第5章 真実の扉
前作 最弱記録係は今日も天才美少女たちの戦いを見守るだけの主人公達が異世界転移!?
最弱記録係はどうやって活躍するのか?
主要人物紹介
綾瀬陽太(あやせ ようた
- 本作の主人公。蒼城学園で「記録係」を務める普通の高校生
- 能力者ではないが、観察力と記録力に長けている
- 控えめで真面目な性格だが、仲間思いで責任感が強い
- 異世界で「魔眼」の力に覚醒し、世界の真実を見抜く能力を得る
倉田美咲
- メインヒロインの一人。「絶対領域」を操る能力者
- クールで真面目、責任感が強い。成績優秀で品行方正
- 異世界では「神域展開」として時空を操る力に進化
- 陽太に対して特別な感情を抱いている
若林香織
- もう一人のメインヒロイン。「千変万化」の能力を持つ
- 明るく天真爛漫、感情表現が豊かで積極的な性格
- 異世界では「創世魔法」として物質創造能力に進化
陽太と美咲を大切に思う親友
5-1 忘却の谷
星見の丘から三日目の夕暮れ、七人の遠征隊は「忘却の谷」の入り口に立っていた。険しい山々に囲まれた深い谷。その入り口には、不気味なほどの静寂が支配していた。
「ここが……忘却の谷」
陽太は声を震わせながら呟いた。谷の入り口には、古びた石碑が立っている。エルフの言語で何かが刻まれていた。
「ここから先は、記憶を捨てよ。真実を求める者は、自らの記録を解き放つべし」
エルフの魔術師エリオンが石碑の文字を読み上げる。
「いよいよですね」
美咲が緊張した面持ちで言った。七人は揃って「記憶の石」を確認する。青く光るエルフの石が、全員の首から下げられていた。
「記憶の石があれば大丈夫なはずだけど……」
香織が不安そうに石を握りしめる。
「油断はできません」
アリシアが警告する。
「伝説では、この谷に入った者の多くは二度と戻らなかったと」
「わかっています」
陽太は頷いた。
「でも、行かなければならない」
彼は「世界の記録」を抱きしめた。この本こそが、黒き観測者に対抗する鍵かもしれない。
「それでは、進みましょう」
エルフの弓術師ライラが先頭に立った。彼女の鋭い感覚は、罠や敵の存在を察知するのに役立つだろう。ドワーフのドリンが後方を警戒し、残りのメンバーは中央に位置した。
谷の入り口を通り抜けた瞬間、全員が奇妙な感覚に襲われた。頭がぼんやりし、思考が霞がかったようになる。
「これが……忘却の力……」
美咲が首から下げた青い石を強く握りしめる。石が明るく輝き、頭の霧が少し晴れた。全員が同じように石を握り、意識を保つ。
「先に進みましょう」
谷は奇妙な景色に満ちていた。木々は灰色で、葉は無く、枝だけが空に向かって伸びている。地面は乾き、植物は育たず、動物の気配もない。そして最も奇妙なのは、時折風景が歪むことだった。
「この谷は、現実そのものが不安定なのね」
美咲が観察した。
「記録が曖昧になっている場所……だから世界の法則が薄れている」
陽太も同意する。彼の魔眼は、この場所でも機能していたが、視界が時折歪み、焦点を合わせるのが難しかった。
前進するにつれ、谷はさらに狭くなり、壁は高くなっていった。光が届きにくくなり、周囲は薄暗くなる。ライラがエルフの光を灯し、先導した。
「気をつけて」
彼女が警告する。
「足元が不安定です」
一行は慎重に歩を進めた。不思議なことに、時間の感覚も狂い始めていた。日没のはずなのに、空はまだ明るい。しかし、その光は太陽からではなく、空そのものが発光しているようだった。
「記憶の石、効いてる?」
香織が美咲に尋ねる。彼女は頷いた。
「ええ、でも完全じゃないわ。時々、自分がどこから来たのかを忘れそうになる」
「僕も同じだ」
陽太が言った。
「名前や目的は覚えているけど、細かいことが……」
彼は「世界の記録」を開き、自分たちの使命を再確認した。黒き観測者を止めること。「観測者の神殿」を見つけること。
谷の奥へと進むにつれ、風景はますます不思議なものになっていった。空に浮かぶ岩、上向きに流れる滝、そして途中で消えてしまう小川。現実の法則がここでは通用しないようだった。
「あれを見て!」
ドリンが指差した先に、奇妙な建造物が見えた。谷の中央に浮かぶ島のような場所に、古代の神殿を思わせる建物がそびえている。
「観測者の神殿……」
陽太が息を呑んだ。魔眼で見ると、神殿からは目に見えない力が放射されているのがわかる。記録の力だ。
「でも、どうやって渡るの?」
香織が疑問を呈する。神殿は谷底から浮かび上がり、周囲には深い渓谷が広がっていた。
「橋があったはずですが……」
アリシアが険しい顔で周囲を見回す。
「古い地図では、神殿への橋が描かれていました」
「橋は……記録から消されたのかもしれません」
エリオンが呟いた。
「神殿を保護するための仕掛けでしょう」
陽太は「世界の記録」を開き、橋に関する記述を探した。すると、一行の眼前で奇妙な現象が起きた。本のページから光が溢れ、空中に線を描き始めたのだ。
「見て!」
光の線は徐々に形を成し、やがて半透明の橋となった。石でできた古代の橋が、彼らの目の前に姿を現したのだ。
「これは……本が橋を呼び戻した?」
「いいえ」
陽太は理解した。
「橋は常にそこにあった。でも、記録から消されていた。本の中の記録が、現実を呼び戻したんだ」
「なるほど……」
美咲が納得した様子で頷く。
「記録があれば、消されたものでも取り戻せる」
「では、渡りましょう」
アリシアが先頭に立った。
「用心してください。罠があるかもしれません」
七人は一列になり、慎重に橋を渡り始めた。橋は古く、至る所にひびが入っている。しかし、不思議なことに、その姿は刻々と変化していた。最初は石の橋だったものが、途中から木の橋に、そして最後は金属の橋へと姿を変えていく。
「この場所は安定していない」
陽太が魔眼で観察する。
「橋の記録自体が不明確で、様々な形態を行き来している」
「でも、渡れるのよね?」
香織が心配そうに尋ねる。
「大丈夫。実体はしっかりしているから」
彼らが橋の中央に差し掛かった時、突然の轟音が響いた。振り返ると、橋の入り口側に黒い影が現れていた。
「記録兵!」
アリシアが警告する。十数名の記録兵が橋の入り口に集まり、彼らを追ってきていた。
「急いで!」
一行は足早に橋を渡り始めた。しかし、神殿側にも影が現れる。彼らは両側から挟まれる形になった。
「神域展開!」
美咲が力を発動する。青い光が橋を覆い、記録兵の動きを鈍らせた。
「創世魔法・光の壁!」
香織も追従し、光の障壁を作り出した。
「先に行きましょう! 神殿まで!」
陽太が叫ぶ。彼らは残りの橋を駆け抜け、ついに神殿の敷地に辿り着いた。背後では記録兵が美咲と香織の障壁に阻まれていた。
「もう少し時間稼ぎを」
エリオンとライラがエルフの魔法を展開し、さらに防御を固める。ドリンはドワーフの仕掛けを設置し、追手を遅らせようとした。
そして、七人は神殿の入り口に立った。巨大な石扉には、知られざる文字が刻まれている。
「これは……古代観測者の言語」
エリオンが驚きの声を上げる。
「読めますか?」
「少しだけ……ここには『記録を超えし者のみ、真実の扉を開く』と書かれています」
陽太は「世界の記録」を見つめた。そして、決意を固め、扉に手を置いた。
「開いてください」
彼の声が静かに響く。すると、扉が光を放ち、ゆっくりと開き始めた。
「急いで中へ!」
七人は神殿内部へと駆け込んだ。扉は彼らの背後で閉じ、記録兵の侵入を防いだ。
彼らは息を整え、周囲を見回した。神殿の内部は広大で、天井は見えないほど高く、柱が何本も立ち並んでいる。そして中央には、巨大な装置が置かれていた。
「これが……観測者の神殿」
陽太の声は畏敬の念に満ちていた。彼らはついに目的地に辿り着いたのだ。しかし、この神殿の奥に、どんな真実が眠っているのだろうか?
5-2 神殿への道
神殿の内部は驚くほど広大だった。円形の大広間には、天井から射し込む光が柱を照らし、床には複雑な模様が描かれている。空気はかすかに振動し、まるで神殿自体が呼吸しているかのようだった。
「すごい……」
香織が声を上げた。彼女の言葉が神殿内に反響する。
「この神殿は、おそらく数千年前のものです」
エリオンが壁に刻まれた模様を観察しながら言う。
「古代観測者たちが建てたものでしょう」
「観測者とは何者だったのでしょうか」
美咲が尋ねた。
「世界を記録する者たち」
エリオンは説明を続ける。
「彼らは単なる記録者ではなく、その記録によって世界の形を決定づける力を持っていたと伝えられています」
陽太は中央の装置に近づいた。それは巨大な水晶のような物体で、その中心には何か動くものが見える。彼が魔眼で見ると、水晶の中には無数の糸のようなものが絡み合っていた。
「これは……世界の記録?」
「ある意味では」
アリシアが言った。
「伝説によれば、神殿の中心には『記録の結晶』があり、世界の全ての出来事が記録されているとか」
七人は広間を探索し始めた。壁には奇妙な絵が描かれている。観測者たちが世界を見つめる姿、そして彼らの記録が現実になっていく様子。
「この奥へ続く通路があります」
ライラが指摘した。大広間から伸びる廊下は、神殿の奥へと続いている。
「行きましょう」
彼らは慎重に進んだ。廊下の両側には小さな部屋が並び、それぞれに異なる時代の記録が保管されているようだった。古い巻物、石板、水晶など、様々な媒体が並んでいる。
「この神殿は図書館のようだ」
ドリンが驚いた様子で言う。
「世界の全ての知識が保存されている」
廊下の先には、再び大きな部屋があった。そこには、円形の台座があり、その周りに七つの柱が立っている。
「これは……」
陽太が近づき、台座を調べる。そこには七つの窪みがあり、何かを置くように設計されていた。
「何かを置くための場所のようですね」
美咲が観察する。
「七つ……私たちの人数と同じ」
香織が指摘した。
「偶然じゃないわ」
「まず、周囲を調べましょう」
アリシアの提案に従い、七人は部屋を探索し始めた。壁にはさらに複雑な模様が刻まれ、床には星図のような図形が描かれている。
「これは……世界地図?」
エリオンが床の模様を調べる。
「いいえ、世界の境界図です。複数の世界が重なり合う様子を表している」
陽太は「世界の記録」を開き、神殿に関する記述を探した。すると、本のページが勝手にめくれ、ある図解に辿り着いた。
「これだ……」
彼が本を皆に見せる。そこには、まさに今彼らがいる部屋の図が描かれていた。そして、七つの柱には七つの特殊なアイテムを置くよう指示されていた。
「七つの石……」
彼は図を読み上げる。
「『記憶の石』を七つの柱に置くと、『真実の間』への扉が開くと」
「エルフの石!」
美咲が言った。彼女は首から「記憶の石」を外す。
「これを置けばいいのね」
七人は自分の「記憶の石」を取り、それぞれの柱の前に立った。
「同時に置きましょう」
陽太の合図で、全員が石を窪みに置く。するとすぐに、石が青く輝き始め、床の模様も同じく光を放った。部屋全体が振動し、中央の台座が下がり始める。そこから螺旋階段が現れた。
「下に続いているようです」
アリシアが言う。七人は石を置いたまま、階段を降り始めた。階段は深く、どこまでも続くかのようだった。壁には光る文字が流れており、すべてが古代観測者の言語で書かれている。
「ここに何が書かれているのですか?」
陽太がエリオンに尋ねる。
「断片的にしか読めませんが……『記録』と『現実』についての哲学的な文章のようです。『観測することが創造である』とか、『記録は現実に先立つ』といった内容です」
階段を降りること、おそらく数百段。ようやく彼らは新たな空間に辿り着いた。そこは小さな丸い部屋で、中央には単なる扉が立っていた。何も支えられていないのに、空中に浮かぶ扉。
「なんて不思議な……」
香織が驚きの声を上げる。
「これが『真実の扉』なのでしょうか」
美咲が尋ねる。
「おそらく」
陽太は扉に近づいた。表面には複雑な模様が刻まれ、中心には鍵穴のようなものがある。
「どうやって開けるのでしょう」
「本を使うのではないでしょうか」
アリシアが提案する。陽太は「世界の記録」を見つめ、そして扉の鍵穴に近づけた。すると、本から光が溢れ、扉の模様と共鳴する。
「開いている……」
扉がゆっくりと開き、その向こうには……何もなかった。ただの暗闇だけが広がっていた。
「中に何もない?」
ドリンが疑問を呈する。
「いいえ、あります」
陽太が魔眼で見ると、暗闇の中には微かな光の糸が張り巡らされているのが見えた。
「何かがある。でも、通常の目では見えない」
「どうすれば?」
「入るしかないでしょう」
陽太は勇気を出して、扉の中に一歩踏み出した。彼が暗闇に触れた瞬間、体が光に包まれる。
「陽太くん!」
美咲と香織が慌てて後を追う。アリシア、エリオン、ライラ、ドリンも続いた。
全員が扉を通り抜けると、そこは想像もしなかった場所だった。無限に広がる空間。床も天井も壁もなく、ただ漆黒の空間に、無数の光の糸が張り巡らされている。それぞれの糸は、小さな光の粒を繋いでいた。
「これは……」
美咲が驚きに声を震わせる。
「世界の記録そのもの」
エリオンが畏敬の念を込めて言った。
「全ての出来事、全ての存在が、光の粒として記録されている」
陽太は魔眼を最大限に開き、この空間を観察した。すると、意識が広がるような感覚があり、全ての光の意味が理解できるようになった。
「これは……アルスティア王国」
彼は一群の光の粒を指す。
「そして、これは蒼城学園」
別の光の集まりを示す。
「二つの世界の記録が、ここで繋がっている」
「でも、なぜ?」
香織が尋ねる。
「そして、黒き観測者は何をしようとしているの?」
「答えはもっと奥にあるはずです」
陽太は直感に従い、光の海の中を進み始めた。他の六人も彼に続く。彼らは光の中を歩くというより、泳ぐような感覚で移動していた。重力がなく、方向感覚も曖昧になる不思議な空間。
進むにつれ、光の密度が高くなっていく。そして、遠くに奇妙な歪みが見えてきた。光が集中し、渦を巻いている場所。
「あれは……」
陽太の魔眼が捉えたのは、光の渦の中心にある黒い穴。まるで、記録そのものに空いた穴のようだった。
「記録の狭間……」
言葉が自然と口から出た。彼は何かを思い出したような感覚があった。そして、穴の周りを見ると、二つの光の塊が渦を巻いていた。それは人の形をしているようだが、光と影が入り混じり、常に形を変えている。
「あれは……人?」
アリシアが尋ねる。
「いや、かつては人だったもの」
陽太の声が震えた。
「近づいてみましょう」
彼らは光の渦に向かって進んだ。近づくにつれ、陽太の心に奇妙な既視感が湧いてきた。まるで、以前にもここに来たことがあるかのような……
そして、渦の中心まで来たとき、全員が衝撃的な光景を目にした。
「これは……!」
美咲が悲鳴に近い声を上げた。
光の渦の中心には、二つの存在が浮かんでいた。かつては人間だったはずの存在。
一人は青黒い鱗に覆われた半魔物の姿。かつての美しさはなく、体の半分が変形し、左腕は巨大な爪へと変わっていた。しかし、その顔には、美咲の面影がまだ残っていた。
もう一人は、背中から複数の触手が生え、顔の一部が別の生物のような器官に置き換わっていた。香織の姿を残しつつも、徐々に別の何かに変わりつつある存在。
「美咲さん……香織さん……?」
陽太の声は震えていた。
「あれは……私たち?」
現在の美咲が恐怖に震える声で尋ねる。
「いや、未来の……」
陽太は言葉を失った。目の前にいるのは、未来の美咲と香織だった。そして彼女たちは、恐ろしい姿に変貌していたのだ。
5-3 観測者の神殿
衝撃の真実を目の当たりにして、七人は言葉を失った。特に美咲と香織の動揺は激しく、自分たちの未来の姿に恐怖と哀しみを感じていた。
「なぜ……私たちがこんな姿に」
美咲が震える声で言った。
「何が起きたの……」
未来の二人は、光と影の間で揺れ動いていた。彼女たちは意識があるようで、時折、苦しそうに身をよじらせる。その姿は、耐え難い苦痛を示していた。
「観測記録に閉じ込められている」
エリオンが恐る恐る説明する。
「彼女たちは完全に消されず、かといって完全には存在していない。『記録の狭間』と呼ばれる状態です」
「それって……」
香織が言いよどんだ。
「生きているの? それとも……」
「どちらでもあり、どちらでもない」
エリオンは頭を振った。
「最も残酷な状態です。死ねず、かといって真に生きてもいない」
陽太は魔眼で二人をさらに詳しく観察した。すると、彼女たちの中に残る記憶の断片が見えてきた。過去の出来事、感情、そして……
「記憶が見える」
彼は震える声で言った。
「彼女たちがどうしてこうなったのか……」
突然、未来の美咲が動いた。彼女の歪んだ口から、かすれた声が漏れる。
「陽……太……」
「美咲さん!」
彼は思わず前に出た。未来の美咲の目が、わずかに焦点を合わせる。
「来た……のね……」
「ええ、ここにいます」
陽太は動揺しながらも、優しく応えた。未来の香織も動き始め、触手が空中で踊る。
「危険……帰って……」
香織の声は歪んでいたが、明らかに警告を発していた。
「何から危険なんですか?」
アリシアが尋ねる。
「彼……から……」
美咲の声がかすれる。
「黒き……観測者……」
その瞬間、空間全体が震動した。光の糸が揺れ、まるで嵐に見舞われたかのように、全てが不安定になる。
「何が!?」
ドリンが叫ぶ。
「来た……」
未来の香織がつぶやいた。
遠くに、一つの影が現れる。黒いコートを着た人影。進むにつれ、その姿がはっきりしてきた。右半身は人間の姿を保っているが、左半身は黒い鱗に覆われ、左腕は異形の腕に変化していた。左目からは黒い涙のような液体が流れ落ちている。
「黒き観測者……」
アリシアが恐れをもって言った。
「未来の陽太……」
現在の陽太が震える声で言う。目の前にいるのは、間違いなく自分自身の未来の姿だった。
黒き観測者はゆっくりと近づいてきた。その歩みは重く、苦痛を伴っているようだった。彼が近づくにつれ、光の糸が彼の意志に従って動くのが見える。
「ついに……来たか」
黒き観測者の声は、陽太の声と似ているようで違っていた。深く、苦しみに満ちている。
「君たちが現れると予測していた」
「あなたが……僕の未来?」
陽太が恐る恐る尋ねた。
「そうだ」
黒き観測者が答える。
「私は、かつての綾瀬陽太。今は『記録者』と呼ばれている」
「なぜ……こんなことを」
美咲が震える声で尋ねる。
「私たちがこんな姿になるなんて……」
黒き観測者の目に、一瞬、痛みの色が浮かんだ。
「全ては彼女たちを救うためだ」
彼は未来の美咲と香織を指す。
「彼女たちは『記録の狭間』に囚われている。私がしていることは、彼女たちを解放するための唯一の方法なのだ」
「どういうことですか?」
陽太が問う。黒き観測者は深いため息をついた。
「過去を見せよう……私たちの過去を」
彼が手を広げると、周囲の光が変化し、映像のように過去の出来事が浮かび上がり始めた。
それは、彼らが初めて蒼城学園に戻った後の出来事だった。平和な日々、そして再び訪れた危機。新たな敵との戦い。
そして、決定的な瞬間が訪れる。
「これが……全ての始まりだ」
黒き観測者が言う。映像の中で、美咲と香織が絶体絶命の危機に陥っていた。敵の攻撃により、二人は致命傷を負い、死にかけていた。
そして映像の中の陽太が叫ぶ。
「死なないで! 僕が守る!」
その瞬間、陽太の魔眼が制御不能になり、金色の光が爆発的に広がる。彼は必死に二人を救おうとした。魔眼の力を超え、「記録」の力を本能的に発動させたのだ。
「力を制御できなかった……」
黒き観測者が説明する。
「彼女たちを記録の中に閉じ込めることで、死から救おうとした。しかし、未熟な力では不完全だった」
映像の中で、美咲と香織の体が光に包まれ、現実から半ば切り離される。彼女たちは死ななかったが、完全に生きているわけでもなくなった。
「私は彼女たちを『記録の狭間』に閉じ込めてしまったのだ」
黒き観測者の声には、深い後悔と痛みが混ざっていた。
「そして……」
映像は続く。陽太が必死に二人を救おうとする姿。様々な方法を試し、あらゆる手段を尽くす。しかし、どれも失敗に終わる。
「私は『記録』の力を深く研究し、使いこなそうとした」
黒き観測者が続ける。
「そして気づいた。世界の記録そのものを書き換えれば、彼女たちを救えるのではないかと」
映像の中で、陽太の体が徐々に変化していく。魔眼の力を使いすぎ、「記録」の力に侵食されていく。そして、彼は「黒き観測者」へと変貌していく。
「しかし、代償は大きかった」
彼は自分の変形した体を見せる。
「私の体は魔物化し、寿命も縮んでいる。それでも、彼女たちを救うためなら……」
「でも、世界を歪めている」
現在の陽太が言った。
「人々を苦しめている」
「世界など、彼女たちに比べれば取るに足らない」
黒き観測者の声が冷たくなる。
「新しい世界、完璧な世界を創ることができれば、彼女たちを救えるのだ。そのためには、現在の世界を書き換えなければならない」
「そんな……」
美咲が震えながら言う。
「私たちを救うために、世界を犠牲にするなんて……」
「私は望んでいない!」
香織も叫んだ。
「こんな方法で救われたくない!」
黒き観測者の目に、怒りの色が浮かぶ。
「あなたたちには理解できない。私が見てきたもの、感じてきた絶望を……」
彼は未来の美咲と香織を指す。
「彼女たちは二年間、この狭間で苦しみ続けている。魔物化し、意識を失い、また取り戻し……その繰り返しの中で、終わりのない痛みを味わっている」
黒き観測者の声が震えた。
「私は彼女たちの悲鳴を毎日聞いている。助けを求める声を。そして私は、彼女たちを救うと約束した」
「でも……」
陽太が言いよどむ。彼にも、黒き観測者の気持ちが痛いほど理解できた。自分が同じ立場なら、同じことをしていたかもしれない。
「他に方法はないのか」
「探した」
黒き観測者が答える。
「あらゆる方法を。しかし、『記録の狭間』から彼女たちを救い出す唯一の方法は、世界の記録そのものを書き換えること。新しい記録を創り、彼女たちをその中に組み込むことだけだ」
「だから観測者の神殿を探していたのですね」
アリシアが言う。
「ここには、世界の記録を操作する力がある」
「その通り」
黒き観測者が頷く。
「ここで、『真の記録』を完成させれば、新しい世界が生まれる。そして、その世界では彼女たちは健康で幸せな姿で生きている」
「でも、それは現実ではなく、作られた記録でしかない」
エリオンが反論する。
「本当の救済とは言えないのでは?」
「記録が現実だ」
黒き観測者が力強く言う。
「この世界の全ては、記録によって存在している。記録を変えれば、現実も変わる」
彼は現在の三人に近づいた。
「私はここで、なぜ君たちが現れたのかを理解した。君たちは、私の不完全な記録を完成させるための鍵なのだ」
「鍵……?」
陽太が尋ねる。
「私一人の力では、完全な記録を創れない。しかし、君たち——過去の私、美咲、香織の力を借りれば、完璧な記録が完成する」
彼は手を差し伸べた。
「協力してくれ。彼女たちを救おう」
七人は困惑し、互いを見つめ合った。黒き観測者の言葉には、確かに真実があった。未来の美咲と香織の苦しみは、見るに耐えないものだ。彼女たちを救いたいという気持ちは、誰もが共感できる。
しかし……
「世界を犠牲にしてまで?」
陽太が静かに言った。
「そうだ」
黒き観測者の声に迷いはなかった。
「彼女たちのためなら、どんな犠牲も払う」
この言葉に、現在の美咲が前に出た。
「あなたの気持ちはわかる。でも、それは間違っている」
「何?」
「私たちを守りたい気持ち、救いたい気持ち……それはとても尊いわ」
美咲は未来の自分を見つめながら言った。
「でも、私たちを救うために世界を壊すなんて、私たちは望んでいない」
「そうだよ」
香織も加わった。
「私たちが望むのは、みんなが幸せになること。あなただけじゃなく、みんなが」
黒き観測者の表情が曇る。
「それでも……彼女たちの苦しみを見捨てるのか?」
「いいえ」
陽太が一歩前に出た。
「僕たちは彼女たちを見捨てない。でも、別の方法で救う」
「別の方法など……」
「あるはずだ」
陽太は断固として言った。
「『記録』を書き換えるのではなく、『記録の狭間』から直接救い出す方法を」
黒き観測者は黙り込んだ。彼の目に、かすかな希望の色が浮かんだように見えた。
「……本当にそんな方法があるなら」
彼はつぶやいた。
「私も……それを望む」
「一緒に探しましょう」
陽太は手を差し伸べた。
「未来の僕自身。一人で抱え込まなくていい」
黒き観測者の目から、黒い涙が溢れ出した。
5-4 記録の狭間
黒き観測者と七人は、未来の美咲と香織を救う方法を探るため、光の渦の中心へと向かった。「記録の狭間」と呼ばれる場所の秘密を解き明かすべく、全員が協力することになったのだ。
「記録の狭間は、世界の記録と記録の間に存在する空間です」
エリオンが説明する。
「通常、ここに存在するものはないのですが、未完成の記録や、矛盾した記録は、ここに留まることがあります」
「それが、未来の美咲さんと香織さんの状態なのですね」
陽太が理解した。
「未熟な記録の力で救おうとしたため、完全な記録として存在できず、かといって完全に消えることもできなかった」
彼らは光の渦の中心に近づいていった。近づくにつれ、未来の美咲と香織の姿がより鮮明に見えてくる。彼女たちの苦しみも、より生々しく感じられた。
美咲の青黒い鱗は常に動き、内側から何かが這い出ようとしているかのよう。彼女の左腕となった巨大な爪は、制御を失ったように空を掻き、時折自分自身を傷つけていた。目は焦点が定まらず、時に美咲らしい意識の光が灯り、時に空虚な闇に覆われる。
香織の状態はさらに酷かった。背中から生えた触手は常に痙攣し、その先端からは黒い液体が滴り落ちる。顔の半分が別の生物のような器官に変わり、そこからは異様な音が漏れていた。息をするたびに体が歪み、苦痛に身を震わせる。
「こんなに苦しんでいたなんて……」
現在の美咲が涙を流した。
「見ていられない……」
香織も顔を背けそうになる。しかし、陽太は彼女たちの手をとった。
「目を背けちゃだめだ。これが未来かもしれない現実。でも、僕たちは変えられる」
黒き観測者は未来の二人に近づき、優しく語りかけた。
「もう少し待っていて。今度こそ、必ず救い出す」
彼の声には、深い愛情と決意が込められていた。その瞬間、未来の美咲が再び意識を取り戻したようだった。彼女の目が焦点を合わせ、かすれた声が漏れる。
「陽…太…私たちは…」
「美咲、話せるか?」
黒き観測者が優しく尋ねる。彼女はかろうじて頷いた。
「短い…時間…だけ…」
「何か、私たちにできることは?」
陽太が尋ねる。未来の美咲の目が、現在の三人に向けられた。
「来て…くれて…ありがとう…」
彼女の声は震えていた。
「私たちは…待っていた…」
未来の香織も意識を取り戻し始めた。彼女の触手が落ち着き、顔の人間部分から声が漏れる。
「記録…結合…必要…」
「記録の結合?」
エリオンが言葉を繰り返す。
「そうか…分かった!」
彼は興奮した様子で言った。
「彼女たちは記録の狭間に閉じ込められている。つまり、完全な記録を持っていない。だからこそ、現実に存在できないのです」
「では、彼女たちに新しい記録を与えれば?」
アリシアが提案する。
「それだけじゃ不十分です」
エリオンが続ける。
「彼女たちは既に『記録の狭間』の影響を受けすぎている。単に新しい記録を与えても、元には戻れない」
「では、どうすれば……」
「記録の結合」
黒き観測者が理解を示した。
「彼女たちの言う通りだ。現在の美咲と香織の記録と、未来の彼女たちの記録を結合する必要がある」
「どういうことですか?」
現在の美咲が尋ねる。
「記録は世界の基盤だ」
黒き観測者が説明する。
「人の存在も、記録によって定義される。未来の彼女たちは不完全な記録を持ち、現在の君たちは完全な記録を持っている。その二つを結合すれば……」
「一つの存在になる?」
香織が恐る恐る尋ねた。
「そうだ」
「それって、私たちは消えるの?」
彼女の声は不安に震えていた。
「消えるのではない」
陽太が理解した。
「一つになるんだ。現在の君たちも、未来の彼女たちも、新しい一つの存在になる」
「それは可能なのですか?」
美咲が黒き観測者に尋ねる。
「理論上は可能だ」
彼は頷いた。
「しかし、危険も伴う。結合に失敗すれば、両方の記録が失われる可能性もある」
一同が沈黙した。それは大きな賭けだった。現在の美咲と香織が自分自身の存在を危険にさらすことになる。
「私は……」
美咲が口を開いた。
「やりたい」
全員が彼女を見た。
「未来の私があんなに苦しんでいるなら、救いたい」
「私も」
香織が頷いた。
「未来の私たちは、私たち自身よ。見捨てられない」
陽太は二人を見つめ、深い感動を覚えた。彼女たちの勇気と優しさは、どんな困難も乗り越えられる力を持っているように思えた。
「では、準備をしよう」
黒き観測者が言った。
「記録の結合には、観測者の神殿の中心で行う必要がある」
彼らは未来の美咲と香織を光の渦から解放し、一行と共に光の海を進んだ。二人を解放するのは難しく、黒き観測者は最大限の力を使った。その度に、彼の体からは黒い血のようなものが流れ出し、より魔物化が進んでいった。
「無理しないで」
陽太が心配する。
「構わない」
黒き観測者は苦しそうに言った。
「私の命など、彼女たちに比べれば取るに足らない」
彼らは再び扉を通り、螺旋階段を上り、神殿の中心部へと戻った。中央の水晶の装置が、今や強く輝いていた。
「ここが『記録の結晶』」
黒き観測者が言う。
「世界の記録の中心。ここで結合を行えば、最も成功の可能性が高い」
彼は装置を操作し始めた。水晶の中に渦が現れ、光の糸が踊る。
「現在の美咲、香織。未来の二人の横に立ってくれ」
彼女たちは恐る恐る、未来の自分たちの横に立った。未来の二人は、かろうじて自分の意識を保っていた。彼女たちの目には、希望と恐怖が混ざっていた。
「大丈夫よ」
現在の美咲が未来の自分に語りかける。
「もう一人じゃない」
「頑張ろうね」
香織も同様に声をかけた。
黒き観測者は水晶の前に立ち、「世界の記録」を開いた。彼は陽太に目を向けた。
「君も来てくれ。君の魔眼が必要だ」
陽太は緊張しながらも、彼の隣に立った。
「何をすればいいですか?」
「魔眼を最大限に開き、彼女たちを『観測』するんだ。その観測を、私が記録する」
陽太は深く息を吸い、魔眼の力を解放した。彼の目が金色に輝き、美咲と香織——現在と未来の両方——を見つめる。彼女たちの存在の全てが、陽太の魔眼に映し出された。
「見える……」
彼は呟いた。
「彼女たちの全て。過去、現在、そして可能性としての未来が」
黒き観測者も自らの力を解放した。彼の左目から溢れる黒い涙が、床に線を描き始める。
「記録を始める」
彼が呟くと、水晶の中の光がさらに強くなり、美咲と香織を包み込み始めた。
現在と未来の二人が、徐々に光の中で一つになっていく。それは苦痛を伴う過程のようで、四人とも悲鳴を上げていた。特に未来の二人の叫び声は、胸を引き裂くようだった。
「頑張れ!」
アリシアが叫ぶ。
「もう少しだ!」
ライラとエリオンもエルフの魔法で支援し、ドリンはドワーフの技術で水晶の安定を図った。
そして、光が最高潮に達したとき、爆発的な閃光が広がった。全員が目を覆い、光が収まるのを待った。
やがて光が弱まり、彼らは恐る恐る目を開けた。
水晶の前には、二つの人影が立っていた。
美咲と香織——しかし、以前とは少し違っていた。
彼女たちの体には、かすかに異形の痕跡が残っていた。美咲の左腕には青い模様が刻まれ、香織の背中にはわずかに隆起があった。しかし、彼女たちは明らかに人間であり、苦しみからは解放されていた。
「成功した……」
黒き観測者が呟いた。彼の声は安堵に満ちていた。
「美咲さん、香織さん!」
陽太が駆け寄る。二人はゆっくりと目を開けた。
「陽太くん……」
美咲の声は、現在と未来が混ざったような不思議な響きを持っていた。
「私たち、戻ってきたの?」
「ええ、戻ってきた」
陽太は涙を流しながら頷いた。
「もう大丈夫だよ」
香織が微笑んだ。彼女の笑顔は、かつての無邪気さと、何かを経験した大人の深みが混ざり合っていた。
「ありがとう……みんな」
黒き観測者は少し離れた場所で、満足そうに二人を見つめていた。彼の体はさらに魔物化が進み、人間の部分が少なくなっていた。それでも、彼の目には幸福の光が灯っていた。
「これで、君たちは救われた」
彼は静かに言った。
「私の使命は、果たされた」
「まだ終わりじゃない」
陽太が彼に向き直った。
「あなたも救われなければ」
黒き観測者は苦笑した。
「私は……もう手遅れだ」
彼は自分の体を見せた。魔物化はさらに進行し、右半身の人間部分も徐々に侵食されていた。
「力の代償は大きかった。私の命は、もうほとんど残っていない」
「そんな……」
陽太は言葉を失った。
「でも……世界は?」
美咲が尋ねる。彼女は、自分がどれほどの犠牲の上に救われたのかを理解していた。
「世界は元に戻りますか?」
黒き観測者は頷いた。
「私の力が消えれば、強制的に書き換えた記録も元に戻る。世界は徐々に回復するだろう」
彼は水晶に近づき、手を置いた。
「最後に一つ、やることがある」
「何を?」
「君たちを元の世界に送り返す」
陽太は驚いた。
「元の世界に? でも、どうやって?」
「観測者の神殿には、世界を繋ぐ力がある」
黒き観測者が説明する。
「ここから、君たちを蒼城学園へ送り返すことができる」
「でも、アルスティア王国は?」
香織が心配そうに尋ねる。
「この世界はどうなるの?」
「私がいなくなれば、徐々に回復する」
黒き観測者は言った。
「アリシア、エリオン、ライラ、ドリン……彼らが新しい世界を作っていくだろう」
四人は頷いた。
「我々にお任せください」
アリシアが決意を込めて言った。
「レオンハルト将軍、デュラン侯爵、シルヴァーナ様、グロムハンマー王……皆で力を合わせ、新しいアルスティアを築きます」
「ありがとう」
黒き観測者は彼らに頭を下げた。
「そして、陽太、美咲、香織……」
彼は現在の三人に向き直った。
「君たちには、自分の世界で生きて欲しい。君たちの物語は、まだ始まったばかりだ」
「あなたは?」
陽太が尋ねる。
「僕と一緒に来られないの?」
黒き観測者は優しく微笑んだ。その表情は、久しぶりに人間らしさを取り戻していた。
「私の居場所はここだ。最後まで、この世界の記録者として」
彼は水晶に両手を置き、力を注ぎ込み始めた。水晶が七色に輝き、神殿の中央に光の門が現れた。
「さあ、行くんだ」
黒き観測者が言う。
「門の向こうは、蒼城学園だ」
陽太は躊躇した。
「本当に……このままでいいの?」
「ああ」
黒き観測者は静かに頷いた。
「私は幸せだ。彼女たちを救うことができた。これ以上の幸福はない」
美咲と香織は涙を流していた。彼女たちは黒き観測者に近づき、優しく抱きしめた。
「ありがとう……私たちのために、全てを捧げてくれて」
美咲がすすり泣きながら言った。
「あなたの犠牲は、決して無駄にしないわ」
「幸せに生きるよ、あなたの分まで」
香織も涙ながらに約束した。
黒き観測者は二人を抱きしめ返した。彼の目からも、黒い涙が流れ落ちていた。
「さあ、行くんだ。時間がない」
彼は陽太に「世界の記録」を返した。
「これを持っていけ。そして……記録し続けるんだ。観測者として」
陽太は本を受け取り、頷いた。
「約束する。そして、いつか……また会おう」
黒き観測者は微笑んだ。
「会えるといいな」
三人は光の門に向かった。最後に振り返り、黒き観測者と四人の仲間たちに別れを告げる。
「さようなら……そして、ありがとう」
彼らは光の中へと踏み込んだ。まばゆい光が三人を包み込み、世界が溶けていく感覚。
最後に見たのは、黒き観測者の満足げな笑顔だった。
5-5 悲劇の真相
光の中を進みながら、陽太、美咲、香織の三人は、未来から受け継いだ記憶の断片を整理していた。未来の二人との結合で、美咲と香織は部分的に未来の記憶を持つようになった。それは断片的で完全ではないが、黒き観測者と彼女たちの悲劇的な過去が少しずつ明らかになっていく。
「少しずつ思い出せる……」
美咲が呟いた。彼女の声には、深い悲しみが混ざっていた。
「あの日から始まったのね」
「あの日?」
陽太が尋ねる。美咲は目を閉じ、記憶を辿る。
「元の世界に戻った後、半年ほど平和だった。でも、その後……」
彼女の声が途切れる。香織が続けた。
「また異世界への扉が開いたの。でも、今度は違う世界だった」
「邪神の世界」
美咲の声が震える。
「私たちは元の世界と異世界の均衡が崩れていることを知り、邪神を封印するために戦った」
「そして、その戦いで……」
香織の目に涙が浮かぶ。
「私たちは致命傷を負ったの」
陽太は震える手で「世界の記録」を握りしめた。黒き観測者の言葉が思い出される。彼女たちを救うために「記録」の力を使い、結果として彼女たちを「記録の狭間」に閉じ込めてしまったこと。
「僕が……」
「あなたのせいじゃない」
美咲がすぐに言った。
「未来の陽太くんは、私たちを救おうとしただけよ。彼は自分の力をコントロールできなかっただけ」
「でも、そのせいで彼女たちは……」
「そして、彼は」
香織が悲しげに言った。
「二年間、ずっと私たちを救うために暗闇の中を歩いた」
三人は黙り込んだ。黒き観測者の行動は極端だったが、その動機は純粋だった。愛する人たちを救うために、彼は自分自身を犠牲にし、世界さえも書き換えようとした。
「記憶の中で、最もはっきりしているのは……」
美咲が静かに言った。
「私たちが『記録の狭間』に閉じ込められた時の痛みよ」
「言葉では言い表せない苦しみだった」
香織が震える声で続けた。
「体が崩れ、再生し、また崩れる。意識が断片化し、時に戻り、また失われる」
「私たちは、『記録の狭間』で文字通り生きた地獄を経験していた」
陽太は二人の言葉に、深い痛みを感じた。自分の未来の姿が、そんな状況を目の当たりにし続けていたなんて。彼がどれほど絶望し、どれほど苦しんだか。
「最悪だったのは、私たちが時折正気に戻ることだった」
美咲の声が震えた。
「自分が何になっているのかを理解する瞬間。自分の体が魔物化し、醜く変形していること。そして、それが永遠に続くという絶望」
「でも、陽太くんはずっと側にいてくれた」
香織が続けた。
「彼は私たちを救うために、自分の体と魂を切り売りしていった」
「彼の魔物化は、『記録』の力を使うたびに進行した」
美咲が説明する。
「彼は魔眼の力を限界以上に使い、その代償として、少しずつ人間でなくなっていった」
「そして、最後の手段として……」
「世界の記録を書き換えようとした」
陽太が言葉を継いだ。
「新しい世界を創り、そこにあなたたちを健康な姿で存在させようとした」
「でも、それは間違っていた」
美咲がきっぱりと言った。
「誰かの犠牲の上に成り立つ幸せなど、本当の幸せじゃない」
「それでも……彼の気持ちは、痛いほど理解できる」
陽太は静かに言った。
「僕だって、君たちを救うためなら……」
「だからこそ、私たちが見守らなきゃいけないの」
香織が陽太の手を取った。
「あなたが彼のようにならないように」
「私たちは三人一緒だから」
美咲も加わり、三人の手が重なった。
「一人で抱え込まないで」
光の中で浮かび上がる記憶が、さらに鮮明になってきた。未来の美咲と香織の体に起きた変化の恐ろしさ。彼女たちの皮膚が青黒い鱗に覆われ、内側から何かが蠢き、常に痛みを伴っていたこと。香織の背中から生えた触手が彼女の意志とは無関係に動き、時に自分自身を傷つけたこと。
「私たちの体は、常に変化していた」
美咲の声が暗くなる。
「まるで、『記録の狭間』が私たちを飲み込もうとしているかのように」
「私たちは人間と魔物の間で揺れ動いていた」
香織の目に恐怖の色が浮かぶ。
「時には、自分が誰だったのかも忘れてしまった」
これらの記憶は、現在の美咲と香織には重すぎるほど鮮明だった。それは彼女たちの一部となった未来の記憶。二年間の途方もない苦しみが、圧縮されて彼女たちの意識に刻まれていた。
「でも、最も辛かったのは……」
美咲の声が震える。
「陽太くんが私たちのために自分を壊していくのを、ただ見ているしかなかったこと」
「彼は日に日に人間らしさを失っていった」
香織が続ける。
「最初は目が変わり、次に体の一部が、そして心まで……」
「彼は『黒き観測者』になっていったのね」
美咲が悲しげに言った。
「世界に敵対し、人々を恐怖に陥れる存在に」
「それでも、彼の心の深くには、いつも私たちへの愛があった」
香織の声には感謝の色が混ざっていた。
「それだけが、彼を支えていた」
陽太は黒き観測者の最期の表情を思い出した。満足と安堵に満ちた、あの笑顔。彼は自分の使命を果たしたと感じていた。美咲と香織を救い出したこと。それが彼の全てだった。
「彼は……幸せだったと思う」
陽太が静かに言った。
「最後に、君たちを救えたから」
美咲と香織は涙を流した。それは悲しみと感謝の涙。自分たちのために全てを投げ打った未来の陽太への感謝。そして、彼がそこまでしなければならなかった状況への悲しみ。
光の旅路は続き、三人は徐々に元の世界に近づいていく。その感覚は、三人の体に広がっていった。
「もうすぐ蒼城学園に戻れる」
陽太が言った。
「でも、これで全て終わりじゃない。僕たちの物語は、まだ続く」
「そうね」
美咲が頷いた。
「私たちには、未来を変える責任がある」
「黒き観測者の悲劇を繰り返さないために」
香織が決意を込めて言った。
三人は光の中で手を取り合った。彼らの前には、新たな挑戦が待っている。しかし、今回は一人で抱え込むことはない。三人一緒に立ち向かうのだ。
遠くに、蒼城学園の姿が見え始めた。彼らの帰るべき場所。そして、新たな物語の始まり。
5-6 未来との対面
光が収まり、三人は目を開けた。そこは蒼城学園の中庭だった。夜の静けさの中、校舎のシルエットが月明かりに浮かび上がっている。
「戻ってきた……」
陽太が息を吐いた。美咲と香織も周囲を見回し、安堵の表情を浮かべている。しかし、その表情には以前には見られなかった深みがあった。未来の記憶を引き継いだ二人は、若い顔立ちながらも古い魂を宿しているかのようだった。
「何日経ったかしら」
美咲が腕時計を確認する。日付は変わっていなかった。彼らが異世界に行ったその日の夜だった。
「時間が同期してる」
陽太が驚きの声を上げる。
「向こうでは何日も過ごしたのに、ここではほんの数時間しか経っていない」
「不思議ね」
美咲が空を見上げた。一つの月が静かに輝いている。
「二つの月じゃないのが、なんだか寂しい気がする」
「うん、変な感じ」
香織も同意した。
三人は静かに歩き始め、校舎の方へと向かった。誰も口を開かなかったが、心の中では様々な感情が交錯していた。黒き観測者との対面、未来の美咲と香織の悲惨な状態、そして真実の扉の向こうで知った悲劇の真相。全てが彼らの心に重くのしかかっていた。
「記録の狭間」での出来事は、彼らの関係をさらに深めた。特に美咲と香織は、未来の自分たちの記憶を部分的に受け継いだことで、より成熟した視点を持つようになっていた。二年間の苦しみの記憶は、彼女たちの内面に大きな影響を与えていた。
校舎の入り口に辿り着いたとき、一人の人影が彼らを待っていた。
「戻ってきたか」
蓮見龍哉学園長だった。彼の表情は穏やかだったが、その目には深い洞察の色が宿っていた。
「学園長……」
陽太は「世界の記録」を強く握りしめた。
「あなたは知っていたんですね。全てを」
学園長は小さく頷いた。
「全てではない。しかし、可能性としては理解していた」
「観測者について」
陽太が言葉を続けた。
「そして、僕の魔眼の本当の意味について」
「そうだ」
学園長は三人を見つめた。
「君たちが無事に戻ってきて良かった。特に、倉田さんと若林さんの状態が心配だった」
美咲と香織は驚いた表情を見せた。
「私たちのことも?」
「観測者である綾瀬くんが力を暴走させた場合、最も影響を受けやすいのは彼に近い存在だ」
学園長は静かに説明した。
「そして、君たち二人ほど彼に近い存在はいない」
三人は互いを見つめ合った。学園長の言葉は、黒き観測者の行動と完全に一致していた。陽太の力が暴走したとき、最も影響を受けたのは美咲と香織だった。
「学園長室に来てくれないか」
学園長の提案に従い、三人は彼の後を追った。学園長室に入ると、そこには藤堂舞子先生も待っていた。
「無事だったのね」
彼女は通常よりも柔らかい表情で言った。
三人が席に着くと、学園長は話し始めた。
「蒼城学園は、単なる能力者養成機関ではない。世界の均衡を保つため、観測者の力を監視し、導く場所でもある」
「『観測者』……」
陽太がつぶやいた。
「世界を見て、記録する者。そして、その記録によって世界を形作る力を持つ存在」
「そう」
学園長が頷く。
「古来より、観測者は世界の均衡において重要な役割を果たしてきた。しかし、その力が制御を失うと、世界は歪み、最悪の場合は崩壊する」
「黒き観測者のように」
美咲が言った。学園長は驚いた表情を見せた。
「黒き観測者? 君たちは彼に会ったのか?」
三人は顔を見合わせ、異世界での出来事を簡潔に説明した。未来の陽太が「黒き観測者」となり、世界を歪め、未来の美咲と香織が「記録の狭間」に閉じ込められていたこと。そして、観測者の神殿での出会いと、最終的な結末。
学園長は深刻な表情で聞いていた。
「予想以上に深刻な事態だったようだ」
彼はため息をついた。
「観測者の力が暴走した未来……それは最も恐れていたシナリオだった」
「でも、その未来は変えられるんですよね?」
香織が希望を込めて尋ねた。学園長は微笑んだ。
「もちろんだ。未来は固定されていない。特に君たちが真実を知った今は」
「でも、どうすれば……」
陽太が言いよどむ。
「僕の力が暴走しないように、どうすれば」
「それが、蒼城学園の役割だ」
藤堂先生が前に出た。
「あなたの力を正しく導き、制御する方法を教えること」
「そして、それは君一人の責任ではない」
学園長が美咲と香織を見る。
「君たち三人が共に力を合わせることが、最も重要だ