夢の声
「−−−−ねぇ、」
いつものように優しく語りかけてくる声。
そして、笑い声。
けれどそれは、ある日突然何処かへと消え去ってしまった。
−−−−−雨の日と共に
「おはようございます」
アイマスクを取られたアオイは急に視界に飛び込んできた大量の光に、寝起きの顔のまま瞬きをした。
「…どれ位寝ていた」
「30分ほどですかね。どうです、少しは頭がすっきりしました?」
それを聞いたアオイは、少し耳鳴りのする頭を右手で押えながら答えた。
「余計に混線しそうだ。やっぱり、夢はあまり見たくないものだな」
仮眠用のソファーから立ち上がると、すぐ右脇にある自分のデスクに腰掛ける。
「それよりも、『アドニス』の調子はどうなんだ」
傍らに控えていた中年の男性ー松方は、手元にある書類を刳って報告した。
「先ほど起こったハッキングトラブルは回避されました。損傷は軽微です。まぁ、痛み分けといったところでしょう」
「そうか」
アオイは頭の中を渦巻く雑念を振り払うかのように、頭を軽く振った。
「…大丈夫ですか?必要なら水をお持ちしますが」
「おいおい、うちらのご主人様も随分ヤワになったもんだなあ、そんなに日本の空気が合わないかあ?」
軽い口調でノックもせずに入ってきたのは、長身で体つきのがっしりとしたまだ若い男性だった。しかしその立ち居振舞いから、すぐにそれなりの強さを持ち合わせていることが知れる。服装は至ってラフでジーパンにTシャツという、恐ろしく職場には不似合いな格好だった。
「大野」
「よっ!ただ今帰還いたしましたぜ、ボス」
軽く敬礼をして、アオイのデスクの前に居直った。
「…随分楽しんできたようじゃないか。ここよりも向こうの方が性に合っているんじゃないか?」
少しだけ機嫌の悪いアオイは少し睨みを聞かせながら目の前いにいる男に向かって言い放った。暗号名『T』こと大野明義とは一応上司と部下の関係ではあるが、歳の開きがあるせいか子ども扱いされることが多い。
「そんなそんな、滅相も無い。俺の愛しき我が家はここだけだよ」
ほんの数日前までスパイとして数年間、小野坂洋平として柴崎コンサルティングに潜入していた彼はどこか飄々とした風情で物事を割り切ることの出来る男だった。−−だからこそこの仕事に向いているのかもしれないが…。
「…どうだか」
「はいはい、アオイも大野も、言い争いはそれぐらいにして下さい。それでアオイ、これからどうするんです?」
「そうそう、あの嬢ちゃんに的を絞るのか?ほら、お前えらくご執心だろ?お前もずいぶんと面食いだなあ」
大野は腰に手を当ててからからと笑う。
「…お前は今日復帰したばかりで知らないだろうが、向こうが攻撃を仕掛けてきた。多分、龍の逆鱗にでも触れたんだろう」
「向こうって、例のAIの製作者か?」
「ああ。『アドニス』が攻撃を受けた」
日時変更ーー午前零時丁度を狙ったそのハッキングは、いまだかつて無いほどの深部まで侵入を許してしまった。どうせ在野のハッカーの仕業だろうと見て甘く見ていたのが災いだった。ものの2分でこちらの情報を奪い取って言った上にいくつかのプログラムシステムに傷をつけて帰っていった。
こんなことが出来る人物に該当するのは一人しかいなかった。
「それはそれは、ご愁傷様で」
完全に他人事だと決め付けているのか、大野はあまり興味の無い様子で言い放った。もとより機械系等に弱い彼には無縁な話だったが。
「ーーーしばらくはSIKEシステムの製作者である海棠博士の捕捉に全力を挙げることにする。日本にいることは確実だ。虱潰しに探せ」
珍しく低くくぐもった声で話すアオイにただならぬものを感じたのか、松方は一礼するとその場を離れた。
「あっ!ずりぃぞ!」
その後を追うようにして、大野も部屋をあとにする。
誰もいなくなった部屋の中、アオイはもう一度目を閉じてみた。
ほんの数日前に目の前にいた長い黒髪の、美しい少女のことを思い出していた。
烈しくも決して粗野ではなく折れることのない、野の百合のような凛とした美しさーーー。
形の整った唇、ほっそりとした白い首、黒曜石のような深色の瞳。
「ますます、あの人にそっくりになっていくんだな」
それは懐かしい、今でも鮮明に思い出すことの出来る「夢」のような存在。
それをゆっくり噛み締め、昔を懐かしむかのようなか細い声で、アオイは言い放っていた。
「ーーーふぅうううう、危ない危ない」
PCのディスプレイの前で青年は首を傾げ、肩を叩いた。ハッキングーこの場合はクラッキングに該当するのかーを仕掛けたのは久方ぶりのことである。腕が鈍っていないかと心配だったが杞憂だったらしい。案外すんなりと情報を得ることが出来た。しかしこちら側にも損傷を負ったらしく、しばらくPCを使えないであろうことは明らかだった。
「やっぱり、あの『アドニス』相手にちょっときつかったかなぁ。でもこれからの方針を考えるのに向こうの情報は必須だからなあ」
殺風景な部屋には所狭しとPCやそれに関連する電気機器、プラグ・コードなどが並び、敷き詰められ、足の踏み場もない状況だった。
「でも、今のでばれてるよなぁ、きっと。でも居場所までは特定できないだろうし…、完全に振り切ったし」
青年ーー海棠空は歯ため息をつくと眼鏡をはずし、大きく伸びをした。
「…年を取ると独り言が多くなるよな。いや、単に寂しいだけか?」
目の前のディスプレイには先ほど『アドニス』から奪取したばかりの情報の数々が並べられていた。
その中に何枚かの写真が収められているファイルがあった。
これだ
たいして特徴のあるファイルでもないのに、直感がそう告げていた。
おそるおそるマウスを手にして、それをダブルクリックする。
次の瞬間ディスプレイに並べられた「それ」は普段温厚な顔つきの空を戦慄させるのに十分なものだった。
「これが…」
搾り出したかのような、殆ど息だけの声。
「これが…新たな『魂』の形なのか…?」
アオイの物語でした。
空単独で出すのはもしかして初めて!?
やはりアオイは書いていて楽しいです!