ラブリー奥さん
今回は娘視点。初めての見当識障害の話です。
なんでこんなことになったんだろう。パパ、どうしちゃったの。私とママのことがわからないの?
春先、桜を見ようと親子三人、海の見える桜の名所へ車で出掛けた。父は認知症を患って4年程。心配なので、客室露天風呂付きの少しお高めのホテルを予約した。
今回の旅行中も、同じことを何度も繰り返すのは当たり前。家族以外の誰かと一緒だと勘違いしたり、出張で来ていると思い込んでいたり、それなりに症状は出ていた。
―けれど。
明日はいよいよチェックアウトという最終日の夜。温泉に浸かって食事も済ませ、あとは寝るばかり。お酒大好きな親子三人で少しだけ酒盛り。楽しくおしゃべりをしているところだった。ホテルの備品の浴衣をだらしなく着た父に笑いながら冗談を言う。
「ちょっとパパ、浴衣脱げそうになってるじゃん。ちゃんと着直した方がいいよ」
「きみにパパと呼ばれる筋合いはないけどね」
「?」
少し感じた違和感はすぐさまなかったことにして、談笑を続ける。
「でも、寝てる間に脱げちゃうんじゃない?」
「いつも出張の時は浴衣なんか着ないからな」
「えー? そうなの?」
しばらくすると、父が突然母に向かって頭を下げだした。
「僕の退職後も、子供たちのこと、よろしくお願いします」
息を飲む母と私。
「子供たちって誰のこと?」
母の声は震えていたように思う。
「僕が何かしましたか。謝りますから、悪かったところ、教えてください」
必死の形相で母に頭を下げている。
「どうしたの、パパ。私のこと誰だか分かる?」
「佐伯さんですよね」
「違います。良子です」
「...」
「あなたの妻です」
「...」
この段階まで来ると、父の顔はすっかり険しくなっていた。
「こっちはあなたの娘のまりか」
「...どういうことですか。妻と娘の名前を騙ってどうしようというんですか!警察呼びますよ!!」
私はたまりかねて叫んだ。
「ちょっと待ってよ、パパ! 私たちのことが分からないの!? ママのこと、分からないの? あなたのラブリー奥さん良子じゃないの!!」
険しい顔で黙り込む父。母も眉間に皺を寄せている。
その後も父の妄想は止まらず、何度も「子供たちを頼む」「自分がいたらなくて申し訳なかった」と言いながら頭を下げ続けた。父は、その前月まで児童養護施設で働いていたのだ。おそらく母のことを仕事仲間と勘違いしている。
そうこうしている内に、興奮が最高潮に達したようで、土下座をしながら床に頭をゴンゴンと叩きつけ始めた。
どうにも埒が明かなくて、とりあえず父を寝かせる方向へと頭を切り替えた。私は父の肩を軽くとんとんと叩きながら名字で話しかける。
「柴山さん、大丈夫ですから。お疲れでしょうし今日はもう寝ましょう」
「でも佐伯さんに謝らないと」
佐伯さん役の母も気持ちを切り替え参戦してくる。
「柴山さん、大丈夫ですから。怒ってませんから。もう寝ましょう」
なんとか宥めすかして三人ともに布団へと収まり電気を消した。私はあまりのことに心臓がばくばくして眠れない。運転手の母は持参していた睡眠導入剤を服用したようで何とか眠っている。
しばらくすると父がうなされ始めた。
また私だと分かってもらえなかったらと思うと怖いけれど、一度眠ったし、もしかしたら頭のスイッチが切り替わって私のことを思い出してくれてるかな? ほとんど賭けのような気持ちで、暗闇のなかで父に声をかける。
「パパ、どうしたの? 大丈夫?」
「まりか? まりかか?」
「そうだよ、まりかだよ。怖い夢でも見たの?」
「まりか! よかった!! 殺されるかと思った...!」
「どうしたの?」
「知らないやつらが部屋に押し入ってきて脅されたんだ。どうしてか、ママとまりかのことも知ってて...」
「そっか...それは怖かったね。でも、この部屋は内側から鍵がかかっているし、いまはその悪い人たちは入ってこれないから、安心していいよ。とりあえず寝よう」
何度か説明して納得してもらい、就寝。翌朝起きたときには、父は家へ帰れることをとても喜んでいた。
この夜のことを覚えているかどうかは確認していないのでわからない。父がいわゆる見当識障害、家族の顔がわからなくなったのはこれが初めてだった。もっと穏やかに「どちらさま?」と聞かれることしか想像したことがなかったので、とても怖かった。父に別の人格でも乗り移ってしまったかのようだった。
けれど、あとから思うのは父はどれほど怖かっただろう。突然、見知らぬ女二人が目の前にいて、親しい家族が見当たらない。しかもその女たちは、なぜか自分の妻と娘の名前を知っている。住所や家族構成も詳しく並べ立てるのだ。
帰りの車中も、家にたどり着いてからも、また大変なことが色々あったのだけれど、それはまた別の機会に。
それにしても、「あなたのラブリー奥さん良子」って! 大混乱の中、なんとか絞り出した言葉だったけれど、いま思い出すと笑ってしまう。そんな風に必死な中でも、涙の中にも、少しでも笑顔になれる瞬間が増えていくといいな。そんな風に思いながら、認知症の父を見つめ続けています。
「ラブリー奥さん」は、恥ずかしながら私の夫に対する自称です。
常々、「ちょっとー、あなたのラブリー奥さんに対して感謝の気持ちが足りないんじゃないのー」とか「ラブリー奥さんまりか、参上!」と口にしているので、あのときもとっさに出てしまったんですよねえ。たはは。