あらたなはじまり
今回はあの人の素顔が明らかに!?編です(どんなだ)
東京霞ヶ関合同庁舎
「−−−−−それで、茜ちゃんは大丈夫なのかい?」
男の声は低く、それでいてどこか落ち着いているものに聞こえた。
『お薬飲んで今は眠ってるわ。熱も大分下がっているみたい』
男は後ろの壁に寄りかかりながら、左耳に当てていた携帯電話を右耳に当てなおした。
『それでーーー心配だから、今日はこっちに泊まろうと思うの。冬麻さんと温くんには悪いんだけど…』
「いや、実を言うと僕も今日は仕事で帰れそうになくてね」
目の前を行きかう部下の姿を見ながら男ー冬麻は答えた。
「ーーーそうなの?」
「うん、担当の部署が変わったってこの前言っただろう?引継ぎやらなにやらで忙しくてね」
『そう…』
電話の向こうの女性ー夏代は少し落胆したかのような声を出した。それを聞いた冬麻はくすりと笑った。
『何?』
「いやぁ、かわいいなあって思ってね」
その言葉が発せられた瞬間、ダンボールを持って右往左往していた部下たちが一斉にこちらを向いた。おそらく、「ノロけている暇があったら手伝え!!!」とでも言いたいらしい。
『…冬麻さん?』
相手が無言なのを不審がったのか、いぶかしげな様子で夏代が問うた。
「ん…?いや、何でもないよ。そういうわけだから、しばらく夕飯は要らないかな。茜ちゃんのこと、よろしくね」
『ええ。それじゃあ、仕事中に失礼しました』
「ううん、僕も休日サービスできなくてごめん。じゃあ」
冬麻はそこまで言うと、携帯電話のボタンを押して一息ついた。そしてため息を一つ。これから起こる何かに備えようとでも言うように。
「課長」
「うん?」
ー「課長」ーそれは最近自分についたあらたな職場での呼び名だった。
「先ほどから…その、例の方がお待ちになっておられますが…」
「ああ」
冬麻は微笑を崩さないまま踵を返して、オフィスの更に奥の部屋へ続くドアノブを握り締めた。
そして一つ深呼吸
意を決して開けたドアの向こうには大きなマホガニーのデスクが一つ、それに来客用と見られるソファーとテーブルが並んでいた。部屋の中にいた人影はあきらかに客人であるにもかかわらず、この空間の主のみが座る、デスクの大きなイスに腰掛けていた。
その人物は足を大胆に組み、スカートから覗く美しい曲線を惜しげもなく晒していた。胸元の開いたスーツはそれだけでも目を引くが、憂いを帯びたその表情から察するに顔立ちはまさしく「美女」というに相応しかった。
「−−−−万樹」
「やっほお、兄貴。……いや、」
朝日を背に受けて、万樹はどこか誇らしげに言い放つ。
「公安庁『第3部』課長殿、とお呼びした方がよろしいかしら?」
どこかそぐわない慇懃な態度に、冬麻は表情を曇らせた。
「−−−−さすが、君の『仕事』は情報が命なだけあるね」
いつもとは違う鋭く、冷たい声音。しかし万樹はひるむことは無い。
「遅くなったけれど、『第3部』立ち上げおめでとう」
「それはどうも」
力の無い兄からの返事に万樹はわざとらしく肩をすくめて見せた。
「あらあ、実の妹からのめったにない祝福なのに、喜んではくれないのかしら?」
からからと万樹は笑う。
「ーそう、本当に思っているのならそこからどいてくれないかな?」
冬麻がそういうと、万樹はありとあっさりイスから退いた。そのさい揺れるようにして彼女の周りの空気が冬麻のほうまで巡ってくる。
「…相当飲んでるね?」
「まぁねーーー。この仕事やってればそういう付き合いも多いってことよ」
ふんふんと鼻歌交じりに懐からウコン飲料を取り出すと、一気飲みし始める。冬麻はそれをただただ見ていた。
「しっかし、驚きね。兄貴が新部署を立ち上げるなんて。−−−しかも非公式の。上も渋ったんじゃない?」
「さあ、どうだったかな」
冬麻はあいまいな調子で答えた。
冬麻ー海棠冬麻は、もともとここ、公安調査庁の公務員ーつまりは公安調査官であった。公安調査庁とは一般でいうところの公安警察とは違い、法務省の下部組織であり、その活動目的は「日本に対する治安・安全保障上の脅威に関する情報収集」となっている。その活動内容からは日本の「スパイ組織」といわれることも多いが逮捕権は無く、あくまでも情報の収集がその行動範囲である。しかしそうであっても集める「情報」が「情報」なだけにきなくさいところに首をつっこむことも多々ある。また、現在の所部署としては、総務部・調査第1部・調査第2部が存在している。
冬麻は当初は公安調査庁に6年ほど勤めた後、上層部の決定で去年度まで同じ情報組織である内閣情報調査室に出向していた。そののち辞令が出て再度こちらに勤めることとなったのだが、その折冬麻は今年度からあらたに”立ち上げられる”こととなった調査第3部ーーつまり『3部』の課長として抜擢されたのだ。
もとより、調査官としての優秀さは他と比べても群を抜いており、その物事を見極める観察力とすばやくて的確な判断力を『上』は高く評価していたのだ。
「どうだった、CIROの居心地は?」
万樹はさして興味もなさそうに聞いた。
CIROとは内閣情報調査室(Cabinet Intelligence and Research Office)の略称である。
「ーーー悪くは無かったよ。けどこちらの状況が『上』に筒抜けだったからね、そこはあまり気分のいいものじゃなかったかな」
「ふぅん」
万樹は自慢の腰まである黒髪を撫でると腰に手を当てた。これは彼女が相手に対して威嚇する時の格好でもあった。
「さて、本題に入らせてもらうわ」
「どうぞ」
諦めにも似たため息をつきながら冬麻は短くため息をついた。
長くなりそうなのでニ分割します。