パンドーラの箱
茜はあたりを警戒した。目の前に先ほど自分を連れ去った男がいることから、拳銃などで武装していることは間違いないだろう。
「君は海棠空から、どの程度例の人工知能について教わっている?」
「…そんなのわからないわ。仕事の話は聞いたことないし」
ただ、人口を膾炙して伝わってくる空に関する噂話を聞いて、関心していただけだ。本人から研究内容について詳しく教わったことはまずない。
しばらくの長い沈黙の後、静かに思考していた柴崎が、言葉を選び取るように口を開いた。
「the Supelative Intelligence that heve Knowledge of Everything」
次の瞬間、茜の耳に届いたのは、聞きなれない英単語の羅列だった。
「なに…、それ…」
「ふむ、本当に何も知らされていないらしい」
茜は眉を吊り上げ、足を踏み鳴らした。こうしたことが何にもならないとは分っているものの、頭がムカムカした。
「日本語に訳するとするならば、”全ての知識を有する最高の知能”といった所か。頭文字をとって『SIKE』と呼ばれている、海棠主任の開発した新型のAIだよ」
「SIKE…」
聞きなれないその名前に躊躇するものの、何故か嫌な感じはしなかった。
「その、SIKEとかいうAIと、私の間に何の関係があるのよ。」
「それが大有りでね。米原」
秘書の男は、了解したとばかりに頷くと、目の前のテーブルに1台のノートPCを置いた。昨日空から送られてきた、あのPCである。
マホガニー製の机に、そのPCはどこか不似合いで、灰色のボディが照明の明かりに照らされて、底光りしていた。
「SIKEはそのアスタルテ社製のPCの中にいる」
「ここ…に?」
自ら考え、行動する、まるで生命のような『知性』。そんなものが本当にこの小さな箱庭の中に存在しうるのだろうか。
「ああ、そうだ。どういうわけか海棠主任は、君をこのPCのオンリーユーザーとして登録し、君に託した。それを解除してもらおうと思って、こうしてお出でいただいたわけだ。」
「そんなの…空兄に直接聞けばいいじゃない」
投げやりに横を向きながら、茜は答えた。早く開放されたいという想いからか、知らず知らずの内に早口になる。
「君の従兄弟ー海棠空には産業スパイの容疑がかけられている」
「!?」
映画やテレビでしか聞いたことのない言葉の響きに、一瞬時が止まったかのような錯覚を覚え、うつむいた。
(「空兄が…スパイ?」)
「アスタルテ社は、PCの開発とは別に行ってきたAI-人口知能についての研究情報開示を積極的に行ってこなかった。そこでライバル会社が開発者である海棠氏を抱きこみ、優秀な人材と共に情報を引き出そうとしたんだ。その証拠に、容疑がかけられたと知るや、彼はアスタルテから姿を消している。それ以来彼の行方はわかっていない」
行方不明…その言葉が頭の中をよぎる。もし、空がそのような産業スパイであったとして、なぜ大事なAIを茜の元に送り込んできたのか、その真意が分らなかった。
「何故、貴方たちはそのAIがほしいの」
柴崎は足を組みなおし、背筋の凍るようなぞっとする笑い方をして
「…正直に言えば、我々はそのAI自体に興味はない。ただ、取引の材料としたいだけだよ。…物事を円滑に進めるためにね。平和ボケしているこの国に住んでいたら分りにくいかもしれないが、このAIには世界中の様々な国家が注目しているんだ」
その言葉で全てを悟ったかのように、茜は目の前の男を最大限の侮蔑の眼差しでねめつけた。
「私に顔を晒したのもそういうわけなのね」
茜自身もよく分らないが、ドラマなどで登場人物が誘拐されたときなどは、犯人の顔は被害者に見えないようにするのが普通だ。
「君は賢いな」
つまりは、茜自身をこうして拘束していることも、国家という巨大な組織によってもみ消すことが可能だということだ。
「さぁ、説明はここまでにしておこう。我々に協力してもらえるね?」
「…条件が2つあるわ」
茜の答えに向こうは無言で答えようとはしない。おそらくこちらの出方を伺っているのだろうと解釈した彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「まず、この手錠をはずしてもらう。それから、私をこの部屋に一人にすること。それが条件よ」
「…おどろいたな、この状況で『取引』をもちかけるとは」
しかし、茜はそれ以上口を開こうとはしない。相手が銃器などの武力を有しているにもかかわらずに見せるその強硬な姿勢は、無鉄砲でありながら、どこか美しくもある。
「…わかった、いいだろう。喜田川、彼女の手錠を外してやれ」
「!?よろしいのですか?」
「かまわん」
喜田川は一度聞き返したのみで、後は何も言わず懐のポケットからオードソックスな形をした鍵を取り出し、茜の後ろに回った。
かちゃりという、金属のこすれあうような音と共に、手首がようやく自由になった。
「君のご希望通り、我々はこの場から退散させてもらうよ。カメラから監視はさせてもらうけどね」
その言葉と共に、茜以外の三人の男は背後にある唯一の扉から外へと出て行った。
(「カメラ…」)
うまく隠してあるのだろう。茜の肉眼では確認できない。ただ、机とイスがあるばかりの簡素な部屋だ。逃亡を防ぐ目的のためなのか、窓すらない。
(「誰か…心配しているかな」)
拘束されていたせいで赤くなった手首をそっと撫でながら、茜は心の中で首を振った。多分だれも茜がこうして拉致されたことに気付いていないはずだ。温とは夕飯は食べないと返事してしまったし、おそらく母の万樹は今夜も家には帰ってこないだろう。
そっとPCにふれてみた。無機質なそれからは、温かみは一切感じられず、ひんやりとした冷たさだけが、肌をつたう。
何故か恐ろしいほど、冷静な自分の姿に少々辟易した。
スタートボタンを押した。いつものように「Ψ」のロゴマークが現れた後に、例の指示が出る。
『「Ψ」へのログインを実行します。ユーザーアカウント認定を行いますので、認定を受けたユーザーはイヤホンマイクを装着し45文字以内のパスワードをどうぞ』
『こういうパスワードは入力形式であれば、数字とアルファベットなどを組み合わせないと、セキュリティ強度は上がらないんですが、声紋ですからね、おそらく何か意味のある文章だと思いますよ』
今日の昼、昇に言われたことが頭の中をめぐる。
「意味のある…文章」
多分、空と自分にとって思い入れのある言葉なのだろう。といっても一緒の時間をすごしていたのは7年も昔の話だ。
(「落ち着け。考えろ」)
まずは、この「Ψ」にログインしないことには全てが始まらないのだ。
「アメンボ青いなあいうえお」
手持ち無沙汰に、いつも楓子がつぶやいている台詞をつぶやいてみるが、何も効果はない。認証画面は相変わらずのままだ。
「隣の客はよく柿食う客だ」
変化なし。
「…」
本当にこのPCは自分の声に反応しているのか不安になってきた。
「本当に彼女が、『SIKE』のオンリーユーザーなのですか?」
米原の不安を孕んだ声に、柴崎は肯き帰す事もせずじっと監視モニターを見つめていた。
「PCが彼女宛に送られてきた以上、そう考えるのが筋だろう」
「しかし、実際の所、あのPCは糸伊原茜の自宅ではなく、海棠空の実家に郵送されています。これはどうとらえるべきなのでしょう」
「さあな。しかし向こうから手渡された書類によれば、ユーザーは『糸伊原茜』で間違いないそうだ。根拠はどこにあるのかは知れんがな」
メインモニターの中の茜はイヤホンマイクを装着し、なにやら意味の成さない言葉をつぶやいている。
「よかったのですか?こうして監視しているとはいえ、ログインをされたら、何が起こるか…」
「彼女は「Ψ」のユーザーではあるが、SIKEのアクセス権限を保持していない。それに、ずぶの素人が世界最高峰の知能を持つAIを扱えるわけがない。…ここをどこだと思っている」
ここは地上120メートルの超高層ビル「アヴァロン」。都内の憩いの場として1階〜12階までがショッピングモール、そして13階からは企業のオフィスとして使用されている。柴崎コンサルティングの根城とも言うべき施設であった。
そしてここはその最上階。すぐ外ー唯一の出口には、喜田川ら3人の精鋭を貼り付けてある。脱出は絶望的。その環境から考えれば、彼女はあまりにも孤独といえた。
「私にはよく分りかねるのですが、そもそもSIKEとはどういうAIなのですか?」
柴崎はしばらく指をならした後、メインモニターをこつこつとこづいた。
「米原、『魂』とは何か?と聞かれて、すぐに答えられるか?」
「…は?」
「”あれ”はそういうのと同じようなものだ。『存在意義の有無』とでもいおうか。明確な目的をもって作られたわけではない。『人の精神』を真似て作られたのだからな。だから無限の可能性を秘めてはいるが、同時に何も出来ないおもちゃ同然のものでもある。そうだな…言い換えるとするならばギリシア神話における『希望』とでもいおうか」
長期戦と見たのか、柴崎はイスに深く腰掛け、メインモニターからしばらく目を離した。
「…こんどあったらね、また、おうたをうたってほしいな」
私がそう言うと、空兄は鼻の頭を掻いた。照れた時によくやる癖だ。
「お歌かぁ、次に会ったときは多分…そういうのはやらない年だと思うんだけどなぁ」
少し茶のはいった髪が風に揺れる。苦笑交じりの笑い声が聞こえた。
「じゃあ、その”おともだち”をつれてきたときに、いっしょにうたおう?」
私はよく、小さな頃から空兄に童謡を聞かされて育ってきた。夏代さんのお腹に温がいた時に、胎教にいいということで、買い集めた童謡のテープを聴いて育ったためだという。そのなかでも1曲、おそらく私が赤ん坊の頃から聞かされ続けた、大好きな曲があった。
「そうだね、その子も多分、茜と同じで歌うのが大好きだと思うよ」
そういうと、私を抱き上げて、思いっきり抱きしめてくれた。多分それが最後に感じた、空兄のぬくもりだったんだと思う。
「ねーむれ、ねーむれ…」
茜は机に突っ伏したまま、唇を動かし始めた。
眠れ眠れ 可愛し緑子
母君に 抱かれつ
ここちよき 歌声に
むすばずや 美し夢
シューベルト作曲の有名な子守唄。歌詞の意味はよく分らなかったけれど、馴染み深いメロディが今でも頭の中に焼きついている。
その瞬間、ピピピッと電子音が鳴り響く。茜はあわてて座りなおすと意識をディスプレイの方へと向けた。−−−そこには
『本人確認終了。声紋認証しました。ユーザー名 糸伊原 茜 『Ψ(プサイ)』へようこそ。』
淡々とした文字列が次々と流れてゆく
『『Ψ』のアプリケーションソフトは”SIKE”のみです。起動しますか?』
茜は迷うことなくエンターキーを押した。
すると今度は、イヤホンを通して音声のみが流れてくる。聞きなれない、すこしキーの高い若い女性の声だった。
『ーSIKE、起動しました。初めまして、私の名前は”SIKE”。愛称はサイです』
『ただ今の時刻は、午後10時13分です。東京の天気は晴れ時々くもり。気温は19度。湿度60%』
『−−−−何かご要望などございますでしょうか』
次の瞬間、茜はマイクに向かって思いっきり声を張り上げた。
「−−−−助けて!!!!」
『命令の意味がわかりません、もっと明確な言葉を選び、マイクに向かってお話下さい』
茜はマイクの部分をこれでもかというくらい口に近づけ、
「だからっ!!このビルから出せっていってんの!!」
AIというものがどれほどあてになるかは分らなかったが、先ほどの連中にされるがままよりはよっぽどいい。
『−−−−ユーザーの命令を了解しました。−−−命令実行中』
「…っ!まずいぞ!!おい、はやく鍵を開けろ!!」
外で見張りをしていた男たちが、中の様子に気付いたらしく、激しく扉をたたいた。
『『アヴァロン』の電圧管理システム、及び中央情報制御システムに侵入。現在ハッキング中』
茜はPCを抱えもつと、部屋の隅のほうに移動した。
『何をしている、早くしろ!!』
スピーカーを通して先ほどの男ー柴崎の声が響き渡る。
『キーの暗証番号が変えられています!!…だめです!こちらからの操作を受け付けません』
男たちの怒声が交差し、茜は膝を抱えてうずくまる。そのとき腕の中のPCがまた声を発した。
『ハッキング成功。これより『アヴァロン』全施設の電圧を制御します。カウント開始』
無機質なまでの女性の声で、運命のカウントダウンが始まった。もしかしたら自分はとてつもないことをこのAIに向かって言ってしまったのかもしれない。けれども、もう変えられないところまできていた。
『5』
「中央制御のスパコンが暴走をはじめています。システム制御不能!!」
『4』
「どういうことだ!!こんな話は聞いてないぞ!」
『3』
「だめです!、中央電圧に加え、緊急の回線がすべて使用不能に!!」
『2』
「まさか!?相手はたかがノートPC一台だぞ!!」
『1』
茜は耳をふさぎ、体を地面に伏せ、やがて来るであろう「何か」に備えた。
『停電』
あたりは暗闇に染まり、永遠に続くかのような恐怖と一瞬の静寂が支配した。
ーーーーかくして運命の歯車は回りだし、希望という名のパンドーラの箱は解き放たれたのである。