美しい青になれたら
私の目に映る世界は、随分と色鮮やかだった。
私は共感覚というやつらしい。といっても、そんなに不便はしていない。文字に色がついて見えたりとかはない。まあ、声が色づいて見えることはあるけれど、それで人を判別できるし、やはり不便ではない。
赤、黄色、緑。様々に彩られた世界で、私が最も魅入られているのは、人の目の色である。
日本人の目の色は黒と相場が決まっていて、あっても茶色だ。青だの緑だのは外国の血が混ざっているし、混ざっていても、あまり見ない。髪も黒髪が多いし、日本人は地味な見た目をしている、と思っている人も少なくはないのではないだろうか。
そんなことはない! という人もいるかもしれないけれど、だったら日本のアニメのキャラがあんなに色鮮やかなのは何故なのだろうと問いたい。最近はコスプレという文化に埋もれているけれど、黒髪黒目の大和撫子なんてキャラ、いるか? 最近。
……と、話が逸れた。別に私は日本のアニメ文化を非難したいわけじゃないし、今の議題はそれじゃない。
私の目に映る世界は、みんなと違う。日本人が黒目がほとんどなんて、教えられるまで知らなかったのだ。
私には、人の目が違う色に見える。どこの国の人か、どこの国の血を引いているかなんて関係ない。目が黒い人でも緑に見えたり、青い人でも赤く見えたり、茶色い人でも青く見えたり。私の目に映る他の人の「目」は私の感じた色になる。
そのことについて嫌味だの何だのを言われたことはあるが、私は気にしていないし、親も寛容に接してくれたので、やはり不便なことはなかった。それどころか、他の人とは別な世界に住んでいるみたいでときめいている。だって素敵じゃない? 私にしか見えない世界なんて。
だから私は人の目を見るのが好きだ。
でも、ずっと見られない目がある。
「香折ちゃーん!」
「わっ」
いつもの通り、私はその子に飛びついた。ボブくらいの髪に飾り編みを入れていてかわいいけれど、彼は名前とも見た目とも違い、男の子である。
トランスジェンダーとか、そういうのではない。飾り編みは単に彼の趣味で、そのために最低限髪を伸ばしているだけである。
「お、おはよう、美青ちゃん……その、『香折ちゃん』って大声で呼ぶの、やめてくれるかな……」
周囲の視線とかち合わないようにさまよった挙げ句、誰とも目を合わせずに俯いた気弱な様子の彼は私の幼なじみの島﨑香折ちゃん。何度も繰り返すが男の子である。
「なんで? ウチは香折ちゃんの名前好きよ?」
「そう言ってくれるのは嬉しいんだけど、そうじゃなくて……周りの視線が痛いから……」
香折ちゃんは昔から、人の視線に敏感だ。視線が痛覚を刺激したりするわけはないので比喩表現ではあるのだろうが、顔を俯けたまま話す香折ちゃんはいつも辛そうで、私もちょっと胸が苦しくなる。
香折ちゃんは昔から、人の目を見るのが苦手らしい。親からは「人の話を聞くときはちゃんと目を見て聞きなさい」だの「人と話すときはちゃんと目を見て話しなさい」だのと厳しく育てられたらしい。香折ちゃんはそれができないから、殊更辛い思いをしてきたようだ。
私は香折ちゃんと違って、人の目を見るのが好きだ。香折ちゃんの目がどんな色をしているのかもずっと気になっている。でも、それは強要しない。香折ちゃんが苦しむ顔を見るくらいなら、目の色なんてわからなくていい。
そう思っているのに、香折ちゃんの傍にいるのは、やっぱり気になるものは気になるというのと。
「あーあー、今日も朝っぱらからよろしくやっちゃって」
「ひゅーひゅー」
こんな感じで、私たちの仲を勘違いして、冷やかしてくる輩がわりと多めにいるからだ。
「しゃきっとせいや、『香折ちゃん』」
「痛い」
茶化して、香折ちゃんの背中を強めに叩く男子。私は憮然としてその手首を引っ掴んだ。男子の目に揺らめく紫はとても綺麗だけれど、今は不愉快に映る。
「茶化すのも大概にして。力加減の仕方も知らんの?」
「……こわ」
私が半目で睨むと、冷やかしの男子は離れていった。
「み、美青ちゃん、さっきの『痛い』は反射的に言っただけだから……」
それはわかっている。ああいうのは痛くなくても「痛い」と言ってしまうものだ。
そうではなくて、私は香折ちゃんが馬鹿にされたり冷やかされたりするのが単純に許せないのだけれど……これを言ったらもっと冷やかされそうな気がする。
「香折ちゃんに免じて許してしんぜよう」
「お前は島﨑の何なんだよ、色埜」
「幼なじみだよーん」
私も私で茶化してしまうのだが。まあ、香折ちゃんと私は幼なじみだから間違ったことは言っていない。
私たちの関係性にそれ以外の名前がつくことなんて、あるのだろうか。
「美青ちゃんさ」
「ん?」
放課後、帰り道のコンビニで勝った棒アイスを食べながら、私は香折ちゃんと話していた。
香折ちゃんの声はそよ風みたいで心地よく、夕暮れに溶けるような優しい色をしていた。いつも聞きやすくて、好きな声だ。
「無理に僕に合わせなくていいんだよ」
「合わせる?」
疑問符を浮かべて、香折ちゃんの顔を見るが、香折ちゃんは相変わらず、誰とも目が合わないようにコンクリートの地面を眺めていた。目の色は正面から見ないとわからない。だから今日も香折ちゃんの目を見ることはできない。
香折ちゃんは少し寂しそうな、けれど穏やかな横顔をしていた。
「部活動とかさ。もう小学生じゃないんだから、僕は一人で帰ってもいいんだし、美青ちゃんにだって、やりたいことはあるでしょ?」
私はぽかんとしてしまった。
やりたいことなんてない。私は香折ちゃんと一緒にいられれば、それでいい。でも、こういうってことは、香折ちゃんはそうじゃないのかもしれない。
私は少し悩んでから返した。
「……やりたいことは、あるよ」
「やっぱり」
「でもそれは、香折ちゃんと一緒じゃないと駄目なこと」
「え」
こちらは絶対向いてくれないであろう香折ちゃんを私はずっと真っ直ぐ見ていた。香折ちゃんは見られるのも苦手だけど、こうしなければ、きっとずっと伝わらない。
……やっぱり、こっちは向いてくれないけれど、そっと重ねた手は温かくて心地よかった。
「だから、これからも一緒にいたいな」
目一杯笑ったけれど、きっと香折ちゃんは見てくれていないのだろう。
とても寂しいけれど、いいんだ。
いつかこっちを向いてくれるまで、私は待つから。
「み、美青ちゃんアイス溶けちゃう!」
「あ、忘れてた!」
ソーダ味の青いアイスを齧ると「あ」の文字が見えた。
「当たりじゃん! もう一本!」
「……なおちゃん呼ぼうか」
「えへへ、そうしよう」
香折ちゃんには美人な妹ちゃんがいる。
「美青姉!」
夕陽のような鮮やかなオレンジ色の髪を持つ彼女の名前は尚弥ちゃん。香折ちゃんと尚弥ちゃんの親は何故こう性別違いの名前をつけたのか……私も疑問だが、つけられた本人たちも知らないらしい。
尚弥ちゃんには香折ちゃんのような気質はないが、その分容姿で苦労をしている。
尚弥ちゃんは生まれつきオレンジ色の髪をしている。眉毛もオレンジ色で、染めているわけではない。つまりは地毛である。けれど、珍しい毛色は学校の校則に則って地毛であることを証明しなければならないし、幼い頃から周りに弄られて尚弥ちゃんは嫌な思いをしてきた。小学校の頃なんて、工作用のハサミで綺麗な髪をばっさり切られるなんてこともあった。
ただ、尚弥ちゃんは本当にあの気弱な香折ちゃんの妹なのか疑わしくなるレベルで強い子だ。正しいことをきちんと芯に持って、自分が思う正しさを堂々と主張できる。
香折ちゃんはそんな妹ちゃんのことを羨ましく、誇らしく思っているようだ。
「尚弥ちゃん、やっほ! 髪かわいいね。香折ちゃんにやってもらったの?」
「ありがと、美青姉。髪はおにいが毎日やってくれる」
三つ編みの飾りつきのポニーテール。シンプルだが、尚弥ちゃんの秀麗さを引き立てる髪型だ。
香折ちゃんは飾り編みをするのが趣味で、尚弥ちゃんはその実験台みたいにされている。実験台というと聞こえが悪いかもしれないが、新しい飾り編みを覚えるたび、尚弥ちゃんか自分の髪でやっているのだ。尚弥ちゃんのスタンダードは今の通り、三つ編みの飾りつきのポニーテールである。
「うちの親極端だからね。本当はおにいの髪もっと短くしたいみたいだけど」
「尚弥ちゃんが止めてくれたんだっけ」
「だって髪弄りおにいの生き甲斐みたいなんだもん。生き甲斐奪われたら死にそうでしょ? あの人」
死にはしないだろうが、日々の楽しみは確実に減るだろう。人と目を合わせて話をできない香折ちゃんの楽しみは少ない。趣味が生き甲斐なのもまあわかる。人と関わることが苦手だから、部活にも入っていない。
別に香折ちゃんは会話ができないわけじゃない。目を合わせられない。それだけなのだ。……それだけで、人が離れていく。
「香折ちゃんのあれ、どうにかならないのかな……」
「無理じゃない? あたしこないだまで知らなかったけど、おにい、写真も駄目みたいなんだよね。鏡越しが無理なのは知ってたけど、カメラのレンズ見られなくて、卒アルの写真かなり撮り直すことになったって聞いたよ」
「あー、写真屋さんが全然目線くれない子がいるって言ってたけど、あれ香折ちゃんか」
「写真駄目とか、おにい将来大丈夫かな? 証明写真とか、車の免許とか……」
先程、卒アルの話が出たことでわかる通り、私と香折ちゃんはもうすぐ中学卒業だ。尚弥ちゃんの言う「将来」の話も言ってしまえば三年後くらいまで近づいてきている。
鏡越しも駄目。カメラも駄目。どうしたら、香折ちゃんは人の目を見られるのだろう。
それとも、目を見て話したいと願うことすら、間違っているのだろうか。
「美青姉」
「ん?」
ぱちり、と尚弥ちゃんと目が合う。尚弥ちゃんの意志の強い目はトパーズのような色をしていた。
ぎゅ、と手が握られる。
「美青姉は優しいから、ずっとおにいの傍にいると、いつかきっと辛くなるよ」
「なんで?」
「求めたっておにいは誰とも目を合わせない。だから──」
諦めた方がいい。そう言った尚弥ちゃんの声は竜胆みたいな色に聞こえた。
まあ、尚弥ちゃんの言うこともわかるな、と思う。
高校入試の試験会場に向かいながら、私は尚弥ちゃんに言われたことについて考えていた。ちなみに香折ちゃんも同じ学校の受験だ。
求めたって香折ちゃんは目を合わせてくれない。尚弥ちゃんがそう考えるのは無理もない。香折ちゃんは家族とすら目を合わせられないのだ。勿論、尚弥ちゃんとも。昔はそれで尚弥ちゃんがお兄ちゃんに嫌われていると勘違いして、ひどい喧嘩になった。親御さんが間に入ってくれないから、私がなんとか尚弥ちゃんを宥めたんだっけ。
あのとき、尚弥ちゃんは香折ちゃんと目を合わせることを諦めたのだと思う。それを期待するのはひどく苦しいことだと彼女は知っている。
諦められない私は滑稽なのかな、と思いながら歩いていく。見慣れない人たちの波。聞こえてくる声や物音が鮮明に瞬いて、目がちかちかする。
「美青ちゃん!」
腕を掴まれてびっくりした。聞き慣れた声。それでも驚いて振り向くと、香折ちゃんだった。その目は正面に近いのにすいっと逸らされてしまう。
「香折ちゃん」
「えと……大丈夫? ふらついてたから」
「え、そう?」
「顔色も悪いし」
うーん、と私は唸る。人酔いするようなやわなタイプではないのだが。
けれど、なんだかいつもより情報量が多い気がする。同じ学校の女子たちのショッキングピンクの笑い声。駄目かもしれないと落ち込む水色に、大丈夫だろ、と楽観的な蛍光イエロー。生徒たちを誘導する教師の暗い赤。
混ざり合わない色たちが目の前の景色を塗り潰すように通りすぎていく。正直頭が混乱してぐらぐらする。
そんな中、香折ちゃんが私の手を引いて、意を決したように歩き出す。その歩みは迷いなく真っ直ぐと、昇降口前の教師の方へ向かっていた。
「すみません、あの」
「何かありましたか?」
香折ちゃんは私を示す。
「この子……色埜美青さんなんですが、具合を悪くしてしまったようで。別室受験ってできますか?」
「具合が悪いのなら帰りなさい」
まあ、それはその通りである。けれど香折ちゃんは食い下がった。
「色埜さんは共感覚持ちで、聞き慣れない音がたくさんの色に見えて、それで具合が悪いようなんです。別室受験なら、試験を受けられるんですが」
「駄目だ。別室受験はやっていない。大体君は何だね? 人の目も見ないで……」
「っ、信じてください!」
空色に透き通る声。香折ちゃんの横顔に私は目を見開いた。
香折ちゃんが相手を真っ直ぐに「見ている」のだ。目を合わせている。私の手を握る香折ちゃんの手はこんなにも震えていて、変な汗をかいているのに。
「あまり急に大声を出すものじゃ……君?」
「香折ちゃん!?」
香折ちゃんが崩れ落ちるように倒れて、教師も私も仰天した。
慌てて手と額に触れる。何故か冷たい。
「ええと、ええと……」
「脈と呼吸を確認して」
「あ、はい」
「救急車が必要なら呼ぶから」
大人の人たちの指示に従って、私は香折ちゃんを介抱した。できたことは少ないけれど。
ねえ、香折ちゃん、もしかして、私のために、倒れるくらい駄目な、「人の目を見る」ってことをしてくれたの?
心の中で、そう問いかけた。
「あのときは大事にならなくてよかったよ……」
「ごめんね、心配かけて」
色々あったが、私と香折ちゃんは同じ学校に合格して、制服に身を包んでいる。高校一年生。
「ねえ、香折ちゃん」
香折ちゃんに気を遣われる前に、今度は私から言うことにした。
「これからも、二人で一緒にいようね。帰り道にコンビニでアイス食べたりさ。青春を楽しむなら、香折ちゃんと一緒がいいんだ」
香折ちゃんは、やっぱり目を合わせてくれなかったけれど、はっきり頷いた。
「僕も、美青ちゃんと一緒がいい」
目が合わなくても、心は繋がってる。そう、信じているから。