夏風邪
万樹は温の襟首をむんずとつかむと、これでもかというくらいがくがく上下に揺さぶった。
「おのれぇええええ、この野獣めが!!、こんな時間にうちの茜になにしてやがるてめええええええっっ!!」
「ま…まきさっ・・・!、お…落ちつ…」
「これがおちついていられるかあっ!!」
「おおおおおおお母さん!?」
万樹は熱を出してふらふらな体をおして、万樹を止めにかかる。
当の温というと、起き抜けに襟首をつかまれたショックからか白目をむいていた。
「こんの、色情魔がああああ!!」
明け方の密室に年頃の男女がふたりきり。(しかもひとりは睡眠中)
この状況を鑑みるに、万樹が何を想像していたのか茜はわかる気がした。
万樹と温の折り合いは、正直言ってあまりいいものではない。万樹いわく「あいつに似ていて憎たらしい」などと実の甥に対して身も蓋もない発言をしている所から見ても、あまりいいものではないのだろう。あいつというのは、彼女の実の兄である冬麻のことである。−−
つまりは兄弟の間の不仲が甥との間の仲をこじれさせていったといってもいい。
「おかあさん!おちついて!お隣の草壁さん朝が早いって言ってるでしょ!?」
「あんたも!男を見たら狼だと思えっていつも言ってるでしょ!?ああ、嘆かわしい、こんなやつに…こんなやつにぃ…っ!」
ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり
馬乗りになって体重を乗せている分、温の顔色がどんどんうすぅくなってゆく。いよいよ危ない。
そのとき、茜の部屋の扉がゆっくり開いた。向こう側に立っていたのは、長い髪をうなじの辺りで結いか細い手には近くのコンビニの袋を提げていた。
「あらあら、まぁまぁ」
いつものように、首を30度ほど傾げながら困ったように微笑んで見せた。
「万樹ちゃんったら、こんな朝早くからハッスルしちゃったらだめでしょ?」
「な、な、な、夏代ぉ!!あんた自分の息子の手綱位握ってなさいよぉお!!!!」
「あらあら、まぁまぁ」
もう一度首をかしげて和やかに微笑んで見せた。それだけでこれまでのどたばたした空気が一気に柔らかくなる。
「万樹ちゃん、顔が赤いわよ。呑んでる?」
夏代は万樹のもとにかけより、頬をなでる。それに気を取られた万樹は手の力を緩めたので、温は咳き込みながら這うようにして逃げ出した。
「昨日の夜遅くに温くんから電話がかかってきて、茜ちゃんが熱出してるっていうから、始発のバスに乗ってきたのよ。途中コンビニでゼリーとかスポーツ飲料とか買ってきたんだけど」
「すみません、とりあえず今はお風呂に入りたくて」
「え…あらあら、まぁまぁ!髪の毛ぬらしちゃって!!」
そぼぬれた茜の黒髪を見て、夏代は肩を支えてやりながら言った。
「熱って…茜?」
ようやく正気に戻った万樹がおそるおそる問うた。
「万樹ちゃんは今日はお仕事おやすみ?」
今日は土曜日で学校は休みだった。
「え…、いや昼から出勤だけど」
「じゃあ、自分でベッドにもぐりこんでね。シャワーは茜ちゃんが先だから」
そう言いながら茜を部屋から連れ出し脱衣所へと入る。ぴったりとくっつくようにして歩いた夏代の体はとても冷たかった。
「お母さんに、心配かけちゃったかな…」
「え?」
「お母さん、今日も仕事なのに私が風邪なんか引いたせいで、「休む」なんて言い出さないといいんですけど…」
熱に浮かされたように、小声でそういうとあわてて茜は手を振った。
「あ、その…!!すみません!夏代さんもこんな朝早くに来てもらって…」
「…ううん、そんなの全然苦じゃないわ。それよりも熱が上がってきてるみたいだからさささっと流すくらいでいいと思う。ドライヤー待機して待ってるわね」
そう、いつものような朗らかな笑顔で茜の頬を撫でると、脱衣所の戸を閉めた。
「…」
夏代がリビングへと向かうと、温がソファにイスを座りながらテレビのニュース番組を見つめていた。外はもう明るくなっており、カーテンから差し込む光は柔らかかった。昨夜から降っていた雨はもう止んだらしい。夏代がリビングに帰ってきたことに気付いた温はソファから立ち上がると、廊下へと続くドアノブに手を伸ばした。
「温くん」
「帰るよ。母さんがいれば十分だろ?」
「…温くん、心配したのよ、何の連絡もよこさないでいきなり茜ちゃんが倒れた、なんて電話してくるから」
消え入りそうな、それでいて凛とした声色だった。
「…ごめん」
温はポツリとそうつぶやいて、ドアを閉じた。かしゃりという金属の触れ合う音と共に彼は扉の向こうへと消えていってしまった。
「きょうは私もここにお泊りするわね」
ぶぉぉぉというターボの回転音を響かせながら夏代は言った。シャワーからでてきた茜の髪を乾かしていた。腰までもある長い黒髪は乾かすだけでもそれなりの労力を要する。
「え!?そんな悪いですよ!」
「そんな、気にする必要はないのよ。冬麻さんはお仕事が忙しいから当分職場泊まりでしょうし、温君もそうしたほうがいいって」
タオルを当てながら丁寧に乾かす夏代の姿はかつて自分があこがれていた「母親」そのものだった。いつも感じていた。どうして自分は「ひとり」なのだろうかと。幼稚園の時だってただの一度も自分で迎えに来てくれたことは無かった。いつも空まかせで仕事、仕事、仕事。茜が物心ついたころからそうだったので今更変えようとは思わない。むしろ茜は万樹のことが好きだ。仕事もバリバリできるし、世に言うキャリアウーマンを地で行ってるタイプだ。性格もさばさばしていて話していて楽しい。けれどもどうやら茜自身の求めている「母親」とは別のものであるらしい。
「はい、乾いたわ。待っててね。今おかゆ作るから。それともおうどんのほうがいい?」
「いえ、おかゆでお願いします」
「了解」
夏代は親指を立てると、ふんふん鼻歌を歌いながら廊下の向こうへと消えていった。
枕もとの時計を見ると、朝の7時を少し過ぎたくらいだった。今日は土曜日で休みなのが不幸中の幸いというべきか。それともせっかくの休日がこうして風によって潰されるのを最悪と見るべきか。
とにかく今は休みたかった。
夏代の用意してくれた氷枕に頭をうずめると、茜はゆるゆると目を閉じていった。
たいせつなひと
わたしのたいせつなひと
わたしのたったひとりのひと
わたしのたったひとつのせかい
かんけつし、へいさしたわたし「たち」のせかいーーーー
そのせかいはわたしたちだけのもの
そのせかいはだれにもこわせない
けれどいつもおびえている
いつかーーーーそれは「こわれて」しまうものだから