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地下六階 闇への帰結 1

 高度六万メートルの上空から、落下していく。


 常人ならば、助かる事は不可能だ。常人ではない彼の肉体でも不可能だろう。ウォーターは、風や大気や重力を操作出来る能力者ではない。


 彼はめまぐるしく、思考していた。

 落下速度と反比例するかのように、無限な時間の只中を彷徨っているかのようだった。

 ウォーター・ハウスは眼を閉じる。

 このまま、自分は死ぬのだろうか。

 心はとても穏やかだった。

 死とは、そういうものなのだろう。今まで、自分が冥府へと送った者達も、何処か安らかに旅立っていった者達が多かったような気がする。

 おそらく、最高の自由とは死に他ならない。

 彼の肉体は、宇宙に近い空から、落下していく。地面への激突の衝撃で死を迎えるだろう。おそらく、グリーン・ドレスは助けに来ない。だから、死ぬ事を受け入れなければならない。

 全ては静寂に包まれていくかのようだった。

 何か、やり残した事は在っただろうか?

 いや、これはきっと自分に相応しい結末なのだろう。

 そう。

 自分は敗北したのだろうか。


 いつか、自分を打ち倒す何かが現れるのだろう。自分は行き詰るのだろう。現実という閉塞の中で、何もかもが閉ざされていくのだろう。その先に待ち受けるのは、死という自由なんじゃないのか、と考えていた。


 クラーケン。…………。

人の英知の全てがシステムによって、喰われてしまった街。

 命よりも、システムの存続そのものが優先される場所。

 そんな場所で、ウォーターは生きたいとは思わない。少なくとも、彼にとって、そういう世界の中で生きる事は苦痛であり、無為でしかないのだから。

 人は何の為に生きて、死んでいくのか。少なくとも、この国においては、人はシステムの部品として存在する為に生まれる。

 そういう生も在るのだ。

 ウォーター・ハウスは、自由とは何かについて考え尽くして生きた。天上に住まう神に背くような行為だった。そして、自分は遥か高い天空から落下していくのだとすれば、これ以上、自分に相応しい結末は無いのだろうから。

 このまま、積み上げてきた、この精神も、闇へと消え去っていくのか。

 そう、何もかもが、泡となって掻き消えていく。

 あるいは、此処が、夢の到達地点なのだろうか?

 全てが、無へと還っていく感覚だ。

 このまま、自分は大地に激突して死ぬのだろうか。

 きっと、苦痛は無いのだと思う。死は一瞬なのだ。恐怖は何も無い。自分の肉体は大地に撒かれていく。墜落の衝撃によって、粉微塵になってしまうのだろう。

 空を見上げた。太陽が燦々と輝いている。



「ああ。これが欲しかったんだろう?」


 ウォーター・ハウスは、右手で握り締めていたものを、彼の前に翳す。

 金属の怪物は、ウォーターが見せたものをまじまじと眺めていた。

 それは、オルゴールだった。

 ウォーターがたまたま、ズボンのポケットにキーホルダーのようにして下げていた。小さなオルゴールだった。チープに見えたが、しっかりと作られていて、音色はしっかりと流れる。

 死ぬ事を覚悟した彼は、死ぬ前に、心を穏やかにしようと思ってオルゴールの蓋を開いたのだった。

 流れている音楽は、バッヘルベルのカノンだ。余りにも有名な曲だが、ウォーターはこの曲を気に入っていた。

「ならやるよ。お前に。…………。お前は……、お前は飢えていたんだな?」

 人の心に、飢えていたんだな……?

 アブソリュートは、風や大気を操作する能力者だった。ウォーターに負荷していた墜落時の重力加速度も自身の能力で取り除き、彼をその掌で地面との激突前に掴み取ったのだった。

 オルゴールの音色は流れ続ける。しっかりと、旋律は奏でられていた。

 暴君は、嘆息する。……策なんかじゃなかった。運だけで、助かってしまった。

「お前は元々は人間だったんだな?」

 怪物は頷く。

「何か言葉は話せないのか。……」

 怪物の眼は、とても悲しそうだった。

「そうか、話せないか。仕方が無いな。……俺の能力で通訳してやる」

 ウォーター・ハウスは、精神を統一させる。

 彼は、植物によく語り掛けていた。体内で生成する毒を生成する際に、動物や植物などの人ではない者達との会話が出来るように、波長を合わせるようにしていた。

『エリクサー』。それが、彼の力の名だ。

 錬金術師が求める、不老長寿の妙薬の事だ。それは毒から生成し、万能の霊薬となる。

 ウォーター・ハウスは眼を閉じる。

 生き物それぞれに、オーラのようなものが存在する。それは生命の形のようなものだ。

 あるいは、魂の形と呼べるものなのかもしれない。


 ウォーター・ハウスの真の力は、“他者の才能や性質を見抜く才能”にあるのかもしれない。だからこそ、彼はグリーン・ドレスという才能を発掘する事が出来た。他にも、彼によって、能力を開花させた者達は数多い……。

 毒物やウイルスを操作出来る能力は、彼が生命というものに対して深く理解しようとする意志から生まれたものなのかもしれない。



 思考の海の中にいた。

 真っ暗な空間だ。暗い水面に浮かぶ蓮の上に乗っているかのようだった。


 ウォーター・ハウスは、アブソリュートの姿を見る。

 金属の怪物は、人の形へと変わっていた。それが彼の自己イメージなのだろう。

 彼は少年だった。まだ、年端もいかない少年だった。

 どうしようもない、負の念が、辺りに渦巻いていく。

「お前は何だ? 何者なんだ?」

「俺……。俺は……」

 彼はしばし、黙り込む。悲しそうな眼をしていた。世界の全てから裏切られたような眼だ。彼の瞳は、この世界に対する無為に満ちていた。

「俺は、貧しい場所で育った。記憶が混濁しているけれども、多分、俺は愛されなかったんだと思うよ。…………何だろ、放置されていたんだ。俺はさ。ずっと、植物だったんだ。水を与えられて、日の光も枯れないように当てられるけれども。俺はいるだけの存在だったんだ」

 少年の悲しみは、空間全体に渦巻いている。

「なんかさあ。人間って成育の為に必要な事ってされるだろ。勉強を教えてくれたり、同い年の他の奴らと遊ばせてくれたり。俺は閉じ込められていたんだ、ずっと。何か、国の為に必要な人体実験の道具なんだろうなあって。俺の親は予め、その為に俺を生んだんだ。それが分かっていたから、未来に何の希望も無かった」

「そうか、未来に希望を持って生きている人間なんて、どれ程いるのか俺は疑問だな。奴らはきっと虚偽の希望が希望だと思い込んで生きているに違いないのかもしれないぞ。だから、お前は……妬む必要なんか無いだろうな」

 少年は首を横に振る。

「妬んじゃいないさ。ただ、俺は欠落しているんだって分かった。TVくらいは見せられるんだ。スクリーンの中で、俺と同い年くらいの奴らが映って、海水浴とかしていたりする。家族と一緒に楽しそうだった。俺はきっと、幸せの意味も、不幸の意味も何もかも、分からなかったんだな。感情って何だろうって思うんだ。ずっと、ずっと、寂しかった。でも、これが寂しいっていう感情なんだって事を教えてくれたのも。スクリーンだったんだな」

「ほう?」

「俺はスクリーンの中で、物語を知った。この世界は物語に満ち溢れていて、みんな大小、色々な物語の中で生きているんだな。多分、数年後とか数十年後とかに、自分は今、何をしているんだろう、っていう物語を持って生きているんだよ。でも、俺は予め、そういったものから除け者にされていたみたいだし、願う事さえも許されなかったみたいなんだ」

 少年の瞳は、悲しみが増していく。

 ウォーター・ハウスは、鼻を鳴らす。


「ははあ。つまり、お前は夢とか目標が欲しかったわけだな。それを持つ権利が欲しかったのか。しかし、大体の人間ってのは、他人の垂れ流す妄想とか、他人の利己的な動機によって、夢だの目標だのってのを、植え付けられるものだ。自分達がやりたいと思っている事ってのは、まず他人のエゴとか欲望とかがあって、知らず知らずに洗脳されていくものだな。外の世界ではそうだったし、特にこの国ではその特性が非常に強いだろう。なあ、アブソリュート。俺は思うに、人間にとって必ず、大切にしなければならない大事なものが在ると思う。それは、人間が存続するにあたって、守り通していかなければならないものなんだ。お前はそれが何だと思う?」

「分からないよ。俺には、何も分からないよ」

 少年は震え始める。

 まるで、雨に濡れた子犬みたいだった。

「俺は悪の意思だと考えている。悪を行使する必然性を問う事だ」

 それを聞いて、アブソリュートは頭を抱えて悩んでいた。

 ウォーター・ハウスは、完全に真顔で言っていた。

 まるで、それは、ある種の禅問答のようでもあった。

 そして、ウォーターは、空回りしたな、と、心の中で自嘲する。

 自身の滑稽さに、空虚さを覚える。

 ただ、ウォーター・ハウスは正義の使者なんかじゃない。それは彼自身がもっとも自覚していたし、今、相対している少年に希望を与える言葉を投げ掛けるつもりなんて無かった。夢や目標などの物語が欲しいと切実に叫ぶ無垢な心の少年に対し、彼は正しい事を言う言葉を持っていない。

 所謂、正義の味方と呼ばれる存在ならば、この少年に対して、どのような言葉を投げ掛けるのだろうか……。

「まあいいさ。俺が悪かった。もっとお前の話を聞きたい」

「なあ、俺はどうすればいいのかな。俺は出たいんだ。ずっと出たいと思っているんだ」

「出たいか……、あの鳥篭は、お前にとって空の棺みたいなものだったんだろうな」

「そうだよ、俺にとって俺の棺だったし。墓場だったんだ。俺はずっと、死に続けていくんだって思った。俺はきっと、まだ始まっていないんだ。馬鹿みたいだろ? ねえ、俺の人生を笑ってくれてもいいんだ。俺は動力源にされる為に生まれた命なんだ。哀れだな、可哀相だって笑ってくれたって良いんだ」

「お前は同情されたいのか?」

 ウォーター・ハウスは、冷え切ったような微笑を浮かべる。

 少年はショックな顔をしていた。

 今にもまた、彼は自らの殻に塞ぎ込んでしまいそうな蒼白な表情をしていた。同時に、まるで、ウォーターに対して縋り付いているかのような顔にも見えた。


「……すまん。言葉が悪かった。俺は何か説教じみた事などの韜晦があって、聞いたわけじゃない」

「そうなんだ。良かった……」


 少年の顔に、安堵が戻る。

 正義の使者ならば、彼にどう言うのだろうか。

 ……お前には、まだ光が在る。お前は今すぐ出るべきだ。お前は自由を勝ち取るべきだ。不幸自慢なんてするな、甘ったれるな、とでも、言って励ましてやるべきなのか? こいつは物語を求めている。正義のヒーローの存在を求めているのかもな。自分自身の檻を出してくれる存在を求めているのかもな……。でも、俺はこいつに語り掛ける言葉を持っていない。

 ウォーター・ハウスは、真摯に彼と対峙しているつもりでいた。

 人にとっての自由とは、悪を為す事。正しい側はいつだって、空疎なものだ、とウォーターは思う。彼はシステムを嫌悪している。システムは不自由さの象徴だからだ。

 同時に、ウォーター・ハウスは、自らもまた、自身の思考に閉じ篭っているのではないのかとも思った。

 しかし、どのみち、物語という、麻薬的な信仰を彼に与えてやるつもりなんて無かった。

 夢なんてものは、所詮、空っぽな幻に過ぎないのだから。人は、何か目的が無ければ、生きていけないのだから。だから、人は目的を創造する。それが理性の産物なのだから。

 ふと、ウォーターは、思い付いて訊ねた。

「なあ、お前はこの世界が憎いか? お前を閉じ込めた親が憎いか?」

「分からないよ……」

「そうか。何かやりたい事とか無いのか」

「友達が欲しいかな。それから、人並みの事が出来るようになりたい。もし、俺が人間に戻れたら、俺は子供時代から、俺の欠落を埋めていく作業になるのだと思う…………」

「成る程な。欠落を埋めるか。だが、しかし、欠落は個性だとは思わないのか。あるいは、才能だとか、人よりも優れている何かだとかは思わないのか?」

「……よく分からない。俺はずっと劣っているから。劣っているから、取り戻さないといけないんだと思う」

 それから、ウォーターは、適当な事をしばし少年に言い続けていた。

 少年は満足していた。

 ウォーター・ハウスは、首を傾げた。

 多分、これで良かったのかもしれない。


 おそらく、彼は只、聞いて欲しかったのだろう。会話の出来る相手が欲しかっただけなのだろうから。

 ……そう言えば、グリーン・ドレスも聞いて欲しいだけだったな。聞いてやったら、才能が花開いたものだ。ボーラも、よく俺に話を聞いて欲しがるな。……俺は、何なんだろうな……?

 自分自身の存在がよく分からない。

 それは、ウォーター自身もそうだった。



 窓の外を見ると、空には幾つもの花火が広がっていた。

 どうしようもない程に、美しかった。


 ヴェローナは、すやすや、とシーツの中で寝ていた。

 ゼディルは、空を見上げている。彼はグリーン・ドレスから貰った炎の剣を、大切に保管していた。かなり危険なアイテムではあるのだが、冷蔵庫の中で冷やしたりして温度調節を行ったりすれば、それ程、扱い難い武器ではないという事を理解する。

 彼は立ち上がる。

 ゼディルは、洗面所に行って、自らの顔を凝視する。

 此処は、彼の家だった。人から化け物に改造された後も、度々、戻ってくる事が許された。彼は鏡に映った自分の顔をまじまじと眺めていた。角の生えた人ならざる獣だ。かつて、ゼディルは、彼に裏ビデオを提供してくれた男の事を思い出した。男は卑小そうな眼をした三十代後半の男で、ムービー・アニメは、植物の化け物が女を犯すものが好きだと述べていた。そして、その男は女との経験が無かった。

 ゼディルは幸いにも、サラリーマンをやっていた時に、同僚の女と恋仲になった事がある。彼女もまた、水兵隊は美しく、可愛い、と言った。そして、二人で戦争映画などを見に行った。けれども、その女とは、何となく倦怠期を迎えて、何となく別れる事になった。

 そこから、人生はズレてしまったのだろうか……?

 かつて、憧れていたヴェローナが、今や自分の寝台の上で眠っている。

 おそらくは、とても幸福で、妄想でしかなかった夢の実現なのだろうけれども、ゼディルは深い絶望と、そして胸の中にぽっかりと孔が空いていた。

 あの裏ビデオを提供していた男は、夜、眠りに付く前に空想が芽生えるのだと言う。それは自らが巨大な牙と頭を持つ深緑の植物の怪物になって、自らの理想の女を犯すイメージに駆られる。そして、女を犯しながら、いつしか、自分が人の姿に戻っていて、女の方が植物の怪物へと変わり、自分自身が犯されているという事に気付く。

 怪物の顔をした男は、苦悩していた。

 ゼディルは壁に持たれながら、自らの顔を剥ぎ取りたいと思った。

 けれども、それは叶わない。これは仮面ではなく、既に、手術によって、彼の人間の顔の皮は切除されてしまったのだから。

 ヴェローナは目を醒ます。

「どうされました?」

 ゼディルは、素直に自らの心情を打ち明ける。

 ヴェローナは、困ったような顔になる。

「私は少なくとも、貴方が想像出来るような性行為は色々とやってきましたよ? それが、儀式の巫女としての務めですから」

 つまり、彼女は、ゼディルの今の姿を、何とも思っていないのだと言っている。それでも、ゼディルは自らがとてつもなく醜悪で、彼女に見られているという事が苦しくて仕方が無かった。せめて、人の姿のまま、彼女の身体に触れたかった。それはきっと、彼自身が、彼女に対して、自らの中にある、理想の女のイメージを投影しているからなのだろうか。自らは何処までも醜いような気がした。人は神聖なもの無しでは、生きられないような気がした。そして、同時に、神聖なものを汚したいという欲望を併せ持っているのだと思った。

 ゼディルは、打ち震える。

 ゼディルは、強くヴェローナを抱き締める。

 そして、彼は涙を流していた。

 自分を此れまで支えてきたものの全ては、嘘でしかないのだと感じた。

 この国家も、何もかもがだ。彼には愛国心が合った、プレイグもスクリーン越しに、彼のそんな部分を評価して、種としての役目を与えてくれたのだ。

 何もかもが、間違いであり、ゼディルのこの感情は、国家に対する裏切りというよりも、国家が自分自身を欺き続けていたのだ、と思った。


 ……この大地は汚れている。

 グリーン・ドレスは、そう告げた。

 ゼディルは、その言葉を噛み締める。自分もヴェローナも、腐り切った大地で生を受けた。そして、腐敗の中で生かされ続けている。いっそ、貰ったダイナマイトで自殺してしまおうか? とも思った。

 もしかすると、その方が楽な死に方なのかもしれない。


 少なくとも、クラーケンにおいては、酷く苦痛が続く死に様は幾らでもあるのだから。




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