地下一階 ボーラという男 3
精神病院の開放病棟だった。
ボーラは、楽しそうに病棟の中を歩いていた。
看護士達が、訝しげな顔で、彼を見ていた。
ウォーター・ハウスは、訝しげに千鳥足気味の眼鏡の男を見ていた。
グリーン・ドレスは、露骨に困惑したような顔をしていた。
二人は、目立たないように、いつものファッションの上から、コートを身に纏っていた。
グリーン・ドレスの方は、オレンジの混ざった真っ赤な髪に、竜の鱗のような胸当てを付け、腰に巻きスカートを付け、明るいブラウンのアーム・ウォーマーとレッグ・ウォーマー、首にネック・コルセットを巻き、歯で出来たペンダントを身に付けている。パンク・ファッション風だが、全体的には蛮族のような衣装だ。なので、暴君よりも目立つ格好をしている。なおさら、目立ちたくなかった。
ボーラは、いつも通りの行動だった。
意外にも、多くの人間からしてみれば、ボーラが一番、非常識に映っているみたいだった。どうも、この男は、他人からどう見られているのか、という事を余り気にしない人種のように見えた。
暴君と緑の悪魔は、お互いの顔を見合わせる。
何だか、皮肉だなあ、と、ウォーターは呟く。
この男はどうにも、良い悪いは別として、奇行が多い。
ボーラは、病棟内で鼻歌を歌っていた。今にもスキップでもしてしまいそうな印象を受けた。
「本当に此処から行けるのか?」
ウォーターは胡乱そうな顔をする。
グリーン・ドレスも、半ば呆れたような顔をしていた。
「入り口になっているんですよ。入り口、……門を作れるお方がいます。彼は“クラーケン”から逃れてきた、希少な存在で、そして、この施設に入る事によって、外界のあらゆるものから身を守っている。……トラウマが消えなくて、酷い幻覚に悩まされ続けると言っていましたが。……まあ、彼は門を作れる力を手にしてしまったみたいです。その為に、クラーケンという国家から逃げられたのだけれども。彼は生涯を、こんな場所で過ごす事になったんです」
ボーラが、専用の受付場に行って、閉鎖病棟に入る許可を得ていた。
それは、開放病棟の奥にあった。
「本当は、閉鎖病棟内には関係者の人しか入れないんですよ。でも、俺はコネみたいなもので入れます」
「そうか」
開放病棟内で途中、すれ違った者達は、TVを見たり、トランプなどを行ったりしていた。
一見すると、普通の人間の集団のように見えた。
「それにしても俺は思うんだが。精神病院ってのは醜悪な場所だな」
「ははっ、そうですか」
「医者ってのは、あれだ。人格障害とか、発達障害とかいうレッテリングを作るわけだ。これまでも、色々な言葉が並べられいたし、論文なども書き続けている。俺は医者共が好きなように病名を付けられる対象だったし、その事に関して憎悪している。奴らは病名を付けたがる事によって安心しているし。俺のような社会にとっての害は別として、只、社会に適応出来ない劣等感の塊の奴らは、何かしらの病名を付けて貰って、社会と折り合いを付ける為の対抗策らしきものを教えて貰って安心するのさ」
ウォーター・ハウスは、うんざりしたような顔をしていた。
彼にとって、何か嫌な思い出でもあるのだろう。
患者が電気ショックで連れていかれる。
部屋の病室の中では、患者がごんごん、壁に頭をぶつけ続けている。便器に頭を突っ込んでいる者もいれば、渡された紙に色鉛筆で病的な緑色の絵を描き続けている患者もいた。自らの髪の毛を抜き続けて落ち武者のようになった若い女もいた。俺は神の化身であり、世界を創造した者だ、と創世記の話を延々と医者に向かって語り続けている者もいた。
よくある精神病院の閉鎖病棟の中だった。
両手両足を拘束された男が、車輪の付いたベッドで引きずられていく。
グリーン・ドレスは、眉を顰める。
ウォーター・ハウスは、思わず大欠伸をする。
階段を四つ登る、まるで高い塔のようだった、
「おいおい、ボーラ。何だ? 此処には、ヘルダーリンでも幽閉されているのか? それともニーチェか? アルトーか?」
「いえいえ、俺のですねえ。友人が入院しているんですよ。特別待遇なんです。一般の患者とは違うんですよ」
ボーラのステップは更に、軽やかになる。
看護士の一人が、彼を睨み付けていた。
しばらくして、目的の場所へと辿り着いた。
濃い青色をした扉だった。
ボーラはノックする。中にいた者は了承する。
扉が開く。
中は、五畳くらいの部屋で、一人の老人がラジオを流しながら、窓の外を眺め続けていた。寝台は新品のように綺麗だった。
†
その老人は、もう齢八百年は生きているのだと言う。
それは本当かどうかは分からない。
彼はクラーケンから来たのだと、ボーラは言っていた。
「ボーラさん、貴方が哲学、哲学、言っていますが。私から言わせてみると、せいぜい、八十年程度しか生きられない人間が、この世界を理解しているというのは、とてもおかしな話だと思う」
「ははっ、そうですかあ」
「私の師は、それはそれは、ソクラテスとも対話したり、プラトンとも談義をかわしました。デモクリトスとも論争しました。けれども、歴史からは消えました。そして、不可逆の世界へと消えていきました。彼もまた時間の旅人だった」
ボーラはとても嬉しそうに、その老人の話を聞いていた。
ウォーター・ハウスは、ふうっ、と溜め息を吐く。
「おい、ご老体。お前は能力者か? 八百年も普通の人間は生きられないよなあ? もしかすると、俺だったら、自らの身体が更に成長すれば、千年くらい生きられるようになるのかもな。しかし、お前はマトモな人間の肉体を持っているように見えるが?」
グリーン・ドレスも、やはり、訝しげな顔で、その老人を眺めていた。
彼は文学が好きなんですよ、とボーラは老人に言った。
「ほう、それはまた珍妙なものです。ボーラさんから、貴方のお話はよおく聞いております。暴君。異形の力を持つ者。その力の概要と功績もです。しかしならば、貴方程度が、せいぜい五十年、長くても八十年くらいしか生きていない文学者達から、一体、何を学べると言うのです。せいぜい、ただの人間なのですよ」
「もっともだが。まあ、それでも流麗な技巧。儚いからこそ生に対して真摯に思考して、自らの思想を芸術という形に収めた者達からは、学ぶべき事が多いんだ。俺には作れないからな」
「やはり、おかしな事を言いますねえ。人間は、数百年も生きれば、それらのものは体験出来てしまうように思います」
「心に染み渡るんだ。たとえば、戦争の情景だとか。色彩感覚だとかがな。おそらくそれは、一つの思い出となる。芸術とは思い出の残滓を辿っていく行為なのかもな。現在は一瞬にして過去になる。その時々の瞬間の中に、アートや小説ってものは、何かしらの情感を与えてくれるものなのかもな」
ウォーターは愛しそうな顔をしていた。
「で、お前の師ってのは何者なんだ?」
「神です。この世界時間の中においての神と呼ばれる者が人の形を変えて、ソクラテスと、プラトンと会話をしたのです」
「そうか。…………それは、まあ、凄い話だな」
ウォーター・ハウスは、段々、苛立ち始めてくる。
……こいつ、ただの妄想患者じゃないのか? ボーラ。お前、面白がっているだけなんじゃないのか?
だとすれば、時間の無駄だ。
妄想患者の話を延々と聞く程、無駄な事は無い。
ウォーター・ハウスは、ボーラ自体が狂人なんじゃないのかと思った。そう言えば、まだ彼の能力を見せて貰っていない。
「ねえ、そろそろ本題に入りましょう」
ウォーター・ハウスとグリーン・ドレスの苛立ちを察したのか、ボーラは老人に告げる。
老人は、壁に爪を立てていく。
がりがりっ、がりがりっ、と爪を立てる。
すると、空間が歪んでいく。
それは、大きな孔になった。
「此処から行け。わしは“何百年、何千年もの時間を体感する薬物を打たれる精神拷問”喰らった。反逆者とされてな。さて行くがいい。お前達の武運を祈っておる。そして、この世界には死ぬよりもなお、苦しい事があるのだと知るがいい」
三名は、孔の中に入っていく。
世界全体が、反転していく。
気付くと、三名は、まるで違う場所へと辿り着いていた。