2.ホワイトデー当日
三月十四日、ホワイトデー当日。
目覚めた瞬間、自分が漠然とした存在になったような、体がぼうっとした熱を持ってるのに気付いた。倦怠感に支配された体に、虚ろな思考。
「やっべ……」
結論から言うと、ものすっごい風邪に見舞われた。
暖房代を気にして電源を入れず、深夜まで台所でクッキーを作っていたのが原因だと思う。我ながら貧乏性だな。
ベッドから起き上がるのにかなりの時間を要した。なんとなく怖かったので、体温は測らなかった。制服に着替えてダイニングに顔を出す。
「あ、おっはよ~~ん! って……ユウくん……ちょっと、顔赤いよ。熱あるんじゃない?」
すると珈琲を食卓椅子に座って飲んでいた早苗さんが、カップを置いて立ち上がった。心配そうに表情を曇らせて、近づいてくる。
義理の母、樋口早苗さん。本当は心の機微に敏感な、優しい人。母親が亡くなってこの人が我が家に来たときは、俺の幼さで、随分と悲しい思いもさせちまった。
だが早苗さんは、それを朗らかに笑いながら突き抜けてきた。
『ユ~ウくん! ね、一緒にご飯たべよ?』
『……い、いらない』
『む! そんなこと言ってると~~~コチョコチョしちゃうぞぉ!』
『わっ! や、止めてよ! アハ! アハハハハ! アハアハハ!』
今気づいたんだが、この人は花祭にちょっとだけ似てる。
俺は思わず微笑を口元に浮かべた。視線をテーブルの上の白い紙袋に向ける。
「おはよう。いや、大丈夫だよ。あ、クッキー、紙袋に入れておいてくれたんだ。あんがと」
「そんなことより、ユウくん……学校に行くの? 体調悪いんじゃない? 別に休んでも……」
今日は土曜日で、通ってるのは公立高校。だが進学校のため、自主参加の午前中だけの授業があった。
同じクラスの花祭と鈴木さん、他のクラスの清水さんと横川も、出席すると聞いている。
「別に大したことないって。それに今日はホワイトデーだし。お返ししないと、何言われるか分かんないからさ」
熱っぽい目で、クッキーが入った紙袋を満足げに見ながら俺は答えた。
ダイニングテーブルの椅子を引いて腰を下ろす。
早苗さんは心配そうに眉を曲げながらも、柔らかく口角を上げた。
「そっか……男の子だもんね。でも、無理はしないように。あ、あと、朝食は蜂蜜ヨーグルトにするね」
「ん? あぁ。分かってるよ。朝食もありがとね」
いつも以上にのろのろと家を出た俺は、雲か霞の上を歩くような足取りで駅に向かい、電車を乗り継いで学校へと向かった。
教室に着くと、人がまばらな朝の瑞々しい閑寂とした空気の中で、クラスメイトに挨拶をする。
「おはよう~さん」
「おぉ、樋口、おはよう! ってその紙袋はまさか」
「はは。さ~、なんだろな~」
あんまり触れてないが、男子の友達も普通にいる。
時には、一緒に休日に遊びにいくことだってある。
椅子に腰を落ち着けた俺は、授業の日程を確認した。
一時間目は……英語か。
自主参加の授業の日は、ホームルームもない。そのため、授業が始まるのを大人しく座って待っていた。教室に人が徐々に集まってくる。
「樋口……あなた、ちょっと顔赤くない?」
するといつの間にか、花祭が目の前にいた。
両腕を胸の前で組むという、お得意のポーズで立っている。
見るともなく机の端を見ていた視線を、俺は物憂げに上げる。
「おぉ花祭か。おはよう」
あいつの見慣れた顔を、熱で少しばかり潤んだ瞳で眺める。
それだけで、少しだけ元気が出てきた。何でだろうな。不思議だ、本当。
っていうか、なんでそんな怪訝そうな顔してんだよ。
笑えよ。お前はさ、笑ってるのが……。
「…………おはよう。って樋口、あんた人の話聞いてる?」
「ん? あぁ、うん」
花祭に何かを問われるものの、反応が一瞬だけ遅れた。
突然、ひんやりとして心地良いものが俺の額に覆いかぶさる。
「えっ!? 樋口、あんた熱があるんじゃ――」
「お? なんだ、お前の手か……ははっ、冷たくて気持ちいいなぁ」
俺がヘラヘラと笑ってみせると、花祭の表情は深刻の度合いを深めた。
「保健室……行くわよ」
「え? いや、別に大したことじゃ」
その時、教室の前の扉が音を立てて開いた。「席に着け~」と言いながら、英語教師が入って来る。反射的に視線を教師に向ける、俺と花祭。
「私、ちょっと先生に話して――」
「ちょ、ちょっと待った!」
俺はそれを慌てて引き止めた。保健室に行ったら家に強制的に帰されるか、迎えを呼ばれることになると分かってたからだ。
クッキーを渡すタイミングは、しっかりと決めてない。それでも、気兼ねない放課後か、二時間目が終わった後の長い放課に渡そうかとは、漠然と考えていた。
「マジで大丈夫だから。すまん、ちょっとボーっとしてたな。はは、悪ぃ」
「樋口……」
そう俺が言っても、不安げな面持ちを隠さない花祭。
だから俺は鼻から息を抜いて笑うと、普段は言わないようなことを口にした。
「っていうかお前、さっきかららしくないぞ。さては愛しい俺が心配で――」
「は、はぁぁぁ!? バ、バッカじゃないの!?」
すると花祭は顔を真っ赤にして、怒ってきやがった。
「せっかく人が心配してやってんのに! ったく」
そのまま悪態を吐きながら、プリプリとした態度で自分の席へと戻っていく。
予定通り過ぎて、思わず俺は笑っちまった。
だが二時間目が終了する頃には、笑ってもいられる状態じゃなくなった。
ちょっとやべぇ……な。
決心して重い腰を上げる。体調が最悪で、体が四時間目終了までもたないと判断した為だ。
クッキーを渡し終えたら……保健室に行こう。
運よく清水さんと横川も、俺たちのクラスに遊びに来てた。
花祭の席で三人仲良く、談笑してる。
「なっ!? このデコ助! ちょっとはデコに慎みを持たせなさいよね!」
「ちょ、何よ香奈!? 本当のこと言っただけじゃない!」
「あはは、それでね~、夏喜ちゃんったらね」
当たり前になった光景だけど、やっぱりいいな。
清水さんの、それだけで人を救えそうな笑顔がそこにはあって。
生意気そうだけど、実はムードメーカーな性格の横川がそこにいて。
そして中心には破天荒な、花祭香奈がいて。
なんでもないことだけど、きっと過ぎてしまえば、やけに懐かしく思えるであろう光景。そういったものが、不思議と今の俺には、目に眩しく映った。
「さて……」
そこに参加すべく、足をゆっくりと動かす。手に例の紙袋をぶら下げて。
俺が近づくと、直ぐに三人はそれと察して視線を向けてきた。
「そうそう、今日は、ホワイトデーだろ、クッキー、作って、来たんだ」
熱で朦朧とする意識の中、俺は手にした白いシンプルな紙袋から、クッキーが入った袋を取り出した。でも正直な話、そこから先のことはよく覚えていない。
清水さんも横川も喜んでいた気がするが、なんだか俺を心配そうに見つめ、それで花祭にクッキーを渡す段になると――。
「ちょ、ちょっと樋口!?」
花祭の俺を呼ぶ逼迫した声が聞こえて……俺の意識は途切れた。




