素敵なスポーツ
「帰られましたか」
自室からようやく出てきた冬麻を待ち構えていたとばかりに、20代半ばの青年が声をかけた。人当たりのよさそうな顔立ちに、中肉中背のすっきりとした体つき、格好はというと、スーツの上着は着ておらず、真っ白なシャツをひじの辺りまで捲り上げていた。
「ああ、我が妹ながらおっそろしいよ。全く」
20代の息子がいるとは思えないほど若々しい彼は、この10分ほどでいくらか老け込んだようだった。
「…あれが課長の妹さんですか。…お綺麗な方ですね」
「ーーーめずらしいな、お前が女性を褒めるなんて」
「ひどいですね、僕は女性に対して素直なだけです」
そう返事をして見せた青年ー津原遊馬を疑わしい目で見た冬麻は、ため息を一つついて、そのあとに続く報告を待った。
「−−−『R』が動きを見せ始めました」
「『彼』が日本にいるのか」
「はい。昨日所属不明のヘリが都心を飛行していたそうです。−−−おそらくは…」
「そのことを万樹らは知っているのか」
「あちらはこちらよりも欧米や欧州圏の情報網に顔がききますからね」
それでいてわざわざ公安庁に顔を出したということは、万樹の所属する「組織」も牽制する必要があったからだろう。「彼」との接触をはからないために
「それと警察からの連絡事項です。昨日逮捕された柴崎渉の身柄を数日こちらが預かることを了承するとのことです」
「毎度ながら返事が遅いことだ」
そう、冬麻は今回の「アヴァロン」の一件に際して、『情報』を与える代わりに『見返り』を求めた。−−この一件の渦中の人物、柴崎コンサルティング会長・柴崎渉の身柄である。容疑者を警察以外の組織が拘留するというのだ。超法規的といわざるを得ない。しかしこの見返りを求めるのはこの世界の『掟』だ。
「引渡しは明日の朝とのことですので、昼から事情聴取ができるよう段取りをしておきましょうか?」
「ああ、頼む」
一介の情報組織であるこの公安調査庁にこの「第3部」が創設したいきさつは、いくつかあるが、その最たるものはやはり「日本政府の諜報組織活動の拡大」にある。国際関係が不安定となっている現在、日本は情報機密の点でいえば遅れた存在であり、人的諜報、機器的諜報どれをとっても欧州・欧米や他の先進諸国とは比べるべくも無いのが現状だ。
そこで日本の情報組織の一端を担う法務省公安調査庁に試験的に運用が決定したのが、新たな部署・「第3部」なのである。
日本政府が内々に作り上げた部署であるだけに不明瞭な組織であり、その不透明さから日本のMI6といってもおかしくはないかもしれない。
遊馬がおそるおそるといったように、冬麻に話しかけた。
「あの、息子さんのことですが」
おそらく空のことだろうと察した冬麻は先を続けるよう促した。
「消息が西海岸のサンフランシスコで途絶えています。『R』も彼を完全にロストした模様です」
「そうか」
実の息子のことだというのに、顔色一つ変えはしない。ただ深く考え込んだ。
「…件のAIについてですが、彼女の様子はどうです?」
彼女とは「茜」のことだろう。
「夏代から容態を聞く限り、ただの風邪だそうだ。安静にしていれば大丈夫だと」
そうですか、と短く返事をした彼はどことなく落ち着かない様子だった。
「その…、本当なんですか?彼女があの…」
未だ信じられない現実を突きつけられたように、目が明らかに泳いでいた。
「津原、この仕事についてどれくらいになる?」
「え!?ああ、ええと、大学卒業してからだから、4年…ですかね」
「慣れるまで10年はかかるぞ、この仕事は」
「…課長は、」
津原が何かを言おうとしているのを耳にした冬麻は人当たりのよい笑顔を向けた。
「…ん?」
「課長にとって、この『仕事』とは何なのですか?」
それを聞いた冬麻は、あくまでも人のよい笑顔を浮かべたままで答えた。
「そうだな、私にとってこの仕事は『素敵なスポーツ』かな」
それは、冬麻自身も深く敬愛する、ある軍人の残した言葉だった。
「…引越し作業に戻りますね。今日中にPCをネットーワークにつないで置かないと、誰もここが情報組織だってわかりっこないですから」
そう冗談を言い放つと、遊馬は忙しく動き回る部下たちに混じり、作業を再開した。
冬麻の手元には彼から手渡された書類だけが残った。それを見た冬麻はおそるおそる口を開くとつぶやいた。
「−−−−−−−−−−アオイ」