はじまりのおわり
(「ここは、…どこ?」)
体全体を吹き抜けるかのような、柔らかい風か茜の体を優しく包み込む。辺りを見回すと、そこは一面青々とした草が生い茂る、草原だった。果てはなく、深い蒼の色を讃えた空に草がさわさわと揺れている。
裸足の足の裏がさくさく、と草をふみつけて、なんとも言えない新鮮な気分だった。
ここは何もない世界
まっさらな世界
私のほかには誰も居ない、完結された世界
そんな風に、茜には思えた。
「茜」
背後から呼び止められた茜は、ゆっくりと声がしたほうへとふり返った。
「あ…」
一瞬言葉を失った。何と言っていいのかわからなかったから。
「あ…き…にぃ」
そこに立っていたのは紛れもなく、茜が想い続けてきた海棠空だった。薄茶色の瞳にダークブラウンの髪がさらさらと揺れる。いつものように温和な微笑をたたえていたが、茜が最後に見た18歳の少年の姿ではなく、20の半ばといった年相応の青年だった。どこか懐かしい気持ちになるのに、どうしてか初めてあったような気持ちにもなった。
「茜、久しぶりだね」
さぁぁぁと風が頬を凪いだ。目頭が熱くなるのを感じて、茜は瞼を掌で押えた。
「っっ…」
言葉が出てこない。こういうときはどういえばいいのだろうか。
「ごめんね、怖い思いをさせてしまって」
そう言うと、空は茜の腕をそっとつかんで抱き寄せた。昔、雨の音が恐くて泣いていた時のように。
しばらくそうしていると、空はゆっくりと語り始めた。
「サイにはもう会ったよね?」
「…うん、ちょっと高飛車でとっても頑固」
「ははは、うん、友達になれたみたいだね」
茜の長い黒髪を撫でながら、空はからからと笑った。
「あの子はね、少し意地っ張りなところがあるけど、根はとても優しくていい子なんだ」
「”自分は意思を持ってるんだ”って言ってた」
「うん。だって一人の独立した、立派な”人格”だからね。『機械には”自我”は宿るのか?』というのは長らくなされてきた議論なんだけれども、彼女はそれの一つの”答え”であるわけだ」
「空兄が作ったんだよね」
「うーん…『作った』というよりも『再生させた』の方が近いかなぁ。あの子はね、茜と同い年位の女の子なんだよ」
「?」
首をかしげる茜に空は微笑みかけると、ゆっくりと体を離した。そのとき茜の脳裡に柴崎の話した言葉が浮かぶ
「!!そうだ!空兄!あのあの!産業スパイがアスタルテに抱き込んで他の企業が逃亡したっていうのは本当!?」
「ははは、茜、大丈夫かい?」
飄々とした表情で急に慌てだした茜をなだめようとする。
茜は深呼吸を繰り返して、言葉を紡いだ。
「産業スパイをして、今逃亡してるって本当なの?」
それを聞いたとたん、空はあっちゃあとばかりに空は頭の後ろを掻いた。
「そこまで話が広がっていたのか」
「?」
「僕が現在逃亡しているのは本当だよ。でも相手はアスタルテじゃない」
「え…だっ、大丈夫なの!?」
食って掛かるように空に詰め寄る茜に空はどうどう、と落ち着かせようとしたが「馬じゃない!!」の返事に一蹴された。
「大丈夫だよ。ちょうどいい隠れ家も見つかったし。ここなら奴らも見つけられないだろうしね」
「そうじゃなくて!空兄、本当にスパイなんてしたの?」
「いいや」
空はため息を一つついた。
「じゃあどうして!!…そうだ、警察に保護を求めれば」
「警察は動いてくれないよ」
「え?」
それはどこか冷たい、ひややかな言葉だった。それに自分でも気付いたのか空は慌てて訂正するかのようにつくろった。
「…とにかく今は、普通通りに学生生活を送ること。温と協力してサイのチューリングテストを積極的に行ってほしい」
「チューリングテスト?」
「いいかえるとするなら、『サイがより人間らしい受け答えをするための訓練』ってところかなぁ。詳しいことは温に聞いてよ」
空気が揺れた。風が吹いたのではなく空間そのものが揺れているかのように。
「そろそろ時間だ」
「え?」
「茜、きみはひとりじゃない。それを忘れないでいれば、大丈夫。「運命」にだって勝てるんだから」
「運命?」
またその言葉だ。
『運命』
それは何を意味する言葉なのか。絶望かそれとも希望なのか
「じゃあ、また会おう」
「ま…待って、空兄!!」
茜が空に向かって手を伸ばしたそのとき、一陣の突風が彼女の視界を遮った。それと共に、彼女の意識は薄れていった。
次に茜が目を覚ました場所は、見慣れたベッドの上だった。すぐ目の前には人の顔があり、慌てて後ずさる。温だった。
「な…なんで?」
そのとたん、昨夜時分の身に起こったことが脳内を駆け巡る。最後に覚えているのは温が必死の形相でこちらに駆け寄ってきたことだった、それから以後の記憶はない。
温は茜のベッドに突っ伏したまま眠りについていた。
辺りを見回すと、そこは茜が生活しているマンションの自分の部屋だった。見慣れた天井に、机、丸テーブルの上にはプリントや教科書がごちゃ混ぜになって散乱している。
「帰ってきたの…?」
とたんに、じわりと涙があふれてきた。そして、しばらく物思いに浸っていると、ぴぴっと電子音がした。
『アカネ』
SIKEの声だった。茜はベッドから降りると、自分のカバンを探し出しそこに入っているノートパソコンを開いた。
「サイ、私たちあそこから抜け出せたんだね」
『ええ、一時はどうなることかと思いました』
ディスプレイ上にはいつもと同じように「Ψ」のロゴマークがあるのみだった。
「ここまでは、温が運んでくれたの?」
『おそらく、その可能性は90%以上です」
「…どうして、パーセンテージなの?」
『バッテリーの消費が激しかったために、一時スリープモードに入っていました』
「あ、そう」
見ると電源ボタン横のランプが赤くなって点滅していた。
『付属のコンセントにつないでください』
そういわれた茜は、空から送られてきた箱を漁り、中からコンセントコードを取り出した。その片方をPCに繋ぎ、もう片方を机の裏にあるコンセントに差し込んだ。
『そういえば茜、顔色が悪いですよ。体温も3.5度上がっているようです」
「え…?あ…」
SIKEにそういわれたとたん、茜はふらついて床に手をついた。頭がぼうっとして、のどが焼け付くように痛い。もう6月なのに背筋がぞくぞくするほど寒かった。
明らかに風邪の症状のオンパレードだった。
自分の格好を見ると、Tシャツに体操着代わりにしているジャージのズボン姿で、髪は濡れきっていた。どうやら温が着替えさせてくれたらしいが、茜は何だか複雑な心境になった。
(「とりあえず、シャワー浴びなきゃ」)
そろそろと、眠っている温を起こさないようにタオルとパジャマを引っつかんで部屋を出ようとした。けれども
勢いよく玄関のドアが開く音がして、茜は身構えた。しばらく耳を済ませていると、千鳥足のようなおぼつかない足取りでこちらへ向かってくる。そして茜の部屋の前でぴたりと止んだ。
そして、
「やっほーーーー!!!あかねぇ、元気ーー?」
「お…お母さん!?」
そこに立っていたのは、茜の母親であり、糸伊原家の大黒柱である糸伊原万樹の姿だった。長い黒髪に整った顔立ちは茜そっくりで、今は化粧をして体にぴったりとフィットした黒いスーツという仕事着姿だった。頬は赤く染まり、明らかに呑んでいる。
「なによぅ、そのシケた面はぁ?」
そして、酒豪にもかかわらず酒乱の気もある万樹は、絡み始めると止まらない。
「お…お母さん、またこんな時間まで飲んでたの?」
「おうよ!!今日も接待で忙しかった!っちゅーーねん!!」
「ち…ちょっと!!ご近所迷惑だって!」
マンションは一軒家とは違いご近所付き合いが特に密な空間でもある。ここで波風を立てられたらたまったものではない。
「……ん」
後ろの方で音がした。茜が恐る恐るふり返ると、温は目を覚まして万樹の姿を呆然と見つめていた。
「どうしたのぉ?あかね」
まずい
非常に、果てしなく、とてつもなく、まずい。
おそらく熱がでていたくても、ふらつきたくなるような状況だ。
「…って…、え…?あ、ああああああああああああああっ!!!」
万樹は茜の静止を振り払って、ずんずんと温のほうへと近づいていく。
(「あっちゃあ」)
茜はその場に倒れこみたくなるのを必死にこらえた。
影の主人公(え!?)こと万樹さん登場!!の巻でした〜