方が相応しいことを主張させていただく。セシリアは慈愛の心に満ちており、更に国民と交流を重ね、国の求心力を回復するために必要なことを熟知しています」


 相手が、かつて、子爵家の養女でありながら、辺境伯令息の婚約者と話題になったセシリアだと分かったアマーリエが嗤った。


「まあ、つまらない冗談ですこと。たかだか子爵家の、しかも、辺境伯家に婚約破棄されたような令嬢が図々しい。野心の大きさだけは認めても良いですが、実力を伴わないと――」


 辺境伯が前に出た。


「彼女への婚約破棄はこちらの瑕疵です。彼女の人柄、能力全てに、何の問題もなく、王太子殿下の婚約者に相応しいことは、我が辺境伯家が保証しましょう」


 更に、前宰相も言い添えた。


「宰相補佐室で共に働いた経験から、彼女の有能さを私も保証しましょう」

「馬鹿を言うな!!」


 分の悪さを察した公爵が、がなり立てた。




 公爵、アマーリエ、前宰相、辺境泊、子爵夫妻が一歩も引かず言い争う中、フレデリックはセシリアに近付くとそっと聞いた。


「何故こんなことを?」

「……今度こそ、殿下が望まれる気がして」


 遠慮がちに呟かれたその言葉で、かつての執務室での会話を思い出した。セシリアは、律儀にも約束を果たしに来てくれたらしい。


 フレデリックはまっすぐに前を向いた。フレデリックの胸に生まれて初めて、明るい希望が生まれ、力がみなぎっていた。




 公爵、前宰相、辺境伯は言い争いを続けていた。


「これだから、全て力で解決しようとする野蛮な人間は……!」

「ええ、これでは蛮族ではありませんか」


 公爵とアマーリエが顔を赤くして責めたてるのに、涼しい顔をした辺境伯と前宰相が返した。


「策を弄して、自分は血に濡れず、人を傷付ける人間が、高貴なものか」

「そもそも借金をかたに王族に婚約を迫ることこそ、自分自身の品格も王族への敬意もないと言わざるをえませんな」


 言い争いを止めたのは、凛としたフレデリックの声だった。


「宰相!」


 意思を感じさせる声に、皆が言い争いを止め、フレデリックを見た。皆の視線の中、フレデリックは宰相だけを見て、聞いた。


「確認したい。国王陛下は、何と言っていたのであっただろうか?」


 全てが吹っ切れたようなフレデリックの態度に、ニヤリと笑って宰相が答えた。


「全てフレデリック殿下に任せる、と」


 フレデリックは満足そうに頷くと、宣言した。


「では、今から、王位は私が継ぐ。そして、宰相には、新たに作る私の王宮を取り仕切ってもらいたい。辺境伯には、王宮の騎士団の鍛え直しに力を貸してもらいたい。子爵は、民が望むものや民間の商いについて、教えてくれるだろうか」


 その宣言に、王子の長い苦境を知る宰相とトリスタンは目を輝かせた。


 公爵は反論しようとしたが、娘であるアマーリエに押し退けられた。アマーリエが王子に詰め寄った。


「どういうことですの! 殿下、まさかそんな平民上がりを選ぶおつもりですか!!」


 落ち着き払った様子で、フレデリックは伝えた。


「アマーリエ嬢、私は貴女とは結婚できない」


 フレデリックはセシリアに向き直ると、うっとりとした瞳で見つめ、セシリアの手を取り、恭しく口付け、告げた。


「セシリア、愛している。どうか私と結婚してもらえないだろうか。必ず幸せにする」




 王子の求婚に子爵夫妻とトリスタンは色めき立ち、辺境伯は満足げに頷いた。更に、アマーリエが悲鳴を上げ、倒れこむのを公爵が慌てて、抱き留めた。


 フレデリックの発言は、この場を収め、説得力を持たせるために過ぎない、とセシリアは自分に言い聞かせた。それでも、フレデリックの態度に、まるで心の底から求められているように感じてしまい、どうしても、胸の鼓動が高まった。


 喧騒の中、頭を冷やそうと、セシリアは照れ笑いを浮かべ、フレデリックに小声で言った。


「流石です。迫真の演技ですね」


 フレデリックは一瞬、キョトンとした顔をした後、小さく笑って、熱の籠った視線をセシリアに向けた。


「演技ではないよ」


 セシリアは意味を理解すると、今度こそ耐えきれず、顔を真っ赤にした。セシリアは、憧れていた自分の両親のように、生涯、お互いを思い合える相手を得たのだった。



 ◆◆◆◆◆



 その後、辺境伯と宰相と子爵の後ろ盾を得て、即位したフレデリックは、吹っ切れたように、精力的に国中を回り、王宮と国の改革にまい進した。そして、王宮復権の立役者となったセシリアは、王が敵わない唯一の相手となった。


 フレデリックは賢王として名を馳せるが、苦難から救ってくれた妻だけには、生涯、頭が上がらなかった。でも、それを嫌がることはなかった。というか、フレデリック自身が、セシリアが自らの女神だと公言して憚らなかった。




 セシリアを幼い頃から知る下町の人々は、好意を込めて、セシリアについて、こう言って、笑った。


「下町出身の成り上がり王妃だ」と。


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― 新着の感想 ―
これはすごい! もうこれ絶対絵本になり演劇になり歴史書になり歌になり物語になり絵姿になり伝説になるやつ!!いや銅像立つやつ!! 晩年に自叙伝とか出て滅茶苦茶売れそう〜!! 歌舞伎だったら4幕くらいで子…
なんて良き成り上がり!!!  この後文句を言ったであろ貴族社会、貴族夫人たちをどうさばいていったのかも見てみたいです。
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