ガール・ミーツ・ガール
「まぁ、同居の話はゆっくり考えてからでいいよ」
冬麻はそう言うと、おやすみ、と手を振りまたもと来た道を車で走り去っていった。茜はその後をしばらく眺めた後、ふぅとため息をついてマンションの中へと入る
「ただいま」
そういっては見たものの、家の中はがらんとしていて、真っ暗で人もいない。毎日見るいつもの風景。万樹は帰ってくるとしても午前0時を過ぎることがしょっちゅうなので、こうして帰宅してもいないことが殆どだ。
鞄を自分の部屋に置くと、風呂場へ行き沸かし始める。暑くなってきたとはいえやはり日本人たるもの、一日に一回は湯につかりたいものだ。
ボタンを押してリビングへと戻ると、机の上においておいた小包に目がいく。
(「開けてみるか」)
そんな軽い気持ちで、それを手に取った。平べったくて日常的に使用するノートほどの大きさがある。重さは2キロ位で硬さもあった。よく見てみると梱包の仕方が荒々しくガムテープが乱暴に巻かれてあった。茜は丁寧にガムテープをはがすと中身を取り出しにかかった。
中には緩衝材に巻かれてある、四角の物体がグレイのボディを輝かせていた。
「…パソコン?」
日本で普及しているものよりは少し小さめの、ノート型のPCが入っていた。表には空の現在の職場であり、世界でもIT業界においてトップのシェアを誇る「アスタルテ(Astarte)」のロゴが入っていた。
中身を更に調べてみようと、袋の中身を詳しく見てみたが、何も入ってはおらずしばらく首を傾げてた。
「メール来てるかも」
もしかしたら、このPCについて空から何か連絡事項があるかもしれない。茜はPCを持ったまま自分の部屋へと移動し、自分の机の上においてあるデスクトップのPCを立ち上げた。
いつもの電子音を聞き、すかさずメールボックスをチェックするが、新着メールは0件だ。
「…」
おかしい。
何か底知れぬ違和感が茜の背筋を走り抜ける。
(「…考えすぎ、か」)
もしかしたら、このPC内に何かしらのデータが入っているかもしれない。茜はそう思い立つと電源ボタンを押し、PCを立ち上げる
「あれ?見慣れないソフトウェアだな」
その後に現れたのは、「Ψ(プサイ)」というギリシア文字のロゴだ。そして一旦画面が暗くなり、輝く文字が現れた
『「Ψ」へのログインを実行します。ユーザーアカウント認定を行いますので、認定を受けたユーザーはイヤホンマイクを装着し45文字以内のパスワードをどうぞ』
「…へ?」
よく見ると、イヤホンプラグにはよく見る形のイヤホンマイクが装着されていた。おそらくこれをつけて声紋認証を行うのだろう。
通常、人間の声は様々な周波数で構成されており、一人一人が違ったデータを持つ。そのため指紋と同じく本人認証を行うことが出来るシステムであり、最近ではセキュリティシステムなどに多用されているという
「…どういうこと」
ひたすらEnterキーを叩いてみたり、イヤホンマイクに向かって「アー」と発声したりしてみるものの、何も起こらない。
そうこうしているうちに、お風呂が沸いたらしく、ピピピッといつもの電子音が聞こえてきた。
「明日、部活の時に聞いてみるか」
今日は夜も遅い。早く風呂に入って寝よう。その前に、茜はパソコンに向かい、空に向かって出来るだけ簡潔な文章で、今日来たPCについて尋ね、送信した。
それから風呂に入り、念のためPCをチェックしてみたが、メールボックスの受信トレイは、未だ0件のままだった。
「おーい、茜君、大丈夫かい?」
「ふふ…ふふふふふふふふふふふふ」
授業終了の時を告げるチャイムが頭の中でリンゴンと響き渡っていた。というのも、昨日温から今日の数学の小テストについて知らされていたにもかかわらず、すっぽりと忘れ去っていたのだ。朝、楓子から聞かされたときの衝撃は、かなりのもので未だにそれを引きずっていた。
「まぁまぁ、何も小テスト1回如きで人生が決まるわけじゃないんだからさ!元気だしなよ」
茜のクラスの数学教師はかなり厳しいことで知られており、赤点を取った生徒が続出したとしても補習や追試などの救助措置をとらないことで知られていた。それだけに普段のテストも厳しいものがあるのだ。
後ろの方の席に座っている、温も「そらみたことか」とばかりに冷たい視線をこちらへ送ってくる。
「そういう、楓子はどうなのよ」
「え…?……」
明らかに強調されているかのような間。それで茜は全てを悟りきったように「裏切り者ぉ」と叫んだ。
「あはははは。そうだ、期末に向けて海棠君に勉強見てもらったら、彼理系科目はトップクラスだし」
「あいつに頭下げるのだけは、閻魔の大王様に『地獄に落とし五臓六腑を喰らい尽くすぞ』と脅されても御免被りたいわ」
「あはははは……。そこまで嫌か」
茜は机に突っ伏したまま、窓から空を見つめた。どこまでも透き通るようなライトブルーの色にしばらく見入っていると、温の声がした。
「今日も夕飯食べていくだろ?」
「…」
結局あの後万樹は帰ってはこなかった。おそらく会社に泊まったのだろう。メール一つ、電話一つも無かったが、もとより性格が杜撰なので茜自身気にしてはいない。
「今日はやめておくわ。部活で遅くなるかもしれないし。夏代さんにはよろしく言っといて」
「そうか」
温はそれきり何も言わず、茜の席から離れてゆく。
”茜ちゃんさえよければ、一緒に暮らさない?”
あの時の言葉が胸の深くでつかえていた。なんだろうこの歯がゆいような感触は。茜は体を起こすと、乱れた黒髪を手櫛で整えながら物思いにふけっていた。
それを見た楓子は、頬を赤らめながらこちらを見つめてくる。
「…何よ」
さすがにその視線に気付いたのか、茜は前の席に座っていた楓子に向かって口を尖らせた。
「いや、絵になるなぁと思ってさ。なんだろう、恋煩いに悩まされるジュリエットって感じで。ぐぐっとくるのよね」
「言ってることがいちいちオヤジくさいなぁ」
少しばかり照れた表情を見せた茜は、それを紛らわせるようにふい、と横を向いた。
「あははは。そうかもね」
そのとき教室のドアがガラッと開き、毎日のように顔を見ている担任の教師が入ってきた。
「おらー、各自席につけーHRを始めるぞ」
まるで鶴の一声とも言わんばかりの担任教師の大声に、クラスメイトが散り散りに自分の机に向かう。
「ええと、早速だが数学の林野先生から今日の小テストが添削されてきたので、今から返すぞー。何でも次回の授業までに、間違っている所をやり直して提出してほしいそうだ」
沈黙
「………は?」
その後のテスト返却で、点数を見た茜が貧血を起こしたかのように、ふらついた足取りでHR後の教室を後にしたことはいうまでもない。
「で、これがその例のPCですか?」
高校の最上階にあるPC教室の一角に3〜4人の人だかりが出来ていた。都立宮ヶ音高校PC部の面々である。
やはり、自分の持つ知識だけでは不十分ということで、部活メンバーの知恵を借りることにしたのだ。少なくとも茜よりはPCの知識はある。
「うん、アメリカにいる従兄弟から送られてきたんだけど、立ち上げかたがさっぱりで」
その中でも眼鏡をかけた小柄な少年が、茜の持ってきたPCを見て目を輝かせた。
「…これ、アスタルテの最新モデルじゃないですか!!」
「え?これ、そんなにすごいものなの?」
少年ーパソコン部唯一の一年生、築山昇は、この部のなかで唯一まともにプログラミングができる少年だ。それだけにPCの知識は他の部員とは一線を画している。
「ええ、このアスタルテ社P-009タイプのPCは、密かに日本Verが開発されてるって噂されてたんですけど、いやぁ実物を拝める日が来るとは」
心なしかうきうきとした手つきで、電源を入れる
「ふぅん」
「通常のノートPCの概念を打ち払うような容量の大きさはともかくとして、そのアルゴリズムの構築の早さが肝なんですよ」
言っていることがさっぱりだ。
「築山ぁ、もっとわかりやすく言えよ」
横から茶々を入れるようにして築山に絡んでいるのは、すらりとした背の高い細身の女生徒だった。男気あふれる口調でひじをつきながら、興味なさげにこちらを見てくる。一応この部の部長である33年の琴嶋美野里だ。
おそらく、さっぱり分らないという表情の茜を見かねて、助け舟を出してくれたのだろう。
「ああ、失礼。アルゴリズムというのはITにおけるPCの計算方式のことですよ。日本語では『算法』などとも呼ばれていますね。ある特定の計算法を打ち込み、効率的に『答え』を手にするための手順を言います。コンピュータの情報処理の基盤で、我々の身近な所から言えば、インターネットにおける検索エンジンや、図書館などで採用されている蔵書検索などもそれにあたります。ようするにプログラミングの過程でおこる計算方式のことですよ」
晴れ晴れとした笑顔で、茜と美野里に向かって言い放つ。美野里のほうはまるで心得たかのように頷いて見せるも、茜の方はといえば首をかしげたままである。
「ーーーつまり、プログラミング作業に特化されたPCってわけね。一般人向けじゃないんだ」
そうおもむろに口を開いたのは、副部長の萩田千鶴だった。ショートボブの黒髪に白い肌がよく映える着物の似合いそうな和風の美人である。
「ええ、けれどハッカーの間では人気が高くて、アメリカでは生産が追いつかないって話です」
「…茜の従兄弟ってさ、アスタルテに勤めてるんだっけか?」
美野里は機動音を出すPCのディスプレイを眺めながら、問うた。
「あ、はい。大学で発表した論文が認められたとかで、企業の方からお誘いがきたらしいです」
「へぇーじゃあエリートなわけだ。でもなんでこんな築山みたいなマニア向けのPCが茜宛に?」
あきらかにおかしかった。確かに高校に入ってPC部に入ったことを報告はしたが、向こうはこちらのPC処理能力を把握しているはずだ。
そうこうしているうちに、ディスプレイが例の声紋認証システム画面へと移行する。
「ほーほーこれは確かに声紋認証をもとにしたバイオメトリクス認証ですね。しかもパスワード付きとは…おそろしいセキュリティ強度だなぁ」
昇は画面を見ながら、なにやらキーボードをたたいてみるものの、画面は固定されたままだ。
「うーん、常識的に考えて、糸伊原先輩の声に対応しているんでしょうけど」
「えっ…私?」
「はい。…それにしても「Ψ(プサイ)」か。聞いたことないソフトウェアだなぁ。アスタルテ社専用の商品かな?」
「茜ちゃんはパスワードに心当たりはないの?」
千鶴の問いかけに、茜は必死になって頭の中身をひっくり返してみたが、何も思い出せない。
「こういうパスワードは入力形式であれば、数字とアルファベットなどを組み合わせないと、セキュリティ強度は上がらないんですが、声紋ですからね、おそらく何か意味のある文章だと思いますよ」
「意味のある…文章」
その後、茜は何度かイヤホンマイクを装着して試してみたものの、ログインできずじまいだった。