あらたなはじまり2
「例のAIのこと、どうして黙っていたの?」
それは感情を極力押さえつけた声。しかしそれは必死に隠している怒りそのものを現しているようで威圧感があった。
「AIーとは?」
「あんたの息子、海棠空が開発したAIよ」
「ああ」
冬麻は一人合点がいったように頷くと、来客用のソファーに腰掛けた。万樹もそれをみてか、どっかりソファーに座る。
そして懐から煙草とライターを取り出すと、目で何かを探した。
「灰皿なら無いよ」
「あら、煙草やめたの」
少々意外そうな目で兄のほうを見た。
「このまえ夏代さんに煙草の害についてのありがたーいお説教を1時間半聞かされたところでね」
それを聞いた万樹の顔は明らかに”お気の毒様”という哀れみの表情が見て取れた。彼女は煙草を懐にしまうと、もう一度足を組んだ。
「空からの何らかの接触があれば、私に連絡するーーーこれは『約束』だったはずよ」
「さあ、どうだったかな?」
冬麻がおどけて見せるのを見て、万樹は体をぷるぷる震わせながら拳を握り締めた。
こういうところが、昔から気にくわないのだ。兄弟げんかをひとたび起こせばうまく立ち回り、自分に非があったことなどおくびも見せない。
「空があんたの家にAIを送り込んだことは知ってるわ。そして…賽が投げられたことも」
「もしかしてそれって『サイキ』にかけてる?」
「ーーー茶化さないでくれるかしら。知っているんでしょう?茜がAIを解き放してしまったことを」
「さすが情報が早いなぁ」
お得意の冬麻の微笑みに万樹は薄ら寒いものを感じてしまった。やはりこちらを牽制しているのが見え見えだった。
「ま、そうなることは君も想定していたことだろう?」
「あんたが、自分の息子の手綱をにぎってないからこーいうことになるんでしょうが!」
半ば、いらいらしながら無意識の内に懐を探っている自分に気付き、やめる。
「息子といってももう立派な大人だしねぇ」
違う。
万樹にはわかった。冬麻は「息子とはいっても所詮は他人だ」といいたいのだ。
冬麻はそういう人間だ。「自分」と「他人」の境界線をきっちりと決めている。たとえそれが「家族」であったとしても。
情が無いわけではない。彼は妻の夏代を愛しているし、二人の息子にも愛情を注いでいる。しかしそれは現状が平穏だからだ。
いざというときはすっぱりと「切る」ことが出来る。しかし、それは自分のためではない。もっと大きなもののためだ。
それは自分を犠牲にすることと同時に他人をも犠牲にすることだ。そこが、彼がこういう仕事をしている所以なのかもしれない。
「まあ、いいわ。もともと味方ってわけでもないしね」
「冷たいなあ」
「もう一つ聞きたいことがあるの」
「何かな?」
万樹はあざとらしいものを見るような目つきで兄を見た。
「柴崎コンサルティング会長逮捕の一件よ。あれ、あんたの差し金でしょ」
「人聞き悪いなあ」
にこにこと笑顔を絶やさないまま、背もたれに体を預けた。
「資金洗浄、賄賂、盗聴、ヒューミント、エトセトラ…、けれど警察は今一歩逮捕に至るまでの確実な『情報』をつかんではいなかった」
「よかったの?あの会社、たしか警視庁上層部ともつながっていたはずだけれど」
「『トカゲのしっぽきり』だよ」
「成る程ね」
万樹は兄の顔を見た。表情の変化は見られない、しかし、先ほどまでとは違い強い瞳がこちらを射抜いていた。
「今度はこっちが聞きたいね。逮捕の一件にどうして『我々』が絡んでいると?」
「昨日の接待相手がご丁寧に教えてくださったのよ」
「…差し支えなければ、その『相手』を教えてもらえるかな。君のことだから海外の情報網だよね。アメリカ?それともヨーロッパ?」
相手から情報を引き出した以上こちらからも、何かしらの『見返り』を返さなければならない。それはこの世界の暗黙の了解でもある。
万樹はため息を一つつくと、右手を差し出し親指と人差し指で円形を作って見せた。しかしそれは完全な環ではなく、親指と人差し指はつながっていない。ーそれはあるアルファベットを象っていた。
「…驚いたな。英国か。しかもSIS長官直々の来日とはね。さすがに大仕事なわけだ」
「おかげで昨日は一晩中付き合わされたわ。今の長官殿は稀に見る酒豪でね」
二日酔いの残る体を引きずってここまで来たのだろう。さすがに疲れているようで、目の下には隈が見えた。
先ほど万樹が作って見せたアルファベット、−「C」は英国の諜報機関、イギリス情報局秘密情報部(Secret Intelligence Service)通称SISの長官を表す符牒だ。SISは小説や映画などの影響からかMI6−(Military Intelligence section 6)の方が通りがよいが、こちらは旧称であり現在の呼び名としては正しくない。
「C」とは、SISの創設者の一人であるマンスフィールド・ジョージ・スミス=カミングの暗号名であり、書簡における彼のサインとしても知られている。現在でも彼に敬意を表して、代々のSIS部長は暗号名「C」を踏襲しているわけだ。
「柴崎は英国のテロ組織との金銭面でのつながりがあった。まぁ体悪く言えば武器密輸の悪玉ってわけ。それに英国も目をつけていたのよ。でもまあ酒の席で部外者にぽろっと漏らすくらいだからたいした組織じゃないんだろうけどね」
「ふぅん。どうしてSISの長官殿がお忍びで来日したのか聞くのは無粋だよね」
「当たり前でしょう。観光だとでも思った?」
「まさか」
大げさに肩をすくめてみせた冬麻を醒めた目で見た後、大きく伸びをした。
「さて、要件はざっとすませたし、帰るわ。夏代によろしくね」
体にぴったりとフィットしたスーツの襟を整え、万樹はドアノブに手をかけた。
「まあ、せいぜい足元をすくわれないように気をつけることね」
そのような言葉を残して、ふり返らないまま扉の向こうへと姿を消した。それを見届けた冬麻は長いため息をつき、つぶやいた。
「早速すくわれかけているさ」
誰も聞くことの無い言葉を吐いた後、立ち上がると自分のデスクの上にのったままになっていた、「スーパーウコン飲料XXX!これで二日酔いなんか吹っ飛ばせ」と書かれた毒々しい色の空き缶をゴミ箱に放り込んだ。
ウコン飲料のネーミングは、−−フィーリングです(笑)