ぬくもり
ひとりはいや
くらいのはいや
なにかがおそいかかってくるようなきがするから
あれはいつの頃だったろう。
多分、小学校に入りたての頃だ。
幼い私は母親に挨拶をしてベッドに入った。
季節は真夏で、夜とはいえ熱帯夜で寝苦しかったのを覚えている。
しばらくして…玄関のドアが閉まる音がした。
「おかあさん…」
ずりずりとタオルケットを引きずりながら、玄関を見ると、母の靴はなかった。多分仕事に出たのだろう。
しょうがないのだ。
母は私を育てるために、一生懸命に働いているのだから。
理屈では分っていても、幼い私は寂しくて、寂しくて、一人で部屋に戻ると、ベッドの中でしくしく泣いた。
寝てしまおう
そうすれば、夢を見ているうちに、明日になっているのだから。
そう決意して、横になるものの、日本の夏独特の湿気の混ざったぬめりとした空気が、喉の辺りにまとわり着いて眠れなかった。
そのうち、耳にさぁぁぁぁああという、透き通るような音が響いてきた。それはだんだん激しく、次第に物を地面に叩きつけた時のようになる。
(「雨…」)
私はまたタオルケットを握り締めると、窓のほうを見た。ガラスにたたきつけられた雨水が筋となって下へと落ちてゆく。
それを見ていると、脂汗が額ににじむのが嫌でも分った。
私は、雨が苦手だ。
何故か、こころがとても騒ぐ。見るのも嫌だった。
次第に涙があふれてきた。
泣いてはいけない。
私はそう言い聞かせた。じゃないとなめられるから。様々なものに。なにより自分の心が弱くなりそうで、私は賢明に強がった。
「おかぁさん」
いないはずの、母を呼ぶ。けれどすぐに「呼んではいけない」と自分に言い聞かせた。
おかあさんは、おしごとなんだから。
暗闇の中、雨の音だけが響く世界。
まるで私だけが「そこ」にとりのこされたかのように
「…あきにぃ」
大好きな従兄弟の名をよぶ。
それと同時に、堰をきったように涙がとめどなく流れた。
「っく…、ひ…っく」
ふと、枕元を見ると、電話の子機が見えた。
それを手に取ると、短縮の3番を押す。
1番は母親の携帯。2番は職場だ。3番には空兄の携帯番号が入っていた。
通話ボタンを押す。
けれど、コール音を1回聞いただけで、やめた。
今、何時だと思っているのだろう。空兄も明日学校があるのだ。もう寝ているに決まっている。
私が我慢すればいいのだ。
わがままを言っては、皆に迷惑がかかる。
ぎゅう、と子機を握り締めて、ただ時がすぎゆくのをじっと耐えた。
タオルケットに包まる。汗が滝のように流れるが、それをとりさることはできない。耳をふさいでも、雨の音はやまず、ますます強くなってきた。
ひとりはいや
くらいのもいや
あめもきらい
いやだ、いやだ、いやだ
膝を抱えながら、泣き続けた。
「…あかね?」
透き通るような涼やかな声に、私は面を上げた。
空がそこにいた。
薄手のシャツに、ジーンズ姿で、心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫かい?電話があったから、心配で来てみたんだけど」
当時高校生だった空兄は、息を切らせながら歩み寄ってきた。急いできたのだろう、肩が雨に濡れていた。
「万樹さんは、お仕事?」
こくこくと私は肯いた。
「そっか…。玄関の鍵が開いてるから、無用心だなぁとは思っていたけど。よっぽど急ぎの仕事だったんだね」
私は、掌でごしごしと涙をぬぐうと、まだ信じられないという表情で空兄を見つめていた。
空兄はそんな私を見てくすりと笑うと、ベッドに腰掛けた。
「茜は、雨がきらいなんだね」
「…うん」
タオルケットで私の涙をぬぐうと、空兄は私の隣に横になった。
一緒に寝てくれるらしい。
「あきにぃ」
「うん?」
「あきにぃは、あしたがっこうは?」
「…茜が気にする必要なんかないんだよ。子供は大人に遠慮するもんじゃない。…こんなこと僕が言えないか」
私はタオルケットを腕に抱えたまま、空兄の隣に寝転んだ。彼は私の手をとって静かに微笑んだ。
空兄の柔和な笑顔が全てを包んでいてくれるような気がして、私はゆるゆると目を閉じる。
そしてそのまま、ふかい、ふかい眠りの内に溶け込んでいった。
声が聞こえる
目を覚ませ、と。
誰かが呼んでいるのがわかった。
でも、もうすこし、夢を見ていたかった。
「アカネ…アカネ」
茜の頬を涙が一筋流れた。
あの銃声のショックからか気を失っていたらしい。急に向けられた敵意が、突き刺さるほど恐くて、逃げ出したくて、精神が拒否したのだ。
意識を戻した茜は、意識がはっきりするのを待ち、目の前のPCに目を移した。
そこにはいつもと同じように「Ψ《プサイ》」のロゴを写したディスプレイが頼りない明かりを灯していた。
わたしはひとり。
そこにはだれもおらず。
存在するとするならば。
それはあきらかな、敵意だけ。
その事実に、茜はふるえた。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
あの時、微笑みながら自分を救ってくれた空兄はもういない。
いるはずがないのに、救いを求めてしまう。
「アカネ」
PCがまた、茜の名前をよぶ。
「…せいよ」
言葉が暴力的になる。
「あんたの…せいよ」
やめなければ、こんなこと、意味のないことなのに。けれど、いちどあふれだした言葉はとどまることなく、茜の口から流れ出た。
「あんたのせいで…、私がこんな目にあってるんでしょお!!」
「−−−−」
荒げた声が、精神を高揚させるたのか、茜の瞳から流れ出る涙は止まらない。
「ここから、脱出させるとか言っといて、何でこんな所で隠れてなきゃいけないの!?」
「-------」
PCからの応答はなかった。しかし、しばらくの沈黙の後に、少し緊張をはらんだ声でPCは告げた。
「ーーー私の意見を言います」
めずらしく、淡々とした物言いではなく、何故か感情というものが深く感じられる声だった。
「−−−−あなたは私のことをただの『モノ』としか認識していませんーーー」
「…え?」