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9.サヨナラの花祭


「さて明日から夏休みが始まりますが、今日は皆さんに残念なお知らせがあります。花祭香奈さんが、お父様の仕事の都合で、来学期から香港の学校に転校することになりました」


 没個性な女教師がそう告げた時、教室に走った衝撃は、簡単には形容出来ない種類のものだった。


 花祭という一人の変態がいなくなる安堵。それと共に、トラブルメーカーがいなくなる、奇妙な寂しさ。


 彼女に好意を寄せていた女性徒の中には、悲痛交じりの声を上げる人もいた。その中には……鈴木さんの声も含まれている。



「なぁ花祭」

「何よ?」


 一学期の終了を告げるホームルームが終わると、クラスから奇声が上がる。皮膚を焼く熱光線。膨らむ予感。夏の始まり。


 花祭は、鈴木さんを始めとした何人かの女性徒から声を掛けられていた。それに力なく応える彼女。


 喧騒を遠い世界の出来事のように聞きながら、その光景を俺は黙って見ていた。切なさと不甲斐なさが交雑した感慨が、絶えず俺を苛む。歯を食いしばった。


 そして――俺と花祭を除いて誰もいなくなった静かな教室で、俺は彼女に声をかけた。


「本当によかったのか?」

「よかったのか? って、そんなの決まってるじゃない。そもそも私は両親の意向に従う他に」


 そこまで言うと花祭は口をつぐみ、やがて一呼吸の間を挟んだ後、こちらを向き、口の端に重く沈んだ微笑の影を浮かべて尋ねた。


「ねぇ樋口、あんた、ハッピーハッピーセットって買ってもらったことある?」


 俺は直ぐには、その言葉の意味が分からなかった。


「ハッピーハッピーセットって……」

「よくCMでやってるじゃない。ハンバーガーと一緒におもちゃが付いてくる、ファーストフード店の」


 この場の雰囲気にそぐわない、子供向けのセットメニュー。そのイメージが喚起されると、俺は思わず言葉を見失った。


「そりゃ、あるけど」


 花祭はそんな俺を悲しそうに、だけど、どこか羨ましそうに見つめた。


「私の人生に……ハッピーハッピーセットはなかったわ」

「え?」


 俺は息を飲み、震える感慨の中で花祭の言葉を聞く。


「私の家、殆どテレビってものを見ないのよ。そもそもリビングに一台あるだけだし、私立の小学校でもテレビの話題なんて出なかったから、気にも留めなかった」


 そこで花祭は言葉を区切ると机に腰かけ、片膝を抱えた。


「でも小学校低学年の頃、一人の時、気になって着けてみたの。再放送のドラマか何かがやってたわ。あんまり面白くなくて、消そうとしたらハッピーハッピーセットのCMが私の世界に飛び込んできた。今でも覚えてる。私、その時……凄くドキドキしたの」


 そのCMは当然ながら俺も見たことがあった。勿論、まったく同じものではない。だがそいつは、オマケのおもちゃを代え何度も何度もお茶の間に流されている。


 花祭に言われ、湯の中で茶葉がゆっくりと開くように俺はあることを思い出した。


 俺も花祭と同じく、それを初めて見た時はドキドキしたことを。眩いばかりの光と共に、子供心をワクワクさせる”何か”がそこにはあったことを。


「ハンバーガーとポテトとジュースと、変なおもちゃ。全然、欲しくない。全然欲しくないのに……目が離せなかった。翌日、学校の皆にそれとなく聞いてみても、誰もハッピーハッピーセットのことなんて知らなかったわ。皆の両親も、ひょっとしたら皆も、ファーストフードなんて貧乏人の食べ物くらいにしか思ってなかったんでしょうね。それでも……私はハッピーハッピーセットが欲しかった。ありふれた家庭の象徴。子供のちょっとの我儘。ハッピーハッピーセット」


 花祭は顎をツンと上げ、ここではない何処か遠くを見るように目を細めた。俺は思わず、彼女に追いすがるように手を宙に彷徨わせる。


「だけど……」

「――っ?」


 花祭は俺に向き直り、今度は毅然とした調子で言った。












「私の人生にハッピーハッピーセットはないの」












 俺は伸ばした手を引っ込め、肩を強張らせながら拳を作る。


「ちょっと! 香奈ぁ!?」


 すると教室に横川と清水さんが転がり込むようにしてやって来た。二人の顔には、焦りと共に、ありありとした困惑が浮かんでいた。


「香奈……転校するって、本当なの?」

「嘘だよね? ねぇ香奈ちゃん?」


 その言葉を前にした花祭は、辛そうに視線を二人から逸らす。だが感情の奔流に耐えるように、眉根をぎゅっと寄せると、


「本当よ」


 二人を寂しそうに見つめ、静かに言った。


「なっ!? ど、どうして!?」

「お父さんの海外勤務が、突然決まったのよ。だからそれについて行くの」


 花祭は諦観の中、軽く笑ってみせる。だが彼女の中に抱えた淋しさまでは、隠しきれなかった……ように俺には見えた。


「そ、そんな……だって今まで全然――」

「伝えることと、伝えないことの間に大きな差はないわ。むしろ伝えると湿っぽくなるでしょ? だったら直前まで、面白可笑しくやってた方がいいじゃない。まぁでも……樋口にはポロっと話しちゃったんだけどね」


 横川の追従を避けるように花祭は話の転換点を作り、俺に流れを向ける。すると憤怒とも取れる顔つきで、横川は俺に肉薄し、掴みかからんばかりの勢いで尋ねる。


「樋口……どうして今まで、何も言わなかったのよ!?」

「ごめん、でもどうしようもないじゃないか。花祭が決めたことなんだ、それに親の都合じゃ――」


 俺の言葉を遮るように横川は叫ぶ。


「そうだけど! でも、でもそんなのって――」


 声には湿り気が混じると共に、瞳に悲壮が映され、涙を溜めて光る。そんな横川を支えるように清水さんが寄り添う。


「だから嫌だったのよ。話すと……話すと別れが……く、なるから」


 俺と横川が言い合っていると、表情を前髪で隠した花祭が何事かを呟く。


「花祭? お前、今なんて?」

「なんでもないわよ! 今まで、今まで皆……有難う。私、明日にはお父さんと香港に行くことになるから……ここでサヨナラね。その、あなた達と過ごした時間、悪くなかったわよ」


 花祭は俺たちに表情を隠したまま、普段とは違う沈鬱さを湛えた声でそう言い終えると、鞄を片手に、そのまま廊下に向って駆けていった。


 慌てて横川が彼女の名を呼び、次いで俺に非難めいた目を向ける。


「かっ、香奈!? 樋口、なにボサってしてるの!? 追いかけるわよ!?」

「追いかけてどうするんだよ?」


 俺は苦虫を噛み潰したような表情で横川に尋ねる。気勢をそがれた横川が、不安げに瞳を揺らし……。


「えっ? それは……」

「俺たちは子供なんだ。十五歳のただの子ども……何も、何も出来やしない!」


 俺の思わぬ強い語調に、横川はたじろいだ様子を見せる。だがそれも一瞬のことで、譲れぬ何かを思い出すと、


「そんなこと、樋口に言われなくても分かってるわよ! だけど、せめてお別れの挨拶くらい……だって私達、香奈の友達じゃ……」


 友達。


 その言葉に俺は、奇妙な苛立ちを覚えてしまった。

 

 そうだ、友達だ。花祭があれだけ求め、欲した友達。だけどあいつはそれを、横川や清水さんを諦めて、一人、転校しちまいやがる。



『私の人生にハッピーハッピーセットはないの』



 その事実が俺を昂ぶらせ、自暴自棄的な気分にさせる。全てがどうでもいい。


 花祭とした一切の努力も、過去も、現在も。

 そして未来も――。


 すると煮立った思いが、口から投げやりな言葉となって出る。


「友達? 二人はそうかもしれないけど、俺は……俺は単に花祭に付き合わされてただけで、別に友達って訳じゃ――」



 ――パンッ!



 頬を叩く乾いた音が教室に響く。


 瞬間、俺は世界を見失い、呆然と頬に手をやり、目の前の少女を眺めることしか出来なくなる。



  清水さんが、俺を打った手を静かに降ろす。



「ちょっ……ちょっと、京香!?」

「樋口君、目が覚めたかな?」


 慌てふためく横川の隣で、普段と変わらない、柔和な笑みを浮かべる清水さん。


 俺は唖然たる面持ちで、彼女の眼を覗き込む。そこには、強く優しい慈愛の光が灯っていた。


 風に吹かれると無数の優しいさざ波を立て、陽の光に美しく輝く、清らかな小川のような……。思わず縋りつきたくなる、そんな光が。


「樋口君がいうように、私たちはまだ、どんな社会的な責任もない子供だよ」

「清水……さん」


 清水さんはゆっくりと言葉を紡ぐ。揺るがぬ強い意志を、そこに感じさせながら。


「でもね、子供だからこそ出来ることってあると思うの」

「え……? 子供だからこそ、出来ること?」


 俺はその一言に、眩しい何かを感じた。あるのかどうかも判然としないような、希望がそこに。


「うん。だからね諦めちゃ駄目だって思うよ。だって――」


 俺の目に光が戻ったことに清水さんは安心して笑うと、こう続けた。





「だって香奈ちゃんは、私達の大切なお友達なんだから」





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