3.俺の頭が明確におかしい
目を開くと見慣れない天井。大して強い訳でもない光が、やけに眩しい。
鼻をつく消毒の香りに、清潔な白いシーツの滑らかな感触が……。
「って、ん? あれ、どこだココ?」
俺が寝ぼけ眼でそんなことを呟くと、直ぐ近くから声が降って来た。
「保健室よ。この馬鹿!」
「え?」
ベッドで寝ていた自分を見出した俺は、ゆっくりと上半身を起した。視線を声のした方向へと向ける。
「あんたをここまで運んでくるの、凄く大変だったんだからね」
腕を組んだ花祭がベッド脇でパイプ椅子に腰かけ、不機嫌そうな面で俺を見ていた。「まったく」と、憤懣やるかたないと言った態度で、嘆息すら吐いている。
その一言で、記憶の連続性が戻って来た。
そうだ、俺、クッキーを渡そうと立ち上がって、それから――。
「あ、俺……まさか倒れたのか?」
「えぇ、私に向けてニヤリと犯罪者のように微笑みかけたと思ったら、いきなりね。どんなジョークかと思ってびっくりしたわよ! おまけに……手に持ったもの放そうとしないし。ま、まったく!」
畳みかけるように言われた俺は、しばし呆然となった。そして先程から違和感を覚えていた右手を、掛け布団から引きずり出す。
「あ……」
眼前に現れたのは、花祭に渡す予定だったクッキー。
でも透明な袋に入ったそれは、倒れた衝撃で幾つか砕けてしまったようだ。薄茶色の粉末が飛び散り、袋の内側に張り付いている。
俺は悲しいような嬉しいような心地で、頬を緩める。少しだけ寝たせいか、思考もクリアになっているのに気づいた。
「まさかクッキーを作ってて、風邪ひいたとか言うんじゃないでしょうね」
「はぁ? そ、そんなわけないだろ」
花祭の言及に、内心ドキリとした。まぁ、図星なんだけどな。それを言うと馬鹿にされそうだから曖昧に笑っておく。
「そうかしら? いかにも樋口ならありそうな話だけどね」
「ったく、あれ? そう言えば授業はどうした? それに保健室の先生は……」
そして至極さりげない風を装い、話題の転換を図る。
倒れたのが二時間目の放課だとすると、今は何時だ?
こういう時の時間に対する感覚は、まるで当てにならない。
「…………先生は、さっきまでいたけど、用事があるってどっか行っちゃった」
視線を俺から逸らし、ぶっきらぼうに言う花祭。俺はその顔を、文字を読むような心地で眺めながら、思い付いたことをそのまま口にする。
「ふ~~ん。ってまさか花祭、お前、俺を心配して付き添って――」
するとあいつは「な!?」とか言いながら目を見開き、顔を赤くして俺の言葉を遮った。
「そ、そんなわけないでしょ! お前の頭はハッピーホワイトデーかよ!? じゅ、授業なんて退屈だし、その、さ、サボる口実にはもってこいだから、そ、それだけよ!」
噛みっ噛みじゃねぇかよ。何慌ててんだ。
胸中でそう思いはしたが、面倒臭いことになりそうなので口には出さなかった。
しっかし、ハッピーホワイトデーかよ!? って……ははっ。
俺は花祭が怒る様子を、淡く笑いながら眺める。
そのとき不意に、大切な何かを思い出すように――俺は花祭が好きなんだということが、しみじみと意識に上がった。
話しかけられりゃ嬉しいし、目が合うとくすぐったい。笑っている姿を見る時なんか、一種、格別な温かい気持ちになる。
「何かさ、二人きりって、久しぶりだよな」
そんなことを、口の端に微笑をたたえながら言ってみる。
「へ? ま、まさかあんた……よからぬことを」
すると花祭は、バッと自分の体を抱きしめた。
まったく何を想像してんだか。
「違うっての。あ~~、ははっ。いや、いつも四人で行動してるだろ。でもさ、最初は二人だったなと思って……懐かしいよな、何でだろ、今頃そんなことを思い出すなんてさ」
俺は遠くを見つめるように、目を細めながら花祭を見た。
「樋口、あんたそれ、微妙に死亡フラグよ」
「ば~~か、そんなんじゃないっての」
花祭の軽口に、愛しさからくる苦笑を浮かべて応じる。
もう直ぐ、花祭と出会って一年になる。
過去を回想すると、時にそれは、全て映画の一シーンのように美しく見えた。
『んじゃお前、今から私の舎弟な!』
『いよぉぉし、樋口! それで、どの娘がいけそうだって?』
出会って間もない頃は、そんな風に舎弟みたいにこき使われて……。
そして――。
『私の人生にハッピーハッピーセットはないの』
『私、私……転校したくない。友達と……友達と離れたくないよぉぉ』
最近、何気なく手にとって読んだ本。『初恋と罪と罰』とかいう小説で、主人公の男が言ってたっけ。
恋という感情は、世界認識の一つの手段なのかもしれないって。それを通じて人は、自分が生きている世界を、瑞々しく感受することが出来るようになるって。
そんなセンチメンタルなことを考えるなんて、多分、体が弱ってる証拠だろう。俺の頭は今、明確におかしい。そうに違いない。
だけど……そんな時にしか伝えられない、真実というものもある気がした。
「でも思い返してみると、本当この一年、色んなことがあったよな」
そう言うと花祭は、フンと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
それがおかしくて、俺は思わずまた笑っちまう。
そのとき、右手で掴んでいた袋が、自己主張するようにガサッと音を立てた。
俺はそいつを改めて視界に収めると、胸の苦しさに押しつぶされそうになっている自分を発見する。
クッキーの入った袋から花祭へ、ゆっくりと視線を移した。
「なぁ、花祭……」
「な、なによ!」
そこで、俺は――。
「これは、家にある適当な材料で作られた。そんなに美味くもないけど食えなくもない、心の全くこもってない、手作りのクッキーだ」
「え……?」
「ありがたく受け取れよ」
片頬を窪ませて笑いながら、俺は花祭にクッキーを差し出した。
分かってたはずだ。そのクッキーが花祭のためにあることは。
だけどあいつは口を驚きの形に開いて、俺をしばらく呆然と見つめていた。
手を伸ばし、しょげた少女のような面持ちになって、おずおずとそれを受け取る花祭。じっと、クッキーの入った袋を凝視する。
「形が悪かったり、割れてたりするのは勘弁してくれよ」
俺が茶化した声で言うと、花祭は顎を下げた。その表情が前髪に隠れる。
空気は戸惑うように震え、やがて不器用にその場に吐き出された。
「ほ、本当は!」
「ん?」
俯いたまま花祭は言う。
「本当は……つ、作ろうと思ってたの。ちょ、チョコレート。でも、清水さんと、な、な、夏希と一緒に作ると、からかわれそうで、だから一人で……でも失敗しちゃって。気付いたら深夜で、材料なくなっちゃって、コンビニ行くのも怖くて、それで、だから……」
俺は口元を綻ばせると、鼻から息を抜いた。
「ば~~~か」
「え?」
花祭は珍しく気弱な表情で、何かを恐れるように面を上げた。
二人の視線が重なる。すると、枯れることのない泉のように、胸の奥底に湛えられているものが再び意識された。
強い鼓動は覚えなかった。
その代り、落ち着いた、深い満足のようなものを覚える。
「お前の頭はハッピーホワイトデーかよ。そんなの、気にすんなよ」
「樋口……?」
気恥ずかしさに頬を掻きながら、俺は続ける。
「お前に付き合わされて、何か月になると思ってんだよ。なんとなくだけどさ、本当に何となくだけど、理由がある気がした。イベント好きなお前のことだしさ……だから、気にすんな」
「樋口……あなた……」
花祭の瞳の光彩が目に眩しく、俺は視線を逸らす。
静かな時間が生まれた。
無言を気まずく思うとか、そういうのとは無関係な、静かな時間が。
俺はその時間の中で、何かを言おうと思い、言葉を探した。
今を離れてしまうと、馬鹿をやって、笑って、時に思い悩んだり、衝突したり、でも仲直りして、また馬鹿をやって……そんな風に傾斜を滑るようにして、静かな今から離れてしまう。
それはそれでいい。だけど……。
不意に、清水さんと横川の顔が脳裏をよぎった。
――なぁ、二人とも……いいかな?
不思議と俺はその時、何かが壊れてしまうかもしれないという、恐怖を感じなかった。
想像の中、俺の問いかけに清水さんと横川が微笑む。
俺はゆっくりと二人に頷いた。
「花祭、聞いてもらいたいことがあるんだ」
「え? な、なに?」
俺が真剣な表情で花祭の顔を見ると、あいつは狼狽した声を上げた。
クッキーが入った袋を両手で持っているのが、何だか可愛らしいなと思う。
「自分でもさ、こんな気持ちになるのは不思議なんだけど」
「えっ? えっ?」
花祭の見開いた目。驚きに開かれた小さな口。薄らと赤くなりつつある頬。
蛍光灯を反射して髪に浮かび上がる、一条の細い線。そのキューティクル。
切ないような、甘いような思いに当惑しそうになる。
その全てが愛しかった。その感慨のままに、言葉を続ける。
「俺は」
「樋口……?」
「お前のことが……」
すると、どこからか――。
「って、だめ、だめだって、おさ、おさな――あぁ、あぁぁぁあぁあぁぁぁあ!?」
そんな素っ頓狂な声が聞こえて来た。
咄嗟に俺と花祭がその方向に視線を向けると、保健室の入口扉から横川と清水さん、義母の早苗さんが、連れ立って床に倒れこんできた。
遅れてひょっこりと顔を出した鈴木さんが、俺たちと倒れた三人を交互に見て、あたふたしている。
俺と花祭は突然の出来事を前に、しばし唖然とした。
だがその直後、俺はあることを悟り、弾んだ息を口からこぼす。
「ぶっ! ……は、はははは!」
あぁ、なるほどな。これが、お約束の展開ってやつか。
まったく本当、神様ってやつは明確に頭がおかしいに違いない。
俺は一人現実に着地すると、
「なにやってんだよ早苗さん。それに横川、清水さん、鈴木さんまで」
呆れたような口調で、あいつらに声をかけた。
真っ先に立ちあがって弁解したのは横川だ。
「いや、だって樋口が心配で! それにあんたのお母さんが、面白いからここで聞いてようって」
そう言われるや否や、早苗さんが素早く立ち上がって抗弁を始める。
「だって! 誰もいない保健室で男女が二人なのよ? これは……期待するしか」
「ったく、何の期待だよ」
俺はキレのない突っ込みで応じる。
「え? そりゃ勿論……」
「すいません。友達がいるんです、本当勘弁して下さい」
最後に清水さんが立ち上がると、ふんわりとその場を包んだ。
「あはは~でもよかったよ、樋口君が大丈夫そうで。ねっ、鈴木さん」
「えっ、あっ、は、はい!」
こうして無事……とはいかなかったが、清水さんと横川、それに花祭に手作りクッキーを渡すことが出来た。
気付けば保健室の時計の針は、十一時を少し超えた時刻を指し、俺は迎えに来た早苗さんの車に乗せられ、学校を早退することに。
心残りと言えば、花祭に、ある言葉を告げられなかったこと。花祭とはあの後、特に変な空気にもならず、俺たちらしいやり取りをして別れた。
「ったく、風邪なんてさっさと治しなさいよね。いい? 分かった?」
「あ~~はいはい、分かったよ」
「それじゃ……また来週、学校で」
「おぉ、んじゃな」
「樋口……」
「ん?」
「ばぁ~~か!」
「はぁ? なんだよ、それ」
また来週から、いつも通りの俺たちが始まる。
それでいいし、きっと、多分、それがいい。
俺は自宅に帰ると、軽いもんを胃に収めて風邪薬を飲み、寝間着に着替えてすぐに寝た。途中、ちょくちょく目が覚めたりしたが、その度に体調が良くなっている気がした。
夕方、早苗さんが作ってくれた卵雑炊を、はふはふと、米の旨みと卵の甘味を味わうように頬張る。笑っちまうが、父さんも風をひいて一日中寝込んでたらしい。
そして今日という日が終わろうとする頃、俺は喉の渇きを覚えて目覚めた。
そこで傍らのテーブルの上にある、携帯電話が点滅して光っているのに気付く。
――あの色は……メールの受信か。
明かりの灯らない暗い部屋。
携帯のロックを解除して、画面の眩しい光に目を細める。
清水さんと横川から、それぞれお見舞いのメッセージが来ていた。
他にも一通。画像付きのメールが……。
差出人の名前は、『花祭香奈』。
俺はそのメールを、恐れるように、同時に何かを期待するように開封し……やがて苦笑をこぼした。
そこには、こう綴られていた。
「あんたのクッキー。全然、美味しくなかったわよ」
空になったクッキーの袋と共に、
『ありがとう、お大事に』
そんなメッセージカードが添えられた、写真が添付されて。
――Happy White Day♪
三月十五日、日曜日。ホワイトデーの翌朝。
「ん~~~若さって素晴らしい! 完全完治だ!! って、あれ……? でも何か忘れてるような……」
目覚めた俺は思いっきり伸びをしながら、そんな風に独り言を呟いた。
ある予感に囁かれてベッドから起き上がり、通学鞄を手にする。あの日、親切にも鈴木さんは、俺の鞄を教室から保健室まで持って来てくれていた。
『あ、あの! 紙袋も持ってきたから。白い紙袋!』
『ん? あぁ、わざわざありがとう。持って来てくれて助かったよ』
俺は受け取った紙袋を、無反省に、何の感動もなく、「あれ? この紙袋って何だっけな」とか思いながら、鞄にしまったことを思い出す。
恐る恐る開いた鞄には、記憶通り、例の紙袋が収められていた。
唾を飲み下す。その中に、一袋のクッキーを発見する。
俺は情けなく自嘲した後、思わず叫んだ。
「は、ははは……鈴木さんに、クッキー渡し忘れてたぁぁぁぁぁぁぁぁあ!?」
月曜日。作り直したクッキーを、鈴木さんに平謝りしながら渡した。
その際、彼女がホワイトデーの夜に「私って、キャラ薄いのかなぁ」と煩悶し、ベッドで膝を抱えてベソをかいていたことを、偶然にも知ってしまった。
本当すいませんでした!!




