あかねさす
私は私。
それは当たり前のことである。
では、「自己」とは何か?
もしそれを的確に言いあらわせるとするのなら、どこに「それ」は存在するのか?
フランスの哲学者、ルネ・デカルトは言った。
「我思う、故に我あり」と
こうして、全てのものに「自己は存在するものなのか」という懐疑的思考を持つことによって、その存在は立証される。つまり、全ては思考あってのものだとデカルトは説いたのだ。
しかし
「心」とはなにか?
「魂」とは何か?
そこにはたして「自己」は存在するのか?
その明確な答えは、今という科学の世紀においても明らかにされておらず、我々の持つ運命的、あるいは永遠の命題なのかもしれない。
わたしは だれ?
大切な人がいなくなってしまった。
とても大切な人のはずなのに、顔が思い出せない。
それどころか、その人がどのような性格をしていたのか、どのような格好をしていたのか、どのような食べ物が好きだったのか、「私」にどのような言葉をかけてくれたのか。すべてがもやにかかってしまったように、ゆらゆらと揺れてよくとらえることができない。
けれども、ひとつだけわかることがある。
こうしてその人のことを思考するだけで、私はとても「苦しく」なるのだ
私はこれまで二つの大きな別れを経験してきた。
一つは父親の死。
しかし、幼かった私は父の顔もよくは覚えていない。顔もあやふやで、遊んでもらった記憶も無い。薄情だといわれてしまえばそうなのだが、やはり私の記憶に残っていないということは私の中で「存在しない」ということに近いのかもしれない。
そしてもう一つは大好きだった従兄弟がアメリカへと留学してしまったこと。
常々、情報工学への尽きせぬ興味を語っていた彼は、高校卒業と同時に向こうの大学に進むことになった。それまでも「天才少年」と何かと騒がれていたから、留学のことを聞かされても、あまり驚きは無かった。
けれど、ショックだった。
『ひきとめてはいけない』
必死にそう考えてみるものの、いつまでたっても納得することは出来なかった。
「茜は泣き虫だなぁ。心配しなくても大丈夫だよ。ずうっと向こうにいるわけじゃないんだからね」
ぽんぽん
いつものように頭の上に手をのせると、軽くたたくように撫でてくれた。
優しい、おおきなて
「あきにいは、アメリカに何しに行くの?」
泣きやんだ私は、彼に問いかけた。
多分他愛も無い単なる興味心だったのだろう。彼は微笑むと、
『茜のお友達を見つけに行くんだよ』
「あーかーねーくーん、何をやっているのだね?」
「……はっ、え…あわわわわわわ!!」
茜は慌てて水の溢れ出しているコップを引き抜くと、ぼとぼとに濡れた手を見てため息をついた。
「大丈夫?今日は上の空見たいだけど」
「…うん、何やってんだろ」
茜は食堂のセルフサービスで汲んできた水を二つ、机に置いた。放課後のせいか人もまばらで、読書やおしゃべりなど、皆思い思いの時間を過ごしているようだ。
「…愛しのお兄様がまた帰って来れないからって、ぐずぐずしてるんじゃないわよ」
「・・・楓子、あんた、一昔前の少女漫画みたいな呼び方やめてくれる?」
茜は腰まで伸ばしたご自慢の黒い髪を払うと、外をふと見つめた。ぎらぎらとした太陽が地面を照らし、運動場で活動している運動部員たちの生命力を奪っていた。
「なによぅ、本当のことでしょ?10歳の時に別れたまま、一度も会っていない私の初恋の君…」
うっとりとした表情で、演技がかった仕草をしてみせた
「うげぇ・・・」
「おいおいおい、キミの心情を的確かつダイナミックに、この演劇部長でトップスターの楓子様が演じて見せたというのに、何なのだね、そのゲテモノを見るような目は」
「…楓子も私がそういうキャラじゃないことくらい知ってるでしょう?」
「まぁねぇ。見ているだけなら正統派美少女っていってもいい位なのに、性格がそれを破壊しつくしているというか、何というか」
「そこまでひどい?」
「だってさぁ、告白してくる男子を、まるで時代劇の最終斬りのごとくばったばったと・・・」
私は飲みかけの水を噴出しかけ、目の前にいる友人を睨んだ
「だーかーらっ!!あれは余りにもしっつこい男だったから、丁重にお断りさせていただいただけなの!」
「…その男子、人間不信に陥ってしばらく不登校になったの覚えてる?」
「けっ!近頃の日本男児は脆弱でいけねぇや」
肘をついて外を眺めていると、何人かの男子が帰っていくのが見えた。多分、帰宅部組だろう。茜もパソコン部に入ってはいるが、あまり活動が活発とは言いがたいので、演劇部の練習が始まるまで、こうして楓子に付き合っているというわけだ。その後は帰宅するしかない。
「茜の本命ってさぁ、やっぱりその”初恋の君”なわけ?」
「へっ?何よ急に」
「いやー今度の夏休みに、今年もその人が帰省できないのが堪えていらっしゃるそうで」
「別に。メールとか手紙はちゃんとくれるし、まったくの音信不通ってわけじゃないよ」
海棠空。茜の従兄弟であり、初恋の人。
今から7年前、空は将来を嘱望され、アメリカへの大学入学を決めた。もとから情報工学の分野に興味を持っていた彼は高校の推薦もあってその分野ではトップクラスの研究をしている大学に留学することとなったのだ。
それこそ「私が私である」という意識を持ち始めた時からの仲で、仕事に忙しい母に代わって何かと私の面倒を見てくれた。両手をいっぱい広げる仕草をすると、いつも「しょうがないな」という顔をして抱き上げてくれた。…さすがに今は出来ないが。今から考えると勉強も大変なのに自分の面倒も最大限見てくれていたのだ。頭が下がる。
アメリカに留学してからの空は、向こうの大学の研究室で目覚しい成果をあげたらしい。発表した論文がとある科学雑誌に取り上げられ一躍脚光を浴びた。何でも”AIの知的認識における論理的思考”とか何とか…読めないけど。英語だし。専門用語だらけだし。いやいやそんなことをいっていけはいけない!!と少しでも空に近づこうとパソコン部にはいったものの、やるのは簡単な表計算やWEBページ作成程度。まぁ、高校のPCだからあまり過度な期待はしていなかったが。
「じゃぁさ、メールで言ってみれば?”寂しいから帰ってきてほしい”って」
「だって、向こうも忙しいだろうし…」
「あまーーーーーい!!そんな逃げ腰でどうする!!恋は当たって砕けろ!!」
楓子は水の入ったコップを掲げ上げ、オーバーな仕草をする。茜はさすがに恥ずかしかったのでたしなめるように、目で「座れ!!」と合図を送った
「茜さーん、ガンとばしちゃだめですよ…」
「あのねぇ、それに本当に恋愛感情を抱いていたかなんてわからないわよ。顔ももうあやふやだし。向こうで金髪のガールフレンドでもいるかもしれないし」
恋…あれがそういうものだったのか、茜自身、いまだに理解できていない。ただ一緒にいたかったのは本当のこと。アメリカへの留学だって…本当は。
「なんかさぁ、茜見てると、恋に焦がれた少女っていうよりも……ブラコン?」
「ははは…、そうかぁブラコンかぁ。って誰がブラコンよ!!」
少しばかり声が大きかったのだろう、何人かの生徒にこちらを見られ、身をすくませる。
「声大きすぎ」
次に聞こえてきたのは楓子の声ではなく、茜と同い年ぐらいの男子の声。
「温・・・」
「相変わらずだな」
「…うっさいわね。何か用?」
「叔母さん、今日も仕事で夜遅くなるそうだから、晩御飯うちで食べてけってさ」
「…そう」
ふと、茜は目の前の青年ー温のほうを見上げた。
海棠温。茜の幼馴染であり、先ほどから話題になっている海棠空の弟だ。同い年ということもあってか付き合いはかなり長い。
茜と同様、空にはずいぶん遊んでもらっているはずで、小学校に上がるまではいつも彼の後をついてまわっていた。けれども小学校に入った頃から距離を置くようになったのだ。それがどうしてなのか分らなくも無い。天才少年と近所で騒がれていた空兄に何かと執着していたから。茜が「空兄」の話をするのも近頃は面白くないらしく、いつも顔をしかめていた。黙ってみていればそれなりに顔はいいのに、もったいないと茜は常々思っていた。
「で、母さんが帰りに夕飯の買出しに行ってきてほしいってさ。どうする?」
「そうだね。いつもご相伴に預かってばっかりというのも悪いし、行こうかな」
「お、デートですかい?」
楓子が茶々を入れてくるのを無視しつつ、茜は横の席においてあった学生鞄を手に取り、立ち上がった。時計を見るとそろそろ楓子の部活が始まる時間だ。
「じゃぁねぇお二人さん。茜、今日は付き合ってくれてありがとうねぇ、また明日。海棠君も」
ああ、と温は生返事を返してすぐに踵を返す。
茜はすぐにその後を追った。
いつからだったか茜と温との間に会話が少なくなってきた。幼稚園や小学校の頃は飽きずに毎日おしゃべりをしては、笑いあって転げまわっていた。けれどもそれぞれに友達が出来るようになって、中学に入って否応無しに男と女の付き合い方の違いを見せられて、それでだんだん双方とも距離をとるようになっていったのかもしれない。その証拠か今は物静かに見えるけれども、同性の友達の前では明るく話している。
(男の人って難しい…)
「あのさ、聞いてる?」
「へ…?あっ、お…おうっ!!」
「…動揺してるのバレバレ」
「べっ…、別に!?そんなに私挙動不審?」
「…かなり」
茜はがっくりと肩を落とす。やはり楓子の言うとおり、今日の茜は何だかおかしい。先日のメールの件がまだ応えているのだろう。
『今年の夏休みもそっちに行けそうに無いんだ…』
「…兄貴がこっちに帰れないなんてこと、今に始まったことじゃないじゃないか」
「それは…そうだけど」
「兄貴はこっちにいるよりも、向こうにいる方が楽しいんだよ」
「・・・っ、そんな言い方ないんじゃない?それに、空兄は言ってたもの”ずっと向こうにいるわけじゃない”って」
すると今度は、温の方が自嘲めいた表情で茜の方を見つめてくる。遠い記憶のかなたにある、あの人によく似た顔立ち。
「じゃあ、なんでいつもメールや手紙ばっかりで、日本に7年間も帰ってこないんだと思う?就職も向こうでしたらしいし…。それってこっちに帰ってくるつもりがないってことだろ?」
「そ、そんなことないわよ!!そりゃあ今は、仕事が立て込んでて忙しいんだろうけど、そのうち絶対日本に帰ってくるんだから!」
「…またでたね。茜の根拠の無い論理が」
「根拠なんか求めなくてもいいのよ!」
こういう会話をしていると、茜は段々悲しくなってくる。あれだけ二人して懐いていたのに、どうして温は空のことを”いなくて当たり前”みたいに言えるのだろうか。
「ほら、行くぞ。今日はタイムセールで牛乳と卵が安いんだ」
えらく庶民的な言葉を残して、温は私を置いてすたすたと先へ進んでゆく。
いつか、いつか…また3人で笑いあって遊ぶ日がくるのだろうか。