人生で一番不幸な一日①
可愛くて優しくて自分のことが好きな女の子の幼馴染とかこの世に存在しない説
「転移魔法――展開。魔法陣展開――完了。座標入力――35.65949, 139.70056――完了。」
呪文が唱えられた瞬間、ホールの中央に刻まれた巨大な魔法陣が、蒼白い光を脈打つように放ち始めた。
その輝きは、周囲の空間を歪ませ、まるで現実と異界の境界が曖昧になっていくかのようだった。
微かな振動が黒曜石の床を伝い、壁に掛けられた漆黒の旗が、風もないはずの空間で揺らめく。
兵士たちは整然と立ち尽くし、緊張に満ちた眼差しを魔法陣に向けていた。
誰もが息を潜める中、その沈黙を破るように――
「我が忠実なるノヴァリスの光の騎士団――ヴァルキリオンたちよ。」
低く響く声が、ホール全体を支配した。
玉座の上から見下ろすように立つ男。
漆黒の軍服に身を包み、堂々たる風格を湛えたその姿は、圧倒的な威厳を纏っていた。
男がただ言葉を発するだけで、場にいる全員の意識が鋭く研ぎ澄まされていく。
「もう1つの世界を、我が手中に収める時が来た。」
その一言に、兵士たちは一斉に片膝をつく。
魔法陣の光が彼らの影を長く引き伸ばし、まるで男に跪くことが宿命づけられているかのようだった。
「陛下、ゲートの準備が整いました。」
報告の声が響く。
男はゆっくりと視線を巡らせる。
兵士たちの緊張、忠誠、畏怖――すべてを楽しむかのように、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「さあ、侵攻の刻だ。」
彼の声は低く、だが絶対的な力を持っていた。
「新たなる世界を恐怖と絶望で塗り潰し、我らの旗の下に跪かせよう。」
魔法陣の光が、一層強く輝いた。
次の瞬間、まばゆい閃光がホールを満たし――白き門が、静かに開かれた。
俺は朝が嫌いだ。
特に月曜日の朝は最悪だ。
この気分の落ち込みは、アニメの神回が終わった瞬間に『次回は総集編です』と告げられたときの絶望感に似ている。
それでも、今日は期末テストだ。
嫌でも起きなければならない。
寝ぼけた頭のままリビングへ向かうと、味噌汁と焼き魚の香ばしい匂いが漂っていた。
「おはよう、有紀。ご飯もうできるわよ。顔でも洗ってきなさい。」
母はエプロン姿のまま、手際よく食卓に料理を並べている。
いつもの朝の光景に、少しだけ安心する。
洗面所へ向かい、冷たい水で顔を洗う。
頭がようやく目覚めたところで、リビングに戻ると、白米、卵焼き、味噌汁がきれいに並んでいた。
朝からしっかり食べるのは母の方針だ。
「しっかり食べないと、勉強も仕事も身が入らない」――これが口癖で、俺もその意見には納得している。
ただ、友人たちには「朝から和食なんて無理」「パンとコーヒーだけでいい」と言われることが多い。
母の前に座り、手を合わせる。
「いただきます。」
湯気の立つ味噌汁をすすりながら、ふとテレビに目を向けた。
朝のニュース番組が、どうでもいいような話題を流している。
だが、俺にとっては時計代わりなので、いつも何となくつけっぱなしにしている。
「やっと捕まったのね。長い間逃げてたわね。」
母がぽつりと呟く。
ニュースの内容に対する独り言かと思いながら、俺も画面を見る。
『続いてのニュースです。中東地域での緊張が再び高まっています。会見では、超能力特務省の高嶺秀忠大臣と、E.S.T.A序列一位の鳳条龍仁が日本の対応方針を説明しました……』
――ピリッ。
部屋の空気が、明らかに変わった。
(あ、やばい)
俺は思わず箸を止める。
母の表情が、一瞬で硬くなった。
眉間に深く皺が寄り、唇をきつく結ぶ。
さっきまでの穏やかな雰囲気は、完全に消えていた。
母は無言のままリモコンを掴むと、少し乱暴にボタンを押し、別のチャンネルへ変えた。
ニュースの音声が途切れ、代わりに天気予報のBGMが流れる。
それでも、部屋の張り詰めた空気は消えない。
俺は母の様子を横目で窺う。
母はうつむき、箸を持つ指が、ほんの少しだけ震えていた。
息苦しさすら感じる沈黙。
何か言おうとするが、適切な言葉が浮かばない。
「……なんでもないわ。さ、冷める前に食べましょう。」
母の声は、普段より低く、小さく響いた。
その微かな震えが、彼女の動揺を隠し切れていないことを物語っている。
俺も何も言わずに頷き、再び箸を持つ。
しかし、何を食べているのか、もうよくわからなかった。
その時――
「今日の運勢最下位はみずがめ座のあなた!一年で一番ついてない日だけど、めげずに頑張って!」
テレビから流れる能天気な占いコーナーの声が、場違いに響いた。
皮肉にも、俺の肩の力が少し抜けた。
食事を終え、食器を片付けた後、洗面所で歯磨きをする。鏡越しにぼんやりと自分の顔を見つめていると――
ピンポーン
インターホンの音が鳴り響いた。
(こんな時間に誰だ? まだ七時にもなってないのに)
スマホを取り出して時間を確認する。
――6時55分。
「有紀ー! 一華ちゃんよー!」
母の声が玄関から聞こえた。
「え!? 早くない!?」
慌てて玄関へ向かうと、制服姿の一ノ瀬一華が立っていた。
肩まで伸びた茶髪を整え、腕を組みながら少し不満げに俺を見ている。
「おはよう、有紀くん! あー、やっぱり忘れてたんだ、今日早く行くって話!」
玄関のドアを開けると、制服姿の一華が腕を組んで俺を見ていた。
「え? そうだっけ?」
まだ寝ぼけているせいか、頭が回らない。
ボサボサの髪をかきながら呟くと、一華は信じられないものを見るような顔をした。
「もー……先週の放課後約束したじゃん! 結城くんと一緒に朝勉強するって!」
「……あ?」
言われてようやく記憶がよみがえる。
――金曜日の放課後、勝也が「朝勉強しようぜ!」とやたら熱心に誘ってきて、一華もそれに乗っかり……
適当に「わかった」って返事したんだった。
(……完全に忘れてた)
この土日はずっと勉強に追われていたせいで、そんな約束をしていたことすら抜け落ちていた。
「そうだったな。今思い出した。悪い、急いで着替えてくる。」
「はーい。待ってまーす。」
一華は呆れたようにため息をつきながら、靴を脱いでリビングへ向かっていった。
どうやら俺が支度している間、母さんと話す気らしい。
(……何話すんだ?)
一抹の不安を抱きつつ、自室へ駆け上がる。
制服に着替え終え、カバンに教科書類を詰めると、階段を駆け下りた。
リビングの方から、楽しげな談笑が聞こえる。
そっと覗くと――
「いやいや、それはないですよ~!」
「ふふっ、でも一華ちゃん、本当に有紀のことよく見てるのね。」
「まぁ、昔からの付き合いですしねぇ!」
一華がニコニコしながら話していて、母もまんざらでもない様子で微笑んでいる。
絶対、俺のことを何か話してたな……。
「準備できたぞ。」
俺が声をかけると、一華は「おっと」と言わんばかりに会話を中断し、すぐに立ち上がる。
「はーい。じゃあ行ってきますね、久美子さん。」
「気をつけていってらっしゃい。一華ちゃん、いつもありがとうね。有紀をよろしくね。」
「任せといてください! 有紀くんは私が守ります!」
ニコニコと機嫌の良さそうな一華。
……いや、なんでそんなにご機嫌なんだ?
「……そういやさっき、母さんとどんな話していたんだ?」
駅へ向かう道すがら、それとなく聞く。
何を吹き込まれたのか、事前に確認しておくべきだ。
「ん? ただの世間話だよー?」
ふんふんと鼻歌まじりにスキップする一華。
こういうときは、だいたいろくでもないことを言われているパターンだ。
「そんな警戒しなくても、変なことは言われてませーん。」
「……そうか。」
納得はできないが、これ以上追及しても無駄だろう。
一華はこういう時、絶対に口を割らないタイプだ。
「というか、“よろしく”ってなんだよ? 同い年だぞ? いつも子ども扱いしやがって。」
少し憤慨して言うと、一華はニヤリと笑いながら肩をすくめる。
「私がしっかりしてるからじゃない? 有紀くんよりは絶対信用されてると思う!」
「は?」
「ほら、久美子さんだって『一華ちゃんがいてくれて助かるわ~』って言ってたし。」
「……なんかムカつく。」
俺が不満げに言うと、一華は満足げに「ふふん♪」と鼻歌を歌いながら前を歩いていく。
そうこうしているうちに、駅が見えてきた。
駅のホームは、通勤ラッシュのせいでごった返していた。
スーツ姿のサラリーマンが列をなし、誰もが無言でスマホを見つめている。
蒸し暑い空気が肌にまとわりつき、じっとりと汗が滲む。
俺はタオルで額の汗を拭いながら、来る気配のない電車を待った。
ようやく電車が到着し、開いた扉の向こうを覗き込むと――
ギュウギュウ詰めの車内が視界に飛び込んできた。
「うへぇっ……」
俺と一華は、思わず同時に声を漏らす。
それでも、乗るしかない。
人の波に押し込まれ、どうにか扉際へ滑り込んだ。
そして――
「やっばぁ……今日、いつもより混んでるねぇ。」
一華が小声でぼやく。
「……そうだな。いつもより早い時間だからかな。」
俺も同じく小声で返す。
こんな満員の中で、やたらデカい声を出す気にはなれない。
熱気と人の圧迫感で息苦しい車内。
俺は一華を扉際に立たせ、自分が壁になる形で立つ。
「ふふっ……こういうところは頼りになるよね。」
「“こういうところは”ってなんだよ。一言多いぞ。」
一華の余計な一言に、つい突っ込みを入れる。
彼女は悪びれた様子もなく、楽しそうに笑った。
こいつはいつもこうやって俺をからかってくる。
そのたびに、まんまと乗せられてしまうのが癪に障る。
「お姉ちゃんはいつも頼りにしてますー!」
「誰がお姉ちゃんだ! 同い年だろ!」
一華は「えー?」とわざとらしく首を傾げると、スマホを取り出して操作し始めた。
俺も暇を持て余し、スマホを取り出そうとしたところで――
「ねね、見て見て。このリリたんめっちゃ可愛くない?」
スマホの画面を覗くと、黒髪にピンクのメッシュを入れたツインテールの美少女が映っていた。
「“RiRiSa”だっけ? 好きだなぁその子。」
「だってこんなに可愛いんだもん! 私たち若い子の憧れだよ? これでC.O.R.Eやってて、次々と凶悪超能力犯罪者倒してるんだから!」
一華の熱い視線に圧される。
C.O.R.Eは“Civilian Organized Response for Espers”の略。
国家機関E.S.T.A(Esper Special Task Agency)が手の届かない、小規模な超能力犯罪を解決する民間組織だ。
「これで私たちと同い年なんだから、すごいよねぇ。私もリリたんみたいに可愛く強くなりたい!」
「一華は十分強いし、それに見た目だって悪くないだろ。この前3組のやつに告られてたじゃん。イケメンの。」
何気なく言ったつもりだったが――
一華の顔が ニヤリ と歪む。
「おお? これは慰め? いや、嫉妬かなぁ?」
「……は?」
「一華ちゃんを誰にも取られたくなーい! ってやつ?」
「そっ……そんなんじゃないっつの!」
「ありゃ? 図星かなぁ? 図星だろう?」
一華はスマホを閉じ、俺の顔を覗き込むように詰め寄ってきた。
車内の混雑のせいで、逃げ場がない。
「……お前な、そういうのやめろよ……」
「ふふーん♪」
一華のしつこいいじりを、電車の到着アナウンスが救ってくれた。
「もういいだろ! ほら、もう着くぞ!」
俺が話を強引に打ち切ると、一華はまだにやにやしている。
こういう時に深入りすると面倒になることを、俺は長い付き合いで学んでいる。
駅のホームへ降り、流れるように階段へ向かう人の波に身を任せて歩いていると――
「きゃぁぁー! ひったくりよ!」
突如響いた女性の悲鳴に、周囲の空気が一変した。
咄嗟に振り向く。
人混みをかき分けるように、フードを深くかぶった男が全力疾走してくるのが目に入った。
手には何かを握りしめ、焦ったように周囲を睨みつけながら、荒い息を吐いている。
(やばい、こいつガチで逃げる気だ)
男の目は血走り、獣のような鋭さを帯びていた。
あの目をしたやつは、何をするかわからない。
「どけぇ!!」
怒声とともに、男は腕を振り回しながら突き進む。
一華の手を引きながら、俺は本能的に道を空ける――と見せかけて、男の進行方向にさりげなく足を出した。
――ガッ!
見事に引っかかった男は、勢いのまま前のめりに吹っ飛ぶ。
ドシャァッ!!
派手に地面に叩きつけられ、転がるようにしてうめき声を漏らす。
フードが外れ、短髪の男の素顔が露わになった。
浅黒い肌。痩せた頬。
鋭く細められた目が、ギラリと光る。
「いい歳こいたおっさんが何やってんだよ……っと!」
俺が近づこうとした瞬間――
「有紀くん、待って!」
一華が俺の腕をつかむ。
「なんだよ一華! 逃げちまうだろ!」
「だめ! 刃物持ってる!」
その言葉に、心臓が跳ね上がる。
男の右手に握られたもの――
それは、銀色に輝く鋭利なナイフだった。
ひったくり男の表情が変わる。
逃げるためのただの犯罪者から、「捕まるくらいなら刺す」覚悟を持った危険人物へ。
「くそっ……このガキがぁぁあ!!」
男は怒声を上げながら、ナイフを構えて突進してくる。
距離はあまりに近い。
このままでは避けきれない――
「有紀くんっ!」
一華が俺の前に立ちふさがるように身を乗り出す。
(やべぇ――!)
直後――
「そこまでだよ、ひったくりくん。」
スッ――と、何の前触れもなく間に入る影。
黒髪をサラリとなびかせ、涼しげな顔でひったくり男の手首を掴む。
周囲の時間が一瞬止まったように感じた。
「誰だお前は! 邪魔すんじゃねぇ!」
男が怒声を上げ、腕を振り払おうとする。
だが、青年はまるで何事もないかのように微動だにしない。
むしろ、指先に少しだけ力を込めた。
「ぐ……っ!?」
男の顔が苦痛に歪む。
まるで、手首を掴まれただけで、体の動きを封じられたような――そんな異常な感覚に襲われているのが見て取れた。
「そんな態度では、ちょっと痛い目見ることになるよ。」
青年は、静かに男を見下ろす。
その口調は穏やかだが、どこか決定的な何かを突きつけるような威圧感があった。
「危ないじゃないか、そんなもの振り回したらダメだよ。」
青年の視線が、男の握るナイフに向かう。
そして、一拍置いて、あきれたように呟いた。
「どうやら対話ができる相手じゃなさそうだな……」
その言葉と同時に、彼は軽く手を向ける。
「<電撃>」
バチンッ!!
轟く雷鳴のような音。
青白い稲妻がほとばしり、一瞬で男の全身を包み込んだ。
「ぎゃあああああああぁぁぁっ!!」
悲鳴を上げ、男の体がビクンッと弓なりに跳ね上がる。
ナイフが手を離れ、カラン、と無力に転がった。
まるで肉体が自由を失ったかのように、男は痙攣しながら地面に崩れ落ちる。
白目を剥き、口から泡を吹く。
その体からは、ほんのりと焦げたような煙が立ち上っていた。
「確保完了。さて、おまわりさんのところに行こうか。」
青年はあくまで軽い口調でつぶやく。
すぐに、駅員と警備員が騒ぎを聞きつけて駆けつけ、倒れている男を連行していった。
「君たち、ケガはない?」
一連の騒動が収まり、青年が俺たちの方を向いた。驚くほど整った顔立ち。爽やかな笑顔。
そして、どこかで見たことのある既視感――
「だ、大丈夫です。助けてくださりありがとうございます。」
一華が礼を言い、深く頭を下げる。
青年は軽く笑いながら、気取った調子で言った。
「全然かまわないよ。それが俺の使命だからね。」
(……使命?)
引っかかる言葉だが、それよりも青年の存在感が気になった。
ただの一般人が、あんなに鮮やかに危険人物を制圧できるものだろうか?
「それにしても、さっきの足を出す作戦、なかなかのもんだったよ。誰かに教わったのかい?」
「い、いや、ただ反射的に……。」
照れくさくなりつつ答えると、青年はさらに微笑んで一華に視線を移した。
「そして君も、冷静な判断力が素晴らしかった。刃物を持っていると気づけたおかげで、大事にならなかったね。」
「あ、ありがとうございます……」
一華は少し恥ずかしそうに髪を触る。
青年は一歩近づき、何気ない口調で言った。
「君たち、若いのにすごい勇敢だね。転ばせて捕えるまでの動き、感心しちゃったよ。」
「え、えっと……?」
「君たちみたいな人がE.S.T.Aに入ってくれると嬉しいんだけどな。」
その言葉に、一華と俺は一瞬目を合わせる。
(……そうか)
(この男、E.S.T.A所属の……)
(序列5位――皇玲央……!)
そう気づいた瞬間――
「あの男の人ってまさか……」
「レオ様よ!」
「えっ!? レオ様ですって!? どこにいるの!?」
周囲の女性たちの歓声が、一気に広がる。
人々の視線が集まり、どよめきが起こった。
青年――いや、E.S.T.A序列5位、皇玲央は、一瞬だけ「しまった」という顔をした。
だが、すぐに切り替え、飛び切りの爽やかな笑顔を浮かべる。
「もう少し話してたかったけど……みんなにバレちゃったからね。」
軽くウインクしながら、肩をすくめてみせる。
その瞬間、さらに歓声が大きくなった。
「きゃあああ! ウインクしたぁ!!」
「カッコよすぎる!」
「握手してください!」
玲央は小さくため息をつき――
「俺は行くよ。また会えるといいね。」
そう言い残すと、足早に去っていった。
その後ろには、女性たちの歓声と、追跡の波が続いていく。
「……学校、行くか。」
「……うん。そうだね。」
嵐が過ぎ去った後の静けさに、俺たちはただ脱力するしかなかった。
読んでいただきありがとうございました。続きが気になる、面白かったって方はブックマークと下の方にある星マークを付けてください。ものすごく励みになりますので。それでは、次の話でお会いしましょう。