#7
正確に言えば、少年が息を引き取ったのはヘリで緊急輸送された総合病院のICU内だった。
ウォルターは立ち会えなかった。
連行された警察署でその報告を受けた。
とはいえ、ウォルターはその日の午後には釈放された。
流石に、白衣は脱いで、丸めて小脇に抱えて出て来たウォルターに、警察署の廊下で待っていた弁護士と名乗る男が一通の封書を差し出した。
「こういう事態に備えて、予めマーティン・ブルーエレ君は手紙を残していたのです」
ブルーエレ家の顧問弁護士フィリップ・スペイドは教えてくれた。
「一通はご両親宛。もう一通はあなたです。それを読んで、ご両親は納得なさいました」
結果的に〈遺書〉という形になりましたが、とスペイドは付け足した。
その他にも、マーティン・ブルーエレの葬儀の日程や、今回の一連の騒動でウォルターが被った諸々の不利益について全面的にブルーエレ家が責任を負うつもりであること、その際の慰謝料の請求方法について云々……
ウォルターはほとんど耳に入らなかった。
弁護士が去った後で、署内の廊下の隅、黒い人工皮革のソファに腰掛けて手紙を読んだ。
それは、少年が書いたとは思えないほどそっけなくて事務的な内容の手紙だった。
もう少し書き様があったのではないかと思うくらい。
それによると──
少年は本名マーティン・ブルーエレ。
貿易商エルベ・ブルーエレの一人息子で、心臓疾患のためB・D病院の十一階(俗に言うVIP棟)に入院していた。
要するに、全ては予め計画されていたことなのだとか。
マーティンはあの日、自分の意志で病院を抜け出して、かねてから病院内で姿を見て、勝手に好意を寄せていた研修医の元へ転がり込んだのだそう。
だから、誓って、ウォルターが誘惑したわけでも、況や、誘拐したわけでもない。
ウォルター自身は院内で少年と会った──擦れ違った?──ことをどうしても思い出せなかった。
だが、少年がそう言うのなら、そうなのだろう。
警察署を出て、最初に目に入ったゴミ箱に丸めていた白衣を投げ込んだ。
それから、タクシーを拾って自宅へ帰って来た。
フラットは整然としていた。
両親と警官がやって来た時、少年はほとんど抵抗しなかったことがそれでわかった。
インターホンの音がした。
ドアを開けると、泣き腫らした目のキキが立っていた。
飛び込んで来る《雪解け》。
尻尾を振って足元を駆け巡る愛犬を見て、初めてウォルターは不在の間、キキがその面倒を見ていてくれたのを知った。
「色々と面倒をかけて──すまなかったな、キキ?」
「チェリーのこと……何と言ったらいいか……本当に可哀想……」
バレリーナは弱々しく微笑みながらごめんなさいと、頭を下げた。
「私がもっと早く、知らせていればよかった……」
「いいんだよ」
と、ウォルター。
「あんたが謝ることなんて何もないよ。あんたはできる限りの速さで、ちゃんと教えてくれたんだから」
早く一人になりたかった。
ウォルターは急いでドアを閉めようとした。
が、バレリーナはその手を止めさせた。
トゥシューズこそ履いていなかったが、しなやかで強靭な足を差し入れる。
「そのことじゃないわ」
キキはきっぱりと言った。
「私、ずっと前から知っていたのよ。あなたが勤務中、チェリーの処にやって来る人がいるのを。
今日、警官から、チェリーは病院を抜け出したセレブの子息だって聞いて、それで、私、後悔してるの。
だって、もっと早い内にあなたの耳に、頻繁に通って来るこの謎の訪問者のこと教えていたら、あなただってそれなりに対処できたかも知れないじゃない?」
「?」
キキの言っていることをすぐには理解できなくて、ウォルターは黙っていた。
「その人よ! きっとその人が、チェリーがここに隠れてること密告たに違いないわ! だって、チェリー、脅されてるみたいだったもの」
いったん息をついてから、
「つい最近だって、訪ねて来たその人と廊下で大喧嘩してたのよ。
私がドアを開けて覗いたら、チェリー、慌てて、その人を中へ引き入れたけど、フラットの中でも酷く言い争っていたわ」
少年の隠れ家を教えたクソッタレは俺だと、ウォルターはキキに叫びたかった。
あんたの恋人の画商に少年の自画像を預けて、その結果、あの広告だ……!
ウォルター自身はそっちは見ていないが、業界№1のドッグフード会社の魅力的な新広告は今朝の朝刊全紙にも大々的に載っていたそうだ。
ブルーエレ夫妻はそれを見て、『これは息子だ』と直感し、即、動いた。
警察に連絡する一方、直接、ドッグフード会社にも電話を入れて、原画の入手元を問い質した──
「かなり激しいやりとりをしていたのよ!」
キキは熱っぽく訴え続けた。
「『裏切り者!』とか、『約束が違う』とか。『あんたがこれ以上のめり込むなら、もう黙っておけない』『ご両親に居所を報告する』とか言ってた。
何、あれ? チェリーの前の恋人? あいつが密告者よ! 断言してもいい。
きっとあんたたちの仲を嫉妬したんだわ。やあね!」
急に興味が湧いて、ウォルターは尋ねた。
「それ、どんな野郎だった?」
「女よ」
言下にキキが訂正した。
「いつも後ろ姿だけで、顔は見なかったけど。
ほっそりとして、トレンチコートに砂色の髪を一つに括ってた……」
「──」
今度こそ完全にドアを閉めて、鍵もきちんとかけてから、ウォルターはアトリエへと入って行った。
少年が壁を塗り直して以来──
そして、そこの床で愛し合って以来──
足を踏み入れていなかったことをウォルターは改めて思い出した。
そこには、全く予想していなかったものが、ウォルターを待っていた。




