地下五階 天空の揺り篭 1
クラーケンは人口生殖実験などの他にも、機械の実験にも手を伸ばしていた。機械の電子頭脳がどこまで有用なのかをだ。
それは、謀反人達の解剖実験によって培われてきたものだ。
人の脳は、機械の電子頭脳へと置換する事が可能か。
その目的の為に、プレイグは数多くの者達の頭蓋を切り開いて、生体解剖を行い続けた。巫女達による儀式とは、反比例するかのように、多くの金属で作ったガーディアンは失敗に終わった。プレイグは大抵、処分した。意味が無いからだ。
アブソリュートは、唯一の成功例だと言えるかもしれない。
いや、アブソリュートの維持の為には、多くの失敗作を維持する余裕が無かったのかもしれない。最高峰の完成品であるアブソリュート以外は、只の穀潰しでしかないと判断したのだ。それだけ、金属の守護者の維持には、膨大なエネルギーが必要だった。
やはり、生命を生み出す行為は難しかった。
生体部品を使っての作成の方は、効率良く成功したが。機械の人間化は難しかった。
…………しかし、いずれは成功させる為だ。
もし、資源が無くなれば、他国との戦争も考えるべきだった。国家のリソースを拡大する為には、それも覚悟するべきだった。そして、戦争になれば決して敗北するわけにはいかない。だからこそ、攻め込む為に充分な戦力が必要だった。
†
アブソリュートは、いつから自分の思考が在るのか分からない。
プレイグは合理化の為にならば、いずれは、人の頭脳さえも機械と取り替えていくだろう。そして、プレイグという男は、その行為に関して、何の躊躇も持たないのだ。
アブソリュートは考える。
かつて、自分が何者だったのかを。
思い出せなかった。
全てが、封じられてしまったみたいだった。そして、きっとそんなものは意味の無い事なのだろうから。
この国においては、思考する事もまた、罪である場合が多いのだから。
記憶を探ると、自分はかつて、幼い子供だったような気がする。
最下層民の親から実験道具として提供されたような記憶がある。元々は自分が人であった事を思い出す。けれども、今は機械の肉体を有している。記憶媒体を移された電子頭脳によって、自分は動かされている。
アブソリュートの中で、過去の記憶らしきものの残滓が重なっていく。
フラッシュバックは、度々、起こるが、しかし、この記憶に意味は無いのだろう。何故ならば、彼には思考する自由さえも許されていないのだから。
無機質的に、この領域に入ってきた侵入者を始末する事。
彼に許された思考はそれだけなのだ。
だから、それに従事するしかあるまい。
彼は三つの太陽を守護するガーディアンだ。
この聖域に立ち入る者達を、全て排除しなければならない。
†
そこは、巨大な鳥篭のような場所になっていた。
彼は、此処まで乗ってきた鳥を静かに眠らせる。
鳥篭内部にも、通路のようなものはあった。
「“暗闇の中心。拷問の太陽の下。世界の全ての首都に向けて、犠牲者達の名において伝えます。……私は、私が受け入れてきた全ての精液を吐き出します”……」
ウォーター・ハウスは暗誦する。
何処か、メロディアスな鼻歌交じりだった。
彼は読書家だ。気に入った本の台詞などは、頭に叩き込んで覚えている事も多い。
彼が諳んじているのは、ハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシーン』の一節だった。オフィーリアの台詞だ。
「“私の乳房の乳を致死の毒に変えます。私の産んだ世界を回収します。私の産んだこの世界を、股の間で窒息させます。私の恥部に埋葬します。隷属の幸福を打倒せよ。憎悪、軽蔑、暴動、死よ、万歳。……彼女が屠殺者の短剣を持ってお前達の寝室を通り過ぎる時、お前達は真実を知る事だろう”」
そして、一通り、劇の台詞の暗誦が終わった後、彼は曲を口ずさむ。
柔らかく、厳かな曲を、鼻歌で歌っていた。
それは、悲しみの聖母という曲だった。
彼は頭の中でイメージしていた。光輪を帯びたマリア像のイメージ。
彼は、ぼうっとした顔で、考えていた。
……俺は、この世界に対して、何を欲しているのだろうな?
彼は、ふと、思う。
もしかすると、何かを問い掛けているのかもしれない。
彼はクラーケンの天空を照らし出す、三つの太陽を破壊する役目を担っていた。
それは、この国家の動力炉なのだ。
この三つの太陽によって、この国家の電力は賄われている。
勿論、予備の電力を保管する装置は各地にあるだろう。しかし、基本的には、この天空に造られた動力炉を基本として、みな、生活している。それを破壊すれば、一時的にせよ、クラーケン全体を機能不全に陥らせる事が可能だろう。
その隙を狙って、ボーラは自身の能力によって、電脳空間からプレイグの下へと攻め込むつもりでいた。
計画は完遂しなければならない。
最初から、ウォーター・ハウスと取り決めていた事だった。
移動する浮遊大陸内において、プレイグは何処に存在しているのか分からない。そもそも、彼は実体として肉体を有しているのかさえ分からない。仮想空間内の電子頭脳である可能性だってある。
しかし、始末しなければならない。
ボーラは、この国が存続している事が醜悪なのだと言う。
ウォーター・ハウスは、ボーラの依頼を快く引き受けた。
彼が辿り着いた場所は、鳥篭のような姿になっていた。
巨大な怪物が、静かに鎮座していた。
「お前の名前は何だ?」
彼はその巨大な翼を生やした石の像に訊ねた。
沈黙だけが広がっていた。
その怪物は答えない。
代わりに、ウォーター・ハウスは、先ほどとは別の本の内容を暗誦し始める。
とても、よく通る声だった。
「“君は何故、血を流し、掟を犯しているんだ? 無論、僕達は血を流し、掟を犯している。が、君には掟というものが無いのだ。血は君にとって水も同然だ。でも僕の言う事を聞いてくれ。いつか君が僕の言葉を思い出す時がやってくるよ。君は死を求める。けれども、死を見い出す事が出来ない時がね。死は君から逃げ去るだろうから。僕はキリストを信じている。だが今の僕はキリストと共にはいない。何故なら、僕は泥と血に塗れているからだ。しかしキリストは僕と共に在るだろう。その慈悲深さにおいて”」
ロープシンの『蒼ざめた馬』のテロリスト、ワーニャの台詞だ。
人の歴史が紡ぎ上げてきたもの。
ウォーター・ハウスは、死と暴力の中に、生の煌きを見た。
そして、それに手を伸ばそうと思って、自らの中にある善を殺そうと思った。ありとあらゆる理由付けの中で、何故、自分は間違っているのかを、彼は思考し続けた。
しかし、動機に対して、どんな理由付けをしたとしても意味は無いのだろう。
何故ならば、それ自体が理由なのだから。
ボーラが、何故、クラーケンを壊したい、と思ったのかは、おそらくは本質的に理由なんて無いのだろうし。ボーラがこの国と、深い因縁で繋がれているとは思えなかった。
ただ、ボーラは彼の中にある、とてつもなく強い思想信条を遂行する為に、ウォーター・ハウスに、この国を壊すように願ったのだ。
そして、ウォーター・ハウスもまた、自身の思想信条の為に、この国を破壊したいと思った。
それはもう、どうしようもない程に、彼とボーラのエゴからだ。
「で、お前は、思想は在るのか? 何か信念とか、意志とかは在るのか?」
ウォーター・ハウスは、何の感情も灯らない声音で訊ねる。
ウォーター・ハウスは、眼の前の敵が何なのかを理解していた。
かつて人だった者なのだろう。
しかし、今は違う。
「俺は死神だぞ。お前と、この国に対してのな。俺はあらゆる掟を解き放とうとする存在なんだ。俺はお前達に死を宣告する為にやってきたんだ」
その石像は動き出す。
肌の色彩が変わっていく。メタリックな色彩へとだ。
そいつの姿も、死そのものを模範しているかのようだった。
ただ、人を殺戮する為にのみに存在して、人の生命を吸って存在している化け物だった。
さながら、その存在自体が死そのもの。
黙示録の蒼ざめた馬だ……。
「人は神を理解出来ないから、神を恐れたのだろうな。そして、人とは本来において、美なるものを幻視したがる精神を有しているのだろうな。人は闇の奥が視えない故に、闇の奥に美を幻視したのだろう。そして、その闇は死と同義なのかもしれん」
ウォーター・ハウスは、何処か、何かを回顧するかのように言った。
彼に伝えていると言うよりも、自らに言い聞かせているのかもしれない。
この国は、神の模範で在りたいのかもしれない。
国そのものが、神なのだろう。そして、この国の存続意義は何なのだろうか。
「お前の名前を教えて欲しい。お前は何と言う? 名前は在るだろう? 俺に教えてはくれないのか? お前は“死”なのか、それとも“神”なのか? この世界のな」
問い掛けによって、怪物がなおも無機質にウォーターに対峙する事には変わりなかった。
彼は、ただ門番である事に従事する。
ただ、怪物の口はそれでも、開かれる。
「『アブソリュート』」
金属の巨大怪物は、そう告げた。
「ほう、そうか。それがお前の名前か。そう言えば、悪かったな。俺の自己紹介がまだだった、俺はウォーター・ハウスと言う。暴君とよく呼ばれている。さてと、お前の守る、三つの太陽を破壊しに来た者だ」
二つの死は、屹然と、互いを見据え合っていた。
†