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「莉奈?」
「私も帰るね」
莉奈が、かばんを出して帰り支度を始めた。
「え? あ、うん。気をつけて……まさかとは思うけど、あんたもサン・チルノ行こうってんじゃ……」
「違うわよ。今日は、パパが帰ってくるから」
「あー、そっか。空港まで迎えに行くんだっけ?」
「うん、そう」
話しながら莉奈は、机の上に山ほど乗っている荷物をかばんにしまっていく。
「私はまた、あんたまで一緒に行くとか言い出すかと思っちゃった」
「そんなわけないじゃない。私には……関係ないし」
「そ、ね。それより、一人で大丈夫?」
今日も体育は見学だった。常に貧血ぎみの莉奈を、みちるは気遣う。
「大丈夫よ。みちるちゃん」
「ん?」
莉奈は、みちるをまっすぐ見て、柔らかく微笑んだ。向けられた珍しい笑顔に、みちるは虚をつかれた。
「ありがとう。……さよなら」
「? さよなら」
やけに丁寧に挨拶をした莉奈は、黒髪を優雅に伴いながら教室から出て行った。
「また来週ね、莉奈」
その後姿にひらひらと手を振って、弁当箱を片付けようと手にしたみちるは、ふと、振り返った。
そこにもう、莉奈はいなかった。ふいに、みちるは弾かれたように、ドアへ向かう。
「莉奈……?!」
見慣れた黒髪は、視界に入らない。
「みちる? 莉奈なら、今帰ったよ」
ちょうど廊下にいた数人の女子の中から、真野が声をかける。
「どうしたのお? あれ? 莉奈、帰った?」
由加里が、ポーチを手に戻ってきた。お昼のあとは、女子タイムだ。
「うん。ほら、今日お父さんが帰ってくるって……」
「ああ、そおいえば」
みちる自身も、莉奈を呼び止めて何を言おうとしたのかよくわからない。
ただ。
なんとなく、呼び止めなければいけないような気がしただけだ。そうでなければ、もう会えなくなるような気がして。
みちるは、肩を竦めてばかばかしい考えを振り払った。
☆
それは、月のきれいな晩だった。
雲一つない夜空に浮かぶそれが満月だということを、その美術館にいたどれだけの人間が気づいていただろう。来るかもしれない泥棒にぴりぴりとした空気を纏わせている人々には、そんなことはどうでもいいことの一つだったに違いない。たまにちらりと天を仰ぐものがあったとしても、そこにある月は、当たり前すぎて認識すらされない。
そんな様子を、美術館を見下ろす丘にいた彼女は、冷ややかに見つめていた。その足元には、彼女の背丈よりも長い髪が震えながらわだかまっている。
彼女は、ゆっくりと暗い空を仰ぎ見た。
ふりそそぐ月の光を浴びながら、鮮やかな瑠璃色をした長い髪の毛がふわりと広がる。
風や重力を無視したその髪の毛の動きは、まるで大きな羽のようだ。一つ一つが蠢く髪の毛は、まるで彼女の心そのままにざわめいている。
感情が高ぶっている証拠だ。彼女は、目を閉じて大きく深呼吸をする。
落ち着かなければ。
1年、待った。予定はもう半年近くもオーバーしている。失敗はできない。
しばらくそうしていると、静かにその髪の毛はその体に沿って垂れ下がっていった。
もう一度彼女は美術館を見下ろすと、とん、と地を蹴る。まるでトランポリンをはねたように高く飛翔し、細くしなやかな姿は闇に溶けた。