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愛と残酷の女神

「ただいま」


 誰もいないとわかっていても、長年の習慣からか「ただいま」と言ってしまう。茜は黙って靴を脱ぐと自分の部屋へと向かった。


 デスクトップのPCを立ち上げ、いつものようにメールをチェックする。


                              『受信メール  0件』


 半ば予想通りであっただけに、肩透かしというほどではなかったが、それでもどこか茜にとっては寂しいものがあった。(あき)にはあれからメールを何通も送ったがメールアドレス自体がもう使われていないらしく、『メールアドレスのエラーにより送信できませんでした』の通告メールが受信ボックスに溜まるばかりであった。


「ねぇ、サイ」


『何ですか、アカネ』


「サイが空兄に最後に会ったのはいつ?」


『6月4日です』


 今は6月18日ーーーつまり丁度2週間前ということになる。


『アメリカ、ワシントン州のオリンピアで私と彼は別れました。彼はーーー追われていましたから』


 追われていた相手…。それはおそらく彼の雇用先であるアスタルテ社だろう。


 ーーーアスタルテーーー

 豊穣の女神を社名に頂くその会社は、いまや情報産業業界のトップシェアを誇る巨大企業だ。もとは小さなプログラミングを請け負うのみだったのだが、半導体の開発にも目を向けるようになり、また、極少数の限られた人間にしか触ることのできなかった「コンピューター」を世間一般に溶け込ますためのマーケティングに成功した最初の会社だった。


 アスタルテ…これが、空の消息をたどる最大のキーポイントなのかもしれない。


 しかし、確認をしようにも、マーケティングしか行っていないアスタルテ社の日本支社にとりあってもおそらく相手にされないだろうし。研究員として働いている空の詳細を尋ねようと思ったら、アメリカにあるアスタルテ本社に問い合わせるしかないだろう。


「え…英語…」


 自慢ではないが、茜は英語の成績はまずまずで、クラスでもトップだ。しかし、書いたり聞いたりするのと、話すのとはわけが違う。第一話せたとしてもちゃんと相手からレスポンスが返ってくるのかも怪しい。


「お母さんなら…」


 茜はふと頭の中に浮かんだ人物を口にした。けれどもすぐに首を振る。


 茜の母、万樹は通訳業を生業にしている。それだけに英語も堪能で最近はフランス語やドイツ語も日常会話程度ならこなせるのだという。それほどのコミュニケーション能力を有しているのなら、海外の会社へ問い合わせるのもわけないだろう。そこまで考えては見るものの、茜は唇を軽く噛んだ後、気分転換に料理でもしようと、着替えを済ませて自室を後にした。



 夏代直伝のチキンライスをオムライスにして、インスタントのオニオンスープとレタスサラダで夕食を済ませた後、携帯電話が、チカチカとメール受信を知らせるライトが点滅しているのに気がついた。


 はるからだった。内容はいたって簡潔で、明日の朝も迎えに行くということだけが記されていた。


「…ふぅ」


 ため息が洩れる。正直に言うと、今はあまり顔をあわせたくなかった。


『どうしましたか』


「ん?何でもないよ。あ、お風呂は入ろ」


 風呂を沸かしたままになっていたことに気付いた茜は、慌てて携帯を閉じると、立ち上がった。明日は温には悪いけれど早めに家を出よう。−−−そう思って。



 少し長めの入浴を終えた茜は、髪をドライヤーで乾かした後、リビングへと戻ってきた。


「サイ、…どうしたの?」


 めずらしくSIKEからの返事はない。画面は例の「Ψ」のマークが映し出されているが、肝心の「声」が聞こえてこない。


「ねぇ」


『−−−−アカネ、あれは何ですか?』


「?あれ?」


 あれといわれても、思いつくものがない茜は少々途方に暮れてしまった。


『テレビです』


 そういえば、家に帰ってきたとき何となく無音でいるのが寂しくて、つけっぱなしになっていたのだ。ふと画面のほうを見やると、特集番組らしく画面の右上のテロップに「モーツァルト、楽聖の生涯の謎」というタイトルがついていた。


 そして次の瞬間に流れてきたのは、耳慣れない歌声。けれど、高らかで声量のある、聴くものを圧倒するような女性の声だった。


 画面をしばらく眺めていると、ふくよかな体型の女性二人が舞台の上で大きな身振りを交えながら歌っていた。


「オペラーーーだよね。音楽劇っていえばいいのかな。台詞が歌になってるんだよ。−−−私もあんまり詳しくないけど」


『オペラーーー演劇と器楽演奏を伴奏とした歌によって物語が進行する舞台芸術。現存最古の作品はイタリアのヤコポ・ポーリの「ダフネ」といわれーーー』


「…ストップ」


 そこまでわかっているのなら、わざわざ聞かなくても良いではないか。


「気になるの?」


『?それは、どういう意味ですか?』


「ーーいや、興味があるのかなって」


 ここまで興味津々に何かに意識を向けるのは、茜にとって少々意外なことでもあった。


『とても、「懐かしい」という気持ちになります』


「懐かしい?」


 それは彼女自身の記憶なのだろうか?


『はい。とても遠い昔に、このような音楽に囲まれていたようなーーー』


 そこで少しの間沈黙が広がる。


「…それで?」


 沈黙に耐え切れなかったのか、茜が口火を切った。


『ーーーそれだけのことです』


 やっと返ってきた答えがそれだった。


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