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それぞれの出会い

高校生のときに考えた物語です。未完成ですみません。

          憶えていたいことを、忘れている

          忘れていたいことを、憶えている


ゴトン、と車体が揺れるたびに起こされ、つい辺りを見回してしまう。

電車に乗ってからも気を引き締めていないと危うく乗り越しそうになるほど、本当に

何でもない距離だった。それなのに、母は一人娘の大事と思って定期を持たせた。

先月の話である。

そういうわけで、今年の春からめでたく高校一年生となった琴平(ことひら)神奈(かんな)は、こうして

慣れない電車通学をするハメになっている。

確かに、中学の時とは違って徒歩や自転車ではとても通えないような距離だろう。

でもだからといって、毎朝あんなあわただしい朝食に耐えなければならないのかと

思うと、あまり気分のいいものではない。もし今朝の電車が満員で乗れなかったら

どうしようと、そんな恐怖にかられるのだ。

それにしても車内は暑かった。暖房が効いているようだ。もう四月だというのに

鉄道業界では未だに雪でも降っているような気分なのだろうか。

単純に、人が多いというのも原因かもしれない。むしむしとしている。

他人の呼吸が充満しているのを、肌でも感じる。窓は一つ残らず曇っていた。

ちょうど入り口付近に立っている神無は、ポケットからハンカチを取り出して、目の前

の窓を拭いてみる。自分の姿がぼんやりと映った。その窓を鏡代わりにして、前髪、

横髪、とチェックを入れてゆく。リボンの角度もよし。征服はまだ新品だし。

そうだ、かばんの中身は?

今日の時間割を頭の中でシミュレート。確か一時間目が国語で、次は英語。

手に感じるかばんの重みで五時間ぶんの教科書がきっちり入っていることを確信

する。車内放送が、まもなくどこの駅だと告げる。

あと二駅。


その一瞬、全身が硬直したのが自分でも分かった。腰よりちょっと下。スカートの上から

何かが当たった。多分、ほぼ間違いなく、90パーセント以上の確率で人の手だ。

ぞくっとした。チカンだろうか。

いや待て。落ち着け、落ち着け。何てことはない。たまたま偶然ちょっと当たっただけ

じゃないか。さっき電車がカーブして揺れたし、きっとそのせいだ。そう思う。

さっきの車内放送と同じ声が、まもなくどこの駅だと告げる。

あと一駅。そのとき

「―――――っ!」

今度こそ本当にぞわっとした。体中の毛が逆立った。間違いない。人の手が密着

している。腰よりちょっと下。呼吸をするのも忘れて、思わず叫び出したくなるのを

必死でこらえた。

顔をできるだけ動かさず、目だけで後ろを振り返る。―――背の高い男。

自分の身長が肩までも届かないので、相手の顔なんかとても見られない。

そうだ、窓!

思いついた。目の前の窓をもう一度凝視する。少しずつ、視線を上げてゆく。

…ダメだ、見えない。

ここからでは、光の反射角度の関係からちょうど位置が悪く、男の顔を直接確認

することは不可能だった。

男の手が動く。

背筋が凍りついた。額から、よく分からない汗まで出てくる。

思う。

どうして自分のような子供を狙ってくるのだろう。自分は、この電車を使い始めてまだ

数えるほどの日数しか経っていないのに。なぜ私なのだろう。

電車が駅に近づき、ゆっくりとスピードを落としてゆく。

手を掴んで思いきり叫んでやろうかとも思う。どうせ悪いのは向こうだ。ここで思いきり

叫んでおかなかったら、後で後悔するような気もした。

男の手が、ヘビのように下へと移動してくる。

足に電気でも流れてくるような、イヤな感触。―――もうダメになりそうだった。

プシュー

電車が止まり、ドアが開いて、停車待ちを示すけたたましい音楽が飛び込んでくる。

背中の方からものすごい力で押され、暖まりきった車内から吐き出される。ここでは

降りる気のない人でも、ドアの近くに立っているならとりあえず道を開けるのが、電車

を利用する者に必須のマナーである。

神奈も、なかば積極的に電車を降りてやった。こうすれば、自然に男の顔を確認

できる。何としてもその姿を見ておきたかった。

背後を振り返り、にらみつける。

どいつだ?

必死に探す。顔は分からないけど、とにかく背の高い奴だ。

しかし次の瞬間、プシュー、と音がした。視界が突然遮られた。何が起こったのか

理解するまでに一秒くらいかかった。

電車がゆっくりと動き出す。

風に引きずられて自分の髪が舞った。


ふぅ、とため息をつく。よりによって、さっきまで乗っていた電車に乗り遅れるなんて

とんでもなく間抜けな話だと思う。

これも全部アイツのせいだ。

今叫んだところで絶対に聞こえはしないだろう。ならば呪ってやる。

頭の中で思いつく限りの悪態をついて、それをテレパシーにして送る。

接続準備。送信開始。成功。ヒット。くらえ!これでもか!


ふぅ、と二回目のため息をつく。

間もなく電車が参ります黄色い線の内側にお下がりください、と駅のアナウンスが入る。

―――何が「黄色い線」だ、と神奈は思う。

「線」というには太すぎる、これなら「黄色いパネル」と言った方が正しい。

左を振り向くと、そこに大きな時刻表が立っていた。今の時間と照らし合わせて

次に来る電車の発車時刻を確認する。用心のためにとりあえず30分くらいの余裕を

持たせているので、まだ遅刻にはならないだろう。

正面を向く。足元に「黄色いパネル」が続いている。ずっと向こうまで、黄色、黄色、

黄色、黄色、黄色、黄色、黄色、黒。・・・黒?

一瞬、神奈は自分の目を疑った。

「黄色いパネル」の上に、黒いネコが行儀よく座っている。

ハトやスズメなら分かるが、ネコである。

・・・・・・

まず、ネコというのは間違いなく陸上動物であって空は飛べない。

だからといって、人間と同じように切符を購入して改札を通って、という芸当が

できるはずもない。そしてこのネコには首輪もつけられていない。

ということは?

まさか、この駅を囲む人の背丈ほどもあるフェンスを自力で越えてきたとでも

言うのだろうか。・・・ありえないと思う。

ならば踏み切りから入って、線路を渡ってきたのだろうか?

もしその途中でひかれたりしたら・・・。考えたくなかった。


それにしても大人しいネコだ、と思いながら神奈が観察し続けていると

〈オレのことが気になるか?〉

突然、どこからかそんな声が聞こえた。神奈はとっさに後ろを振り返る。

誰もいない。

しかもそれだけではなかった。

あたりを見回してみて初めて分かったのだが、ホームには神奈以外の人影が

まったくない。駅の無機質な景色も手伝って、どことなく寒気までしてくる。

こことは別の、どこかのホームで響いているアナウンスが妙に遠く感じられた。

「・・・もしかして、今喋ったのキミ?」

ネコの方に向かい直って、神奈は思ったことを口に出す。

しかし、言ってしまってから自分が恥ずかしくなった。

「まさか、ね」

映画じゃないんだから、と自分で思う。これでは独り言と変わらなかった。

だが

「お前は、ネコが人間の言葉を話すことはありえないと、」

神奈はそこでまったく不可思議な光景を、間違いなく見た。

「そんな、つまらない世界で生きているのか?」

ネコがこちらを振り向く。信じられないことに、まるでCG映像みたいに口が動いて、

後から声優が喋っているかのようにぴったりとセリフが飛び出してきた。

先程の寒気が増幅されて、背中からぞくっとする感覚が広がった。声が出せない。

(何?これは何?幻聴?ううん、目にも見えてるし・・・)

「あわてていた様子だが、車両の中で何かあったか?」

黒ネコがそう言った。

「いや、その・・・」

「ま、オレには関係ないがな」

神奈の答えを待たずに黒ネコは フン、と鼻を鳴らす。

体の方はぴくりとも動かさずに、また線路へと向き直った。

変だ。絶対に変だ。だからこそまず

『あなたは何?』

そう聞くべきなのだ。言おうとしている。でもなかなか声が出ない。

とにかく何か喋らなくては。そう思うが、気持ちは焦っている。

「オレのことが気になるか?」

黒ネコが、最初と同じ質問をした。

そのおかげか、神奈の方もようやく質問を返すことができた。

「あなたは何?」

そう言った。言ってしまってから、どんな質問だよ、と自分にツッコミを入れたくなる。

ふむ、と黒ネコがうなずく。

どこから見てもネコに決まっている。そんなことは分かる。分かりきったことを言われたら

どういうリアクションをとればいいのだろう。そんなことまで考える。

ホームに、電車が参ります電車が参ります、と中年男性の声が繰り返し響いた。

「オレは、“人の願いを聞きとどけるもの”だ」

黒ネコが、突然そんなことを言い出した。

「え?」

「君は今一番、何を望んでいる?」

何を言われているのかよく分からない。

願い?それは私の願いだろうか。このネコがそんなものを聞いてどうするのだろう。

“願いを叶えてくれる黒ネコ”なのだろうか。

「まぁ気楽に答えろ」

ネコがそう言った。さっきから、どうも心の中を見透かされているような感じだ。

もしかして、自分は立ったまま寝てしまったのだろうか。これは夢なのか。

なら何を言っても平気なのだろうか。

もし「ちょっと触りたいのでそのままじっとしていて欲しい」と言ったら

そうしてくれるのだろうか。そう言えば、自分はこれまで動物に触れる機会など

めったになかったと思う。マンションに住んでいる関係で、ずっとペットを飼うことも

出来ないでいたのだ。思えば、これはその毛並みを味わうチャンス。

・・・面白い。やってみたいような気もする。

でも、自分のたった一つの願い事がそれでは、ものすごくつまらないのではないか。

では他に何を言おうか。

しかしその時、レールからゴーッという音が響いてきた。電車が駅に入る。

突風が頬をなでた。そのままでは髪が浮くので、神奈は電車の進行方向へ顔を

向けた。大きな音で、ようやく現実に戻った気がする。

この電車に乗らなければ、今度こそ遅刻するのは間違いないだろう。

多少の混雑は覚悟の上であった。もしまたチカンに遭ったら・・・。

いや、考えるのはよそう。

あ、そういえば・・・。

と、そこで急に神奈は思いついた。急いでネコに向かって言う。

「あの、あなたの名前は?」

そう聞かれて、黒ネコは一瞬悩んだように見えた。名前というものが本当にあるのか

なんて、神奈は考えもしなかった。時間がない早くしてくれと心の中でつぶやく。

数秒あってから答えが返ってきた。

「ミドルキャット。そう、君はこの名さえ覚えていれば、それでいい」

「ちょ、」

それは、あなたの名前なの?

「また会おう。明日、同じ場所で」

神奈はまだ腑に落ちないような顔だったが、それでも急いで電車に乗り込んだ。

―――四月六日。高校生・琴平神奈の新学期は、こうして始まった。


その数分前。ちょうど神奈が、チカンを避けるため一つ手前の駅で電車を降りて

しまう直前のことである。一人の少女が神奈の異変に気付き、その後ろに立っていた

男に声を掛けようとしていた。

神奈と同じ高校に通う二年生で、名前は北本(きたもと)弥生(やよい)

彼女は、神奈が乗ってくる前から同じ電車の同じ車両に乗っていたのだった。


弥生は健全な女子高生だった。正義感が強くて、常にクールな少女を演じている。

自ら進んで他人と関わるということがなく、無駄なおしゃべりは一切しない。

だからといって友達が少ないというわけでもないが、家が別方向という理由から

毎日こうして孤独な電車通学を満喫していた。

なので、初めて神奈の姿を見た時、ただ「珍しいな」と思った。

同じ学校の生徒でこの地区から通う人間を、弥生は今まで見たことがないのだ。

あるいは気付かずに過ごしていただけかもしれない。

それだけの人数を抱える高校である。

もちろん特に気にするまでもない。話しかけて友達になろうなどと

そんな価値観は全く持ち合わせていないのだ。むしろ、電車が込んでいなければ

目を合わさないために自分が移動していたかもしれない。

途中から、なぜか神奈が妙にそわそわし始めたことに弥生は気付いたが、その時も

「ああ、この子は新入生か」と、ひどくピント外れなことを考えていた。

単純に、後ろ姿の初々しさがそう感じさせたようだった。

彼女がなぜそうなっているのか。そんなことは頭の片隅でも思っていなかった。

だから、気付いたときには本当に驚いた。

状況に驚いたわけではない。今までそれに気付かなかった自分に、である。

神奈が、とてもぎこちない動作で後ろを振り返ろうとしたのを弥生は見た。

何かに怯えているみたいだ、とようやくそう思った。まずそれを疑問に感じる。

続けて、神奈の後ろに大柄の男が立っているのを見た。

もしかするとその男にお尻でも触られているのではないか、と弥生は思った。

いつもの彼女らしくない、突飛すぎる発想だ。しかしなぜか弥生はそれを疑うことを

しなかった。すぐに結論が出る。考えるまでもない。

注意しなきゃ。

弥生は、思ったことはすぐさま実行するタイプの人間である。

ところが今は肩すら動かしづらい満員電車の中なので、今から彼女の位置まで

移動するのはとても難しいことであった。だからといって大声で叫んだり、

近くの人に「すいませんちょっとあの人チカンしてます」なんて言うのは、弥生のプライドが

許さないことである。無関係の人は巻き込まず、騒がず、あくまでクールに解決するのが

弥生のやり方であった。

車内の放送が、間もなく次の駅へ到着することを告げる。

チャンスだ、と思う。

駅に着いたら引っ張り出して尋問の末、事務所に連行。被害者の女の子にも

ついでに言っておきたいことがある。妥協はしない。謝っても逃がしたりしない。

いよいよという時になってこぶしを握りしめる。ドアが開く。

そして――――――・・・。


気付くのが遅すぎた、と言わざるを得ない。ドアが開いた瞬間、女の子は電車から

降りてしまい、問題の男も何かを察してか奥のほうへと消えてしまった。弥生のいた

位置からだとだいぶ遠い。次から次へと乗り降りするものすごい人の流れと戦っているうちに

とうとう見逃してしまったのである。

なぜだろう、と疑問に思った。

女の子が降りてから電車が出発してしまうまで、その子が再び乗った気配はない。

自分と同じ高校の制服を着ていた子である。そして高校へ行くには、この次の駅で

降りなくてはいけない。ここで降りてしまう意味はない。

(どうして降りたまま乗ってこないの?)

自分の腕時計を見た。HRの時間までは、まだ充分ある。

・・・だからかもしれない。

あの子は、とりあえずチカンをやり過ごして次の電車を待つ気なのかもしれない。

そう思った瞬間、むらむらと怒りがこみ上げてきた。

(今日逃げたら、明日もその次も、きっとまた逃げなきゃいけなくなるのよ?)

心の中でそう思う。

そんな風に日常を弱々しく生きている乙女チックな奴が、弥生は一番キライである。

(一度ガツンと言ってやらなきゃ、いつまで経っても解決なんかしないのに)

言いたいことは言う。これは弥生が、常日頃から心に決めている“けじめ”であった。

例えば何か物事を始めるにしても、終わらせるにしても、他人が関わってしまうことは

はっきり宣言してやらなければならない。

そう思う。

弥生は他人に期待なんかしない人間である。口に出さなくても分かって欲しいなんて

自分勝手で都合のいい話だと思っている。だから自分のことは自分で決めるし

もし友達が恋愛相談なんかをしてくることがあれば決まって

「自分のことでしょ」

と言って返すことにしている。とはいえ、冷たい人間だと思われても嫌なので

しつこく聞いてくる女子には、それなりのアドバイスを返したりすることもある。

失敗する人は、最初から失敗する要素を備えているのだと弥生は思う。そしてそれは

第三者から見ればごく単純なことだったりする。分からない人は、一生分からないまま

なのだ。放っておけばいいのだ。自分の人生の中で、それを無責任と言われることが

あったなら、大いに結構だと、そう答えてやろうと思う。

だから、今回のこともやっぱり放っておこう。悩むだけ損だ。


そして間もなく駅に到着するという頃であった。

弥生の位置から、わりと近い場所にいた若い女性が「きゃっ」と声を上げた。

何事だろうと思って振り向くと、とたんに言い合いが始まった。

「言いがかりだ!こっちの手には鞄を持っているだろ!」

「それは今持ち替えたんじゃないんですか?はっきりと触ったじゃないですか」

またか、と弥生は思う。先程おさまりかけた怒りが、ついに爆発した。

プシュー、と電車のドアが開くと同時に、その中年男の腕っ節をつかんで

外へ引きずり出す。

「ちょっと来てください」

弥生は自分の鞄に手を突っ込むと、そこから女子高生には全く似合わないものを

取り出した。鎖で繋がれた金属製の輪が二つ。世間一般に言うところの、手錠という

やつだ。ギラリと光る銀色のそれを見た瞬間、男の表情が凍りついた。

弥生は、それを慣れた手つきで男の片腕にかける。

ガチャガチャという音をたてることもなく、もう片方を自分の腕にかけ、

「大人しくしてくださいね」

人目を気にすることもなく、そのまま歩き出す。有無を言わせぬ気迫であった。

突然の出来事に、相手はとまどいと驚きで怒鳴り散らすが、もはや手詰まりである。

駅の事務所を探して引っ張り込む。

「すみませんけどチカンを見つけたので、よろしくお願いします」

たっぷりと憎しみのこもった声で一言そう言うと、手錠を外して男を駅員に引き渡す。

ここまで、彼女にものを言える人間はついになかった。

「あ、ああ。そうか。ご苦労様。ええ・・・それで・・・ああ、君はなぜ手錠などを持って

いるのかね?」

何が起きたのかを察するのに、駅員ですらかなりの時間がかかったようだ。

「父が警察官なもので。勝手に借りてきちゃったんです。それだけです」

弥生がそう弁護すると、駅員は何もそれ以上何も言わず、失礼しますと言って弥生は

駅から出た。

もちろんウソである。ウソであるうえに、何の言い訳にもなっていない。たとえ身内であろうと

許可なく警察の装備品を持ち歩くことは、それだけで重罪だ。そんなことは彼女も知って

いる。それがまかり通ってしまうほどカンペキな足並みで駅を出たのだ。

弥生は、鞄の中にあるスケッチブックに手錠を挿み込むと、次の瞬間手錠はそのまま

吸い込まれるようにして紙の中へと消えてしまった。

―――これが、ミドルキャットとの接触で生まれた、彼女の能力。

自らディスクライブと呼んでいる。スケッチブックに描いた物体を、任意の場所に

具現化する能力だ。生き物でない限り、弥生は何でも具現化することができる。

そして使い終わると、それは元に戻る。戻すことができる、と言う方が正しい。

もちろん誰にも話していないが、そうしろと言われているわけでもない。

ただ、弥生はこの能力をあまり好んではいなかった。めったに使わないようにしている。

学校で美術部の部長をやっている弥生の鞄の中は、ほとんど部活で使う道具だけが

入れてあり、教科書などは学校に置きっ放しだった。とても軽い。

手ぶらに近い重量感で、駅から学校までを歩く。知らず知らずのうちに歩調が早くなり

すでに何人もの生徒を追い越していることに、弥生自身も気付かないでいた。

そのまま まっすぐ教室に入るが、まだほとんどの生徒が来ていない。

HRの鐘が鳴るまでには、まだもうちょっと時間があるはずだった。

机に鞄を置いて、その中に顔をうずめる。担任が教室に来たら、そのまま寝たフリ。

今日もしあの子に逢ったら、もし逢うことがあったなら、やっぱり一言言っておこう。

そんなことを考えながら、いつもとあまり変わらない弥生の一日が始まった。

北川弥生は、二年五組である。



・・・ネコだ。

激しく見覚えのある黒いネコが、中庭の掲示板にいた。下駄箱から校門へ向かう途中

神奈は思わず足を止めて、そのネコと向かい合う。

B5版の白い紙に、色とりどりの文字が並んでいる。その下に、たぶんマスコット的な

キャラクターとして描かれている黒いネコ。ひと昔前に流行ったアニメ映画に登場した

しゃべるネコである。はっきり言って上手い。ただの黒ネコだろう。そうはいっても、

ネコといえば顔面しか描いたことのない神奈にとっては、驚くほど上手なネコの絵

であった。

この用紙の趣旨といえば、つまるところ、部活の勧誘というやつである。上の方を見る

と、「美術部」という大きな文字があった。さらに、その下を見る。

「・・・活動場所・・・。第三美じゅちゅ・・・」

美術室、と言おうとして失敗した。しかも独り言だ。誰か見てやしなかっただろうか。神奈は

すばやく左右を確認する。

―――誰もいなかった。ほっと胸をなで下ろす。



   街の雑踏が心地よかったのは、いつのことだったろう、と思う。

   くだらないお喋りが楽しかったのは、いつのことだったろう、と思う。


ピピピピピピピ・・・

凛とした空気が包む春の早朝に、うっとうしいような、どうでもいいような、中途半端な

ボリュームの目覚まし音が響く。ベッドの上でふくらむ布団から、もぞもぞと伸びる

手が、それを止めた。

ピピ、カチッ

今日は四月十七日。

先月の終わりごろに申し込みを済ませた予備校の授業が、とうとう始まる日である。

面倒くさい、気が進まないと思いながらも、模試などの情報のためと思い、わざわざ

自分で足を運び申し込んできたのだ。

そう。今年の春、めでたく高校を卒業したが、そのまま浪人になってしまった彼女の

名前は、如月日向。

何はともあれ、授業料を払い込んでしまった以上は授業に出ないわけにいかない。

スリッパを履いて洗面所の前に立つ。特に長くもない髪を結って、歯を磨く。

目が悪いので、鏡に映った自分の顔などあまりよく見えていないのだが、日向は

かえってその方がいいと思っている。自分の顔はキライだ。とくに寝ぼけ半分の締まら

ない顔は、余計に。顔を洗ってから部屋に戻り、そこでようやく眼鏡をかけた。

目玉焼きと味噌汁が同時に並ぶ食卓に、少しだけ微妙な和洋折衷さを味わってから

日向は自転車にまたがって家を出る。

まだまだ肌寒い早朝の空気の中、ジーパンとジャケットだけではちょっと厳しいかも

しれない。毎年のことであるが、冬服から夏服へと変わるタイミングは本当に微妙だな

と日向は思う。

都内とは名ばかりの、立派な片田舎に一本の並木道が続く。この道を通る車の中で

一番大きくて重いものと言えば、たぶんバスだろう。大して広くもない駅前のロータリー

から出発して、このバスは、ほぼ街中を巡回している。意外に本数が多く、十分以上は

待たされないので、便利である。

この道を逆走すると、駅にたどり着く。それなりに賑やかな商店街の先に、あっても十階

そこそこのビルが立ち並んでいて、その一角に、看板を注意していないと本当に見逃してしまう

くらいの小さな予備校がある。

千条予備校。

一応都内ということでそれなりに人が集まるし、だから中には成績のいい生徒もいる。

そんな人たちが、必然的に上位大学に合格したりするから、それで売り文句ができる。

塾とか予備校なんて、どこもそんなものだ。日向は、そう思っている。


近くの駐輪場に自転車を止めて、日向は建物へと入ってゆく。これから新しい出発、という気には

どうしてもなれないのだが、人間何かを始めるからにはとりあえず気合を入れるべきだとは思う。

そして今日は、一回目の授業である。


この予備校へ今年から入った新人教師の中に、川名卯月美という人物がいる。科目は英語。

履歴書どおりのほがらかな笑顔で教室へ入ってきた卯月美にとっても、今日は輝かしい講師

デビューの日だった。



    一人でいることが寂しかったのは、本当だろうか。

    二人でいることが楽しいのは、ホントだろうか・・・。


強烈な塩素の臭いがするコンクリートの床をみつめ、一人の少女がこれから

飛び降り自殺でもするかのような真剣な表情で立っている。

青一色に囲まれたその部屋には、巨大なガラス張りの壁から、秋の陽光が差して

いた。二十人くらいのガヤガヤという話し声が、壁に大反響してパノラマで聞こえる。

かなり賑やかだ。

時間は午後一時半。昼休みまであとわずかという頃である。間もなく、全ての教室

という教室が、一日で最も活発な空気に包まれるだろう。それなのに彼女の周りの

空気だけは、今はっきりと紫色の冷気に満ちている。

富江五月。

水泳帽に小さくそう書かれた水着姿の少女が、まさにこれから決死のダイビングを

試みるところであった。

この学校のプールは、水球部だかダイビング部だかがあるおかげでやたらと深い。

コースの真ん中のところに、六メートルと書かれている。クラスの中でもわりと背の低い

方である五月にとって、これはマリアナ海溝にも等しい深さだ。

そんなプールで、飛び込みを体験させてやろうという悪魔の如き発言をしたのは

体育教師で女子水泳担当の皆川先生であった。えー、というブーイングの中、五月の

体は恐怖で凍りつく。

一年生の内から、まさかこんなことをやらされるとは思ってもみなかったのだ。

というか、もう水泳自体嫌いになりかけていた。

もともと、水泳はそれほど得意な方じゃない。普通の二十五メートルコースを往復

するくらいなら、何とか大丈夫だろうが、それ以上は無理だ。息を止めていられる

時間は、自己最高記録で三十五秒だし、体力にだって自身なんかない。

そんな自分が、六メートルもの深さに飛び降りたら、浮いてくる前に死んでしまうと

思う。冗談ではない。この海抜数メートルの飛び込み台が、自分にとってはまさに

死刑台と同じなのだ。

体育教師というのは、どうしてこう過激な思いつきをしてしまうのか。自分の体力を

基準にして考えないで欲しい。

五月がなかなか飛び込めないでいると、後ろで並んでいる女子達から、声にならない

文句が飛んでくる。

(後がつかえているのよ)(早くしなさいよ)

五月はそれを背中で感じる。涙が出てきそうだった。

昔、処刑されたフランス王ルイ十六世とかも、きっとこんな気持ちだったんじゃないか

と思う。数秒後の未来、抜け殻となった自分の体があそこに浮かんでいるのだろうか。

「・・・大丈夫だから」

ふと耳元でそんな声がした。振り向くと、同じクラスの少女が立っている。

名前は綾瀬(あやせ)水奈(みな)

クラスの中であまり喋ることはないが、彼女はもともと内気で物静かな子なので

五月に対してはわりとよく喋っているということになる。五月も、もちろん嫌いではない。

「ちゃんと浮くから」

そう言われても・・・。

困る。でも少しだけ勇気が出たような気がした。

飛ぼう。そうしよう。下手にカウントなんかすると、かえって緊張してしまうのでやめる。

心を静めて、軽く深呼吸する。そして―――。



気持ちよかったね、と誰かが言った。

とんでもない、と思う。まだ足が震えているくらいだ。こんなこと二度としないで欲しい。

あと三年もある高校生活の中で、水泳の授業はあと何回あるのだろう。

そんなことを考え出すと、途方に暮れてしまう。

そして昼休みである。

「五月ちゃん」

と後ろから声を掛けられて振り向くと、水奈が立っていた。

一緒に学食へ行かないかと尋ねてくる。もちろんOKだ。

とはいえ、お昼の学食というのは、ある意味の修羅場である。今から行って、果たして

テーブルの上で食事ができるだろうか。

それでなくとも四時間目が水泳というのは、大きなハンデなのだ。

ここでは、ほんの一秒の遅れが運命を左右する。パンを買ったり定食を頼んだりする

人はもちろん、全校生徒の人数が二千人に届きそうなのにも関わらず、明らかにその

事実を無視して設計されたような学食では、椅子とテーブルという必需品が同時に使用

できる保障などまったくない。出遅れてしまった人、教室が遠い人は、壁際に列を作り

全力で部屋全体を監視し続けている。

縦四十メートル、横四十メートル、高さが四メートルくらいの空間に満ちている

この活気は、生命が持つ最も原始的な欲望に他ならないのである。

「やっぱり込んでるね」

「うん」

学食の前に立ってこんな会話をしていると、自分が高校生であるということを

改めて実感する。

きっちり人数分が揃えられた給食ではなく、ある意味自分一人の努力と根気で

勝ち取った昼食というのは、また味があっていいと思う。

人の列が、ひねくれたヘビのようにあてもなくどんどん伸びてゆく。

五月と水奈もそこに並ぶ。

四時間目のプールの話をしているとき、五月はふと思いついた。

「あんな深いプールだと、魚でも飼えそうだよね」

「うん。塩素の水じゃなければね」

なるほど、と思う。

ちなみに五月は、半ば嫌みを込めてこんな提案をしたので、あまり深くは

考えていなかった。

「あ。でもそれだと、上からしか見れないね」

と五月が言う。

五月は昔、友達の家にあった池でコイを見たことがあるが、あれほどつまらない

ものはないと思った。見えるものは背びれと、餌をやるときにパクパク動く口だけ。

魚というのは、あくまで横から眺めて楽しむものだと思う。

「一緒に泳げばいいんじゃない?」

「ああ、なるほど」

でも酸素ボンベ付きでね、と五月は付け足したい。

ちなみに、ここのプールは壁と屋根で完全に囲われていて、雨の日でも授業が

できるようになっている。天上には照明も付いていて、かなり明るい。

プールの底にサンゴとかを並べてちょっと本格的にすれば、それなりに楽しめそうだ。

もちろん水は透明度バツグンで、カラフルな魚が泳いでて・・・。

「でもね」

と水奈が言い出す。

「小さな魚とかならいいけど、もしもね」

「うん」

「サメとかいたら怖いよね」

・・・・・・


女ってさ、友達なら全員にアダ名付けてんの?

と男子からよく聞かれるけど、そういうわけじゃない。本人が嫌がらなければ、親しさを込めて

アダ名を付けることもある。まぁ結局は、その方が呼び易いからという理由もあったりなかったり

する。

五月は「とみ」とか「サッキー」とか呼ばれる。しかし「サっちゃん」と呼ばれるのだけは、

何となく嫌なのでお断りしている。どうにも古臭い感じがするからだ。それでも新しいクラスに

なったとき、これがまず初めに出てくるのは今でも変わらない。

誰もが知っているあの童謡に合わせて歌われたりしようものなら、それこそ一年間を教室の

片隅で過ごさなければならないだろう。

だが、水奈にはアダ名がない。そもそもあまり名前を呼ばれることがない。

会話を交わす人がまず少ないからであるが、本人は特別気にもしていない様子であった。

五月が水奈について他人に聞いたとき、ちょっと変な子だよねと言われると、そうかもしれない

と五月は答える。だが少なくとも、他人が言う意味の「ちょっと変な子」というのと、五月が

思っている意味での「ちょっと変な子」では、内容がかなり違っているだろうということは分かる。

水奈は基本的に無口な子だった。

そのことが、水奈に対するイメージを下げていることは確かだったが、さらに言うなら彼女の成績

にも問題がある。と言っても低いというわけでなく、その逆だ。でたらめに成績がいい。

もちろん一人一人のテストの点数が公表されることはないが、どこから聞いてきたのか、あるいは

でっちあげの噂なのか、誰もがそれを知っているのだった。

だからきっと、水奈という人物はエリート大学志望の天才少女だと思われているに違いない。

そんな人と関わると自分がみじめになる。だから誰一人、必要以上に仲良くする人がいない。

確かに水奈は頭がいい。自分なんかよりずっと優秀だ、と五月は思っている。

それも当然だった。何しろ、定期テストで水奈がクラストップにならないときはないのだ。

そしてそんな水奈はいつも、五月専属の小さな家庭教師だった。

そう、あのときから―――・・・。


「もしも自分に、他人にはない特別な力が与えられるとして、もしもそれが望んで手に入る

としたら、キミは何を望む?」

そう聞かれて、綾瀬水奈は即座に「予知能力」と答えた。

未来について予め知ってさえいれば、もう怯えて暮らすことなどしなくて済むと思った。

父親が突然に失踪し、そのことで苦しみ続けた母親が自らの命を断った後、水奈はいつも

そう思って生きていた。

あれから、もうすぐ一年が過ぎようとしている。

年の離れた姉と一緒に暮らすようになって、水奈は初めて携帯電話を持った。それなのに

家の電話には毎日のように留守番メッセージが残っている。


――トゥルルル、ガチャ。ただいま留守にしております。ピーという発信音の後に二十秒間の

メッセージをお入れ下さい。ピー

もしもし、水奈ちゃん?学校はどう?秋奈ももうすぐ就職だからね。帰りが遅かったりするでしょう

けど、ちゃんとご飯食べてる?大変だと思うけど頑張ってね。週末にはそっちに行けるから・・・。


祖母の声で延々と喋っている。

心配してくれるのはありがたいけど、それなら直接電話してほしいと思う。最初はいちいち

返事をしていた水奈だったが、そのうち親戚と電話で話すことも少なくなっていた。

それなりに広いリビングを一人で独占し、テレビをつける。

もう、孤独にも慣れていた。姉はいつも終電で帰ってくるので、夕食を作るのは十時を過ぎて

からでいい。風呂の準備も同じだ。

それまでは昨日録画したテレビ番組も、先週買ったゲームソフトも、全て彼女が独占できる。

しかし水奈はそうしなかった。まだ見ていないビデオは、もう三本も溜まっている。まだクリア

していないRPGは、もう六作目だったと思う。それなのに、水奈は何一つやろうとしない。

ただ呆然と、テレビを眺めながら

「宿題やらなきゃ・・・」

そんなことをつぶやく。

彼女が高校へ入ってから読破した参考書の数は、実に六冊。一年生の内から、かなり

気合いの入った数字ではあるが、授業中に質問されることに水奈が答えられた数は

片手の指に収まる。とはいえ、もちろん定期テストでは学年の上位を保っているのだが。


水奈は、自分では頭の悪い方だと思っている。

学校のテストなんて、出てくる問題が分かり切っているから答えられるようなものだ。

一瞬だけの暗記能力。要はそれがあるかないかの話で、やり方を覚えられるのは普段から

頭の中に空白の箇所が多いというだけのことである。

だから、授業の質問をされるのは困る。

先生からの質問だって困る。それなのに、同じクラスの子で質問をしてくる人がいた。

「ねぇ。綾瀬さん頭いいでしょ?」

勘違いよ、と言いたかった。そう答えて、一秒以内に逃げることもできた。

例えばここで、彼女の質問をずばり解決してしまったら、今後自分は「生き字引」扱いをされるの

ではないか。クラスの中で、いつも高い確率で宿題を忘れてくる人数はだいたい五人くらいだ。

その全員が、朝自分が来るなり、机の周りに輪を作ってノート拝借の順番待ちをしているに

違いなかった。そんなのはゴメンだ。

「今日だけお願い。ダメ?誰にも言わないからさ。大勢で(たか)ったりしないからさ。

一個だけなんだけど、ちょっと分からない所があって・・・」

そんな風に言ってくる。目の前に開かれたので、一応見てみると

「あ、ここは簡単だよ」

言ってしまった。つい口が滑った。

テスト前の“盲点”だった。確かに自分なら、これの答えが分かる。

何を隠そう、水奈だって何時間も悩んだあげくにようやく答えに辿り着いた問題なのだから。

簡単なわけはない。でも分かってしまっている人間にとっては簡単だ。

もう逃げ場はなかった。

「けっこう前の方に、同じような問題があって・・・」

「うわ、ホントだ!もう忘れてるよこんなのぉ!」

素直に教えてあげると、彼女は小さな声で喜んだ。どうやら他人へ伝播させないというのは

本気らしかった。クラスの便利者扱いだけは免れるかもしれない。

「え?じゃあもしかしてこっちの問いも、違うやり方があったりするの?」

調子に乗った彼女の質問に答え続けていると、だんだんとその弱点が分かってくる。

水奈も、いつの間にか時間を忘れていた。

「ありがとう。だいぶ分かるようになったよ」

「適当でごめんね」

「ううん、ばっちり」

そして校門まで一緒に出た。夏の夕暮れなんて、水奈は初めて見たような気がした。

そういえば、わたしの名前知ってた?と彼女が聞いてきたので、水奈はそこで気が付く。

知らなかった。それを彼女に伝えると

「わたしは、富江五月。名前で呼んでいいよ」

「・・・じゃあ私も、名前でいいから」

こんなことを言うのも、水奈にとって初めての経験だった。


―――その日は深夜から早朝にかけて、台風が町を襲った。



季節が秋へと変わる頃、それまで校庭で跳ねたり走ったりしていた体育の授業が

水泳になった。五月がプールを苦手としていることを、水奈は前から聞いていたが、

その日は五月にとって特別に運が悪かったと言える。

体育教師が、いきなり飛び込みをやらせてやろうと言ったのだ。

(大丈夫かな?)

と水奈は心配になった。

自分だってかなり怖いことは確かだが、五月の表情は今まで見たこともないほどに

強張っていた。それこそ、明日世界が滅亡でもするかのように。

金属でできている梯子を登ると、それなりの高さがあってやはり怖かった。

出席番号の逆から並んでいたので、水奈は一番最後から三番目だったが、五月は

逆に前半の位置になってしまう。

水奈は五月を見た。

とうとう彼女の番となったとき、水奈の不安は一気に増す。でもそれは、

彼女の身の危険を心配しているのとは少し違っていた。普通ではない奇妙な感覚。

何かが足りない、と感じた。

五月は間違いなく飛び込まざるをえないし、もちろんそれで溺れたりしない。

水奈にはそれが分かる。

プリディクション、と名付けている彼女の能力のおかげだ。

しかし、その起こるはずの未来が実現するためには、まだ何かが欠けている。

「・・・大丈夫だから」

水奈はそう言った。言うべき言葉だと感じた。

彼女の能力は、ある程度曖昧なもので、未来予知と言っても目に見えるわけではない。

ある種の、感覚めいたものが彼女の中に生まれるだけである。予感、と言い換えてもいい。

その意味で、これは野生動物が生まれつき持っているという、危険を察知する能力に近い。

だが、それは決して絶対的なものではなかった。

水奈自身も、これは一つの可能性のようなものだと理解している。

確率的に、一番起こりやすい未来というのを自分は察知しているだけなのだ、と。

だからそれは、必ずそうなるわけではない。

実現するために、何か特別な要素が足りていない場合も多くある。

「ちゃんと浮くから」

それが果たして慰めになるのかならないのか、水奈には分からなかった。

しかし少なくとも、それを言うことで五月の未来がさっきよりもはっきりと感じられるように

なったのは確かだ。

五月は軽く深呼吸すると、一気に飛び込んだ。

とても小さな、人間一人が飛び込んだとはとても思えない水しぶきがわずかに立ち、

次の瞬間、五月が顔を出して呼吸を再開した。

(ほ・・・)

水奈は、誰にも分からないくらいの小さな声で安堵の息をもらす。

そしてついに自分の番が回ってきた。五月の真似をして大きく息を吸う。止める。

ザバアァァーン!


五月はいつも、自分の背が低いことを嘆いていたが、そんなに深刻なことではないと

水奈は思っていた。二人の背丈はあまり変わらなかったし、たとえ自分より背の高い相手

だろうと、それによって五月が態度を変えることはないからだ。

頭もそれほど悪くない。

むしろ水奈から見れば、自分より優秀とさえ思う。

彼女は明るくて、探究心も強くて、勉強に限らずいろいろとコツを掴むのが早かった。

五月の家で一緒にゲームをやっているときも、彼女が情報雑誌を頼ることはあまりない。

「ゲームはたくさんやってるからね。だいたいこんな感じってのが分かるわけよ」

そう言っていた。人から教えてもらう方が邪道なのだと、そう思っている人もたくさん

いるのだということを五月は教えてくれた。それを聞いたとき、ああ自分はなんて

面倒くさがり屋なんだろうと水奈は思った。

意外なことに、五月と水奈の家はそれほど離れていなかった。二人とも、自転車で

通学している。

「じゃあさ、今度水奈の家に行ってもいい?」

五月からそう提案されたとき、正直水奈は戸惑いを隠せなかった。そこでつい

「どうして?」

と言ってしまった。まるで拒否しているみたいに聞こえたんじゃないか、と水奈は思った。

理由なんてあるわけない。友達だから。友達なら当たり前のようにそんな会話もするだろう。

そう、友達ならば。


「わたしも欲しかったんだけど、今月お金なくてさぁ」

いつだったか、水奈の持っているゲームソフトの話題が出たとき、五月がそう言っていた。

そこで水奈は五月を招待した。同い年の友達を家に呼ぶのは、もちろん初めてのことだった。

いつも同じ方向へ帰っているはずなのに、今まで二人が登下校の途中に逢ったことはない。

朝に弱い、というわけでもないが、五月はいつもHRギリギリになってから教室に来るのだ。

「自分でもどうかと思っているけど、わたし夜遅いしね。」

それが理由だった。

彼女の言う「遅い時間」というのは、一体何時ごろを指しているのだろう。2時や3時くらいは

高校生としては普通なのだろうか。自分は、高校生として普通の生活をしているのだろうか。

水奈は何となく気になったが、あえて聞いてみることはしなかった。

「でも、せめて帰るときくらいは、逢えてもよかったのにねぇ?」

あ、と水奈が小さく声を漏らす。

「えーと。ごめん、ね・・・」

「え?なんで水奈が謝るの?」

「私、放課後はいつも図書館にいるから・・・」

そう、下校のときに逢えない理由はこれだ。水奈は放課後、いつも図書館にいることが多い。


校舎の別館として設けられているこの高校の図書館は、小学校や中学校にあった図書室とは

比べものにならないほど充実している。挿絵のついた文字の大きい本はほとんどなくなり、

代わりに小さな文字だらけの専門書が目立つ。当然、めったには必要としない本ばかりだ。

水奈は、そんな図書館に毎日足を運んでいた。

周りの目からは「いかにも」といった行動に見えているに違いなかった。それでも、水奈は

図書館という場所が好きなのだ。理由の半分は遅くまで残っていても怒られないこと。そして

もう半分は、単純にあの場が持つ独特の空気が好きだから、ということだろう。

「ああ、そんなの全然気にしなくていいよ。でも・・・そうかぁ、いつもHRの後いなくなるから

どこに行ってるんだろう、って思ってたのよね。図書館に行ってたんだ?」

「・・・うん。・・・・・・あの・・・」

「・・・ん?」

「でも全然・・・勉強なんてしていないから・・・」

「?」

五月は一瞬、何を言われているのか分からないといった様子だった。

時々、本当に時々だけれど、水奈はまだ、こんな他人行儀な言い方をしてしまう。五月にとって

そんなことはどうでもいいのだ。それが分かっているはずなのに、水奈はまだ、その日常に

慣れていなかった。

ごく単純に、図書館というのはもちろん本を読みに行くところだ、と五月は思っている。そしてもち

ろん、読みたい本を読みに行くところだと、これまた単純に思っている。いくら何でも、読みたくもない

本を見つけに行く道理はない。

それが、そもそも高校の図書館という場所になじみの薄い、五月のような人がもつイメージだった。

何度か利用したことのある者なら、きっと違ったイメージをもつだろう。図書館が遅くまで開いているの

は、たいてい部活帰りの生徒が、部活に向ける熱意を保ったまま黙々と宿題を済ませる場所だから

である。そんな姿を、イメージする人の方が多いのだ。

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