#6
こういう場面はTVや映画で幾度か見た憶えがある。
その都度、ウォルターはバカもいいところだと嘲笑ったものだ。
絶対、有り得ないと思った。──少なくとも自分の人生においては。
白衣のまま医者なり研修医なりが街に飛び出して行くなんてことが現実に起こり得るだろうか?
だが、実際にその時が来たら、ウォルターはそれをやってしまった。
白衣を翻して駐車場を駆け抜け、焦ったせいで鍵を二度もコンクリートの地面に落とした末、ドアを引きちぎるように開けて車に飛び乗った。
いつもの家路を猛スピードで引返して来た時、またしても例の交差点で信号が変わった。
そのおかげで、今度こそはっきりとそれを見ることができた。
昨日の夕方、作業中だった広告版が完成していた。
そこには、この世界中で誰よりも一番、ウォルターが知っている〈絵〉が掲げられていた。
〝泥色の子犬を抱く少年の絵〟
真下にはドッグフード会社のロゴマーク。
『絵が売れたのよ』とユウコ・サガワは言ってたっけ?
『そのことで二、三、耳に入れときたいことがあるの』
ああ、なるほど。こういうことか?
だが、今はそれについて細かく考えている場合ではなかった。
今回は信号が青に変わる前にウォルターはアクセルを踏んだ。
キキが電話で言っていた通り、ビルの車道にはパトカーが二台停まっていた。
自宅のフラットの玄関前でウォルターは数人の警官に拘束された。
ウォルターは自分の名を告げ、このフラットの住人であることを告げた。
その上で、一体何があったのかを尋ねた。
これに対しNYPDの制服を着けていない、刑事と思しき一人が言った。
「詳しい話は署で」
続いて、背後の制服警官が〈ミランダ準則〉を読み上げるのを聞いて、ウォルターは自分が逮捕されたことを知った。
が、肝心の逮捕理由は見当がつかなかった。
電話でキキは、少年も連れて行かれた、と言っていた。
麻薬関係? それとも、売春関係?
それについてはウォルターは考えたくなかった。
意識的に避けて来たことだから。
ウォルターは、少年のIDを敢えて確認しなかった。本名はおろか、正確な年齢も。
少年が未成年である可能性は十分に有り得る。
廊下の突き当たりのドアが薄く開いて、バレリーナが両手を口に当てて、涙ぐんでこちらを見ているのが見えた。
こうなると、自分が白衣姿だというのが益々滑稽に思える。
だが、脱ぐ機会がなかった。
両腕を警官に拘束されたままウォルターは階段まで引っ張って行かれた。
ふと天井から微かな羽音が響いて来るのに気づいた。
ヘリコプターだ。
階段の踊り場から、時代がかった吹き抜けを振り仰ぐ。
遥か最上階のそこに少年の黒い頭が見えた。
ヘリコプターの音はどんどん大きくなっている。
頑丈な元海運業ビルは屋上が市のヘリポート指定でもあった──
ウォルターは絶望的な思いに駆られた。
へりで移送するってことは、こりゃ、よほどの重罪だな?
ヘリコプターの羽音に掻き消されまいと、ウォルターは声を振り絞ってその名を呼んだ。
「チェリー……!」
黒い頭が揺れる。少年が下を見下ろした。
「ウォルター?」
次の瞬間、少年は両脇の男を突き飛ばして走り出した。
階段を一気に駆け下りる。
近づいて来るヘリコプターの耳障りな音に混じって、少年の軽やかな靴音が階下のウォルターにもはっきりと聞き取れた。
〝羽音〟と称すならヘリではなくまさにこっちの方だ、と一瞬、思った。
パタ、パタ、パタ……
ほら、羽ばたく天使たちの立てる音……
一方、階上からは別の音も響いて来た。
少年に突き倒された男たちの呻き声、それから、女の人の悲痛な叫び声。
「止めて、誰か! あの子を早く止めて!」
続いて、ウォルターの知らない名前が連呼された。
「マーティ! マーティ! 止まりなさい……!」
勿論、チェリーは止まらなかった。マーティではないから。
七階分、一気に駆け下りた。
そのままの勢いで、四階の踊り場に至る最後の数段は、飛んだ……!
「!」
ド肝を抜かれた両脇の警官を振り切って、ウォルターが体ごと受け止めた。
結果、反動でウォルターは大理石の壁面に背中を嫌と言うほど打ち付けてしまった。
それでも、しっかりと少年を抱きとめた。
「ゴメン」
ウォルターの腕の中で少年は謝った。
息は乱れて、頬は火照っている。
それで、ウォルターは出会った日のことを思い出した。
初めてここへ連れて来た日、少年は、やっぱり喘ぎながら頬を染めて謝ったっけ。
── 嘘をついてゴメン。俺はいつもは正直なんだけど……
今また、少年は同じようなことを言っている。
「ゴメン。俺、あんたに迷惑をかけちやったな? でも、あんまり幸せで……いつまでも一緒にいたかったから……」
「いいから、チェリー」
「あんなことしなきゃよかった。あれだけは俺のミスだ」
「何をミスったって? チェリー、大丈夫さ、おまえは何も間違いなんて犯してない。またすぐに、二人して暮らせるさ」
ここへ来て、何が起きつつあるのかウォルターが気づかないはずはななかった。
仮にもウォルター・ヴァレンは四年目の研修医だ。
「お願い、俺を許して。あんたの傍に少しでも長くいたくて……だから……あんな真似……」
「チェリー?」
少年は死につつあった。
ウォルターの腕の中で脈がどんどん薄くなって行く。
「ああ、でも、これならいいや。これは……けっこう近いかも。俺が夢見た……飛翔する……まち」
「チエリー!」
少年を抱き抱えたまま顔を上げるとすぐ上の階段に少年を追って来た人たちが硬直して立ち並んでいた。
少年を保護して最上階で緊急輸送ヘリを待っていた面々を、この時、初めてウォルターは見た。
両親らしい、壮年の背広姿の男性と水色のシャネルスーツの女性。
そして、ジャンプスーツの救急隊員たち。
「──……」
ヘリコプターの音は今や耳を聾せんばかりだ。




